なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雄花の章

第十一話 先人の話

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「そういうもんだろ」

 目前にあるのは空のジョッキだ。幾つ目だったか。数えていると、なみなみとビールが満たされているジョッキと交換された。
「人間てのは何かしらやらかすようにできてるんだよ」
 泊内は、するめの天ぷらをつまんで、マヨネーズにつけたあと、口に放り込んだ。
「よく言われる『時間が癒やしてくれる』とか『いつか忘れる』ってのも、人によってはできないらしいからな。どうしようもないこともある」
 何故だか、俊は泊内に誘われ居酒屋で飲んでいるし、何故だか、彼に対し洗いざらい吐いてしまっていた。
 どこかで自白剤が使われたのだ。何本か飲んだビールに入っていたのだ。そうに違いない。現に、泊内はビールを飲んでいない。ずっと焼酎をちびちび舐めている。

「泊内さんも、やらかしたことあるんですか?」
 俊は拗ねた気分になっていた。自分の味わった屈辱と罪悪感を、そういうもんと片付けられてたまるかと思ったのだ。
「やらかしてるに決まってるだろ。どうして俺がこの年で独身なのか考えてもみろよ」
 俊は、するめの天ぷらに伸ばしかけていた手を止めた。
「結婚するしないは個人の自由でしょう」
 普段ならそう、人権派を装った無難な返しをしたかもしれない。だが、この地では──旧家や武家ではなおさら──通用しない。泊内も武家の出だ。しかも長男ではなかったか。
 見合いが組まれなかったはずがない。
「何があったか、俺に話してくれるんですか?」
「オッサンの失敗談を聞いてくれるか?」
 泊内の意図が分からないが、興味はかなりあった。
「聞きたいです」
 俊が言うなり、泊内は杯を煽った。空になった杯を振って、店員に「これもうひとつ」と言い、俊に顔を向けた。
「警察官になってすぐ、外の女と付き合い始めてな」
 外の女、つまりこの藩出身でない女性のことだ。
「もちろん結婚するつもりはなかった。向こうもだ。ここの地の見合いの習慣を聞いて気持ち悪いと言っていた。警察官の妻になる気も、さらさらないって……でも、妊娠させちまった」
 俊は目を見開いた。
 考えていた以上の「やらかし」だった。

 泊内の、お替わりの焼酎が運ばれてきた。彼は店員に礼を言って話に戻った。
「一度、確かに、行為の途中でアレを正しく使わなかった。けど俺も、彼女も、大丈夫だろうと気にも留めなかった。でだ、二ヶ月後に彼女の部屋で、妊娠したと告げられた。俺は即座に、堕ろしてくれる病院を予約する、費用も俺が出す、そう言った。直後、平手を食らった」
 他の席の、話し声がする。内容は分からない。それら雑音を二人はしばらく聞いていた。
「泊内さんは、いくつかある選択肢のなかで、そうするなら、と言ったわけでは……」
「ねえよ。あのとき、俺の中では堕胎一択だった。彼女も、そのつもりで連絡してきたんだと思い込んでた。なんなら、俺は自分に酔っていたと言ってもいいくらいだ。即座に正解を導ける有能な男だと」
 泊内は鼻で嗤った。
「警察官のくせに、堕胎が女性の体にどれほどの負担を与えるのか、あのときは思いつきもしなかった。つまり俺は、当事者のくせに第三者のような認識だった。妊娠出産について女性が……彼女がどういう考えを持っているのか、考えることもしなかったし、知ろうともしなかった。そのうえ、彼女の腹の中で芽吹いているのが、自分のこどもという自覚さえ持っていなかった」
 現在の泊内の言葉尻から、俊にも彼の悔恨が十分伝わってくる。とはいえ当時の泊内の行動は、俊にとって聞くに堪えない不快な内容だった。

「彼女さんは、それから」
「一人で産むと地元に帰った。二度と連絡するなと言われたが、産まれたこどもを私生児にしたくないと俺が言ったら、しぶしぶ認知させてくれたな。弁護士を挟んで、しばらく養育費も払っていた。二年後くらいに、担当の弁護士から連絡がきて、養育費を払う必要がなくなったと言われた。彼女が再婚して、相手の男性が、俺と彼女の子を養子にした。俺の養育費がなくても十分やっていけると、彼女が俺の支払い義務を免除したいと申請したそうだ」
 泊内は苦笑した。
「何がなんでも、俺との関係を断ち切りたかったんだろう。坊主憎けりゃ袈裟までじゃねえが、俺の稼いだ金も、こどものためじゃなければビタ一文、手元に置きたくなかったみたいだ」
 泊内の話を聞いて、俊は酔いが徐々に覚めている気がしてきた。
「お子さんには会ってたんですか?」
 泊内は首を振った。
「一度も会ったことがない。俺も馬鹿正直に、二度と会いたくないと言われたから、こどもに会いたいと相手に言ったことがない。そもそも、会いたいとも思っていない。一応、俺が死んだときには、遺産は全て娘にいくように遺言は用意してある」
 焼酎を飲み、その杯を両手で握りしめたまま、泊内は苦く笑った。
「俺がしてやれることは、もうそれしかねえ」

 店員のいらっしゃいませという声が聞こえた。別の席では盛り上がっているらしく、どっと笑いが起きている。
「じわじわ来るんだよ」
「……はい?」
「事の顛末を親父に話したら怒鳴られた。俺には二人、妹がいるからな。当時は二人とも未婚だった。外聞が悪いことこの上ない。俺にも見合いが組まれた。結婚まで辿り着いたら、養育費は親父たちが肩代わりして払う算段をしてた。俺には何の傷もないという体裁を整えるためだ。情けなかったが、そうせざるを得ないと、はじめは思ってた。……でも、見合いで、相手を抱けなかった」
 俊が固まり、泊内を凝視している前で、彼は焼酎を煽った。
 飲まないと、言えないとでもいいたげだ。空になった杯を、彼は再び両手で握っていた。
 こんなにも弱い姿を晒す泊内を、俊は見たことがない。
「見合いで子供ができて、結婚して、普通の生活をしながら、俺は最初の子の養育費を親に肩代わりさせて……そうやって生きていくのかと思うと、相手の女に触れることさえできなかったな。養育費の支払いが免除されても、無理だった。見合いで産まれた子供を愛せると思えなかった。俺は最初の子供を即座に死なせようとしたし、産まれたあとも会いたいと思わないような男だ。
 ……前に言ったろう。全人類のうち二分の人間は、人を傷付けることに何の疼痛も感じないと。俺はまさにそれだ。
 そうしているうちに適齢期も過ぎ、こうして独り身のまま。唯一の救いは、妹二人は無事嫁いだことだ。上の妹が婿を取って家を継ぐことになった」
 俊は、手を伸ばし、スルメの天ぷらを口にした。噛んでも噛んでも、味が分からない。飲み込むときすら分からなくなって、無理に嚥下しビールをあおった。

 俊がジョッキを置いたあと、しばらく二人とも黙っていた。泊内はもう何も言うことはないようだ。
「泊内さんは、会いたいと思ってないんじゃないでしょう。元の彼女さんはともかく、娘さんに会えるなら会いたいと思ってるんじゃないすか?」
 泊内は俊に目を合わせぬまま杯を持っている。
「会わせる顔がないって思ってるんでしょう」
「そうだ。今更どの面下げてって思ってるよ。あとからあとから、ああしておけばよかったと、遅効性の毒みたいに回ってくる」
 泊内は顔を上げた。すでに、いつものような飄々とした先輩面に戻っていた。
「それにしても武藤、俺のこと、よく分かったな」
「泊内さんが教えてくれました」
 俊は泊内の持っている杯を指さした。
「それを盾みたいにして、持ってますよね。痛いところを突かれたくない」
 泊内の視線が遠くなった。
「菊野……先輩が、教えてくれた。人は、痛い質問をされたとき、身を守るような挙動を取る」
 俊の心臓が跳ねた。
 菊野勝善警部。
 彼女の父上だった。

 彼女はいま、どうしているのだろう。
 俺のことなどもう忘れて、次の見合いをしているか。
 願わくば、彼女には、幸せになってほしい。

 相手には、自分に構ってほしくない時期があるのを察してほしいと思っているくせに、俊は彼女も同じことを考えている可能性にあのときは気付かなかった。
 彼女だって、落ち込んだとき、毎回、俊の慰めを欲したわけではないだろうに。

 ふと、隣の席の会話が妙に鮮明に聞こえた。紅葉狩りの予定を立てている。
 そんな季節になったのだ。
 秋が深まるころに、ようやく、俊は彼女の幸せを願えるようになれた。
 人に因ると泊内は言った。
 俊には、時という薬が必要だったし、効くのだ。

「だから武藤、お前も、後悔があるならさっさと行動した方がいい。時が経てば経つほど、今更という気が強くなって、行動できなくなる」
 俺みたいになるぞ、泊内は自虐を込め曰った。

 若い店員が「お待たせしました」といいながら、唐揚げの皿をテーブルの空いた場所に置いた。泊内がコレとコレ、もう一盃お願いしますといいながら、自分達の空になったジョッキと杯を指さしている。男性店員はメモを取ったあと、空の器を下げていった。
 泊内は唐揚げに添えてあるレモンを唐揚げにかけ、俊の前にずいと皿を押した。
「ホラ食え」
 俊は言われるがまま唐揚げを箸で取った。口に放り込むと、からりとした衣と、ジューシーな肉汁のなかに、酸っぱい味が加わった妙なるハーモニーが舌の上で奏でられている。
「檸檬……」
「あれ、武藤は唐揚げにレモンかけるよな?」
 俊はうなずいた。

 これから一生、俺は檸檬の存在に気付く度にセンチメンタルな気分になるんだろうか。
 レモン果汁がかかった唐揚げ、好きなのに、食う度に泣くのか俺は。
「おい武藤。それ、お前自身が辛くて泣いてるんだよな?」
「そうですが?」
「よかった。俺に同情して泣いてくれてるんなら、俺も泣いてしまうところだった」
 男二人が飲みながら泣くなんて、気持ち悪過ぎて出禁になるわ。
 泊内は笑いながら、彼も唐揚げを口にした。
「うめえ」
「美味いです」
「お待たせしました」
 店員が俊のビールと泊内の焼酎を持ってきた。俊は早速ビールを飲んだ。
「俺も読みましたよ。泊内さんの言ってた、二分の件」
「おお」
「書いてあったじゃないですか。二分の中でも、普段の生活では理由なく人を傷付けたりしない人間もいると」
 泊内の顔から「本当に読んだんだな」という驚きと感心が読み取れた。
「仮に、泊内さんが二分の人間だったとしても、俺は、泊内さんはそっちだと思いますよ」
「だったらいいな」
 泊内はまた、焼酎をちびちび飲み始めた。
「泊内さんも、今は分かってるんでしょう。女性の堕胎が、この国では体にも精神にも負担が大きいってこと」
「お前もだろう。妊娠と出産そのものが、女性全員にとって必ずしも十割安全でなく、誰でもできるものではないってこと。だから後ろめたさから解放されてない。武藤はもう、お前の相手が誰だったか分かってしまってるんだから、禁忌なんぞ無視して会いにいけよ」
「……っすね」
 俊はビールをあおった。

 俺は、彼女が妊娠してくれていたらいいと願っている。
 彼女を言葉で辱めた男の──自分のこどもを孕んでくれていたらいいと。
 か細い糸のようなものでもいいから、接点を残しておきたいと。

 自分勝手だ。
 俺はどこまでも身勝手な奴だ。
 それでも、俺は彼女に会いたい。

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