なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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番外編

第一話 いぬのきもち 後半

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 翌日、夕刻から雨の気配があった。奈月様と香月様が戻られ、拙者を見回りに連れ出したあと、雨が降り始めた。
 香月様が突然、拙者を見回りにお誘いになった。
 望むところである。人間たちは嫌うが、拙者は雨の中の見回りはやぶさかではない。
 拙者も一時で構わぬので、心配の種など一切忘れはしゃぎたい日もある。うってつけではないか。
 さすが、香月様は拙者の気持ちを存じて下さる。

 だが、戻ると“拷問”が待っていた。
 椎奈様による「洗い」の時間である。まずぬるま湯で泥を落とされる。これは構わぬ。次の、石けんで全身を泡立てられ、泡を流される所業もあるが、これもまあ、致し方ない。
 困るのは乾燥である。しかも現在は夏である。ぶるっと体を振れば問題なかろうに、若君や姫たちは、拙者が必要にあらずと訴えてもあれを決行される。得体のしれない機械で、大きな音を耳の傍で鳴らされるのが辛い。
 乾燥手前、椎奈様によって布巾で体を拭かれているとき、離れ方面に椎奈様の伴侶となる御方がやってきた。そんな時間か。現に、椎奈様は何やら焦っているような気を発しておられる。
 拙者の乾燥は、拙者本人が必要ないと判断したので、椎奈様は向かわれるがよい。そう目で訴えてみたが、椎奈様は立ち上がらなかった。
 結局、奈月様と香月様が呼びに来られた。ご兄弟間で何やら会話をされたのち、椎奈様は拙者の乾燥をせずに向かわれた。
 これで乾燥はされずにすむ。安堵したのもつかの間、奈月様がいつもの得体のしれない乾燥させる機械を取り出した。
 うぬう。世の中、そうそう甘くないものよ。


□□□


 確かに拙者は、椎奈様に手綱を握られるのを好まぬとは申した。
 だが、それは決して、二度と拙者を供に連れ出すなという意味ではなかった。
 椎奈様は、大雨の日を最後に、番いとなる殿方と会うのを止められてしまった。何があったのか、拙者には分からない。
 さらに椎奈様は、あの日以降、日がな一日新聞を読んでおられる。同じものを何度も。
 拙者を見回りのお供にされなくなった。そもそも、椎奈様は引きこもり、お一人で見回りをされている様子もない。
 犬である拙者には、椎奈様の行動の意味が分からない。

 そのうち、椎奈様の体の匂いに変化が現れた。
 ひとつ、月の満ち欠けのように日々変化する匂いが、単一になってしまった。
 そしてもうひとつ、あってはならない匂いを発するようになった。
 どちらもよくない兆候である。
 椎奈様は、おやつれになった。椎奈様は、笑わなくなった。
 番いのお相手の匂いをさせなくなってから。


 ジャーマン・シェパード、つまり我々は、亜米利加アメリカの言葉でいうところのダブルコートで、上毛と下毛を持つ犬種でござる。よって夏は苦手であるが、秋、冬は過ごしやすい。
 屋外の葉が赤く染まりはじめた頃のことでござった。
 拙者はその朝、殿の屋敷で目覚めた。殿が非番であるからだ。
「どどいつ」
 拙者は立ち上がった。殿はリードを持参しておる。見回りの告知である。喜んでお供致す所存である。重ねて言うが、尾を振っているのは鍛える為である。
 いってらっしゃい、という北の方の見送りを受け、殿との朝の巡回がはじまった。
 やはり殿はいい。見回りのあるべき形に拙者も身が引き締まる思いである。
 菊野家の皆はそれぞれの見回り経路を複数想定されている。本日の見回りの道順は、いろはの「は」順であるようだ。
 殿はいつものように、しっかりとした足取りと意思を持って拙者を供にする。
 む。
 ごく薄くだが、嗅いだことのある匂いを感じた。殿の隣を歩いていると、それが段々と近くなってくる。
 思い出した。この匂いは、椎奈様と契りを交わしたお相手のものだ。
 殿はある建物の前で止まった。
「どどいつ、分かるか」
 拙者は一声吠えて是と答えた。殿はしゃがみ、拙者の背を掻いた。
「さすがお前は賢い」
 お褒めいただき、恐悦至極に存じまする。
「椎奈がここに来たがったら、教えてやってくれ。俊君のいる部屋の扉の前まで、お前は導くことができるだろう」
 容易でござる。お任せ下され。拙者は再度一声吠えた。
「うむ」
 殿は足を進めた。道すがら「今日はいいおやつをやるぞ」と褒美の話をされた。
 かたじけない。


 殿の予想通り、数日経ったのち、椎奈様が久しぶりに拙者を見回りに連れ出された。椎奈様の道順ではない。これは殿の「は」の順路だ。殿の予想通り、椎奈様は番いのお相手のところへ向かおうとされているのだ。
 喜ばしいとは思うが、姫の体調はよろしくないように思える。大丈夫なのだろうか。
 ただ、足取りに迷いがなくなっていた。拙者と見回りに出なかった期間にて、姫にも何か思うところがあったのだろう。椎奈様は目的地に向かいサクサク足を進めておられる。
 しかし、そろそろ殿が教えてくれた場所に着く前、椎奈様は足を止められた。具合が悪そうだ。椎奈様は、一時退却を決められた。よき判断でござる。
 だが、よほどお辛いのであろう。歩むこともままならず、また引き返し、公団のベンチに腰を下ろされた。拙者に横に来るよう指示され、拙者に手を回した。
 どうも、姫は寒さが辛いようである。
 最終的に椎奈様は拙者からも離れ、項垂れてしまわれた。前屈みになり、両手で額を覆っておられる。
 拙者も、姫に暖を与えんと、脇に鼻面を埋めようとしたが、隙間がなかった。いかに椎奈様を連れ戻すか、拙者には分からず途方に暮れたとき、不意に、椎奈様の番いの匂いがした。それはだんだん近くに来ている。
 拙者は椎奈様より離れ、匂いの方向を見た。
 椎奈様のお相手だ。拙者は合図の声を上げた。
「伏せ」
 懐かしい。久方ぶりにその命を耳にした。拙者は訓練のたまものを相手に示してみせた。
 姫のお相手は近くにやってきて、椎奈様と話そうとしている。よろしい。まず間違いないと思うが、念の為、この若殿が姫の相手であるか、確かめようではないか。
 拙者は彼の首に鼻を寄せ、においを嗅いだ。
 間違いない。
 椎奈様も嬉しそうである。

 いやはや、殿の慧眼はやはり素晴らしい。


□□□


 外の葉が散り、人間たちにとって風が冷たい季節になったようだ。街ゆく者々は羽織を纏うようになった。
 椎奈様は、体の匂いによくない類のものを漂わせなくなった。それから番いとなった、俊様の元へ嫁がれた。一番喜ばしい結果となったのに、拙者は寂しくもあった。かの姫に手綱を握られるのは、やはりどうしても好きにはなれなかったが、姫自身は柔和で優しく、好きであったのだ。
 こればかりは仕方がない。


 拙者は、椎奈様の結納が終えられたあと、武藤家の警護をしておられるブンジロウ殿と会った。かの御仁は拙者より若い侍であった。拙者のみたところ、武藤家の警護というよりは末の弟という風情で暮らしているようだ。その点についてお伺いしたところ、「ここではそのようにふるまうのが私の役目なのですよ」と仰った。武藤家には姫がお二人おられたが、すでにお二人とも嫁がれたとのこと。いずれ俊様が椎奈様と共にと武藤家に入られるだろうが、それまで慰めとしてご主人のお二人の子供代わりとして甘えているのだと。
 なるほど。家にはいろいろな事情があるものでござるな。


 最近は、殿との見回りに北の方も同伴するようになった。
「椎菜ちゃんが家を出ちゃって、ちょっと寂しくなりましたね」
 殿はうなずいた。
「でも、そう言っているうちに宗明たちが戻ってくるかも。椎奈ちゃんも、臨月には一旦こっちに帰ってくるそうだし」
「気が早いな」
「あらいやだ。あなたほどじゃありませんよ? あなたは、椎菜ちゃんを送りがてら、俊君が挨拶にきたときに、こどもが楽しみって椎奈ちゃんに言ったそうじゃないですか」
 殿は「む」と呻ったあと、無言となった。だが顔は笑っていた。
 ご夫婦、楽しそうで何よりでござる。

 拙者も、椎奈様と俊様の御子に会えるのを楽しみにしておりまする。


 終
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