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第2章 魔王軍の日常
第3話 優しい檻
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足を止めたのは、扉の向こうから聞こえた声のせいだった。
低く、抑えた調子。
それでも、聞き慣れた響きだったから、すぐに分かってしまった。
「……だから、危ないことはさせないでほしいの」
セラフィエル姉様の声だ。
思わず、息を殺す。
自分の足音が、石の床に響いていないかを確かめながら、リュシエルはその場に留まった。
「リュシーは、もう十分すぎるほど失っているわ。天使の国も、父様も母様も……それでも、まだ戦場に立たせる必要があるの?」
返答は、少し間を置いてから返ってきた。
魔王の声だった。
感情を抑えた、いつもの静かな調子。
「必要かどうかで言えば、ない。天使の回復能力は貴重だが、代替は効く」
一瞬、胸の奥が緩む。
けれど、次の言葉で、その感覚はすぐに消えた。
「だが、彼女が戦うことを選んでいる。それを否定する理由も、私にはない」
「……っ」
姉様の声が、わずかに震えた。
「でも……!」
「セラフィエル」
魔王は、穏やかに名を呼んだ。
「お前が怯える理由も分かる。もう家族を失いたくないのだろう」
言い当てられた沈黙が、重く落ちる。
その間に、別の声が重なった。
周囲に控えていた魔族たちだ。
「天使は、今や世界に五人しか残っていない」
「失われれば、取り戻せない存在だ」
「戦力以前に、象徴だ。危険に晒す意味はない」
誰も責めてはいなかった。
誰も敵意を向けてはいなかった。
――だからこそ。
リュシエルは、その場に立ち尽くしてしまった。
「……結論は変えない」
魔王の声が、再び響く。
「リュシエルの意思は尊重する。ただし――」
短く、区切る。
「護衛を増やす。戦場での配置は最安全域。単独行動は認めない」
それは、譲歩だった。
同時に、決定でもあった。
「……ありがとうございます」
姉様の声は、安堵と、まだ消えきらない不安が混じっていた。
それ以上、聞いてはいけない気がして、リュシエルは静かに踵を返した。
足音を立てないように、息を整えながら、その場を離れる。
自室に戻り、扉を閉めてから、ようやく深く息を吐いた。
胸の奥が、妙に重い。
守られている。
それは事実だ。
姉様は、正しい。
魔族たちの判断も、合理的だ。
魔王の決定も、為政者として間違っていない。
――なのに。
椅子に腰を下ろし、指先を見つめる。
戦場で血を浴び、回復を重ねてきた手だ。
「……戦わなくていい」
姉様の言葉が、頭の中で反響する。
優しさだ。
恐怖からくる、切実な願いだ。
分かっている。
自分は、天使としては、少し歪んでいるのだと。
多くの天使は、護られることを当然と受け入れる。
誰かに委ね、誰かの判断に従い、争いから距離を取る。
それが、天使らしさなのだ。
けれど、自分は違う。
判断したい。
危険も引き受けたい。
結果がどうなろうと、自分で選んだと思いたい。
魔王軍の護りは、完璧だった。
管理され、配置され、最適化されている。
回復役としては、理想的な運用だ。
無駄がなく、安全で、損耗も最小限。
それなのに――息が詰まる。
戦場に立っているはずなのに、当事者ではない。
決断の輪の、少し外側に置かれている感覚。
その違和感の正体を、リュシエルはゆっくりと言葉にしていく。
ここでは、守られている。
けれど、信じられてはいない。
――違う。
信じられていない、のではない。
委ねられていないのだ。
そこで、ふと、思い出してしまう。
黒髪の勇者の背中を。
前に出るとき、必ず一歩遅れてついてくる影を。
危ないと、言ったことはある。
無茶だと、眉をひそめたこともある。
それでも。
「やめろ」とは、言わなかった。
「下がれ」と、命じたこともない。
自分が前に出ることを、最初から織り込んだ動きで、後ろに立っていた。
守っていた。
でも、縛らなかった。
判断を奪わなかった。
合わせてくれた、のではない。
自分がそう動く前提で、すでに成立していた。
「……扱いづらい相棒だったはずなのに」
思わず、そんな言葉が零れる。
それが、少しだけ可笑しくて、少しだけ苦しかった。
この気づきが、何を意味するのか。
今は、まだ、結論を出さない。
ただ、胸の奥に、静かに残る。
ベルは――
最も、自分に合わせられていた人だったのだと。
低く、抑えた調子。
それでも、聞き慣れた響きだったから、すぐに分かってしまった。
「……だから、危ないことはさせないでほしいの」
セラフィエル姉様の声だ。
思わず、息を殺す。
自分の足音が、石の床に響いていないかを確かめながら、リュシエルはその場に留まった。
「リュシーは、もう十分すぎるほど失っているわ。天使の国も、父様も母様も……それでも、まだ戦場に立たせる必要があるの?」
返答は、少し間を置いてから返ってきた。
魔王の声だった。
感情を抑えた、いつもの静かな調子。
「必要かどうかで言えば、ない。天使の回復能力は貴重だが、代替は効く」
一瞬、胸の奥が緩む。
けれど、次の言葉で、その感覚はすぐに消えた。
「だが、彼女が戦うことを選んでいる。それを否定する理由も、私にはない」
「……っ」
姉様の声が、わずかに震えた。
「でも……!」
「セラフィエル」
魔王は、穏やかに名を呼んだ。
「お前が怯える理由も分かる。もう家族を失いたくないのだろう」
言い当てられた沈黙が、重く落ちる。
その間に、別の声が重なった。
周囲に控えていた魔族たちだ。
「天使は、今や世界に五人しか残っていない」
「失われれば、取り戻せない存在だ」
「戦力以前に、象徴だ。危険に晒す意味はない」
誰も責めてはいなかった。
誰も敵意を向けてはいなかった。
――だからこそ。
リュシエルは、その場に立ち尽くしてしまった。
「……結論は変えない」
魔王の声が、再び響く。
「リュシエルの意思は尊重する。ただし――」
短く、区切る。
「護衛を増やす。戦場での配置は最安全域。単独行動は認めない」
それは、譲歩だった。
同時に、決定でもあった。
「……ありがとうございます」
姉様の声は、安堵と、まだ消えきらない不安が混じっていた。
それ以上、聞いてはいけない気がして、リュシエルは静かに踵を返した。
足音を立てないように、息を整えながら、その場を離れる。
自室に戻り、扉を閉めてから、ようやく深く息を吐いた。
胸の奥が、妙に重い。
守られている。
それは事実だ。
姉様は、正しい。
魔族たちの判断も、合理的だ。
魔王の決定も、為政者として間違っていない。
――なのに。
椅子に腰を下ろし、指先を見つめる。
戦場で血を浴び、回復を重ねてきた手だ。
「……戦わなくていい」
姉様の言葉が、頭の中で反響する。
優しさだ。
恐怖からくる、切実な願いだ。
分かっている。
自分は、天使としては、少し歪んでいるのだと。
多くの天使は、護られることを当然と受け入れる。
誰かに委ね、誰かの判断に従い、争いから距離を取る。
それが、天使らしさなのだ。
けれど、自分は違う。
判断したい。
危険も引き受けたい。
結果がどうなろうと、自分で選んだと思いたい。
魔王軍の護りは、完璧だった。
管理され、配置され、最適化されている。
回復役としては、理想的な運用だ。
無駄がなく、安全で、損耗も最小限。
それなのに――息が詰まる。
戦場に立っているはずなのに、当事者ではない。
決断の輪の、少し外側に置かれている感覚。
その違和感の正体を、リュシエルはゆっくりと言葉にしていく。
ここでは、守られている。
けれど、信じられてはいない。
――違う。
信じられていない、のではない。
委ねられていないのだ。
そこで、ふと、思い出してしまう。
黒髪の勇者の背中を。
前に出るとき、必ず一歩遅れてついてくる影を。
危ないと、言ったことはある。
無茶だと、眉をひそめたこともある。
それでも。
「やめろ」とは、言わなかった。
「下がれ」と、命じたこともない。
自分が前に出ることを、最初から織り込んだ動きで、後ろに立っていた。
守っていた。
でも、縛らなかった。
判断を奪わなかった。
合わせてくれた、のではない。
自分がそう動く前提で、すでに成立していた。
「……扱いづらい相棒だったはずなのに」
思わず、そんな言葉が零れる。
それが、少しだけ可笑しくて、少しだけ苦しかった。
この気づきが、何を意味するのか。
今は、まだ、結論を出さない。
ただ、胸の奥に、静かに残る。
ベルは――
最も、自分に合わせられていた人だったのだと。
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