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本編 雌花の章

第十七話 父と伯父

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 勝明はお茶を一口飲んで、湯飲みを静かに置いたあと、椎奈に向き合い視線を合わせた。
「お前は本当に、勝善に似ている。あいつも、椎奈のように人の感情の機微を敏感に察することができた。現場に残った些細な痕跡に気付いたり、取り調べのときは、相手の一挙一動から糸口を掴んで、時には鋭く、時には同意し、柔軟な尋問をしてきた。そうして捜査の進展に大きく貢献していたんだが」
 勝明はそこで言葉を切り、一度、大きく呼吸をした。
「勝善は被害者や加害者の感情に飲まれて苦しむことも多かった」
 勝明は湯飲みを取り、お茶を全て飲み干した。
「椎奈の考えている通りだ。勝善は、異動の数年前から刑事事件の捜査最前線に居続けることが難しくなった。だからあの事件の二年前に、交番勤務に異動になった」
「伯父さん」
「うん」
 椎奈は、膝の上で手を握った。
「お父さんが、あの犯人の、運転していた車の前にパトカーをぶつけたあれは……お父さんの、自殺だったんでしょうか?」

 椎奈は怒鳴られるかもしれないと思いながら、伯父に聞いた。お前の父を侮辱するようなことを言うなと。むしろ、怒鳴られたいと思った。
 伯父は腕を組み、じっと動かなくなり、目線を湯飲みにおいたままになった。
 椎奈のために言葉を選んでいるのか、同時に、自分の感情をなるべく押さえようとしているのか。伯父は秒針が一周する程度、無言を貫いた。
 やがて、何かを覚悟したかのように、伯父は椎奈と視線を合わせた。
「状況からして、最終的には、死への覚悟は、持ったのではないかと、儂は思う……おそらく。ただ、あれは本当にとっさの行動だったはずだ。あのまま犯人の車がガソリンスタンドに突入してしまっていたら、車の大破から引火し大惨事になり、犯人も死んでしまう可能性が高かった」
「はい」
「鬱の完治は難しい。ふとしたときに、死んでしまいたいと思うことも、あの頃の勝善にはあっただろう。だが、当時の状況で、よし、この場で華々しく散ろうなど、余裕を持って決意できたとは思えない」
 伯父は目を伏せた。
「どうだろうな。これは単なる儂の願望なのかもしれん」
「伯父さん、私は」
 椎奈はこくりとつばを飲んだ。
「どうした」
「一度だけ、父に聞かれたことがあります」

 ──父さんが、警察官を辞めたら、椎奈はいやか?

 警察官である父が、椎奈の誇りだった。あのときは、いつか自分も父や母のようになるのだと、無邪気でいられた。

 勝明は無表情で、椎奈を促した。
「どう応えたか、覚えているか?」
「はい……私。……お父さんが警察を辞めたら、お父さんと自転車の二人乗りがしたいって……全然、真面目に受け取らなかった……んです」

 あのときは、椎奈は中学生だった。当時に放送していたCMで、父親役の俳優が、娘役の女の子と自転車で二人乗りをしているのを見て──ただし娘役は二歳くらいの幼児で前座席だったが──、いいなと思ったのだ。
 警察官のままだったら、やっぱり世間体とかがあるけど、そうでなければちょっとくらいならよくない?

 椎奈があのとき考えていたのはそれだけだ。深く考えていなかった。父がどんな決意で、娘にそんなことを聞いたのか、気にも留めなかった。

 どうして、もっと、真剣に受け取らなかったのだろう。
 母にも、妹にも、弟にも申し訳ない。

 勝明はわずかに口元を綻ばせた。懐かしいものを、思い出しているようだ。
「そうだ。儂も勝善に、椎奈がそう言ったと聞いた」
「……父は、私に失望していませんでしたか?」
「どうして」
「下らないことをいう娘だって」
 勝明は笑って、首を左右に振った。
「当時な、儂も郁さんも、あいつと仲の良かった同期連中も、勝善に異動届けを出せと言い続けていた。あれは首を縦に振らなかった。矜持もあっただろう。鬱で前線から退く……言うなれば出世のコースから外れることにもなりうる。妻の郁さんは、流産した本人は立ち直って、仕事に復帰できたのに、夫の自分はできない、そういう不甲斐ないという気持ちが、あいつをさらに追い詰めた。儂が上にかけあって異動か、警察官を辞めさせることも考えていた。
 ところがだ。ある日、異動をあっさり受け入れた。鬱の治療もすると言って、通院で改善しなければ、警察を辞めると言うようになった。理由を聞いたら、椎奈が言った、さっきの言葉を教えてくれた。勝善が言うには、目からウロコが落ちたような気分になったそうだ」
 椎奈の方が驚き、言葉を出せないでいると、勝明はうなずいた。
「椎奈の言葉は、勝善に気力を与えていた。どんな生き様だろうが、家族と共に生きることが一番大事だと思えたと、吹っ切った顔をしていた。……椎奈は、あれを言った結果を否定に捉えていたんだな」
「はい。あのせいで、父は悪化して、異動になったと思っていました。……交番勤務になって、あのとき、現場の一番近くにいる羽目になったのは、私の言葉のせいだと。あんなこと、言わなければ、父はあの日、あの交番にはいなかったはずで」
「だから、また失言をして、大事な相手を失うかもしれないことが嫌で、見合いを止めてしまったのか」
「そうです。父が亡くなってから、いろいろ分かるようになって……父は鬱で苦しんでいたのに、当時の私は呑気だった。この先も、大切な人が苦しんでいるのに、気付かないんじゃないかって、怖いんです」
「馬鹿なことを言うな。勝善が一番辛そうにしていた時期は、お前は中学生だったんだぞ。皮肉なことだな。勝善はああいう奴だったから、こどもたち……特に椎奈に悟られないように気を付けていたはずだ。だが、今の椎奈なら、そんなことにはならん」
 勝明は縁側に視線をやった。そちらには、端から色づいている楓がある。半月後には全てが赤く染まるだろう。
 ああ、そうだ。父が椎奈に聞いたあのとき、楓は赤かった。


 椎奈の方を向かずに、父は椎奈に語りかけてきた。父の背中に答えたとき、父は振り返って椎奈を見た。目の下に隈を作って、子供心にも、父は何かの病気なのではと思った。
 父は、思いがけない場所で、久しぶりに椎奈に会ったような顔をしていた。


「椎奈は勝善の駄目なところも似ているな。あいつもしょっちゅう、自分の言ったことで、相手を不快にさせたかもしれないとグチグチと悩んでいた。言ったことも言われたことも、大概の人間が忘れているのに、そういう記憶力のいい人間は損だなと儂は思ったこともある」
「……だから伯父さんは、私に、警察官になるのを迷っているなら、止めておけって言ったんですか」
 肯定が返ってくるかと思いきや、伯父は「そうじゃない」と首を振った。椎奈へ、今から重要なことを言うぞという強い思いを目に込めていた。
「椎奈は警察官より、警察官を支える方が、より世に貢献できると儂は判断した」
「え」
 勝明も、郁と同じことを言った。椎奈は、あれは母の思い込み、もしくは慰めの優しい嘘だと思っていた。
「お前のその、勝善譲りの、洞察力や他人の感情の機微を汲める能力は、警察官にふさわしい反面、負荷もかかりすぎる。だから事件に関わる警察官を助ける方がいい。決して、お前が能力不足だからという意味ではない」
 椎奈がうんともすんとも答えられないでいると、勝明は顔を伏せた。
「椎奈は、蕗子を目標にしてくれて、警察官の妻としての心得もある。なにより、他人の気分を悟るのに長けている。辛い業務から戻った奴を、上手くあしらってくれる。……お前は、郁さんにそうしているだろう。彼女も自覚しているが、郁さんは椎奈に甘えている。報われる事の方が少ない警察官を、支える方になってくれるといいと、儂は椎奈に対し常々考えていた。だから椎奈の見合い相手に、うちの若いのを選んだ。儂の同期の息子で現職の警察官を」
 それに、と勝明は続けた。
「椎奈に期待はしていないと言ったあれは、儂の言葉が足りなかった。あのあと、蕗子に叱られた」
「伯母さんに?」
 あの、いつも朗らかな伯母は、この常に不機嫌そうな伯父を叱ることができるのか。意外な事実を知ってしまった。
「そうだ。えらい剣幕だったが、さもあらんと儂も思っている。アレだ。儂のようなのを、最近ではコミュ障というらしいな。息子等にしょっちゅう言われる」
 予想外の話ばかり並べられ、思わず「へえ……」と椎奈は返してしまった。
「期待というのは、やってくれるに違いないという希望みたいなものだろう。儂は、椎奈はできると知っている。確信しているから、そういう意味で期待ではないと、そう言いたかった」
「……さすがに、そんなこと、分かりませんよ」
「ああそうだ」
 伯父はとうとう開き直ってきた。

 伯父の空になった湯飲みに椎奈はお茶を足した。
「これはうまいな。アフリカの茶葉というのは、簡単に手に入るもんなのか」
「最近は知名度も上がってきて、どこでも買えます。なんなら、伯母さんにもお茶っ葉をお渡ししますね」
「ありがたい」
 伯父はルイボスを味わっている。
「ところで、胃潰瘍で有給を取ったのか」
「はい。……いろいろストレスが重なったみたいで」
「妊娠はしていないんだな」
「していません。検査キットで確認しましたし、産婦人科でも診てもらいました」
 伯父はそうか……と残念そうに零した。
「自分はできると思い上がるよりいいかもしれんが、椎奈の欠点は悩みすぎることだ。誰だって失言はあるだろう。儂がいい例だ。言ってはいけないことを言ったかもしれないと後悔したときは、そう思ってなくても「お互い様だ」と口に出して言え」
「はあ」
「蕗子が教えてくれた」
 椎奈は目をぱちぱちと瞬きし、ふふっと笑った。
「そうします」
「ただ、前にも言ったが、今後もし、儂が知人から椎奈を紹介してくれないかと言われたとき、お前は、過去に見合いで掟破りなことをしたという事実は相手に伝えるぞ」
「それは、はい。そうしてください」
 悟ったような口調に聞こえたのか、勝明は渋い顔をした。
「この先、結婚はしないつもりか」
「分かりません。結婚したくなったら、自分で探そうと思います」
「そうだな。椎奈にはそれがいい」
 勝明は口元に手を当て、また縁側の方へ顔を向けた。
「どどいつも助けてくれるだろう」
「はい?」
 勝明はそれ以上、何も言わなかった。言いたいことを言い終えたらしい。お茶が美味かったといって立ち上がり、見送りはいらんと座敷を出た。
 椎奈はしばらく伯父の言ったことの意味を考えていた。

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