虜囚 〜セイレーンの家後日談〜

まへばらよし

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卓朗君のお悩み その2

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 二人、テーブルを挟んで向かい合い、ではなく、隣の面に椅子を置いて、日々のご飯を食べようと提案したのは柊子だ。
 対面より親しい感じがするからだそうだ。彼女とは柊子の叔母を介しての紹介から結婚に至ったが、正式に出会った初日も、ホテル内の喫茶スペースで、対面でなく隣の面に腰を下ろした。卓朗が少なからず戸惑ったのも、まだ鮮明に思い出せる。
 その親密さがあるからか、卓朗は柊子の淹れてくれたノンカフェインのお茶を飲み終えたあと、彼女に探りを入れたく、まずは無難そうな話題を持ち出した。
「柊子は二週間、どうだった?」
「うん。卓朗さんがいいって言ってくれたから、友達に二泊三日で泊まってもらって、楽しかったわ。素敵な家ねえって何度も言っていたから、私も嬉しかった」
 喜んでいいのか、悲しんでいいのか。
 柊子の友人に家のことを褒められたのは、もちろん嬉しいのだが、柊子は自分のいなかった二週間を有意義に過ごしていたという事実には打ちのめされている。ここで「連絡しなくて悪かった」と謝るのは、酷い自意識過剰な行為で、恥の上塗りだと卓朗は悟った。
「別に、連絡はくれなくてもいいのよ。私もしなかったし」
 卓朗ははっとして柊子に視線を合わせた。
「なんで分かる……俺の顔にそう書いてあるか?」
「書いてある」
 そうなのか。自分から言い出さなくてよかったと、心の底から卓朗は思った。
「叔母もそうだけど、卓朗さんも、話しかけてほしくないって思っているとき、顔に出るから分かりやすいわよ」
 卓朗はすぐさま額に手を置いた。
「……そうなのか」
 柊子は腕を組み、うーんとひとつ呻って
「そうねえ。美晴叔母さんのときに得た経験で、卓朗さんの時も分かるようになったのかも。……最初は、卓朗さんが話しかけてほしくないときを読めなかったし」
 無意識だろうが柊子は、卓朗の黒歴史を持ち出し彼の心を豪快にぶん殴ってきた。
 あのときは本当に悪かった、と卓朗が謝ろうとする前に、柊子は話を続けた。
「叔母もね、話しかけるなって態度になったときは、私は叔母の家に顔を出さなくしていたのよ。CADのデータ作成だけならどこでもできるし、戻ってもいいときは連絡くれるから。でも一度だけ、しばらく行かないでおこうと思った日の夜に叔母から電話があったの。珍しいなと思って出たら、切れ切れの声で、お腹が痛いって言って」
「え?」
 卓朗は、真摯に話をしている柊子を覗いながら続きを待った。
「母のことを思い出して、私は動揺してしまって、運転もできる気がしなくて、結局お父さんに連絡したんだけど、説明すらうまくできなくて、何もできなくて、後で泣いた」
「……桐島先生は」
「大丈夫だった。父と姉が叔母の家に着いたときには、大分落ち着いていたらしくて、救急車を呼ぶまでもなかったって。念の為に翌日、かかりつけの病院に行って、いろいろ検査もしたけど異常は出なくて、症状から迷走神経反射だったんじゃないかなって、教えてくれたそうよ」
 迷走ナントカが卓朗には初耳で、意味が分からなかったが、とりあえず当時、命に関わる事態ではなかったようだ。
「だから私は、あらかじめ予定が分かっていて変更もないなら、連絡がないほうがいい」
 卓朗は瞬いた。柊子の言葉には、卓朗への忖度も思いやりも含まれていない。純粋に、瞳に恐怖が塗られており、当時に味わったであろう彼女の悔恨が痛々しいほどだ。
 柊子の考えは卓朗にとって目から鱗であり、同時に腑に落ちた。本当に価値観は人それぞれなのだと感心していると、またも不意打ちを食らった。
「それに、電話で卓朗さんの声だけ聞いたら、よけい恋しくなるし」

 はい?と大間抜けな裏声が出た。
「俺が恋しかった?」
「当たり前じゃない」
 柊子は気を悪くしたように、唇をツンと上げた。むっとしましたよと卓朗に示しているつもりかもしれないが、ただただ可愛いだけだ。
「あ」
「なに?」
「もしかして、俺が帰ってきたから?」
 柊子は首を傾げた。
「柊子が妙に嬉しそうだなと……」
 彼女の耳が赤くなっていく。
「好きな人と離れていて、その人が戻ってきたら、嬉しくない?」
 恨みがましく上目遣いをされて、卓朗は目を閉じた。念願の怒られが発生しているようだが、全く嬉しくなかった。

 嘘だろ。
 俺はこんなに鈍感だったのか?
 ないわ~パートナーにそれを言わせるのホントないわ~と脳内イマジナリー福海先輩が再び出現し、卓朗兄さんは案外抜けているところありますよねと脳内イマジナリー従兄弟も再出現した。やかましい。
「俺も嬉しい」
 返事ができるほど、ある程度心に余裕が戻ったが、それもまた柊子にすぐに吹き飛ばされた。
「卓朗さんに甘えたいの。いい?」
 ああ、そう言えば、柊子の義姉が言っていたなあ。末っ子だから甘えたの子だと。卓朗の考えていた甘えん坊とはベクトルの向きが違っていた。男のさがを刺激するタイプの「甘えん坊」であったと分かったのは、二人暮らしを始めてすぐだった。
 卓朗が返事をする前に、柊子は立ち上がって卓朗に手を差し出した。促されるままに手を繋ぎ、ソファまで連れてこられ、座る柊子の隣に卓朗も腰掛けた。
 途端、柊子は卓朗の肩にしなだれ、額を卓朗の首筋に宛てた。
 食後、クーラーの効いた部屋でも熱が籠もっていた卓朗の体に、柊子のひんやりとした肌質は、呼吸を忘れそうになるくらい気持ちがよかった。
 いつも、彼女に触れる度に思う。水の精。セイレーンは男を狂わせる。
 美しい声と容姿で。
「三十七パーセント……」
 卓朗は理性を留めたく、ぱっと頭に浮かんだことを口に出した。
「何が?」
 柊子は動かず、掠れた小声で答えた。二人だけの、秘密の話をしているような空気が流れた。心を落ち着かせようと出したどうでもいい話題だったはずなのに。心理作戦は、物理攻撃の前では歯が立たなかった。
「あ、待って。……えっと、ヒトの糖分解のエネルギー効率のこと?」
 どうして、俺の考えていることも分かるんだろう。
「顔に書いてあったか?」
「ううん。卓朗さんのからだに」
 随分とあおる言葉を使ってくれるじゃないか。
「体を動かすためにアデノシン三リン酸が加水分解されるとき、運動エネルギーに使われるのは三十七パーセントで、残りは熱エネルギーとなって体温維持をしている話でしょう」
 彼女の囁く息が卓朗の喉にかかり、卓朗のからだもぴくりと動いた。柊子は、卓朗の目を覗き込んでくる。
「だから、女性より筋肉量の多い男性の方が、少し平熱が高いのよね、確か」
 なんだ。俺が柊子に心地よい涼しさを求めているように、彼女も俺のからだの熱さを分かっていたのだ。
 それでも、まだ冷静でいたくて──柊子から仕掛けてくる誘惑を一秒でも長く受け続けたくて、関係のない話を持ち出そうと悪あがきをしている。
「物理で習ったよな」
「え、生物でなくて?」
 どうだっただろう。あがいても頭が回らない。柊子のこと以外。なにも。
 視線が交錯したまま、動けない。なにかきっかけがあれば、ここで彼女のからだを開かせる羽目になるだろう。
「ん」
 柊子は卓朗の顎に口付けし、続けながら彼の唇にもそれを重ねた。卓朗がよくそうするように、柊子は夫の行動に倣い、口で相手の口を開けさせ、舌を滑り込ませた。
 天国で拷問を受けるというのは、多分、こういうことだ。

 二人の唇が離れ、息を繰り返しながら、卓朗は受動を貫いた。柊子が何をしたいのか知りたい。
「卓朗さんに、触ってもいい?」
「どこでも好きに」
 彼女は視線を外し、卓朗の胸に手を置いた。卓朗の鼓動の速さを確かめ、手を重ねたまま、腹を通過して、下腹部へいく。
 反応している股間に、ためらいがちに指を伸ばし、ぎこちなく手で覆った。
 すかさず、卓朗も柊子の手を覆った。
「卓朗さん」
「待ってくれ」
 柊子は眉をひそめた。
「ごめんなさい。やっぱり」
「そうじゃなくて……、ここだと、床に落ちかねないから」
 柊子は卓朗を不安げに見つめていたが、卓朗の意図を察すると、また卓朗の肩に頬を寄せた。妻の、赤くなっている耳朶に提案を告げる前、意図せず彼女の耳に唇が当たった。柊子の小さな艶声が、卓朗の耳にも届く。
「俺のベッドにいこう」
「はい」
 卓朗は立ち上がり柊子の手を引いて、足早に自室へ向かった。
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