虐げられ王女と忠誠の騎士〜運命を結ぶ婚約の物語〜

藤原遊

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広間に響くヴィクターの声は、低く落ち着いていた。
「私、ヴィクター・リオネルは、ルミナリエ王女様に求婚の意を申し上げます。」

その瞬間、静寂が広間を包み込んだ。儀式の進行を担っていた侍従たちは言葉を失い、周囲の貴族たちが一斉に息を呑む気配が伝わってくる。

「……求婚、だと?」
最初に口を開いたのは、玉座に座る王だった。驚きと戸惑いが入り混じった声が響く。

広間の隅では、王妃が微笑を浮かべている。柔らかな仕草で手元の扇をゆっくりと開きながら、その瞳は冷たく鋭い光を帯びていた。

「まあ、これは興味深い展開ですわね。」
静かに放たれたその言葉に、周囲の緊張がさらに高まった。

ルミナリエは、目の前の男を見つめたまま立ち尽くしていた。
彼の名を知っている。かつて没落した伯爵家の嫡子であり、戦場で功績を挙げた英雄。貴族の復帰を許され、再び名を成すことになった者――それがヴィクター・リオネル。だが、それ以上に、幼い頃の淡い記憶が、彼の姿に重なってくる。

けれど、その記憶だけでは、彼の行動の理由にはならない。彼はなぜ、この場で自分に求婚をしたのだろうか?

「なぜ……私なのです?」

静かに漏れたルミナリエの問いに、ヴィクターは迷うことなく顔を上げた。深い青の瞳が、真っ直ぐ彼女だけを見つめている。

「あなたを、守りたいからです。」

その言葉は強い意志を含みながらも、彼自身の心の奥底から出たものだった。だが、その返答は、彼女の胸の奥にくすぶる疑念を完全に拭い去るには足りなかった。

「守る? 私を?」

ルミナリエの声は、僅かに震えていた。その問いには、彼女が抱えてきた孤独と不信感が色濃く滲んでいた。

「あなたの求婚の理由は、私の瞳なのではないですか? それとも、この血筋が?」

その問いが響いた瞬間、広間全体が息を詰めた。貴族たちは互いに視線を交わしながら、ヴィクターの次の言葉を待っている。

「いいえ。」

ヴィクターの返答は簡潔だった。だが、その声には一点の迷いもなかった。

「私はただ、ルミナリエ様を守りたいのです。」

その言葉に広間が再びざわつく。
王妃が扇を閉じ、冷笑を浮かべながら言葉を紡いだ。

「守りたい、とおっしゃいますが、それが叶うためには多くの障害がありますわね。」

柔らかな声の裏に、明らかな棘が隠されていた。

「英雄とはいえ、貴族として復帰したばかりのあなたが、国の象徴たる王女を守り抜くことができるのかしら。」

ヴィクターは、王妃の言葉を受けてもなお表情を変えなかった。
「確かに、私はまだ未熟かもしれません。」

一拍置いてから、彼は言葉を続けた。
「ですが、それでも私は、誰よりも強くルミナリエ様を守りたいと願っています。幼い頃にお会いしたあの日から、私は――。」

言葉が途切れる。
彼の中で、あの日の記憶が鮮やかに蘇っていた。

小さな手を取り、光の瞳を初めて見たあの日。彼はその瞳の輝きに吸い込まれるように感じた。それは、ただの子供の憧れだったのかもしれない。だが、その記憶が彼をここまで導いたことは、確かな真実だった。

「――私はずっと、ルミナリエ様を守りたいと思い続けてきました。」

その告白に、広間の空気が再び凍りつくように静まり返った。
周囲にいる貴族たちは、ヴィクターの真剣な眼差しに言葉を失っている。
「守りたい」という言葉には、権力争いや計算とは無縁の純粋さが感じられた。だが、それだけに彼の行動は、彼らにとって理解しがたいものだった。

「……純粋、ですわね。」
王妃が微笑を浮かべ、わずかに冷たい声でそう言った。
「英雄と讃えられるあなたが、愛のために行動なさるとは。ですが――」

彼女は扇を畳みながら、言葉を続けた。
「ルミナリエ様がそれをどう受け止められるかは、また別の話ですわね。」

その言葉が、ルミナリエの胸に鋭く突き刺さった。
王妃の言葉には、常に隠された意図がある。彼女は、王宮内での力を確実なものにするため、ルミナリエを排除する機会を常に狙っている。今この場でのヴィクターの行動も、彼女にとって新たな道具に過ぎないのだろう。

「私は……」

ルミナリエは、微かに唇を震わせながら言葉を紡ぎかけた。
だが、その声はか細く、広間に響く前にかき消されてしまった。

ヴィクターが再び口を開く。
「ルミナリエ様。」

その低い声に、彼女は顔を上げた。
「私は、これまで戦場で何度も死地を乗り越えてきました。その理由は、ただの軍人としての義務ではありませんでした。あなたが……私にとって、守りたいと思える唯一の存在だったからです。」

ルミナリエの瞳が揺れる。
それは、彼の真剣な言葉を受け入れたい気持ちと、それでも信じられないという葛藤が、彼女の胸の中でせめぎ合っている証だった。

「それが本当だとして……なぜ今、この場で?」

彼女の問いは、深い戸惑いを含んでいた。彼が英雄として新たに伯爵として任命される場で、なぜこんな突拍子もない行動をするのか。その理由がわからない。

「この場だからこそ、伝えたかったのです。」

ヴィクターの言葉には迷いがなかった。
「私は、名誉や地位のためにここに立っているのではありません。この場であなたに求婚を申し上げることで、私の真剣さを証明したかった。それが、この広間にいるすべての者への答えでもあります。」

広間を包む沈黙が、さらに重くなった。
彼の言葉には何の隙もない。けれど、それが彼を批判する者たちにとっては、逆に焦燥感を煽るものだった。

「ルミナリエ様、私を信じてください。」

その言葉が、彼女の中の揺れる心に最後の一撃を与えた。
信じる――それが、彼女にとってどれほど困難なことか。

「……考えさせてください。」

それだけを言い残し、彼女は静かに広間を後にした。
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