虜囚 〜セイレーンの家後日談〜

まへばらよし

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柊子さんのお悩み その1

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 卓朗が二週間、海外出張をすることになった。柊子は、そのあいだに、新居を見たがっている友達を泊めていいかと夫に尋ねると、彼は食い気味に肯定した。
「一人より二人の方がいい。安全度が高くなる」
 そんなにも自分は頼りなさそうに見えるかと聞くと、卓朗は視線を斜め上に上げた。
「というより、確率の問題かな」
 例えば、自身がいくら車の安全運転を心がけていても、運転をする以上は、何かの拍子に貰い事故に遭遇する可能性は存在するし、不意に飛び出してきた人間を轢く可能性もある。それらの不幸に遭う確率を減らすには、乗る回数を減らすしかない。それと同じ意味で、一人より二人の方が悪意を向けられる確率は減ると卓朗は述べた。柊子も納得をした。

 出張の当日、起床したときから、すでに卓朗は仕事の集中モードに入っていた。こういうときは、話しかけても無視されるか、ぶっきらぼうに話しかけるなと言われるということを、柊子はもう学習している。親族の生死に関わるほどの重要事項以外、話しかけないほうが平和で終えるのだ。荒ぶる神に民草は触れないに限る。
 卓朗はいつもなら言う「行ってきます」すらなく出ていった。

 柊子にとって同年代の友達と呼べる人間は一人しかいない。柊子が中学二年生のときに入院したとき、たまたま同じ歳の女の子が、似たような病気で同室になった。彼女とはずっと交流が続いている。
 中学三年生のときに不登校になった柊子は、小学、中学のときにいた友達全員と縁が切れた。高校や大学でも、中学生のときの出来事が頭にあって、クラスメイトとはごく浅く付き合い、無難にやりすごした。恐らく、誰も桐島柊子のことを覚えていないだろうし、柊子自身、比較的よく喋った女子生徒のことも、思い出せるのは名字かニックネームくらいだ。
 卓朗と柊子は結婚したとき、式を挙げず、披露宴もしなかった。互いの友人への挨拶がてら、それぞれ個別に食事会をしたが、卓朗の友人と紹介されたのは二人で、柊子も卓朗へ紹介したのは一人だけだった。
 その唯一の友人、楠宮志穂は、卓朗の設計した新居の門構から外部を見上げるなり、両手を祈るように組んで「私もこういうところに住みたい」と目をキラキラさせていた。設計家としての卓朗も尊敬している柊子にとって、志穂の言葉は「推しの素晴らしさを理解した同志」であり笑みが零れた。
 部屋に入り、卓朗の私室以外を見学した志穂は、ダイニングで柊子の淹れたお茶の香りも楽しみながら、うっとりとした顔でダイニングと続きのキッチンを眺め回している。
「前は松井さんがいたから我慢したんだけどさあ」
 志穂の言う松井さんとは卓朗のことである。
「キリちゃん。今日は二人だし思う存分惚気てよ。あたしに栄養を与えて!」
 キリちゃんとは柊子のことである。入院時、お互い話ができる程度まで回復して挨拶をしたとき、「桐島柊子」と柊子が名乗ったすぐに志穂は「キリちゃんて呼んでいい?」と聞いてきた。結婚し柊子の名字が変わっても「キリちゃん」は続くようだ。ちなみに、卓朗と柊子、志穂との三人で結婚の挨拶食事会をしたとき、最初は気を使ったのか「柊子さん」と呼んでいたが、お酒が入って途中から「キリちゃん」に戻った。

「惚気られることなんてないよ」
「またまた~。松井さんとお見合いする前のキリちゃんの、建築家松井先生へのビッグラブが、結婚直後に消えるわけないっしょ~」
 志穂は手で美しいハートのマークを模った。
 ええ。推しへの巨大な感情がありましたとも。川口巌夫記念館へは美晴叔母も志穂ちゃんもそれぞれ個別にお誘いしましたとも。志穂ちゃんには、館内の喫茶スペースで、建築家松井卓朗がいかに素晴らしいか延々と語りましたとも。
「尊敬していた人と恋仲になって『えっ彼ってこんなに……なの?』っていう意外性から得られる栄養をあたしも摂取したーい!」
 強面の人が雨のなか、捨てられていた猫を保護しているのを見てしまった感じのやつをお願いよお~と、志穂は日本一分かりやすい例を出してきた。
「去年に三人で会ったときはさあ、まだ新婚ホヤホヤで、キリちゃんには尊敬しているクリエイターの隣に畏れ多くも同席させて頂いている感が残ってたじゃん? それにあたしもお酒に酔って、後半、あたしと松井さんとで設計あるあるで盛り上がっちゃって、悪かったなあって思ってたのよ」
「あれはあれで、私たち楽しかったよ。卓朗さんもまた機会があったら話をしたいって言ってた」
 志穂は某被服ブランドのパタンナーとして新卒からずっと同じ会社で働いている。二人の話を聞いているだけで、柊子は面白かった。
 志穂は額に手を当て仰け反った。
「うあーやっぱり! キリちゃんにバチバチに嫉妬される方がもちろん嫌だけど、ここまで安パイ扱いだと、逆に松井さんが哀れじゃん!」
 哀れ?
「去年の食事会のとき、まだキリちゃん達って、清い関係だったでしょ」
 一秒ほど首を傾げたのち、柊子は口をあんぐりと開けた。
「生殺しだよ、キリちゃん。尊敬する先生に対しなんという苦行を」
「してない!」
「それは知ってたってば」
「い、いや、そこ、そこじゃない、そこじゃなくて、……生殺しなんか、してない!」
 志穂は鼻で笑った。
「キリちゃんの歩いた後に、眼中にさえ入れてもらえなかった男たちの屍が何体も見えるな」
「なにそれ! 霊視?」
 志穂は「霊視て」とゲラゲラと笑ったあと、テーブルに肘をついた。
「で、何がきっかけでイチャイチャできるようになったの?」
「イチャイチャしてない」
 まあ確かに三十路過ぎたら、体力とか、何かの拍子に現実に戻るとか、色々あるよねえと、志穂は急にスンと真顔になった。腕を組んで「出先の鏡と、ブラックアウトしたスマホは鬼門だ」とブツブツ言っていたが、志穂は紅茶に口をつけ、カップを置いてからほうっと息を吐いた。
「あたしはここに通されて安心したのよ」
「へ?」
「キリちゃんさあ、普段松井さんが使ってる椅子にはキリちゃんが当然のように座って、あたしを、いつものキリちゃんの椅子に座らせたじゃん?」
 柊子は、志穂が何を言わんとしているのか、分からなかった。戸惑っている柊子に、志穂はまたうっとりとした顔をする。
「あー。キリちゃんもとうとう、夫のテリトリーに他の女を入れたくない心理を持つようになったかあって」
 柊子は「あ」と零し、両手で顔を覆った。
「それは、……うん。なんか、イヤだったから」
「ハイ! 高カロリー惚気頂きましたあ~! ゴチです!」
「今のは惚気じゃなくない?」
「世界ではそれを惚気と呼ぶんだぜ」

 お泊まり初日の夜、お互いお酒が入ると、志穂の惚気カツアゲは勢いを増し、柊子もホイホイと打ち明けた。
「キリちゃんの部屋に物がたくさんあったのを見たとき、泣きそうになった。特にあのサンショウウオのぬいぐるみ。ああいうの、キリちゃんが一人暮らしのときはなかった。松井さんが買ってくれたんでしょ」
「可愛かったの。目があって、そしたら記念にって、卓朗さんが買ってくれたの」
 志穂はグラスを煽った。
「おつまみいらないじゃん。もうこれで美味しいお酒ガンガン飲めるよ!」
 そんなことを言いながら、志穂はポテチに手を伸ばしてバリバリ食べているけれども。
「キリちゃんの部屋って、キリちゃんがああしてほしいって言ったの?」
 柊子の私室は一部のみ畳になっていて、就寝時はそこに布団を敷いて寝ているのだ。そうしたいと卓朗に伝えたうえで彼がデザインしてくれた。
「スペースが二人分あったってことは、松井さんもキリちゃんと一緒にお布団で寝るのね」
「時々ね。それにお布団は別よ」
「別布団横並びで寝るなんて建前だけでしょー。新婚旅行で旅館に泊まって二組布団が敷いてあっても最初は一つしか使わないのと一緒じゃーん!」
「違うもん。私の部屋で卓朗さんが寝るときは、おしゃべりだけで寝るときの方が多いもん」
 柊子は酔っているのでいろいろバラしてしまっている。
「それってキリちゃんがそう思ってるだけで、松井さんはその気だったのに、キリちゃんが寝ちゃったから仕方なく横で寝たんじゃなくて?」
「……え」
「やっぱ生殺しじゃん」
 違うといいかけたが、確かに自分の部屋で卓朗も眠ったとき、柊子は卓朗の寝顔を見たことがあっただろうか。思い出せない。
「ダイニングとかでイチャイチャしてたのに、いざキリちゃんの部屋に二人で来たらキリちゃんは寝るとか、天然で許される域を超えてる」
「……ええとですね」
 柊子が志穂から顔を背けたので、志穂はフッと笑った。
「いいです。分かったから」
「何が分かったの」
「個々の部屋以外でお二人がその気になったときは、十割で松井さんの部屋が現場になるんだと」
 柊子は瞑目した。
 何故、分かるのだろうか。

 志穂が帰るとき、最寄り駅まで一緒に歩いて見送ったのだが、「ちょっと惚気貰いすぎたからお中元で返すわ」と手を振って去った。柊子はお中元レベルの惚気を吐いたらしい。
 帰宅して、一人だけの時間が復活した。卓朗が戻るまであと一週間。カレンダーに視線を留め、しばらくそのまま立っていた。それから、卓朗が結婚記念にと贈ってくれた柊子のフィン・ユールの椅子に腰掛けた。
 思いがけず楽しい週末だった。その話を聞いてほしい。
 今は誰もいない、対面の椅子の主に。
 卓朗に。
 楽しい時間だった。なのに、涙が出た。
 会いたい。
 広い世界の、ただ一つの場所。あなたの隣に私はいたい。

 私は怪物。隔離を望み、外部を拒み、囚われていたい怪物。
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