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第一部 幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります
第9話 婚約者よりも目立つ贈り物
王都では、夜会が終わった翌日から噂が動き始める。
どの家が誰を伴っていたか、誰と何を話していたか、どの宝飾品を身につけていたか。社交界は華やかに見えて、その実、細かな記憶の積み重ねでできていた。
昼下がり、リシェルは侯爵家の応接間で招待客への礼状を確認していた。
窓辺には淡いクリーム色の薔薇が活けられ、磨かれた机の上には封蝋前の手紙が整然と並んでいる。ヴィオレッタ侯爵夫人は別室で客を迎えており、今はリシェル一人だった。
そこへ、侍女が新しい包みを運んでくる。
「こちら、今朝フィオナ様宛てに届いたものです」
「侯爵家名義で?」
「いえ……エドワード様から、と」
侍女は少しだけ言葉を選んだ。
リシェルは視線を上げる。
包みは濃紺の箱に銀糸のリボンが掛けられている。王都でも名の通った宝飾店の紋章が刻まれていた。
扉が開き、明るい声が響く。
「まあ、届いたのですね!」
フィオナだった。
今日は淡い藤色のドレスを着ている。誕生日会の余韻がまだ抜けていないのか、足取りも軽かった。
「開けても?」
「ああ、もちろん」
後ろから現れたエドワードが笑う。
フィオナは嬉しそうにリボンをほどいた。箱の中から現れたのは、細工の細やかなサファイアの首飾りだった。中央の石は小さいが透明度が高く、午後の日差しを受けて深い青が揺れる。
「綺麗……」
フィオナは息を弾ませる。
「こんな素敵なもの、いただいてしまっていいのですか?」
「誕生日祝いだ。前から青が似合うと思っていたからな」
エドワードは自然な口調で答えた。
そのやり取りを、侍女たちは静かに目を伏せながら聞いている。
王都の高級宝飾店の品は、誰が見ても分かる。特別親しい間柄でなければ贈らない価格帯だった。
「つけてみても?」
「手伝おうか」
エドワードはそう言ってフィオナの後ろへ回る。
細い鎖を留めるため、彼の指先が彼女の髪をそっと払った。
リシェルは、机上の礼状へ視線を戻す。まだ乾ききっていないインクが、窓からの光を受けてわずかに艶を残していた。
「似合いますか?」
フィオナがこちらを振り返る。
サファイアは確かによく似合っていた。淡い藤色の布地の上で、青が綺麗に映えている。
「とてもお似合いです」
リシェルが答えると、フィオナは嬉しそうに笑った。
「エドワード様、ありがとうございます。私、一生大切にします」
「そこまで大げさに考えなくていい」
「でも、本当に嬉しくて……」
その時、廊下の向こうから数人の令嬢の声が近づいてきた。
今日の午後は、侯爵夫人主催の小規模な茶会が予定されている。招かれているのは親しい家柄の令嬢たちだった。
扉が開くと、入ってきた令嬢たちの視線が、すぐフィオナの首元へ向いた。
「あら……」
「まあ、素敵」
賞賛の声は上がったが、そのあとに続く沈黙が少し長い。
侯爵家の令息が、乳兄妹へ贈った品としては目立ちすぎていた。
一人の令嬢が微笑みながら尋ねる。
「エドワード様からのお祝いですの?」
「はい」
フィオナは悪びれず頷いた。
「毎年いただいているのですけれど、今年は特に綺麗で……」
「そうでしたの」
令嬢たちは笑顔を崩さない。
けれど、その視線が一度だけリシェルへ流れる。
婚約者へ贈る品ではなく、乳兄妹への贈り物として語るには、あまりに高価だった。
エドワードは、その空気に気づいていない様子で言う。
「フィオナは遠慮するから、形にしないと受け取らないんだ」
「そんなことありません」
「いや、本当だ。昔からそうだった」
親しげな会話が続く。
令嬢たちは相槌を打ちながら席へ着いたが、茶器を持つ手はどこか慎重だった。
リシェルは給仕へ目配せし、場が止まらないよう茶会を進めていく。
焼き菓子を勧め、話題を花の展覧会へ移し、沈黙が落ちる前に別の令嬢へ声をかける。誰も困らないよう整えながら、自分の前の紅茶にはほとんど口をつけなかった。
「リシェル様は本当に気配りがお上手ですね」
年長の令嬢が感心したように言う。
「ヴィオレッタ様が信頼なさるのも分かります」
「恐れ入ります」
リシェルが穏やかに返す横で、フィオナは首飾りへそっと触れていた。
「でも、こういう石って緊張してしまいます。私にはもったいない気がして」
「似合っているから問題ない」
エドワードは迷いなく答える。
その言葉に、向かいの令嬢がティーカップを置く音が、わずかに強く響いた。
茶会が終わったあと、客人たちは丁寧に礼を述べながら帰っていった。
最後の馬車が門を出た頃、ヴィオレッタ侯爵夫人が応接間へ戻ってくる。
机の上には、片づけられた茶器と、フィオナが外した首飾りの箱が残っていた。
侯爵夫人は箱を一瞥し、それから息子を見る。
「エドワード。あの品は、あなた個人の判断で贈ったのですね」
「はい」
「侯爵家の次期当主としてではなく?」
「ただの誕生日祝いです」
ヴィオレッタ侯爵夫人はすぐには返さなかった。
開かれたままの箱の中で、サファイアが静かに光っている。
「社交界は、あなたが思うほど単純ではありません」
「またその話ですか」
エドワードは少し疲れたように笑った。
「母上も周囲も、考えすぎです。フィオナは家族同然なんですよ」
その言葉を聞きながら、リシェルは冷めかけた紅茶へ手を伸ばした。
もう香りは薄くなっている。
それでも口をつけると、向かい側でヴィオレッタ侯爵夫人の扇が、静かに閉じられる音がした。
どの家が誰を伴っていたか、誰と何を話していたか、どの宝飾品を身につけていたか。社交界は華やかに見えて、その実、細かな記憶の積み重ねでできていた。
昼下がり、リシェルは侯爵家の応接間で招待客への礼状を確認していた。
窓辺には淡いクリーム色の薔薇が活けられ、磨かれた机の上には封蝋前の手紙が整然と並んでいる。ヴィオレッタ侯爵夫人は別室で客を迎えており、今はリシェル一人だった。
そこへ、侍女が新しい包みを運んでくる。
「こちら、今朝フィオナ様宛てに届いたものです」
「侯爵家名義で?」
「いえ……エドワード様から、と」
侍女は少しだけ言葉を選んだ。
リシェルは視線を上げる。
包みは濃紺の箱に銀糸のリボンが掛けられている。王都でも名の通った宝飾店の紋章が刻まれていた。
扉が開き、明るい声が響く。
「まあ、届いたのですね!」
フィオナだった。
今日は淡い藤色のドレスを着ている。誕生日会の余韻がまだ抜けていないのか、足取りも軽かった。
「開けても?」
「ああ、もちろん」
後ろから現れたエドワードが笑う。
フィオナは嬉しそうにリボンをほどいた。箱の中から現れたのは、細工の細やかなサファイアの首飾りだった。中央の石は小さいが透明度が高く、午後の日差しを受けて深い青が揺れる。
「綺麗……」
フィオナは息を弾ませる。
「こんな素敵なもの、いただいてしまっていいのですか?」
「誕生日祝いだ。前から青が似合うと思っていたからな」
エドワードは自然な口調で答えた。
そのやり取りを、侍女たちは静かに目を伏せながら聞いている。
王都の高級宝飾店の品は、誰が見ても分かる。特別親しい間柄でなければ贈らない価格帯だった。
「つけてみても?」
「手伝おうか」
エドワードはそう言ってフィオナの後ろへ回る。
細い鎖を留めるため、彼の指先が彼女の髪をそっと払った。
リシェルは、机上の礼状へ視線を戻す。まだ乾ききっていないインクが、窓からの光を受けてわずかに艶を残していた。
「似合いますか?」
フィオナがこちらを振り返る。
サファイアは確かによく似合っていた。淡い藤色の布地の上で、青が綺麗に映えている。
「とてもお似合いです」
リシェルが答えると、フィオナは嬉しそうに笑った。
「エドワード様、ありがとうございます。私、一生大切にします」
「そこまで大げさに考えなくていい」
「でも、本当に嬉しくて……」
その時、廊下の向こうから数人の令嬢の声が近づいてきた。
今日の午後は、侯爵夫人主催の小規模な茶会が予定されている。招かれているのは親しい家柄の令嬢たちだった。
扉が開くと、入ってきた令嬢たちの視線が、すぐフィオナの首元へ向いた。
「あら……」
「まあ、素敵」
賞賛の声は上がったが、そのあとに続く沈黙が少し長い。
侯爵家の令息が、乳兄妹へ贈った品としては目立ちすぎていた。
一人の令嬢が微笑みながら尋ねる。
「エドワード様からのお祝いですの?」
「はい」
フィオナは悪びれず頷いた。
「毎年いただいているのですけれど、今年は特に綺麗で……」
「そうでしたの」
令嬢たちは笑顔を崩さない。
けれど、その視線が一度だけリシェルへ流れる。
婚約者へ贈る品ではなく、乳兄妹への贈り物として語るには、あまりに高価だった。
エドワードは、その空気に気づいていない様子で言う。
「フィオナは遠慮するから、形にしないと受け取らないんだ」
「そんなことありません」
「いや、本当だ。昔からそうだった」
親しげな会話が続く。
令嬢たちは相槌を打ちながら席へ着いたが、茶器を持つ手はどこか慎重だった。
リシェルは給仕へ目配せし、場が止まらないよう茶会を進めていく。
焼き菓子を勧め、話題を花の展覧会へ移し、沈黙が落ちる前に別の令嬢へ声をかける。誰も困らないよう整えながら、自分の前の紅茶にはほとんど口をつけなかった。
「リシェル様は本当に気配りがお上手ですね」
年長の令嬢が感心したように言う。
「ヴィオレッタ様が信頼なさるのも分かります」
「恐れ入ります」
リシェルが穏やかに返す横で、フィオナは首飾りへそっと触れていた。
「でも、こういう石って緊張してしまいます。私にはもったいない気がして」
「似合っているから問題ない」
エドワードは迷いなく答える。
その言葉に、向かいの令嬢がティーカップを置く音が、わずかに強く響いた。
茶会が終わったあと、客人たちは丁寧に礼を述べながら帰っていった。
最後の馬車が門を出た頃、ヴィオレッタ侯爵夫人が応接間へ戻ってくる。
机の上には、片づけられた茶器と、フィオナが外した首飾りの箱が残っていた。
侯爵夫人は箱を一瞥し、それから息子を見る。
「エドワード。あの品は、あなた個人の判断で贈ったのですね」
「はい」
「侯爵家の次期当主としてではなく?」
「ただの誕生日祝いです」
ヴィオレッタ侯爵夫人はすぐには返さなかった。
開かれたままの箱の中で、サファイアが静かに光っている。
「社交界は、あなたが思うほど単純ではありません」
「またその話ですか」
エドワードは少し疲れたように笑った。
「母上も周囲も、考えすぎです。フィオナは家族同然なんですよ」
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