愛を選んだ夫と離縁しましたが、私はもう振り返りません

藤原遊

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第28話 決別

ロイドが何か言おうとした気配を背中で感じながら、エレナは厨房へ戻った。

鍋の蓋を持ち上げると、温かな湯気が立ちのぼる。少し遅れて戻る客のために火を弱めていたスープは、ちょうどいい温度を保っていた。さっきまで食堂の中央にあった張りつめた空気が、布巾で鍋の縁を拭う指先の動きにつれて、少しずつ遠のいていく。

「母さん」

ルークの声がした。

振り向くと、帳場から離れてこちらへ来ていた。客の視線を気にしているのか、声は抑えている。それでも、怒りは隠れていなかった。

「大丈夫?」

その聞き方に、エレナは一瞬だけ目を細める。

昔なら、自分の方がルークにそう聞いていたはずだった。今は逆だ。それが不思議でもあり、少しだけ可笑しくもあった。

「ええ」

そう答えてから、鍋の火をもう少しだけ弱める。

「大丈夫よ」

本当に、そうだった。

胸が痛まないわけではない。あれだけのことを言われて、何も感じないほど鈍くなったつもりもない。ただ、その痛みがもう自分を揺らさないところまで来ている。

ロイドの声が、食堂の方で小さく響く。

「エレナ」

呼ばれても、エレナはすぐには振り向かなかった。

皿を一枚取り、スープをよそう。奥の卓では、少し前に戻ってきた客がパンを待っていた。その手前の卓では、水差しが空になりかけている。

今、優先するものははっきりしている。

ルークがその視線を追い、黙って水差しを持っていく。何も言わなくても動いてくれる背中を見て、エレナは小さく息をついた。

前の宿では、こうはいかなかった。

言わなければ伝わらないことが増えて、言っても伝わらないことまで出てきて、最後には何をどこまで言うべきか考えること自体に疲れていた。

ここでは違う。

必要なことが、必要なだけ動く。

その差が、今のエレナには何より大きかった。

「話は終わりって、そういうことか」

ロイドの声は、さっきより少し低くなっていた。

怒っているのではない。怒ることもできないまま、立ち尽くしている声だった。

エレナはようやく振り向く。

ロイドはまだ入口の近くに立っている。客の邪魔にならないように端へ寄ってはいるが、その立ち姿そのものがもう、この宿の流れから外れていた。

「そういうことよ」

エレナは静かに答える。

「私はもう、あなたのところには戻らない」

その言葉を口にした瞬間、不思議なくらい何も揺れなかった。

強がりでも、見せつけでもない。ただ、そうなのだという事実を、そのまま言葉にしただけだった。

ロイドは何か言い返すように口を開きかけて、止まる。

その一瞬の迷いが、今の二人の距離をよく表していた。

前なら、エレナが先にロイドの言葉を拾っていた。怒らせないように、追い詰めないように、逃げ道を残すように。

けれど、もうその必要はない。

「宿が困ってるんだ」

しばらくして、ロイドはようやくそう言った。

「分かってるだろ」

「分かっているわ」

「だったら――」

「だから戻れと言うのなら、なおさら戻れないの」

ロイドの言葉を遮って、エレナははっきり言った。

「あなたはずっと、自分が困った時にだけ私を見るのね」

その一言に、ロイドの顔が目に見えて強ばる。

図星なのだろうと思った。

けれど、責めて気持ちが晴れるわけではない。エレナはただ、今ようやく言葉にできただけだった。

「私は、宿が回らなくなった時の穴埋めじゃない」

布巾をたたんで、カウンターの端に置く。

「あなたが見ていなかったものを、今さら必要だと言われても、それはもう私には関係ないわ」

ロイドは黙る。

客の一人が、少しだけ椅子を引いた。食事の音が戻りかけてはまた静まる。その場にいる誰もが、聞くつもりはなくても聞いてしまう距離だった。

ルークが、今度ははっきりとロイドの方を見る。

「もう帰って」

短い言葉だった。

けれどそこには、子どもが大人に向ける遠慮がひとかけらもなかった。

「父さんが来る場所じゃない」

「ルーク」

「母さんはもうここで働いてる。ここで回してる。父さんの都合で呼び戻していい人じゃない」

そのまっすぐな言葉に、エレナは一瞬だけ胸の奥が熱くなるのを感じた。

守られているのだと分かる。

昔は、自分がこの子を守る側だった。今は違う。支え合っている。そのことが、ただ嬉しかった。

ロイドは息子を見返したが、強く出ることはできなかった。

前のように、父親として押さえつけられる場所ではないと、もう分かっているのだろう。

「……そうか」

その返事は、諦めきった声ではなかった。

まだどこかで、何かが変わると思いたい声だった。けれど、その期待ごとここで切り離されるのだと、たぶんロイド自身も感じている。

エレナはもう一度だけ言った。

「帰って」

優しくはなかった。

けれど、冷たく突き放したわけでもない。ただ、これ以上ここに立たせておく理由がなかった。

ロイドはしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと視線を落とした。

それから何も言わず、入口の扉へ向かう。

その背中を見ても、エレナの足は動かなかった。追いかけたいとも、呼び止めたいとも思わない。ただ、ようやく終わるのだと分かるだけだった。

扉が開いて、夜の空気が少しだけ入り込む。

ロイドは一度も振り返らないまま、外へ出ていった。

扉が閉まる音は、思っていたより小さかった。

それなのに、長く残っていた何かが、そこでようやく切れた気がした。

食堂に、ほんの少し遅れて人の声が戻る。

卓の一つで誰かが小さく咳払いをし、別の卓ではパンのおかわりを頼む声がする。止まっていた流れが、何事もなかったようにまた動き出す。

エレナは鍋の前へ戻る。

ルークが何も言わずに、空になった皿を一枚持っていく。その横顔はまだ少し固かったが、もうロイドの方は見ていなかった。

「ルーク」

呼ぶと、息子が顔を上げる。

「あとで温かいものでも食べましょう」

そう言うと、ルークはようやく少しだけ力を抜いた。

「うん」

それだけで十分だった。

前ではなく、今いる場所で、今いる人と食べる。

エレナはスープをよそいながら、静かにそう思った。
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