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雨上がりの空はまだ曇りがちで、空気にはほんの僅かに土の匂いが残っていた。
侯爵家の書斎に差し込む光は鈍く、灰に濁った朝の色を映している。
アランは机上に並べた資料を、指先でなぞるように読み返していた。
医師の記録。侍女の手紙。そして、薬瓶に刻まれた投薬履歴。
すべてが示していたのは、ある種の“見殺し”だった。
計算された沈黙。
意図的な怠慢。
――そして、それを覆い隠すような、誰かの手のひら。
「……これだけ揃えば、もう言い逃れはできない」
思わず漏らした独白は、誰にも聞かれることなく霧散していった。
エルヴェール公爵邸の応接間は、変わらず重々しい沈黙に包まれていた。
大理石の床に敷かれた絨毯。
昼なお薄暗い窓辺の光。
そして、正面に座る男――アナスタシアの父である公爵は、重たい沈黙の中にいた。
アランは資料の束を無言で広げ、一枚ずつ、順を追って机に並べてゆく。
「こちら、侍女の証言です。“ご本妻様のお加減など、私には関係ない”と、奥方が幾度となく仰っていたと」
公爵の眉が僅かに動く。だが、それ以上は何も反応しない。
「医師の記録とも照らし合わせました。決定的ではないにせよ、投薬のタイミングと医療判断の遅れには、明確な矛盾があります」
彼は間をおかず、続けた。
「そして……これらすべてが、“あの時期”に集中していることも、決して偶然ではないはずです」
一度、深く息を吸ってから、アランは公爵を正面から見据えた。
「お忘れではないと思いますが――フロリナ様は、他国の王女であり、王家からの正式な外交使節として貴家に嫁がれた方です」
その言葉に、公爵のまぶたがわずかに揺れた。
「……そのような方を、正妻として迎えながら、体調不良に目を瞑り、奥方の冷淡な態度を看過し、ついには――」
言葉を一拍、飲み込む。だが、止めなかった。
「……外交問題になるとは、お考えになりませんでしたか?」
応接間の空気が、瞬時に緊張を孕む。
「私の母が属する王弟家にも、当時、陛下経由で非公式な文書が届いたことを覚えています。“エルヴェール家では、王女が軽んじられているのでは”と。……あれがどういう意味だったのか、ようやく今、腑に落ちました」
それは、過去の曖昧な記憶が輪郭を帯びた瞬間だった。
「公爵。あなたは、娘君をどうなさりたいのですか」
アランは、あえて“アナスタシア”という名を口にしなかった。
そうすることで、この問いが“私的な感情”ではなく“家としての責任”だということを強調する。
「何も知らぬ少女が、あのような扱いを受けてきたと、あなたは本当に思っておられるのですか。見て見ぬふりができるのですか」
「……」
公爵は答えなかった。
口元に手を当てたまま、ただ視線だけがわずかに泳いでいる。
「ご自身の娘にあれほど冷淡でいられた理由も、私は理解しかねます」
その言葉には、かすかな怒気が滲んでいた。
アナスタシアを傷つけた者への怒り。そして、それを放置してきた父親への怒り。
ようやく、公爵が重く口を開いた。
「……彼女は、確かに他国から迎えた、大切な“妻”だった。だが……私には、もはや、何が正しかったのか分からない」
言葉の端に、微かな疲弊が見え隠れする。
それは、責任から逃れる者の言い訳にも、後悔に沈む者の声にも聞こえた。
アランは何も言わなかった。
ただ、公爵のその言葉が“沈黙”として記憶に刻まれた。
部屋の窓の外で、風が庭木を揺らす音が微かに聞こえた。
問いかける者と、沈黙する者。
それが、今この部屋に確かに存在した、唯一の対話だった。
侯爵家の書斎に差し込む光は鈍く、灰に濁った朝の色を映している。
アランは机上に並べた資料を、指先でなぞるように読み返していた。
医師の記録。侍女の手紙。そして、薬瓶に刻まれた投薬履歴。
すべてが示していたのは、ある種の“見殺し”だった。
計算された沈黙。
意図的な怠慢。
――そして、それを覆い隠すような、誰かの手のひら。
「……これだけ揃えば、もう言い逃れはできない」
思わず漏らした独白は、誰にも聞かれることなく霧散していった。
エルヴェール公爵邸の応接間は、変わらず重々しい沈黙に包まれていた。
大理石の床に敷かれた絨毯。
昼なお薄暗い窓辺の光。
そして、正面に座る男――アナスタシアの父である公爵は、重たい沈黙の中にいた。
アランは資料の束を無言で広げ、一枚ずつ、順を追って机に並べてゆく。
「こちら、侍女の証言です。“ご本妻様のお加減など、私には関係ない”と、奥方が幾度となく仰っていたと」
公爵の眉が僅かに動く。だが、それ以上は何も反応しない。
「医師の記録とも照らし合わせました。決定的ではないにせよ、投薬のタイミングと医療判断の遅れには、明確な矛盾があります」
彼は間をおかず、続けた。
「そして……これらすべてが、“あの時期”に集中していることも、決して偶然ではないはずです」
一度、深く息を吸ってから、アランは公爵を正面から見据えた。
「お忘れではないと思いますが――フロリナ様は、他国の王女であり、王家からの正式な外交使節として貴家に嫁がれた方です」
その言葉に、公爵のまぶたがわずかに揺れた。
「……そのような方を、正妻として迎えながら、体調不良に目を瞑り、奥方の冷淡な態度を看過し、ついには――」
言葉を一拍、飲み込む。だが、止めなかった。
「……外交問題になるとは、お考えになりませんでしたか?」
応接間の空気が、瞬時に緊張を孕む。
「私の母が属する王弟家にも、当時、陛下経由で非公式な文書が届いたことを覚えています。“エルヴェール家では、王女が軽んじられているのでは”と。……あれがどういう意味だったのか、ようやく今、腑に落ちました」
それは、過去の曖昧な記憶が輪郭を帯びた瞬間だった。
「公爵。あなたは、娘君をどうなさりたいのですか」
アランは、あえて“アナスタシア”という名を口にしなかった。
そうすることで、この問いが“私的な感情”ではなく“家としての責任”だということを強調する。
「何も知らぬ少女が、あのような扱いを受けてきたと、あなたは本当に思っておられるのですか。見て見ぬふりができるのですか」
「……」
公爵は答えなかった。
口元に手を当てたまま、ただ視線だけがわずかに泳いでいる。
「ご自身の娘にあれほど冷淡でいられた理由も、私は理解しかねます」
その言葉には、かすかな怒気が滲んでいた。
アナスタシアを傷つけた者への怒り。そして、それを放置してきた父親への怒り。
ようやく、公爵が重く口を開いた。
「……彼女は、確かに他国から迎えた、大切な“妻”だった。だが……私には、もはや、何が正しかったのか分からない」
言葉の端に、微かな疲弊が見え隠れする。
それは、責任から逃れる者の言い訳にも、後悔に沈む者の声にも聞こえた。
アランは何も言わなかった。
ただ、公爵のその言葉が“沈黙”として記憶に刻まれた。
部屋の窓の外で、風が庭木を揺らす音が微かに聞こえた。
問いかける者と、沈黙する者。
それが、今この部屋に確かに存在した、唯一の対話だった。
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∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
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