なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雄花の章

第十二話 思案より行動

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 彼女に謝罪したい。あなたは卑怯でも最低でもない、自分を犠牲にしてでも他人を助けたいと思っている稀有な女性なのだと伝えたかった。会ってもらえなければ、彼女の母である菊野郁係長か、伯父の菊野勝明副署長に手紙を託す。
 さて、どちらに頼むのが最適だろう。

 父、高成と菊野勝明氏は同期で仲がいい。おそらく見合いのツテもそこに違いない。だから親父に仲介を頼むのが最短の道だろうが、確実に手合わせが開始されこてんぱんにされる。聞くところによると菊野郁係長も凄腕らしい。親父だったらまだ手心で竹刀を使ってくれる可能性があるが、菊野係長なら確実に真剣勝負になる。
 もしかしたら菊野副署長に話を通すのが、一番傷が浅いかもしれない。……いや待て、副署長は剣道こそ嗜んでいないが、柔道は確か黒帯だったはず。俊は、柔道は基本の「き」しか知らない。まずい、柔道は防具がない。確実に死ぬ。
 泊内と二人で飲んだ数日後、俊は泊内に聞いた。
「泊内さんも、確か柔道で黒帯でしたよね」
「あ? ああ。どうした?」
「受け身の練習をしたいんです」
「なんでだよ」


 某日、その日は非番だった。俊は紙とペンを置いた座卓の前で腕を組んでいた。
 会って謝ることが終着点だとして、まず何から始めるべきか。流れ図など箇条書きに起こして、それを線でつないで試行錯誤している。
 家も名字も分かっているのだから、土日にでも会いに行けばいい。この地方住みでなければ実行できたかもしれない。ここでは、見合いを不成立で終えた男女はしがらみを切るために会いにいったりしないのが鉄則だ。泊内は無視してしまえとアドバイスをくれたが、いざ実行に移すとなると二の足を踏む。
 誰だこんな習慣を考えた奴はとは思ったものの、振られた相手の家を特定し挙動を逐一探るということは、この地のみならず日本全体でストーカー行為と認識される。特に警察官の不祥事は大々的に報道されてしまう。まずい。

 一休みに竹刀でも振ってくるかと俊が思案していたとき、携帯電話が鳴った。相手は泊内だった。
「どうしました?」
『非番のところ悪い。武藤、今、寮にいるか?』
「います」
『寮の対面、道路を渡ったところに公団があるだろう。女性が公団の公園ベンチで具合が悪そうに項垂れているらしい。ただ、その女性の飼い犬らしき大型犬が怖くて近寄れない。救急車を呼ぶべきかどうかって通報があった』
 それはそれは。泊内の言い分からやれやれという含みがある。
「様子見てきますよ。自分だけで処置が難しそうなら応援頼む連絡入れいます」
 俊は電話で話をしながら、羽織を取って寮を出た。
『悪いな。犬に襲われている可能性もあると言っている。リードに繋がれている犬だそうだから、まさかそんなことはないと思うんだけど』
「分かりました。……あ、いますね。ジャーマン・シェパードだ」
『すげえな。見て分かるのか。じゃあ頼んだ。どんな結果にせよ連絡はくれ』
「了解っす」
 俊は電話を切って、公団の公園へ向かった。公園入り口で数人の中年女性が立って一方向を見ていた。一人は電話を握っている。
「具合の悪そうな女性がいるって、通報された方ですか?」
 俊の声かけに、三人はうさんくさげな目を向けてきた。悪くない。危機管理意識がある。
「武藤俊と言います。今日は非番なんですけど、一応警察官です。そこの独身寮から来ました」
 三人のうち、一人があっと声を上げ表情を緩めた。
「私、あなたのこと覚えてる。去年までそこの派出所にいたわよね」
「はい」
「よかった。あそこよ。大きな犬がほら……女の子の体を……あ」
 ベンチで項垂れている女性に鼻面を突っ込もうとしていたジャーマン・シェパードが、俊を認めて一声鳴いた。
 俊は目を眇めた。あれは、何かの合図じゃないか?

 警察犬訓練場の見学に行ったことがあるが、任務遂行時にああいった行動をしていたような気がする。それに、実家にいる同種の飼い犬、ブンジロウより心なしかりりしい顔立ちをしている(ような気がする)。
 試しに俊は、手を振り下ろしながら「伏せ」と合図を示した。すぐに犬はベンチから降り、女性の足下に伏せた。伏せの姿勢も隙がない。このジャーマン・シェパードを訓練した人物は相当な腕前だ。
「すごーい!」
 後ろで、熟女たちが感心しているのを聞きながら、俊はベンチの女性の元へ向かった。犬は事前に聞いていた通り、ベンチの女性の持つリードに繋がれている。
 その彼女が、のろのろと顔を上げた。かなり顔色が悪い。しかも、俊を見上げながら目を潤ませている。
「どうしました? 具合が悪くなったんですか?」
 彼女の前にひざまづいて見上げると、相手は口を開いた。
 何も聞こえなかったが、口の動きから「うそでしょう」と読み取れた。
 何がだろう。
「お名前は言えますか……わっ」
 不謹慎ながら、俊は彼女の様子を覗い、可愛らしい人だな、など思ってしまっていた。それを非難したいのか、ジャーマン・シェパードが俊の後ろ襟の中に鼻面をつっこんできた。濡れた鼻が冷たくて、俊は背筋を返した。
「違う。お前のご主人様に危害を加えるわけじゃ……」
 犬は再度、ワン!と声を上げた。
 飼い主に何か伝えたいのか、俊に向かってでなく、女性の方に対して犬は吠えた。
 対して、女性は、目に涙をためながらも、微かに笑いうなずいている。
 そのあと、彼女は俊に対しても微笑んだ。
 綺麗な笑顔だ。
「きくの……しいな、です」
 笑顔に見惚れそうになっていた俊は瞠目した。
 いきなり、目の前に女の子が振ってきたかのような、有名な例のあのシーンが何故か浮かんだ。
 聞き覚えのある声。そんな段階の話ではない。二月、結局吹っ切ることができず、未だに愛している相手の声だ。
 嘘だろう。
 俊も、女性と──椎奈と同じ感想を洩らした。


 椎奈を送りがてら、二人は沢山の話をした。会いたかったという気持ちが積もり積もって、息つく間もなく会話をしていた。一段落ついてしまうと、互いに黙って歩くだけとなったが、気詰まりな空気はなかった。むしろ、つかえが取れた爽快感がある。
 椎奈がリードを引いているどどいつは、我こそは露払いだと主張しているような動きだ。どどいつというふざけた(失礼)名前をしているが、行動はきびきびとしている。実家のブンジロウと同じ犬種のはずなのに、元警察犬と知ると武士然とした顔と動きをしている気がしてくる。実家のブンジロウはいかにもブンジロウ、という感じだ。

 椎奈を家まで送り、俊は椎奈の伯父であり、父の同期であり、俊の上司である菊野勝明副署長へ挨拶をしたいと申し出た。結婚の許しを得るためだ。
 さらに夜、椎奈の母上であり、俊の先輩でもある菊野郁とも、椎奈との結婚について電話で話をした。
 こんなに緊張したのは、いつぶりだろう。
 電話を終えたあと、俊は大の字に寝転がった。怒濤の一日に、しばし放心していた。

 それから、じわじわと己の幸運を噛みしめたのだった。

 その日、あまりに多くの出来事があり、俊は自分の両親への報告をすっかり失念していた。翌夕方、母からの電話でようやく報告の必要性を思い出したくらいだ。何故すぐに連絡しなかったのかと叱られた。母は菊野係長から挨拶の電話をされたが、意味が分からず大恥をかいたと怒り心頭であった。
 幸福絶頂にいる俊には、母の説教は右から左へと過ぎ通っただけに終えた。

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