20 / 22
たたかうぼくらと虐待と親
終わった…はずなのに
しおりを挟む
「ひびき、今日、何していたの! なぜ横浜のショッピングモールにいたの! 東大の研究に協力しているんじゃなかったわけ?」
家に帰ってきた瞬間、たたみかけるようにアレが話し始めた。最初、なぜ場所がわかるか謎だったけど、よくよく考えてみれば、GPS。切ることをすっかり忘れていた。
こっちは疲れているのに、文句かよ。アレは、ぼくを疑い、探偵みたいなことをしてたんだ。心配なんかしてないくせに。
「もういいじゃん。今日は勘弁」
と、いらいらしていたけど、なるべく冷静に言った。アレに謝れば、丸くおさまることはわかっている。でも、できなかった。
「何を言っているわけ? 説明しなさい! 一体どうしたの! そんな子じゃなかったじゃない」
最初から、そんないい子はいないんですけど、我慢していただけなんですけど。ヒリキで、すべてあきらめ、何も言わない渋谷ひびきは、うその自分なのだから。
「うるさいな。受験して、自慢できる学校に入るだけで我慢して。ぼくになんか興味なんかないくせに」
アレは、真っ赤な顔をしてにらみつけた。
「こんなにがんばってるのに、なぜそんなことを言うわけ! ひどい!」
何ががんばっているだ、うそつき。いつも自分が被害者なんだ。被害者は、ぼくだ。先生も教育虐待でネグレクトだって教えてくれた。もう黙ってるのは、やめだ。
「あんた、がんばってないよ。塾のみんなは、手作り弁当を持ってくるけど、一度も作ってくれたことなんてない。ぼくの好きな食べ物、知ってる? ぼくの好きなこと、知ってる? ぼくの友だち、知ってる? 知らないでしょ。聞いたこともないじゃん」
何を知ってるのさ。知ろうとも思ったことがないくせに。ぼくの努力に図々しく乗っかっているだけのくせに。子どもの気持ちなんて、考えたこともないくせに。アレは、目を白黒させ、言葉が出てこないようだった。
「もういやなんだ。自慢するのもやめて。自分の好きなことをすればいいよ。ぼくはぼくでやる。もうほうっておいて」
捨てゼリフを言って、リビングの扉を閉めた。ガスンという音が、家じゅうに鳴りひびいた。
やっと言えた。言いたいことを言った。もう親子じゃなくてもいい。関係は壊れていたんだから。ずっといやなことをいやと言えなかった。今回のことでそういう自分が嫌いだったことに気がついた。自分が自分でいるために、言いたいことを言う。そう決めたら、少し胸のつかえがとれたような気がした。
部屋のベッドに寝ころぶと自然と涙が出て、とまらなかった。空っぽの自分に涙という水がそそがれたような気がした。単純だけど、それが生きている証明なんだと思った。そして、これ以上何も考えられず、静かに目をつむった。
◇ ◇
そのまま寝落ちしてしまった。朝、起きると、雨戸が開いていて、リビングに明るい朝の光が差しこんでいた。アレは珍しく真っ赤な目をして、起きていた。いつも作りもしない、サラダや卵焼きがテーブルに並んでいた。そっか、機嫌をとっているつもりなんだ。
「反抗期なのね。少し頭を冷やしたら」
と、相変わらずの上から目線。アレは「おはよう」のあいさつもなく、それだけ言った。やっぱり反省する気なんてないんだ。何も変わってない。昨日のことをなかったことにするんだ。ぼくは黙って、いつものようにパンだけ食べて、家を出た。
アレとの関係はめちゃくちゃだけど、なんだか気分だけは落ち着いていた。
言いたいことが言えたせいなんだろうか。佐伯と会って、先生と話して、プラモを作って、光岡と会って、山梨と横浜に行った。それだけ。でも何か変わった。いつもの道を歩きながら、そんなことを考えていた。
学校に着くと、光岡がやって来て、塾の課題をどんとぼくの前に置いた。
「終わってない! 週末のプリントと休んでいた月曜分が残ってる。どうしよう」
と光岡がさわぐので、二人で休み時間に片づけようということになった。
ぼくはとうに終わらせている。しょうがない。
光岡のプリント地獄はえぐかった。半分は残っていた。日曜、何してたんだよ。二人でやったから、塾の授業までには、間に合う予定だ。
前の席に佐伯はいない。今は我慢。佐伯がお母さんと暮らせて、虐待から逃れられることが一番大切だ。きっとうまくいく。先生がいるんだから。
◇ ◇
そうして、2日ほどたった。アレとの関係はそのままだ。アレが一方的に言う。ぼくは何も言わない。自分の言いたいことを言おうと思ったけど、それはきちんと聞いてくれる人がいて初めて成り立つということがわかった。アレは、反抗期と決めつけ、自分の話なんて聞いてくれない。いわゆる冷戦状態ってやつだ。
塾で先生に会った。佐伯のことを聞くと、児童相談所に行き、そのまま一時預かりという処置になったそうだ。今は先生のところにいるけど、すぐに一時保護施設に行くらしい。
小学校に上がる前、相談所にお母さんが相談していたこともわかった。その時点で保護されていれば、こんな目にあわなかったのに。
そして、お母さんは、NPOの人の紹介で虐待専門のクリニックで治療することをなった。時間はかかるけど、少しずつ良い方向に進んでいると思いこんでいた。
時間はかかるかもしれないけど、先生がついているし、佐伯は大丈夫。そう思った。
◇ ◇
なんとなく示し合せたわけじゃないけど、光岡と一緒に塾から帰るようになった。駅からはお母さんが車で迎えに来てくれている。
「…謝らなきゃいけないことあるんだ」
光岡が、電車の中で、急に言った。
「公園で、渋谷と佐伯の話、聞くつもりなかったんだけど、けっこう聞いちゃったんだ。本当にごめん!」
と、頭を下げている。
蚊に刺されていた足。そっか、あの佐伯の告白を聞いていたんだ。
光岡は一生懸命サポートしてくれた。山梨にも、家族に反対されていたのに、一緒に来てくれた。まあ、そんなに役に立ったって感じじゃないけど、感謝はしている。
あの時、気がついていたら、ぼくは光岡を許していただろうか。
…たぶん、許してない。そうしたら、きっと佐伯とぼくは、違っていたかもしれない。やっぱり色々なものが重なって、ぼくたちはここにいる。
「あの時、すごいなって思ったんだ。だから、手伝いたいって」
「誰かに言った?」
光岡は、首を横にふった。
「言うわけないよ。言えるわけない」
そうだよな。光岡は、熱いけど、軽くはない。サービスエリアで光岡が言った言葉を思い出していた。
「気にしてない。反対にありがとな」
光岡は、ホッとしたような顔をした。
◇ ◇
「えっ、なんでここにいるの?」
自転車置き場の柱の陰からのそっと佐伯が出てきた。
光岡は家から車で迎えに来ていた。光岡と別れ、塾帰りの薄暗い江村橋駅自転車置き場で、すっとんきょうな声を上げてしまった。
佐伯がいる。えっ、えっ。いないはずの人間がいるっていうのは、思った以上に驚く。驚いたっていうか。なんでここに? 幽霊? 生霊?
「本物?」
そう聞くと、「本物だよ。偽物ってあるのか」と佐伯が聞くので、つい「生霊かと思った」と言ったら、佐伯に鼻で笑われた。くそっ。
「お願いがあって」
お願い? 怖すぎるんだけど…。
「明日、一時保護施設に行くんだけど、どうしても家に取りに行きたいものがあってさ。一人だと心細くて。ついてきてくんない?」
だって、えっ。先生は? そっか。今日、普通に塾に来ていた。会って、授業受けたし。先生は佐伯のことだけを見ているわけじゃない。先生にも、学校や仕事がある。
「ちょっと…」と言葉をにごした。
「ねえ、先生は?」と聞くと、「たぶん止められるから言ってない」と返された。
そりゃそうだろ。あんな暴力的なお父さんに会わせられるわけがない。
「何を取りに行きたいのさ」
と、聞いた。今の佐伯に、自分の身体より大事なものなんてあるのだろうか。
「へ、へその緒と写真」
へその緒? あの何かひょろひょろっとしたきのこの軸みたいなもののことか。確かお腹の中でお母さんと赤ちゃんをつなぐもの。うちにもあって、リビングの引き出しに入れっぱなしなはず。あんなものが大切なんだ。けど、佐伯にとっては、別れたお母さんとつながっていた証なのかもしれない。
「お袋に大事にしなさいって言われてて、秘密の場所に隠してたんだけど。あれだけは持っていきたい」
「お父さん、大丈夫なの?」
「かなり怒ってるらしい。児童相談所が連絡したら、どなりちらしてたって。今日は夜勤なはず。今のうちなら取ってこれるかなって。一人じゃ怖いから、ついてきてくれない?」
大丈夫か? 佐伯、お前、危機意識ってあるか? 鉢合わせなんかしたら…。
「ヤバいだろ」
少し間があった。佐伯は、いつも大事なことを言う時、黙る。
「絶対に必要なんだ」
佐伯ってヘタレなのに、決めたら頑固ってなんだよね。ぼくみたいな柔軟性を身につけてくれ。ため息が出る。
「あきらめようよ。止めたほうがいい」
断念させるほうに持っていきたい。じゃないと、ぼくの身も危ない。
「あれだけは…。あれだけは必要なんだ。だって、買えるものじゃないから」
まあ、そうかもしれない。ぼくにとってみれば、どうってことないものだ。アレとの絆なんて、欲しくもない。けれど、佐伯にとって、心のよりどころなのだろう。覚悟がいるなあ。佐伯といると、何かしらトラブルの嵐に巻きこまれる。かなり不安だ。何かあったらどうしよう。けれど、一人にはできない。迷う。
でも、佐伯の真剣な目を見ると…、断れないよ。
「わかった。でも、すばやく行動だよ。どのくらい時間がかかるの?」
佐伯が嬉しそうに、「10分くらい」と、言った。
しょうがない。付き合ってやるよ。ぼくって優しい。
「ちょっと待って」
今さっき駅で別れた光岡に連絡を入れた。
「あのさ…」
10分後連絡がなかったら、警察と先生に連絡してもらうよう頼む。電話口で光岡に「まじ?」と開口一番に言われた。ぼくだってそう思う。けど、しょうがない。少しの辛抱だ。つきそいだけだけど…。
「行こう。レッツらゴーだ」
佐伯の家に向かった。
◇ ◇
「渋谷…」
歩き始めたとたん、佐伯が何か言いたそうにしている。
「あり…がとう。迷惑…かけた。もし渋谷がいなかったら、おれ、どうなっていたか…。お袋にも会えたし。小田切先生に助けてもらえるようになったし…」
おおげさな。お互いさまだ。
「別に迷惑じゃないよ。大変だけどさ、つきあって、色々自分のことやまわりのことがわかったし、よかったなって」
心からそう思ってる。
梅雨明けの風は、湿気を含んでいるせいか、もわっとしている。人
気の少ない住宅街の道を佐伯と二人でぽつぽつと歩いていく。自転車も乗って帰るのと違い、重く感じた。これから行く場所を考えれば、よけいにそう思えるのかもしれない。
ほの明るい月の光が、ぼくたち二人の影をうつしだしていた。
佐伯とこうやってしみじみ話すことって、ほとんどなかった。今まで忙しすぎたのだ。
「これから、大丈夫なのかな」
佐伯は、心配そうにぽつりと言った。
「大丈夫だと、簡単には言えない…。だけど、ぼくだけじゃなく、先生も光岡もいるし、なんとかなるんじゃない。これ以上は悪くならないとは思う。あのさ、ありがとな。『挑戦することは悪くない』って言ってくれて。あれでプラモやることにしたんだから」
「そっか、プラモか。おれも、またダンスがしたいな」
「やればいいじゃん。光岡のお兄さんに教えてもらえば? この間、一緒に踊ってたし」
背中を押されたぼくは、同じように佐伯の背中を押す。佐伯のダンスは、キレっていうのがあった。ポーズをとるとなんかさまになる。顔がいいだけじゃない。運動神経がいいだけじゃない。ぱっと目をひくんだ。佐伯、お前には才能あるよ。
「ん、けどさ、悪いよ」
「先生が、前に『プラモ仲間が増えて楽しい』って言ってたんだ。自分の好きなものを他人が好きなのって、嬉しいらしいよ」
そう、光岡に勉強を教えて、思った。時間のムダだって考えていたけど、自分の知識を人に教えることは面白いし、楽しい。教えることで、わかることも多い。
「…施設に行くから、たぶんできないん、じゃないかな…」
「隔離されるわけじゃないんだから、聞いてみれば? 先生にも相談のってもらってさ」
佐伯は何も言わない。恵まれていなくても、やりたいことはできるはず。方法は探せばきっと見つかるはずだ。道は探せば、どこかに通じてる。
「お母さんは?」
「あれからも中西さんに先生が連絡をとってくれてる、子どもを育てることができるかどうかは、今はビミョーだって」
そっか、病気だからな。それも心の病気だ。時間がかかるのかな。治ったら、一緒に暮らせるようになるのかなあ。子育てって大変なのかな。あんなひどい状況で、佐伯は自分のことは自分でやってたし、大丈夫じゃないか。佐伯がいたほうがきっとお母さんも元気になるはずなのに。
「そこは、様子を見ながらって言われた」
だから、お母さんとの絆がほしいのか。やっぱりへその緒と写真はゲットせにゃならんね。
「頼るんじゃなく、もっと大人になって、お袋に頼られるようにならなきゃ、きっと一緒に暮らせないって…思った」
そっか。ぼくも大人になりたい。理由はアレから逃れたいからだ。でも、佐伯は違う。すごい。一人で大人になるっていうだけじゃなく、親に頼られる大人になりたいなんて、簡単には言えない。
頼られるってパワーをもらえるんだな。他人のためだけじゃなく、自分のためになるんだ。
ふと、光岡がぼくに「勉強を教えて」と頼んできたことを思い出した。あのくすぐったいような、誇らしいような、あの気持ち…。だから、人に教えることが面白いのかも。頼られるから。
「佐伯ってすごいな」
それだけ言った。佐伯は、それ以上何も言わなかった。
それから、二人は黙って、あのひび割れた社宅を目指して歩いた。
家に帰ってきた瞬間、たたみかけるようにアレが話し始めた。最初、なぜ場所がわかるか謎だったけど、よくよく考えてみれば、GPS。切ることをすっかり忘れていた。
こっちは疲れているのに、文句かよ。アレは、ぼくを疑い、探偵みたいなことをしてたんだ。心配なんかしてないくせに。
「もういいじゃん。今日は勘弁」
と、いらいらしていたけど、なるべく冷静に言った。アレに謝れば、丸くおさまることはわかっている。でも、できなかった。
「何を言っているわけ? 説明しなさい! 一体どうしたの! そんな子じゃなかったじゃない」
最初から、そんないい子はいないんですけど、我慢していただけなんですけど。ヒリキで、すべてあきらめ、何も言わない渋谷ひびきは、うその自分なのだから。
「うるさいな。受験して、自慢できる学校に入るだけで我慢して。ぼくになんか興味なんかないくせに」
アレは、真っ赤な顔をしてにらみつけた。
「こんなにがんばってるのに、なぜそんなことを言うわけ! ひどい!」
何ががんばっているだ、うそつき。いつも自分が被害者なんだ。被害者は、ぼくだ。先生も教育虐待でネグレクトだって教えてくれた。もう黙ってるのは、やめだ。
「あんた、がんばってないよ。塾のみんなは、手作り弁当を持ってくるけど、一度も作ってくれたことなんてない。ぼくの好きな食べ物、知ってる? ぼくの好きなこと、知ってる? ぼくの友だち、知ってる? 知らないでしょ。聞いたこともないじゃん」
何を知ってるのさ。知ろうとも思ったことがないくせに。ぼくの努力に図々しく乗っかっているだけのくせに。子どもの気持ちなんて、考えたこともないくせに。アレは、目を白黒させ、言葉が出てこないようだった。
「もういやなんだ。自慢するのもやめて。自分の好きなことをすればいいよ。ぼくはぼくでやる。もうほうっておいて」
捨てゼリフを言って、リビングの扉を閉めた。ガスンという音が、家じゅうに鳴りひびいた。
やっと言えた。言いたいことを言った。もう親子じゃなくてもいい。関係は壊れていたんだから。ずっといやなことをいやと言えなかった。今回のことでそういう自分が嫌いだったことに気がついた。自分が自分でいるために、言いたいことを言う。そう決めたら、少し胸のつかえがとれたような気がした。
部屋のベッドに寝ころぶと自然と涙が出て、とまらなかった。空っぽの自分に涙という水がそそがれたような気がした。単純だけど、それが生きている証明なんだと思った。そして、これ以上何も考えられず、静かに目をつむった。
◇ ◇
そのまま寝落ちしてしまった。朝、起きると、雨戸が開いていて、リビングに明るい朝の光が差しこんでいた。アレは珍しく真っ赤な目をして、起きていた。いつも作りもしない、サラダや卵焼きがテーブルに並んでいた。そっか、機嫌をとっているつもりなんだ。
「反抗期なのね。少し頭を冷やしたら」
と、相変わらずの上から目線。アレは「おはよう」のあいさつもなく、それだけ言った。やっぱり反省する気なんてないんだ。何も変わってない。昨日のことをなかったことにするんだ。ぼくは黙って、いつものようにパンだけ食べて、家を出た。
アレとの関係はめちゃくちゃだけど、なんだか気分だけは落ち着いていた。
言いたいことが言えたせいなんだろうか。佐伯と会って、先生と話して、プラモを作って、光岡と会って、山梨と横浜に行った。それだけ。でも何か変わった。いつもの道を歩きながら、そんなことを考えていた。
学校に着くと、光岡がやって来て、塾の課題をどんとぼくの前に置いた。
「終わってない! 週末のプリントと休んでいた月曜分が残ってる。どうしよう」
と光岡がさわぐので、二人で休み時間に片づけようということになった。
ぼくはとうに終わらせている。しょうがない。
光岡のプリント地獄はえぐかった。半分は残っていた。日曜、何してたんだよ。二人でやったから、塾の授業までには、間に合う予定だ。
前の席に佐伯はいない。今は我慢。佐伯がお母さんと暮らせて、虐待から逃れられることが一番大切だ。きっとうまくいく。先生がいるんだから。
◇ ◇
そうして、2日ほどたった。アレとの関係はそのままだ。アレが一方的に言う。ぼくは何も言わない。自分の言いたいことを言おうと思ったけど、それはきちんと聞いてくれる人がいて初めて成り立つということがわかった。アレは、反抗期と決めつけ、自分の話なんて聞いてくれない。いわゆる冷戦状態ってやつだ。
塾で先生に会った。佐伯のことを聞くと、児童相談所に行き、そのまま一時預かりという処置になったそうだ。今は先生のところにいるけど、すぐに一時保護施設に行くらしい。
小学校に上がる前、相談所にお母さんが相談していたこともわかった。その時点で保護されていれば、こんな目にあわなかったのに。
そして、お母さんは、NPOの人の紹介で虐待専門のクリニックで治療することをなった。時間はかかるけど、少しずつ良い方向に進んでいると思いこんでいた。
時間はかかるかもしれないけど、先生がついているし、佐伯は大丈夫。そう思った。
◇ ◇
なんとなく示し合せたわけじゃないけど、光岡と一緒に塾から帰るようになった。駅からはお母さんが車で迎えに来てくれている。
「…謝らなきゃいけないことあるんだ」
光岡が、電車の中で、急に言った。
「公園で、渋谷と佐伯の話、聞くつもりなかったんだけど、けっこう聞いちゃったんだ。本当にごめん!」
と、頭を下げている。
蚊に刺されていた足。そっか、あの佐伯の告白を聞いていたんだ。
光岡は一生懸命サポートしてくれた。山梨にも、家族に反対されていたのに、一緒に来てくれた。まあ、そんなに役に立ったって感じじゃないけど、感謝はしている。
あの時、気がついていたら、ぼくは光岡を許していただろうか。
…たぶん、許してない。そうしたら、きっと佐伯とぼくは、違っていたかもしれない。やっぱり色々なものが重なって、ぼくたちはここにいる。
「あの時、すごいなって思ったんだ。だから、手伝いたいって」
「誰かに言った?」
光岡は、首を横にふった。
「言うわけないよ。言えるわけない」
そうだよな。光岡は、熱いけど、軽くはない。サービスエリアで光岡が言った言葉を思い出していた。
「気にしてない。反対にありがとな」
光岡は、ホッとしたような顔をした。
◇ ◇
「えっ、なんでここにいるの?」
自転車置き場の柱の陰からのそっと佐伯が出てきた。
光岡は家から車で迎えに来ていた。光岡と別れ、塾帰りの薄暗い江村橋駅自転車置き場で、すっとんきょうな声を上げてしまった。
佐伯がいる。えっ、えっ。いないはずの人間がいるっていうのは、思った以上に驚く。驚いたっていうか。なんでここに? 幽霊? 生霊?
「本物?」
そう聞くと、「本物だよ。偽物ってあるのか」と佐伯が聞くので、つい「生霊かと思った」と言ったら、佐伯に鼻で笑われた。くそっ。
「お願いがあって」
お願い? 怖すぎるんだけど…。
「明日、一時保護施設に行くんだけど、どうしても家に取りに行きたいものがあってさ。一人だと心細くて。ついてきてくんない?」
だって、えっ。先生は? そっか。今日、普通に塾に来ていた。会って、授業受けたし。先生は佐伯のことだけを見ているわけじゃない。先生にも、学校や仕事がある。
「ちょっと…」と言葉をにごした。
「ねえ、先生は?」と聞くと、「たぶん止められるから言ってない」と返された。
そりゃそうだろ。あんな暴力的なお父さんに会わせられるわけがない。
「何を取りに行きたいのさ」
と、聞いた。今の佐伯に、自分の身体より大事なものなんてあるのだろうか。
「へ、へその緒と写真」
へその緒? あの何かひょろひょろっとしたきのこの軸みたいなもののことか。確かお腹の中でお母さんと赤ちゃんをつなぐもの。うちにもあって、リビングの引き出しに入れっぱなしなはず。あんなものが大切なんだ。けど、佐伯にとっては、別れたお母さんとつながっていた証なのかもしれない。
「お袋に大事にしなさいって言われてて、秘密の場所に隠してたんだけど。あれだけは持っていきたい」
「お父さん、大丈夫なの?」
「かなり怒ってるらしい。児童相談所が連絡したら、どなりちらしてたって。今日は夜勤なはず。今のうちなら取ってこれるかなって。一人じゃ怖いから、ついてきてくれない?」
大丈夫か? 佐伯、お前、危機意識ってあるか? 鉢合わせなんかしたら…。
「ヤバいだろ」
少し間があった。佐伯は、いつも大事なことを言う時、黙る。
「絶対に必要なんだ」
佐伯ってヘタレなのに、決めたら頑固ってなんだよね。ぼくみたいな柔軟性を身につけてくれ。ため息が出る。
「あきらめようよ。止めたほうがいい」
断念させるほうに持っていきたい。じゃないと、ぼくの身も危ない。
「あれだけは…。あれだけは必要なんだ。だって、買えるものじゃないから」
まあ、そうかもしれない。ぼくにとってみれば、どうってことないものだ。アレとの絆なんて、欲しくもない。けれど、佐伯にとって、心のよりどころなのだろう。覚悟がいるなあ。佐伯といると、何かしらトラブルの嵐に巻きこまれる。かなり不安だ。何かあったらどうしよう。けれど、一人にはできない。迷う。
でも、佐伯の真剣な目を見ると…、断れないよ。
「わかった。でも、すばやく行動だよ。どのくらい時間がかかるの?」
佐伯が嬉しそうに、「10分くらい」と、言った。
しょうがない。付き合ってやるよ。ぼくって優しい。
「ちょっと待って」
今さっき駅で別れた光岡に連絡を入れた。
「あのさ…」
10分後連絡がなかったら、警察と先生に連絡してもらうよう頼む。電話口で光岡に「まじ?」と開口一番に言われた。ぼくだってそう思う。けど、しょうがない。少しの辛抱だ。つきそいだけだけど…。
「行こう。レッツらゴーだ」
佐伯の家に向かった。
◇ ◇
「渋谷…」
歩き始めたとたん、佐伯が何か言いたそうにしている。
「あり…がとう。迷惑…かけた。もし渋谷がいなかったら、おれ、どうなっていたか…。お袋にも会えたし。小田切先生に助けてもらえるようになったし…」
おおげさな。お互いさまだ。
「別に迷惑じゃないよ。大変だけどさ、つきあって、色々自分のことやまわりのことがわかったし、よかったなって」
心からそう思ってる。
梅雨明けの風は、湿気を含んでいるせいか、もわっとしている。人
気の少ない住宅街の道を佐伯と二人でぽつぽつと歩いていく。自転車も乗って帰るのと違い、重く感じた。これから行く場所を考えれば、よけいにそう思えるのかもしれない。
ほの明るい月の光が、ぼくたち二人の影をうつしだしていた。
佐伯とこうやってしみじみ話すことって、ほとんどなかった。今まで忙しすぎたのだ。
「これから、大丈夫なのかな」
佐伯は、心配そうにぽつりと言った。
「大丈夫だと、簡単には言えない…。だけど、ぼくだけじゃなく、先生も光岡もいるし、なんとかなるんじゃない。これ以上は悪くならないとは思う。あのさ、ありがとな。『挑戦することは悪くない』って言ってくれて。あれでプラモやることにしたんだから」
「そっか、プラモか。おれも、またダンスがしたいな」
「やればいいじゃん。光岡のお兄さんに教えてもらえば? この間、一緒に踊ってたし」
背中を押されたぼくは、同じように佐伯の背中を押す。佐伯のダンスは、キレっていうのがあった。ポーズをとるとなんかさまになる。顔がいいだけじゃない。運動神経がいいだけじゃない。ぱっと目をひくんだ。佐伯、お前には才能あるよ。
「ん、けどさ、悪いよ」
「先生が、前に『プラモ仲間が増えて楽しい』って言ってたんだ。自分の好きなものを他人が好きなのって、嬉しいらしいよ」
そう、光岡に勉強を教えて、思った。時間のムダだって考えていたけど、自分の知識を人に教えることは面白いし、楽しい。教えることで、わかることも多い。
「…施設に行くから、たぶんできないん、じゃないかな…」
「隔離されるわけじゃないんだから、聞いてみれば? 先生にも相談のってもらってさ」
佐伯は何も言わない。恵まれていなくても、やりたいことはできるはず。方法は探せばきっと見つかるはずだ。道は探せば、どこかに通じてる。
「お母さんは?」
「あれからも中西さんに先生が連絡をとってくれてる、子どもを育てることができるかどうかは、今はビミョーだって」
そっか、病気だからな。それも心の病気だ。時間がかかるのかな。治ったら、一緒に暮らせるようになるのかなあ。子育てって大変なのかな。あんなひどい状況で、佐伯は自分のことは自分でやってたし、大丈夫じゃないか。佐伯がいたほうがきっとお母さんも元気になるはずなのに。
「そこは、様子を見ながらって言われた」
だから、お母さんとの絆がほしいのか。やっぱりへその緒と写真はゲットせにゃならんね。
「頼るんじゃなく、もっと大人になって、お袋に頼られるようにならなきゃ、きっと一緒に暮らせないって…思った」
そっか。ぼくも大人になりたい。理由はアレから逃れたいからだ。でも、佐伯は違う。すごい。一人で大人になるっていうだけじゃなく、親に頼られる大人になりたいなんて、簡単には言えない。
頼られるってパワーをもらえるんだな。他人のためだけじゃなく、自分のためになるんだ。
ふと、光岡がぼくに「勉強を教えて」と頼んできたことを思い出した。あのくすぐったいような、誇らしいような、あの気持ち…。だから、人に教えることが面白いのかも。頼られるから。
「佐伯ってすごいな」
それだけ言った。佐伯は、それ以上何も言わなかった。
それから、二人は黙って、あのひび割れた社宅を目指して歩いた。
0
あなたにおすすめの小説
独占欲強めの最強な不良さん、溺愛は盲目なほど。
猫菜こん
児童書・童話
小さな頃から、巻き込まれで絡まれ体質の私。
中学生になって、もう巻き込まれないようにひっそり暮らそう!
そう意気込んでいたのに……。
「可愛すぎる。もっと抱きしめさせてくれ。」
私、最強の不良さんに見初められちゃったみたいです。
巻き込まれ体質の不憫な中学生
ふわふわしているけど、しっかりした芯の持ち主
咲城和凜(さきしろかりん)
×
圧倒的な力とセンスを持つ、負け知らずの最強不良
和凜以外に容赦がない
天狼絆那(てんろうきずな)
些細な事だったのに、どうしてか私にくっつくイケメンさん。
彼曰く、私に一目惚れしたらしく……?
「おい、俺の和凜に何しやがる。」
「お前が無事なら、もうそれでいい……っ。」
「この世に存在している言葉だけじゃ表せないくらい、愛している。」
王道で溺愛、甘すぎる恋物語。
最強不良さんの溺愛は、独占的で盲目的。
14歳で定年ってマジ!? 世界を変えた少年漫画家、再起のノート
谷川 雅
児童書・童話
この世界、子どもがエリート。
“スーパーチャイルド制度”によって、能力のピークは12歳。
そして14歳で、まさかの《定年》。
6歳の星野幸弘は、将来の夢「世界を笑顔にする漫画家」を目指して全力疾走する。
だけど、定年まで残された時間はわずか8年……!
――そして14歳。夢は叶わぬまま、制度に押し流されるように“退場”を迎える。
だが、そんな幸弘の前に現れたのは、
「まちがえた人間」のノートが集まる、不思議な図書室だった。
これは、間違えたままじゃ終われなかった少年たちの“再スタート”の物語。
描けなかった物語の“つづき”は、きっと君の手の中にある。
極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。
猫菜こん
児童書・童話
私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。
だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。
「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」
優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。
……これは一体どういう状況なんですか!?
静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん
できるだけ目立たないように過ごしたい
湖宮結衣(こみやゆい)
×
文武両道な学園の王子様
実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?
氷堂秦斗(ひょうどうかなと)
最初は【仮】のはずだった。
「結衣さん……って呼んでもいい?
だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」
「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」
「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、
今もどうしようもないくらい好きなんだ。」
……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。
クールな幼なじみの許嫁になったら、甘い溺愛がはじまりました
藤永ゆいか
児童書・童話
中学2年生になったある日、澄野星奈に許嫁がいることが判明する。
相手は、頭が良くて運動神経抜群のイケメン御曹司で、訳あって現在絶交中の幼なじみ・一之瀬陽向。
さらに、週末限定で星奈は陽向とふたり暮らしをすることになって!?
「俺と許嫁だってこと、絶対誰にも言うなよ」
星奈には、いつも冷たくてそっけない陽向だったが……。
「星奈ちゃんって、ほんと可愛いよね」
「僕、せーちゃんの彼氏に立候補しても良い?」
ある時から星奈は、バスケ部エースの水上虹輝や
帰国子女の秋川想良に甘く迫られるようになり、徐々に陽向にも変化が……?
「星奈は可愛いんだから、もっと自覚しろよ」
「お前のこと、誰にも渡したくない」
クールな幼なじみとの、逆ハーラブストーリー。
運よく生まれ変われたので、今度は思いっきり身体を動かします!
克全
児童書・童話
「第1回きずな児童書大賞」重度の心臓病のため、生まれてからずっと病院のベッドから動けなかった少年が12歳で亡くなりました。両親と両祖父母は毎日のように妾(氏神)に奇跡を願いましたが、叶えてあげられませんでした。神々の定めで、現世では奇跡を起こせなかったのです。ですが、記憶を残したまま転生させる事はできました。ほんの少しだけですが、運動が苦にならない健康な身体と神与スキルをおまけに付けてあげました。(氏神談)
生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
【完結】キスの練習相手は幼馴染で好きな人【連載版】
猫都299
児童書・童話
沼田海里(17)は幼馴染でクラスメイトの一井柚佳に恋心を抱いていた。しかしある時、彼女は同じクラスの桜場篤の事が好きなのだと知る。桜場篤は学年一モテる文武両道で性格もいいイケメンだ。告白する予定だと言う柚佳に焦り、失言を重ねる海里。納得できないながらも彼女を応援しようと決めた。しかし自信のなさそうな柚佳に色々と間違ったアドバイスをしてしまう。己の経験のなさも棚に上げて。
「キス、練習すりゃいいだろ? 篤をイチコロにするやつ」
秘密や嘘で隠されたそれぞれの思惑。ずっと好きだった幼馴染に翻弄されながらも、その本心に近付いていく。
※現在完結しています。ほかの小説が落ち着いた時等に何か書き足す事もあるかもしれません。(2024.12.2追記)
※「キスの練習相手は〜」「幼馴染に裏切られたので〜」「ダブルラヴァーズ〜」「やり直しの人生では〜」等は同じ地方都市が舞台です。(2024.12.2追記)
※小説家になろう、カクヨム、アルファポリス、ノベルアップ+、Nolaノベル、ツギクルに投稿しています。
※【応募版】を2025年11月4日からNolaノベルに投稿しています。現在修正中です。元の小説は各話の文字数がバラバラだったので、【応募版】は各話3500~4500文字程になるよう調節しました。67話(番外編を含む)→23話(番外編を含まない)になりました。
合言葉はサンタクロース~小さな街の小さな奇跡
辻堂安古市
絵本
一人の少女が募金箱に入れた小さな善意が、次々と人から人へと繋がっていきます。
仕事仲間、家族、孤独な老人、そして子供たち。手渡された優しさは街中に広がり、いつしか一つの合言葉が生まれました。
雪の降る寒い街で、人々の心に温かな奇跡が降り積もっていく、優しさの連鎖の物語です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる