愛を選んだ夫と離縁しましたが、私はもう振り返りません

藤原遊

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第14話 崩れはじめ

「奥さん、もういないって聞いたんだが……今日の分、どうする?」

仕入れ屋の男は、戸口のところで荷車の手綱を押さえたまま言った。

ロイドは一瞬だけ言葉に詰まった。

いつもなら、もうとっくに話は済んでいる時間だった。野菜をどれだけ入れるか、肉をどうするか、今週の客の入りを見て何を増やすか。そのあたりは、たいていエレナが先に決めていた。

「今まで通りでいい」

とっさにそう答えると、男は曖昧な顔をした。

「今まで通りって言われてもな。奥さんは毎回少しずつ変えてただろ。昨日も今日も客の入りが読めねえなら、こっちも困る」

ロイドは苛立ちを押し込める。

「じゃあ、野菜は半分でいい。肉も控えめにしろ」

男は眉をひそめた。

「半分? そりゃまた極端だな」

「いいから、それで」

強めに言うと、男は肩をすくめた。

「分かったよ。後で足りなくなっても知らねえぞ」

それだけ言って、荷車の方へ戻っていく。

その背中を見送りながら、ロイドは舌打ちしたい気分になった。

いちいち細かい。

そう思ったが、同時に、前はこういうやり取りを自分がしていなかったことにも気づく。していなかったというより、気にしていなかった。気づけば品は揃い、足りなくなれば補充され、余らない程度に調整もされていた。

リリナが後ろから近づいてきた。

「何、そんなに難しい話だったの?」

「仕入れの話だ」

「だったら多めに頼んどけばいいじゃない。余ったら使えばいいんだし」

その軽さに、ロイドは返事をしなかった。

余ったら使えばいい。そういうものではない。食材は余れば傷むし、余ったぶんだけ金も無駄になる。前ならそんなことを口にしなくても回っていたのに、今は一つひとつ説明しなければならない。

しかも、説明したところで分かっている顔をしない。

昼前には、また別の問題が起きた。

二階の廊下で、客の声がしたのだ。

「ちょっと、掃除はまだか?」

ロイドが顔を上げると、泊まり客の女が腕を組んで立っていた。部屋の扉は半開きで、中にはまだ前の客が使ったままの水差しが残っているのが見えた。

「すぐやらせる」

そう言ってロイドがミナを呼ぼうとすると、リリナが先に言った。

「私がやります」

その声音は妙に自信ありげだった。

ロイドは一瞬迷ったが、今さら止めても仕方がない。頷くと、リリナはそのまま部屋へ入っていった。

泊まり客の女は不満そうな顔をしたまま、廊下の壁に寄りかかって待つ。

ロイドはその場を離れた。

下で仕入れの荷を受け取らなければならなかったし、厨房ではまた塩の置き場がどうこうと声が上がっていた。二つも三つも同時に起きると、もう何から手をつけるべきか分からなくなる。

しばらくして、二階から甲高い声が響いた。

「ちょっと、何これ!」

女の客の声だった。

ロイドが駆け上がると、廊下にリリナが立ち尽くしていた。足元には水差しが転がり、床には水が広がっている。しかもその水を踏んで、部屋の敷物まで濡れていた。

「掃除するだけでしょ? なんでこんなことになるのよ」

客の女は怒りを隠そうともしていなかった。

「私の荷まで濡れたんだけど」

見ると、部屋の入口に置いてあった革袋の底がしっかり濡れている。

リリナは慌てて言い返す。

「だって、そこに置いてあると思わなくて」

「思わなくても見るでしょ普通!」

ロイドは頭を押さえたくなった。

「リリナ、下がってろ」

そう言ってから客の方へ向き直る。

「悪かった。すぐに代わりの部屋を用意する」

「代わりの部屋?」

女は鼻で笑った。

「昨日から、ここ何かおかしいわよね。食事はひどいし、掃除もできてないし」

ロイドは何も言えない。

リリナは後ろでむっとした顔をしているが、その表情がさらに腹立たしかった。

「そんなに怒らなくてもいいじゃない」

小さくそう言ったのが、ロイドにははっきり聞こえた。

「お前は黙ってろ」

思わず低く言うと、リリナが目を見開く。

「なんで私が怒られなきゃいけないの?」

「掃除もまともにできないなら、余計なことをするな」

リリナの顔が赤くなる。

「余計なことって何よ。手伝ってあげてるのに」

その言い方に、ロイドはとうとう苛立ちを隠さなかった。

「手伝いになってないから言ってるんだ」

廊下が静まる。

客の女は呆れたように二人を見比べていたし、階下から様子をうかがう下働きたちの気配もあった。

リリナはしばらく何も言えなかったが、やがて唇を噛んで顔をそらした。

「……そんな言い方しなくてもいいでしょ」

その声は、どこか拗ねた子どもみたいだった。

ロイドは返す言葉を失った。

怒鳴りたいわけではない。だが、一つひとつが軽すぎる。客の機嫌も、宿の空気も、部屋の状態も、何もかもが「大したことない」で済まされていく。

前は違った。

前は、そんなふうに崩れる前に止められていたのだ。

客の女が濡れた荷を拾い上げる。

「いいわ、もう。別の宿に移るから」

ロイドが顔を上げた。

「待ってくれ」

「待たないわよ。荷物まで濡らされて、これ以上何を待つの」

その言葉は当然だった。

当然すぎて、言い返せない。

女はそのまま部屋へ入り、荷をまとめ始める。リリナは廊下の端に立ったまま動かない。

ロイドは濡れた床を見下ろした。

ただの水だ。

それなのに、宿の中にできた染みみたいに見えた。

下からミナの声がした。

「ロイドさん、食堂の方も……」

呼ばれている。

また何か起きたのだろう。

けれどロイドはすぐには動けなかった。

そのとき、階段の下から別の声が聞こえた。

「おい、ロイド」

見下ろすと、仕入れ屋の男が戻ってきていた。

男は食堂の中を見回してから、面倒そうに続ける。

「悪いが、明日からはそっちの注文、少し減らしてもらうぞ。奥さんがいた時みたいには回せねえ」
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