なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

文字の大きさ
18 / 38
本編 雌花の章

第十八話 通報されませんように

しおりを挟む
 午後三時、通常なら職場にいる時間だ。アスファルトの温度も熱くないことを確認して、椎奈はどどいつを連れ散歩に出た。本格的な散歩は双子たちがしてくれるだろう。自分の健康の為に軽くその辺りを一周しつつ、偵察をしようと思ったのだ。
 警察官の独身寮に行き、彼がいるのかどうか、確かめたい。

 午前に勝明から告げられた謎のほのめかしは、椎奈の見合い相手に会ってもいいという伯父からの許可なのだと、椎奈は受け取った。背中を押してくれたと勝手に解釈して、椎奈は見合い相手の元へ行こうとしている。
 椎奈のせいで、彼の貴重な時間を無駄に使わせた。初日など、彼は寝る間も惜しんで身支度を調えてくれたのに。そんな彼を無碍にし、迷惑をかけたことを謝りたいと思ったのだ。
 もう縁はない。本当は、しがらみを打ち切るために、知らないままで済ますのがならわしなのだ。
 その掟を破っても会いたかった。会って直接、申し訳なかったと謝罪したい。
 これこそ、自分が楽になりたいからだと言われるだろう。未練がましく探している。さらに本音を言えば、ただただ会いたい。声を聞くだけでもいい。彼の存在を確認したい。我ながら重い思考だ。ストーカーと認識され通報されるかもしれない。
 しかも椎奈は、懐に、見合いの初日に彼が忘れていった避妊具を忍ばせている。
 そこに彼の匂いは残っていないかもしれない。そもそも二月以上、椎奈が自室に保管していたのだ。本日、まさに今更ながらにジッパー付きの袋に入れたが、椎奈の匂いに置き換わっている可能性が高い。にも関わらず、一縷の望みをかけて持参した。
 警察官独身寮の付近で、ジャーマン・シェパードにコンドームの匂いを嗅がせている女、というえげつない絵面を誕生させてしまうが……構うものか。
 どうか、通報だけはされませんように。椎奈はちょっと祈った。

 どどいつは椎奈の隣を歩いている。時々ふいとこちらに顔を向けてくるのは何故か。椎奈は分からないまま、とりあえず歩き続けた。
 椎奈が早朝に、中学生くらいの少年に出会った例の公園には、あれから足を運んでいない。勇気を出して公園に行き、会えるといいなとは思いつつ、その肝心の勇気がない。
 椎奈は仕方がない、と自分に言い聞かせた。必要以上に自分を責めるのは、できるだけよそうと思ったのだ。簡単には身につかないだろうが、やらないよりマシだろう。母も、伯父と伯母も、なにより彼が言ってくれたから。

 椎奈は着物と袴だけという格好で歩いている。羽織は身に着けていない。薄着で出かけたのは、歩いていると体があたたかくなるだろうと踏んでいたからだ。
 ところが、しばらく歩いていても、手足も体もあたたかくなってこない。しかも気分が悪くなってきた。潮時だ。
「どどいつ。ごめん。帰ろ」
 椎奈が声かけをし、Uターンすると、どどいつも従った。しかし椎奈の具合は悪くなる一方である。
 どうしよう。
 歩くことすら辛くなってきた。座って一休みしなければ、帰ることができなさそうだ。多少戻ることになるが、近くに団地がある。そこには公園もあり、ベンチもあったはずだ。椎奈は団地に向かった。
 目的のベンチは空いていた。椎奈は腰掛けたが、寒さが去らない。気分も悪いままだ。
「どどいつ、おいで」
 椎奈はベンチの、自分の隣にどどいつを座らせた。どどいつから暖をとりたいほど、椎奈は凍えていた。ドッグランではない、公園のベンチに土足の犬を上げるのはマナー違反ではあるが、仕方がない。
 熱が出てきたのだろうか。どどいつに、椎奈の膝に前脚を置いて座ってもらい、椎奈は犬を抱きしめ目を閉じた。
 どどいつはあたたかい。しかし気分の悪さはよくなるどころか、ひどくなっていく。蕗子伯母に連絡をして、迎えに来てもらったほうがいい。
 鞄を探ったが携帯電話が見当たらない。家に忘れてきていた。
「……バカ」
 自分に悪態をつき、椎奈はどどいつに降りてもらい、前屈みになった。
 吐き気がする。
 どどいつは、再び椎奈の隣に登ってきて、椎奈の脇に頭をつっこもうとしてきた。それができず、椎奈の背に片方の前脚を置き、クウンと鳴いているが、椎奈は動く気力がない。
 どのくらいそうしていたか分からない。遠巻きに誰かが何かを話しているようだ。気にはなるものの、椎奈は顔を上げられそうにない。
 そのとき、どどいつが首を上げ一声、ワンと鳴いた。
「伏せ」
 男の声の、どどいつへの命令だ。どどいつがベンチから降り、椎奈の足下に伏せた。

 うそ

 椎奈はのろのろと、吐き気を堪えながら顔をゆっくり上げた。若い男性が、椎奈の前まで来ていた。彼は椎奈の前でひざまづいた。
「どうしました? 具合が悪くなったんですか?」
 うそでしょう?
 椎奈は思わずそう口に出した。掠れた声、いや声にすらなっていない。空気を吐いただけだ。椎奈はじっと、男の顔を見続けた。

 こんな顔をしていたのね。

 彼は交番勤務の制服でない、一色だけのありきたりな着物に合わせの羽織を身に着けている。帯のススキ柄が際立っていた。着物の趣味が渋い。あまり体躯がいいように見えない。着痩せするタイプなのだ。刑事らしくなかった。想像したより、線の細い雰囲気を持っている。
 彼は、見た目とうらはらに、とても力が強いことも椎奈は知っている。なぜなら、彼は椎奈を片手だけで抱えることができる。

 何も言わない椎奈に、彼は眉をひそめた。
「お名前は言えますか……わっ」
 どどいつが、彼の襟中に鼻面をつっこんだのだ。しきりに匂いを嗅いでいる。
「違う。お前のご主人様に危害を加えるわけじゃ……」
 どどいつは再度、ワン!と声を上げた。
 椎奈はどどいつへ、目に涙を溜めながら、ありがとうとうなずいた。
「きくの……しいな、です」
 椎奈の予想通り、彼は椎奈の声を聞くなり、目を見開き固まってしまった。
「ごめんなさい。……ちょっと、具合が、悪くなってしまって。携帯電話も、家に忘れて」
 椎奈がそう説明しているあいだも、彼は微動だにしなかった。食い入るように椎奈を見ている。
「菊野椎奈……」
「はい。今年の夏、あなたのお見合いの相手だった女です。ごめんなさい、断ったのだから、会いにくるのは禁忌なのも、分かっています」
 彼はしばし呆然としていた。どどいつが椎奈の項垂れているベンチの隣に昇り、椎奈にぴたりとくっついた。その行動で、彼ははっとして椎奈の手を取った。
「手も冷え切ってるな。具合が悪いって、吐き気か? ……それって」
 彼は自分の羽織を脱いで椎奈の肩にかけた。
「それは、そうなんだけど、あなたの考えていることとは、多分違う」
「何が違う」
「胃潰瘍なの」
「……え、あ?」
「大丈夫そうですかー? 救急車を呼んだ方がいですかー?」
 団地の住人らしき人たちに、後方から声をかけられ、彼は立って振り返り、手を大きく振った。
「通報があったんだ。若い女性がベンチで具合が悪そうにしているが、大きな犬がいて、その犬が怖くて近寄れない。ひょっとしたら犬が女性を襲っているのかもしれないって。椎奈さん、救急車を呼んだ方がいいか?」
 なんと。予想とは違えど、通報されてしまっていた。
「ううん。そこまで説破詰まってないです。体が冷えちゃったみたいで、あたたかくなったら自力で帰ることができると思う」
 彼は後ろを向いて、固唾をのんで覗っている人たちに対し、両手でマルを描いた。
「大丈夫そうです。ご心配おかけしました。後は俺が引き継ぎます」
 周りの皆はほっとしたような顔をした。それぞれちりじりと去っていくのを椎奈が眺めていると、どどいつはベンチから降り、再び彼の首に鼻をつっこんだ。
「……確かに行動が俺にそっくりだな。お前、どどいつだろう」
「そう」
「ワン!」
 どどいつの誇らしげな一声に笑いかけ、彼は携帯を取り出しどこかに連絡をし始めた。
「武藤です。お疲れ様です。保護しました。……はい。犬の方も、襲っていたわけではなく、飼い主を心配してそばを離れなかったようです。おとなしい……というか、元警察犬だな?」
 最後のは椎奈への確認のようで、視線を合わせてきた。
「はい」
 彼はまた電話に戻った。
 武藤、という名字なのだ。椎奈は彼が電話を終えるのを待った。
「いえ、大丈夫だそうです。念の為、俺が送っていきます。……は? そもそも泊内さんが行けって命じたんじゃないですか。非番のときくらい好きにさせてくださいよ。……ああそうっすよナンパ目的っすよ。かなり可愛い女性です。……職権乱用? 知ったこっちゃないです。俺は失恋を引きずってる最中です。吹っ切りたいんです。その為に呼ばれて出たんですよ。じゃあ」
 椎奈は彼らのやりとりを、あっけにとられて聞いていた。彼は椎奈の視線に気付きさっさと電話を切った。
「送ってく」
「ありがとう。非番だったのね。ごめんなさい」
「通報内容を聞いている限り、犬に襲われている線はなさそうだと署の奴らも思ったんだけど、万が一ってこともあるから。寮に近い場所だし、実家で大型犬を世話していたことがある俺が名指しされて、まず先に様子を見にきた」
「ありがとう。羽織も、あたたかくて助かった」
「どうして具合が悪いのに散歩なんか、しかもそんな薄着で」
「夜、あんまり深く眠れないから、散歩したの。歩いていると、体があたかかくなるかと思っていたけど、ならなかった。考えが甘かったみたい」
「散歩コースなのか?」
 椎奈は膝の上で拳を握った。
「いいえ。さっきも言ったけど、いずれあなたに、会えないかと思って……今日は、まだ会う気も、覚悟もできてなくて、下見のつもりでした」
 椎奈の前で膝をついたまま、彼──武藤は、椎奈から目を離さない。
「武藤さん……?」
「武藤俊だ」
 彼はしゃちほこばった顔をしている。
「どうかな。立てそうか?」
「まだ無理だから、私はここで休んでいきます。羽織は、後日に洗って返すから、俊さんは戻って」
「いや、送っていく。なら、隣に座ってもいいか?」
「え、はい。もちろん」
 俊は椎奈の横に、隙間なく腰掛けた。驚いたが、じわりと彼から温もりが伝わってくる。
「ありがとう。あったかいです」
 どどいつが、俊と逆側に昇り、椎奈の腿のうえに顔を乗せた。
「どどいつも頭がいいな」
「でしょう。俊さんのところのブンジロウも賢いのね」
 椎奈はどどいつの背を撫でた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...