ほとりのカフェ

藤原遊

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佐藤颯太は、勉強が嫌いだったわけではない。ただ、英語だけは別だった。言葉の意味が分からない。発音も恥ずかしい。授業で指名されて答えられなかった日のことを思い出すと、顔が赤くなる。学校から帰る途中、英語で書かれた看板や外国人が笑い合う姿を見ると、なぜだか自分だけ取り残されている気がして、目をそらしてしまう。

そんな彼が「ほとりのカフェ」を訪れたのは、友人に誘われたからだった。いつもなら家でゲームをして過ごす土曜の午後。今日は何となく、誘いを断る気になれなかった。

扉を開けた瞬間、コーヒーの香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。それはどこか落ち着かせる力があるようで、颯太の心の中の小さな緊張をほぐしてくれるようだった。木のぬくもりを感じるテーブルや、窓から差し込む柔らかな日差しが店内を包んでいる。窓の外には小川原湖が広がり、その穏やかな湖面が光を反射して輝いていた。

「いらっしゃい。初めてだね?」
店主の康平が、カウンター越しに声をかける。

「カフェラテでいい?」
その問いかけに、颯太は少し戸惑いながら頷いた。友人たちはメニューを眺めながら楽しそうに話しているが、颯太はその輪に入らず、先に席を探して窓際に腰を下ろした。

「はい、カフェラテ。」
康平が手際よく淹れたカフェラテを持ってきた。湯気の立つカップを受け取ると、その温かさが手のひらに伝わってきた。

颯太はそっと一口飲んでみる。口に広がるほろ苦さと、ほんのりとしたミルクの甘さが絶妙だった。普段はコンビニの甘い飲み物しか飲まない颯太にとって、この味は大人びていて、少し特別な気がした。

「どう?美味しいでしょ。」
康平が笑顔で尋ねると、颯太は小さく頷いた。なんだか恥ずかしくて、視線をカップに落とす。

しばらくして、颯太の隣の席に外国人女性が座った。彼女はノートに何かを書き込みながら、時折窓の外を眺めていた。その様子が気になった颯太は、こっそりと視線を向ける。すると、その女性が突然顔を上げて笑顔を向けてきた。

「ハロー。初めて会うわね。」
ぎこちない日本語で話しかけてくるその女性に、颯太は一瞬固まった。

「あ……こんにちは。」
声を出したものの、自分がちゃんと挨拶できているのか分からず、少し緊張する。

「私はキャサリン。英語の先生。あなた?」
彼女は親しげな笑顔を浮かべながら手を差し出してきた。その自然な仕草に、颯太は戸惑いながらも「佐藤颯太です」と名乗り、手を握った。

キャサリンはしばらく颯太に話しかけ続けた。英語の簡単な挨拶や、自分のことについて話しながら、颯太のこともたくさん質問してきた。

「英語、好きじゃない?」
キャサリンが優しく尋ねると、颯太は少し顔をしかめた。

「苦手です……発音とか、分からないし。」
そう答えると、キャサリンはふふっと笑った。

「私も日本語、難しい。でも、楽しいでしょ?少しずつ。」
彼女はそう言うと、カフェラテを一口飲み、柔らかな笑顔を浮かべた。その表情は、颯太にとって何か特別なものに思えた。

しばらくして、康平が「焼きたてのアップルパイです」と言って、小さな皿を颯太のテーブルに置いた。

「これ、食べてみて。」
颯太はおそるおそる一口かじる。甘く煮たリンゴのジューシーさと、サクサクのパイ生地が口の中で混ざり合い、驚くほど美味しかった。

「うまい……」
思わず呟いた言葉に、康平が「そうでしょ」と笑顔を浮かべる。

キャサリンはそんな彼を見て、「食べるのも、言葉も、どちらも楽しまないとね」と微笑んだ。

カフェを出る頃、颯太は少しだけ気持ちが軽くなっていた。カフェラテやアップルパイの美味しさももちろんだが、キャサリンの言葉がどこか心に響いていた。

次に訪れたとき、颯太は「湖のノート」に短い英語のメッセージを書き込むことにした。彼の書いた文字はこうだった。

「Coffee is good. English is hard. But maybe fun.」

康平はその文字を読み、小さく笑った。誰にとっても、新しい一歩はほんの少しの勇気から始まる。三沢市の湖畔にあるこのカフェが、その最初のきっかけになれたのだろう。
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