愛を選んだ夫と離縁しました。本物の聖女である私は娘と南国で暮らします

藤原遊

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第5話「最初の揺らぎ」

朝の市場は、いつもより声が低かった。

野菜籠の前で値札を書き直していた商人が、顔をしかめる。

「昨日よりまた上がったぞ」

隣の店主が肩をすくめた。

「南西部の街道で魔物が出たらしい。小規模らしいが、護衛が足りんとさ」

大騒ぎになるほどの話ではない。死者も出ていない。ただ、馬車が一台襲われ、交易路の一部が通行制限になったというだけだ。それでも、値はじわじわと動く。噂は声を荒げず、しかし確実に広がっていく。

王宮の執務室でも、同じ報せが届いていた。

「南西部より護衛隊増員の要請が三件。商人組合からも不安の申し出がございます」

侍従長が淡々と読み上げる。窓の外では、結界の光が変わらぬ輝きで王都を包んでいる。目に見える異変はない。

だが、魔導士団の控え室では、机に広げられた記録が別のことを示していた。

羊皮紙に刻まれた結界の調律波は、以前のようななだらかな曲線ではない。ほんのわずかではあるが、凹みと揺れが増えている。

「就任後から、落ちています」

若い魔導士が声を抑えて言う。

年長の魔導士が指先で波形をなぞった。

「偶然と言える範囲か?」

「言い切るには、数が揃いすぎています」

沈黙が落ちる。

結界は崩れていない。王都も守られている。ただ、補助調律の回数は増え、夜間の当直も増員された。交代制を組み直したことで表立った混乱はないが、疲労は確実に積み重なっている。

「公にすれば、殿下の顔を潰すことになる」

「隠せば、現場が回らん」

どちらを選んでも軋みは残る。

午後、その記録は王太子のもとへ上げられた。

セドリックは報告書を最後まで読み、静かに机へ置く。

「魔物の増減には周期がある」

「ですが、結界の波形は――」

「移行期だ」

言葉は迷いなく続いた。

「聖女が変われば、結界も馴染むまで時間がかかる。恐れは愛を曇らせる」

控えていた魔導士は視線を落とす。

「偶然では片づけにくい数値です」

「恐れるな。女神は試しているのだ。信じる者を」

声は穏やかで、揺らぎがない。だが部屋の空気は軽くならなかった。

報告を終えて廊下に出ると、魔導士は小さく息を吐く。

「王が戻れば……」

呟きは石壁に吸い込まれる。

塔の上で、結界の光がかすかに波打つ。市場では、また一枚の値札が書き換えられた。

まだ誰も、崩れたとは言わない。

それでも、揺らぎは確かに広がっている。
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