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本編 雌花の章
第十九話 過去を知るひと
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「どうして、俺を探しに来たんだ?」
俊の声は固かった。警戒されるのは当然だ。
送ってくれると言ったが、椎奈は話の途中で俊が去っていくことも覚悟した。
「会って謝りたかったんです。私は俊さんにひどいことを言ったし、私のせいで無駄な時間も使わせたので」
「……それが理由で?」
「はい。まずはそこから。自分勝手な理由で、俊さんと話し合いもしようとしなくて、切り捨ててしまって、申し訳なかったです。あのときはごめんなさい」
俊は間近で椎奈の顔を覗き込んできた。親密な行為に緊張して心臓の鼓動が速くなってしまう。五日間のお見合いで、お互いの全てをさらけ出していたのに。明るい場所で会って、こんなに距離が近いのは初めてだからか。
「謝るなら俺の方だろう。俺は椎奈さんを侮辱したし……」
「侮辱じゃないです。俊さんの言ったことは正しかった。私は本当に、自分が悪者になりたくなかっただけだったし、狡い方法で逃げたし」
「正しいもんか」
語気を強く言われ、椎奈は目を見開いた。怖くはなかったが驚いた。その椎奈の様子を見て、俊も自分の声の強さに気付いたようだ。申し訳なさそうに目を伏せた。
「あれは、ああ言えばあなたを最も傷付けることを知ってやった。わざとあなたを貶めたんだ。……真実ではないし、俺の本心でもない」
「……え」
「要するに、フラれて腹が立ったから、あなたに嘘をついた……」
椎奈はまじまじと俊の顔を見た。
「そもそも、椎奈さんは他者に対して人並み以上の思いやりを持ってる。でもあなたはそれを自覚していない。現に、俺は、例の事件のあった当日、あなたがいなければあんなに早く吹っ切れなかった。……椎奈さんの、本心からの献身があったから、俺は現場に戻ることができた。俺は絶対に、あなたと結婚したくて……それを他の男に掻っ攫われるくらいなら、一生、椎奈さんに自身のことを誤解させておいて、独身でいてもらいたいと」
俊は項垂れた。
「分かっていたつもりだけど、言葉にするとよりキモさが際立つな」
椎奈はびっくりしている。俊は、椎奈よりかなりおおらかな人だと思っていたが、思いもしない昏い一面を持っていたのだ。
同じ人間なんだな、と妙な親近感を覚えてしまった。椎奈は寒さを言い訳に、俊に身を寄せた。
俊は、椎奈に視線を合わせないまま「そういうところなんだよ」と囁いたのち、決心したのか、椎奈に向かいあった。
「悪かった。ずっと後悔してた。俺を探しに来てくれて感謝しているし……こうして会えて嬉しい」
俊は感慨深げに、目尻に涙が残っている椎奈を見つめている。
「あなたはこんな顔をしているんだな」
椎奈はくすりと笑った。
「私も、同じ事を思った。俊さんは、想像していたより繊細な顔をしてる。ハンサムだわ」
「……あなたらしい表現だな。椎奈さんは、凜とした声をしてるし、菊野係長に似ているんだろうなって思ってたのに……想像の数倍」
彼はそこで言葉を切ってしまった。
「なに?」
俊は何故か言いにくそうにしている。好みの顔じゃなかったのかな、と椎奈は心配になった。
「想像の数倍、変な顔してる?」
「そんなわけないだろ。……いや、いいんだ」
俊の耳が赤くなっている。寒さのせいではなさそうだ。
「えっと、胃潰瘍だって?」
「うん。初期のだから、養生してたら治るって。慢性化しないように気を付けてって言われた。今日から三日有給を取ってる」
「何が原因」
椎奈は、苦く笑った。
「私、俊さんと見合いを終えたあと、毎日毎日、新聞ばっかり読んでた。起きて顔も洗わず読んで、仕事に行く前に読んで、帰宅してまた、って感じで、同じ新聞を一日に三回くらい目を通してて、自分でも狂ってるって思いながら。……身近で、怪我をしたり亡くなったりした警察官がいないか、ずっと探してた。そうしたら、そのうち夜、眠れなくなって」
俊は目を見開いた。驚いたようだ。
「ずっと、あなたのことが心配で、……父のことがあって、同じことをくりかえしたくないから、俊さんの妻にはなりたくないって言ったけど、もう、俊さんという存在を知ってしまっているから、お見合いを止めてもなんの意味もなかった。私は、あのとき本当にそのことに気付いてなかったの。馬鹿みたいでしょ」
「俺のことが心配で胃に穴を開けそうになったのか?」
「そう。重すぎて引くでしょ。しかも月のものも遅れて、妊娠したんだって勘違いもした」
椎奈にぴたりとくっついている俊が、全身を緊張させたのが分かった。
「……勘違い、ということは」
「してなかった。産婦人科で診てもらって、ストレスでホルモンバランスが崩れてるんだろうって。産科の先生からも養生してくださいって言われちゃった」
「そうか」
俊は意気消沈した相づちをうった。
「妊娠してないって分かってからも辛かった。妊娠していたら、俊さんも会ってくれるはずって、図々しく期待してたから」
「同じだ。俺も、椎奈さんが妊娠してくれていたらいいと思ってた。それなら、椎奈さんを娶ることができる。浅ましいことを考えて、自分に嫌気がさしてた」
俊もさっきの椎奈と同じの、苦笑いを見せた。
「俺の方が引くだろ」
「ううん。私はもっとヒドいよ。なりたかった警察官に私はなれなくて、俊さんは優秀な警察官だから、絶対嫉妬する、だから妻になりたくないとも思ってた」
俊は嗤った。
「万が一俺が優秀な警察官とやらになったとしても、定年間近までかかるよ」
椎奈はそんなことはない、と言おうとして、止めた。多分これは堂々巡りになる。
「なあ、いかに自分が馬鹿でヤバいのを披露して競うの、よさないか?」
「そうよね」
やはり同じ事を考えていた。椎奈が笑うと、俊もふと笑みを浮かべた。
俊は、笑うと幼い感じになる。それにとても素敵な笑顔だ。椎奈は俊の笑顔に見とれてしまった。
「うれしい」
「なにが」
「俊さんの笑顔。見てたら、胃壁が修復されていく感じがする」
「なんだそりゃ……キャベジンか」
「太田胃散かな」
二人で言い合って笑ってしまった。
「そろそろ帰ります。立てそう」
俊は先に立って椎奈に手を伸ばした。椎奈は微笑んで、俊のあたたかい手を取って握った。
「途中で辛くなったら言ってくれ。負ぶってく。椎奈さんは袴を履いてるし、いいだろ?」
「背負ってもらうのは魅力的だけど、今は大丈夫よ」
椎奈が笑うと、俊は残念だ、とだけ言った。
俊は一番右側で、椎奈の手を引いて歩いた。椎奈は俊とどどいつのあいだでゆっくり歩いている。
「椎奈さん」
「はい」
好きな人に名前を呼ばれることが、嬉しいことだと知った。新鮮な感覚だ。
「警察官の妻になるのは無理だろうか」
ああ。自分の気持ちを誤解されないように伝えなければ、俊は、警察を辞めてしまうかもしれない、そんな予感がした。
「聞いてほしいことがあるの」
「ああ」
そういえば、俊は再三、自分に言ってみないかと提案してくれていた。話しておけば、こんな回り道をしなくてもよかったのだろうか。
「私の父は、殉職する二年前に、捜査一課から交番勤務に異動になったの。原因は鬱で」
俊は目を見開いたが、黙って椎奈の続きを待ってくれた。
「当時の私は父の具合がよくなかったことに気付けなかった」
俊は、椎奈と繋いでいる彼女の手の甲を慰めるように指で撫でた。
「椎奈さんは、その時は幾つだったんだ。中学生くらいじゃないのか? なら……」
椎奈も俊の手を、きゅっと握って、分かっているのだと先に意思表示した。
「伯父にも、気が付けなかったのは当たり前だって言われたの。父が、私には分からないように気を配っていたらしくて」
「でも、椎奈さんは気付いてしまったのか」
「気付いたのは、父が亡くなって、いろいろ世間のことを知ってから。あのときの父は精神的に辛かったんじゃないかって、ようやく汲めた……私は、俊さんの妻になったときに、同じようにあなたの苦悩に気付けなくて、あなたまで父のように失ってしまうんじゃないかって、それも怖くて、警察官の妻に……あなたの妻になれる自信がなかった」
俊は眉をひそめた。
「私、父のあれは、自殺だったんじゃないかって……ずっと怖くて」
「馬鹿言うな」
俊は足を止めて椎奈の手を引いた。どどいつは、俊の行動を読んでいたかのようにぴたりと足を止めた。
「菊野勝善警部は、多分パトカーの後部座席に当てるつもりだった」
「……え?」
「事件のときのドライブレコーダーの記録を、俺たちは学生のときに観たんだ。菊野警部の乗ったパトカーが発進して、ガソリンスタンドに入る前に、一瞬だけタイヤがスリップした」
驚いた椎奈の手を、俊が強く握った。
「例えば、自転車が道路から歩道に入ろうとする時に、路面とタイヤが平行に近い状態で侵入しようとすると、上がれず倒れることがあるだろう。あれに似た状況が一瞬起きて、発進が一秒遅れた。……菊野警部はそれでも進んだから、覚悟はしたかもしれないが、少なくとも最初は、多少の怪我はするかもしれないくらいの判断だったに違いない。生きて戻るつもりだったはずだ」
何も言葉を返せない椎奈の手を、俊は引いた。どどいつも歩き始め、椎奈は彼らに引かれながら足を進める格好になってしまった。
「伯父は……そんなこと、言ってなかった」
「菊野副署長にしたら、弟を亡くしたことになるからな。記録を観ることができなくても仕方がない。そもそも俺たちも、椎奈さんや副署長がそんなことを考えていたなんて思ってなかった。多分、誰も。だから指摘していないんだろう」
「……そう、なのね」
父は自殺ではなかった。その可能性の方が高い。完全に納得したわけではないが、記録を実際に見た人間の確信は、椎奈の肩を軽くしてくれた。
「ただ、俺たちは、全員、そういう事態に遭う確率は高い。それは避けることができない」
「はい」
「怖い?」
「正直に言えば、怖いです。大切な人を失うのは、……でも」
俊は、もうひとつ、と付け加えた。
「ちなみに、既婚者と子持ちは、事故後の生存率が独身者より高くなるらしい」
「え?」
「独身は、世にあまり執着していないからか、危篤になってしまってからの意識回復率が、家族持ちより少ない傾向がある。家族持ちは、配偶者と子供を置いて逝けるかという執念のようなものがあるから。……まあ、もちろん十割そうとは言えないけど」
「そうなんだ……」
「だから……」
俊は言葉を探しているようだ。椎奈は、さきほど俊がやってくれたように、繋いだ手の、指で彼の手の甲を撫でた。
分かっていますと伝えたくて。
「私も、伯父に、太鼓判をもらってきたの。父のときは理解できなかったけど、今の私なら、愛しているひとが苦しんでいたら、気付くことができて、上手くガス抜きさせることができるって、言ってくれたから……」
自分で自分を褒めるのはちょっとばかり難しい。
でも、こんなときくらい、自分を売り込め。椎奈は自分に言い聞かせた。
「俊さんが、仕事で辛くなったとき、半分、背負える自信がある」
「それは知ってる」
俊は真剣な目で椎奈を見つめていた。
「見合い三日目の夜によく分かった。あれで、俺は、生き返ることができた」
俊は、通報があって最初にその場に向かったのかもしれない。椎奈は、あの日に起きた事件の詳細をつぶさに追っていた。一言で片づけてしまえば殺人事件だ。しかし過程が明らかになるにつれ、目を背けたくなる部分があった。それを、彼らは実際に見たのだ。
あのときの命綱になれたのなら、俊がこちらに戻ることができたのなら、椎奈にとってそれは幸せなことだ。
そうして、椎奈はほっとしたものの、どうしたものかと足を進めている。
二人して、肝心のことを言えていない。
口火を切ったのは俊からだった。
「俺は椎奈さんと……こういう場合、なんて言うんだろうな」
椎奈はドキドキとしながら俊の言いたいことの続きを待った。当てはまる言葉が出ないのか、彼は言い淀んでいるので、椎奈は先んじてみた。
「付き合う?」
「それはちょっと合ってない気もするけど、うん。まあ、そういうことを、続けたい。結婚を前提にしたお付き合い、かな」
椎奈は俊の手を、力を込めて握った。俊は、少し手を緩め、指を絡めながら、しっかり握り返してきた。
「椎奈さん、俺の妻になってほしいです」
「はい」
椎奈が軽く見上げた先で、俊はほっとした顔をしていた。椎奈に対し笑顔を見せてくれる。
やっぱり、胃壁が治っていく気がする。
「嬉しいです。……もう、そんな未来はないって思ってた」
「うん。俺もだ」
そこから、二人は無言のまま足を進めた。会話がなかったが特に気詰まりもなかった。
なんとなく、付き合って長い間柄みたい。椎奈は嬉しさとこそばゆさで、笑ってしまいそうになった。
俊の声は固かった。警戒されるのは当然だ。
送ってくれると言ったが、椎奈は話の途中で俊が去っていくことも覚悟した。
「会って謝りたかったんです。私は俊さんにひどいことを言ったし、私のせいで無駄な時間も使わせたので」
「……それが理由で?」
「はい。まずはそこから。自分勝手な理由で、俊さんと話し合いもしようとしなくて、切り捨ててしまって、申し訳なかったです。あのときはごめんなさい」
俊は間近で椎奈の顔を覗き込んできた。親密な行為に緊張して心臓の鼓動が速くなってしまう。五日間のお見合いで、お互いの全てをさらけ出していたのに。明るい場所で会って、こんなに距離が近いのは初めてだからか。
「謝るなら俺の方だろう。俺は椎奈さんを侮辱したし……」
「侮辱じゃないです。俊さんの言ったことは正しかった。私は本当に、自分が悪者になりたくなかっただけだったし、狡い方法で逃げたし」
「正しいもんか」
語気を強く言われ、椎奈は目を見開いた。怖くはなかったが驚いた。その椎奈の様子を見て、俊も自分の声の強さに気付いたようだ。申し訳なさそうに目を伏せた。
「あれは、ああ言えばあなたを最も傷付けることを知ってやった。わざとあなたを貶めたんだ。……真実ではないし、俺の本心でもない」
「……え」
「要するに、フラれて腹が立ったから、あなたに嘘をついた……」
椎奈はまじまじと俊の顔を見た。
「そもそも、椎奈さんは他者に対して人並み以上の思いやりを持ってる。でもあなたはそれを自覚していない。現に、俺は、例の事件のあった当日、あなたがいなければあんなに早く吹っ切れなかった。……椎奈さんの、本心からの献身があったから、俺は現場に戻ることができた。俺は絶対に、あなたと結婚したくて……それを他の男に掻っ攫われるくらいなら、一生、椎奈さんに自身のことを誤解させておいて、独身でいてもらいたいと」
俊は項垂れた。
「分かっていたつもりだけど、言葉にするとよりキモさが際立つな」
椎奈はびっくりしている。俊は、椎奈よりかなりおおらかな人だと思っていたが、思いもしない昏い一面を持っていたのだ。
同じ人間なんだな、と妙な親近感を覚えてしまった。椎奈は寒さを言い訳に、俊に身を寄せた。
俊は、椎奈に視線を合わせないまま「そういうところなんだよ」と囁いたのち、決心したのか、椎奈に向かいあった。
「悪かった。ずっと後悔してた。俺を探しに来てくれて感謝しているし……こうして会えて嬉しい」
俊は感慨深げに、目尻に涙が残っている椎奈を見つめている。
「あなたはこんな顔をしているんだな」
椎奈はくすりと笑った。
「私も、同じ事を思った。俊さんは、想像していたより繊細な顔をしてる。ハンサムだわ」
「……あなたらしい表現だな。椎奈さんは、凜とした声をしてるし、菊野係長に似ているんだろうなって思ってたのに……想像の数倍」
彼はそこで言葉を切ってしまった。
「なに?」
俊は何故か言いにくそうにしている。好みの顔じゃなかったのかな、と椎奈は心配になった。
「想像の数倍、変な顔してる?」
「そんなわけないだろ。……いや、いいんだ」
俊の耳が赤くなっている。寒さのせいではなさそうだ。
「えっと、胃潰瘍だって?」
「うん。初期のだから、養生してたら治るって。慢性化しないように気を付けてって言われた。今日から三日有給を取ってる」
「何が原因」
椎奈は、苦く笑った。
「私、俊さんと見合いを終えたあと、毎日毎日、新聞ばっかり読んでた。起きて顔も洗わず読んで、仕事に行く前に読んで、帰宅してまた、って感じで、同じ新聞を一日に三回くらい目を通してて、自分でも狂ってるって思いながら。……身近で、怪我をしたり亡くなったりした警察官がいないか、ずっと探してた。そうしたら、そのうち夜、眠れなくなって」
俊は目を見開いた。驚いたようだ。
「ずっと、あなたのことが心配で、……父のことがあって、同じことをくりかえしたくないから、俊さんの妻にはなりたくないって言ったけど、もう、俊さんという存在を知ってしまっているから、お見合いを止めてもなんの意味もなかった。私は、あのとき本当にそのことに気付いてなかったの。馬鹿みたいでしょ」
「俺のことが心配で胃に穴を開けそうになったのか?」
「そう。重すぎて引くでしょ。しかも月のものも遅れて、妊娠したんだって勘違いもした」
椎奈にぴたりとくっついている俊が、全身を緊張させたのが分かった。
「……勘違い、ということは」
「してなかった。産婦人科で診てもらって、ストレスでホルモンバランスが崩れてるんだろうって。産科の先生からも養生してくださいって言われちゃった」
「そうか」
俊は意気消沈した相づちをうった。
「妊娠してないって分かってからも辛かった。妊娠していたら、俊さんも会ってくれるはずって、図々しく期待してたから」
「同じだ。俺も、椎奈さんが妊娠してくれていたらいいと思ってた。それなら、椎奈さんを娶ることができる。浅ましいことを考えて、自分に嫌気がさしてた」
俊もさっきの椎奈と同じの、苦笑いを見せた。
「俺の方が引くだろ」
「ううん。私はもっとヒドいよ。なりたかった警察官に私はなれなくて、俊さんは優秀な警察官だから、絶対嫉妬する、だから妻になりたくないとも思ってた」
俊は嗤った。
「万が一俺が優秀な警察官とやらになったとしても、定年間近までかかるよ」
椎奈はそんなことはない、と言おうとして、止めた。多分これは堂々巡りになる。
「なあ、いかに自分が馬鹿でヤバいのを披露して競うの、よさないか?」
「そうよね」
やはり同じ事を考えていた。椎奈が笑うと、俊もふと笑みを浮かべた。
俊は、笑うと幼い感じになる。それにとても素敵な笑顔だ。椎奈は俊の笑顔に見とれてしまった。
「うれしい」
「なにが」
「俊さんの笑顔。見てたら、胃壁が修復されていく感じがする」
「なんだそりゃ……キャベジンか」
「太田胃散かな」
二人で言い合って笑ってしまった。
「そろそろ帰ります。立てそう」
俊は先に立って椎奈に手を伸ばした。椎奈は微笑んで、俊のあたたかい手を取って握った。
「途中で辛くなったら言ってくれ。負ぶってく。椎奈さんは袴を履いてるし、いいだろ?」
「背負ってもらうのは魅力的だけど、今は大丈夫よ」
椎奈が笑うと、俊は残念だ、とだけ言った。
俊は一番右側で、椎奈の手を引いて歩いた。椎奈は俊とどどいつのあいだでゆっくり歩いている。
「椎奈さん」
「はい」
好きな人に名前を呼ばれることが、嬉しいことだと知った。新鮮な感覚だ。
「警察官の妻になるのは無理だろうか」
ああ。自分の気持ちを誤解されないように伝えなければ、俊は、警察を辞めてしまうかもしれない、そんな予感がした。
「聞いてほしいことがあるの」
「ああ」
そういえば、俊は再三、自分に言ってみないかと提案してくれていた。話しておけば、こんな回り道をしなくてもよかったのだろうか。
「私の父は、殉職する二年前に、捜査一課から交番勤務に異動になったの。原因は鬱で」
俊は目を見開いたが、黙って椎奈の続きを待ってくれた。
「当時の私は父の具合がよくなかったことに気付けなかった」
俊は、椎奈と繋いでいる彼女の手の甲を慰めるように指で撫でた。
「椎奈さんは、その時は幾つだったんだ。中学生くらいじゃないのか? なら……」
椎奈も俊の手を、きゅっと握って、分かっているのだと先に意思表示した。
「伯父にも、気が付けなかったのは当たり前だって言われたの。父が、私には分からないように気を配っていたらしくて」
「でも、椎奈さんは気付いてしまったのか」
「気付いたのは、父が亡くなって、いろいろ世間のことを知ってから。あのときの父は精神的に辛かったんじゃないかって、ようやく汲めた……私は、俊さんの妻になったときに、同じようにあなたの苦悩に気付けなくて、あなたまで父のように失ってしまうんじゃないかって、それも怖くて、警察官の妻に……あなたの妻になれる自信がなかった」
俊は眉をひそめた。
「私、父のあれは、自殺だったんじゃないかって……ずっと怖くて」
「馬鹿言うな」
俊は足を止めて椎奈の手を引いた。どどいつは、俊の行動を読んでいたかのようにぴたりと足を止めた。
「菊野勝善警部は、多分パトカーの後部座席に当てるつもりだった」
「……え?」
「事件のときのドライブレコーダーの記録を、俺たちは学生のときに観たんだ。菊野警部の乗ったパトカーが発進して、ガソリンスタンドに入る前に、一瞬だけタイヤがスリップした」
驚いた椎奈の手を、俊が強く握った。
「例えば、自転車が道路から歩道に入ろうとする時に、路面とタイヤが平行に近い状態で侵入しようとすると、上がれず倒れることがあるだろう。あれに似た状況が一瞬起きて、発進が一秒遅れた。……菊野警部はそれでも進んだから、覚悟はしたかもしれないが、少なくとも最初は、多少の怪我はするかもしれないくらいの判断だったに違いない。生きて戻るつもりだったはずだ」
何も言葉を返せない椎奈の手を、俊は引いた。どどいつも歩き始め、椎奈は彼らに引かれながら足を進める格好になってしまった。
「伯父は……そんなこと、言ってなかった」
「菊野副署長にしたら、弟を亡くしたことになるからな。記録を観ることができなくても仕方がない。そもそも俺たちも、椎奈さんや副署長がそんなことを考えていたなんて思ってなかった。多分、誰も。だから指摘していないんだろう」
「……そう、なのね」
父は自殺ではなかった。その可能性の方が高い。完全に納得したわけではないが、記録を実際に見た人間の確信は、椎奈の肩を軽くしてくれた。
「ただ、俺たちは、全員、そういう事態に遭う確率は高い。それは避けることができない」
「はい」
「怖い?」
「正直に言えば、怖いです。大切な人を失うのは、……でも」
俊は、もうひとつ、と付け加えた。
「ちなみに、既婚者と子持ちは、事故後の生存率が独身者より高くなるらしい」
「え?」
「独身は、世にあまり執着していないからか、危篤になってしまってからの意識回復率が、家族持ちより少ない傾向がある。家族持ちは、配偶者と子供を置いて逝けるかという執念のようなものがあるから。……まあ、もちろん十割そうとは言えないけど」
「そうなんだ……」
「だから……」
俊は言葉を探しているようだ。椎奈は、さきほど俊がやってくれたように、繋いだ手の、指で彼の手の甲を撫でた。
分かっていますと伝えたくて。
「私も、伯父に、太鼓判をもらってきたの。父のときは理解できなかったけど、今の私なら、愛しているひとが苦しんでいたら、気付くことができて、上手くガス抜きさせることができるって、言ってくれたから……」
自分で自分を褒めるのはちょっとばかり難しい。
でも、こんなときくらい、自分を売り込め。椎奈は自分に言い聞かせた。
「俊さんが、仕事で辛くなったとき、半分、背負える自信がある」
「それは知ってる」
俊は真剣な目で椎奈を見つめていた。
「見合い三日目の夜によく分かった。あれで、俺は、生き返ることができた」
俊は、通報があって最初にその場に向かったのかもしれない。椎奈は、あの日に起きた事件の詳細をつぶさに追っていた。一言で片づけてしまえば殺人事件だ。しかし過程が明らかになるにつれ、目を背けたくなる部分があった。それを、彼らは実際に見たのだ。
あのときの命綱になれたのなら、俊がこちらに戻ることができたのなら、椎奈にとってそれは幸せなことだ。
そうして、椎奈はほっとしたものの、どうしたものかと足を進めている。
二人して、肝心のことを言えていない。
口火を切ったのは俊からだった。
「俺は椎奈さんと……こういう場合、なんて言うんだろうな」
椎奈はドキドキとしながら俊の言いたいことの続きを待った。当てはまる言葉が出ないのか、彼は言い淀んでいるので、椎奈は先んじてみた。
「付き合う?」
「それはちょっと合ってない気もするけど、うん。まあ、そういうことを、続けたい。結婚を前提にしたお付き合い、かな」
椎奈は俊の手を、力を込めて握った。俊は、少し手を緩め、指を絡めながら、しっかり握り返してきた。
「椎奈さん、俺の妻になってほしいです」
「はい」
椎奈が軽く見上げた先で、俊はほっとした顔をしていた。椎奈に対し笑顔を見せてくれる。
やっぱり、胃壁が治っていく気がする。
「嬉しいです。……もう、そんな未来はないって思ってた」
「うん。俺もだ」
そこから、二人は無言のまま足を進めた。会話がなかったが特に気詰まりもなかった。
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