愛を選んだ夫と離縁しましたが、私はもう振り返りません

藤原遊

文字の大きさ
30 / 30

第30話 未来へ

朝の光が、食堂の床をゆっくりと伸びていた。

窓際の卓に落ちた明るさを見ながら、エレナは帳場の前に立つ。開いた宿帳には、昨日のうちに書き足された予約の名前が並んでいた。見慣れた常連の名もあれば、まだ顔の浮かばない新しい客の名もある。

その一つひとつを目で追っていくうちに、ここがもう一時しのぎの場所ではないのだと、改めて分かった。

ルークが奥から鍵束を持ってくる。

「二番の部屋、今日空くよ。昼には整えられる」

「分かったわ。じゃあ、夕方の二人組はそこへ入れましょう」

そう言うと、ルークは頷いて、そのまま帳場の横に立った。

二人で宿帳を見るこの時間が、エレナは少し好きだった。忙しさが始まる前の短い時間で、今日一日の流れを確かめる。誰が早く出るか、誰が連泊か、遅く戻る客はいるか。そういうことを先に知っているだけで、宿はずいぶん変わる。

前の宿でも、ずっとそうしてきた。

違うのは、今はその隣にいるのがロイドではなく、ルークだということだった。

そのことを思っても、もう胸は痛まなかった。

痛みが消えたというより、ちゃんと収まる場所に収まったのだと思う。

「母さん」

ルークが帳面から目を上げる。

「何?」

「今日も満室になりそう」

その声に、少しだけ嬉しさが混じっていた。

エレナはそれを聞いて、小さく息をつく。

「そうね」

短く答える。

それで十分だった。

客がいる。宿が回る。仕入れが間に合う。灯りを落とす前に翌日の予約を見て、必要な分だけ整えていく。

派手なことは何もない。

けれど、その何もない毎日がきちんと続いていくことが、どれほど大事かをエレナは知っている。

表の扉が開いて、朝早く出る客が一人、軽く手を上げて出ていった。

「また来るよ」

振り向きざまにそう言われて、ルークが自然に「待ってる」と返す。

そのやり取りを見ながら、エレナはふと微笑んだ。

もう、この宿の言葉になっている。

客を引き止めるでもなく、へりくだりすぎるでもなく、ただ気持ちよく送り出す。その当たり前のことができる場所は、たぶん長く続く。

ルークが横で少しだけ首を傾げた。

「何?」

「なんでもないわ」

そう返して、エレナは帳場の上に手を置く。

木の感触は前の宿のものとは違う。食堂の広さも、窓の形も、客の顔ぶれも違う。けれど今は、この違いがもう不安ではなかった。

ここでやっていける。

もう、それは確信になっている。

「母さん」

再び呼ばれて顔を向けると、ルークが少し言いにくそうにしていた。

「前のこと、さ」

エレナは少しだけ目を細める。

ロイドのことだとすぐに分かった。

ルークは言葉を探すように一度黙ってから、続けた。

「……もう大丈夫?」

その聞き方に、エレナはほんの少し驚いた。

あれだけはっきりロイドを拒んだあとでも、ルークはまだ自分の中に残るものを気にしているのだ。優しい子だと思う。けれど、その優しさに甘えて曖昧な返事をする気にはならなかった。

「ええ」

エレナはまっすぐに答える。

「もう大丈夫よ」

そして少しだけ間を置いてから、続けた。

「私はもう、振り返らないわ」

言葉にした瞬間、静かに腹の底へ落ちていく感じがした。

強い決意を見せつけるような言い方ではない。ただ、自分で選び取った結論を、自分で確かめるみたいな言葉だった。

振り返らない。

それはロイドを憎み続けるという意味ではない。

戻るかもしれない場所として、過去を見つめ続けるのをやめるということだった。

良かった頃がなかったわけではない。苦しかったことだけで全部を塗りつぶしたいわけでもない。けれど、それでもなお、今の自分が立つ場所はここなのだと、はっきり分かっている。

ルークはその言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。

「うん」

その一言で、何かがきれいに終わった気がした。

外では、仕入れの荷車が止まる音がする。厨房では鍋を置く音がして、食堂には朝の匂いが少しずつ広がっていく。今日も宿は動き出す。

エレナは帳場の上の宿帳を閉じた。

そして、表から差し込む光の方へ顔を向ける。

前に何があったとしても、もうそのために立ち止まることはない。必要なのは、今日ここで回る一日と、その先に続く明日だった。

「ルーク、野菜受け取ってきて」

「分かった」

息子がすぐに動く。

その背中を見て、エレナは小さく微笑む。

宿の中には、人の気配と、温かな音と、これから始まる一日の流れが満ちていた。

それで十分だった。
感想 10

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(10件)

おやすみマーク
2026.05.05 おやすみマーク

ルーク、小さな騎士ですね。
みごとです。👏👏

解除
momo
2026.05.04 momo

一方的に若い浮気相手と一緒になると宣言し、妻子を捨てたようなものなのに今更どの口が!!と腹だたしい!
浮気相手もヒトのものに手を出して申し訳ない気持ちも態度もなく、太々しい態度でほんとうにムカつきますね!
もっと徹底的にざまぁお願いします!!

解除
おやすみマーク
2026.05.04 おやすみマーク

ロイドざまぁ~😁

解除

あなたにおすすめの小説

王妃は春を待たない〜夫が側妃を迎えました〜

羽生
恋愛
王妃シルヴィアは、完璧だった。 王であるレオンハルトの隣に立ち、誰よりも正しく、誰よりも美しく、誰よりも“王妃らしく”あろうとしてきた。 けれど、結婚から五年が経っても2人には子は授からず、ついに王は側妃を迎えることになる。 明るく無邪気な側妃ミリアに、少しずつ心を動かしていくレオンハルト。 その変化に気づきながらも、シルヴィアは何も言えなかった。 ――王妃だから。 けれど、シルヴィアの心は確実に壊れていく。 誰も悪くないのに。 それでも、誰もが何かを失う。 ◇全22話。一日二話投稿予定。

【完結】王妃はもうここにいられません

なか
恋愛
「受け入れろ、ラツィア。側妃となって僕をこれからも支えてくれればいいだろう?」  長年王妃として支え続け、貴方の立場を守ってきた。  だけど国王であり、私の伴侶であるクドスは、私ではない女性を王妃とする。  私––ラツィアは、貴方を心から愛していた。  だからずっと、支えてきたのだ。  貴方に被せられた汚名も、寝る間も惜しんで捧げてきた苦労も全て無視をして……  もう振り向いてくれない貴方のため、人生を捧げていたのに。 「君は王妃に相応しくはない」と一蹴して、貴方は私を捨てる。  胸を穿つ悲しみ、耐え切れぬ悔しさ。  周囲の貴族は私を嘲笑している中で……私は思い出す。  自らの前世と、感覚を。 「うそでしょ…………」  取り戻した感覚が、全力でクドスを拒否する。  ある強烈な苦痛が……前世の感覚によって感じるのだ。 「むしろ、廃妃にしてください!」  長年の愛さえ潰えて、耐え切れず、そう言ってしまう程に…………    ◇◇◇  強く、前世の知識を活かして成り上がっていく女性の物語です。  ぜひ読んでくださると嬉しいです!

「仕方ない」には疲れました ~三年続いた白い結婚を終わらせたら、辺境公爵の溺愛が待っていました~

ゆぷしろん
恋愛
 「仕方ない」と白い結婚に耐え続けていた伯爵夫人エリス。  彼女の誕生日、夫は幼なじみのセシリアを屋敷に連れ帰り、エリスが大切にしてきた猫を彼女に見せろと言う。冷めた晩餐の前で心が折れたエリスは、ついに離縁を宣言し実家へ戻った。  彼女の薬草知識と領地経営の才は、北方を守る公爵ディートリヒが目を留める。流行り病に苦しむ公爵領を救うため奮闘するエリスは、初めて努力を認められ、大切に扱われる喜びを知っていく。一方で彼女を失った元夫の伯爵家は傾き、身勝手な幼なじみの嘘も暴かれて――。  我慢をやめた傷心令嬢が、辺境公爵に溺愛され、自分らしい幸せを選び直す逆転愛されファンタジー。

初夜に放置された花嫁は、不誠実な男を許さない~不誠実な方とはお別れして、誠実な方と幸せになります~

明衣令央
恋愛
初夜に新郎は元婚約者の元へと走り、放置された侯爵令嬢セシリア。 悲しみよりも屈辱と怒りを覚えた彼女は、その日のうちに父に連絡して実家に帰り、結婚相手に婚姻無効叩きつけた。 セシリアを軽んじた新郎と元婚約者は、社交界の制裁を受けることになる。 追い詰められた元婚約者の男爵家が放った刺客に襲われそうになったセシリアを救ったのは、誠実で不器用な第三騎士団副隊長レオン。 「放置どころか、一晩中、離すつもりはないよ」 初夜から始まったセシリアの物語は、やがて前回とは違う初夜へと辿り着く――。

婚約した幼馴染の彼と妹がベッドで寝てた。婚約破棄は嫌だと泣き叫んで復縁をしつこく迫る。

佐藤 美奈
恋愛
伯爵令嬢のオリビアは幼馴染と婚約して限りない喜びに満ちていました。相手はアルフィ皇太子殿下です。二人は心から幸福を感じている。 しかし、オリビアが聖女に選ばれてから会える時間が減っていく。それに対してアルフィは不満でした。オリビアも彼といる時間を大切にしたいと言う思いでしたが、心にすれ違いを生じてしまう。 そんな時、オリビアは過密スケジュールで約束していたデートを直前で取り消してしまい、アルフィと喧嘩になる。気を取り直して再びアルフィに謝りに行きますが……

結婚したけど夫の不倫が発覚して兄に相談した。相手は親友で2児の母に慰謝料を請求した。

佐藤 美奈
恋愛
伯爵令嬢のアメリアは幼馴染のジェームズと結婚して公爵夫人になった。 結婚して半年が経過したよく晴れたある日、アメリアはジェームズとのすれ違いの生活に悩んでいた。そんな時、机の脇に置き忘れたような手紙を発見して中身を確かめた。 アメリアは手紙を読んで衝撃を受けた。夫のジェームズは不倫をしていた。しかも相手はアメリアの親しい友人のエリー。彼女は既婚者で2児の母でもある。ジェームズの不倫相手は他にもいました。 アメリアは信頼する兄のニコラスの元を訪ね相談して意見を求めた。

手放したくない理由

もちもちほっぺ
恋愛
公爵令嬢エリスと王太子アドリアンの婚約は、互いに「務め」として受け入れたものだった。貴族として、国のために結ばれる。 しかし、王太子が何かと幼馴染のレイナを優先し、社交界でも「王太子妃にふさわしいのは彼女では?」と囁かれる中、エリスは淡々と「それならば、私は不要では?」と考える。そして、自ら婚約解消を申し出る。 話し合いの場で、王妃が「辛い思いをさせてしまってごめんなさいね」と声をかけるが、エリスは本当にまったく辛くなかったため、きょとんとする。その様子を見た周囲は困惑し、 「……王太子への愛は芽生えていなかったのですか?」 と問うが、エリスは「愛?」と首を傾げる。 同時に、婚約解消に動揺したアドリアンにも、側近たちが「殿下はレイナ嬢に恋をしていたのでは?」と問いかける。しかし、彼もまた「恋……?」と首を傾げる。 大人たちは、その光景を見て、教育の偏りを大いに後悔することになる。

花嫁に「君を愛することはできない」と伝えた結果

藍田ひびき
恋愛
「アンジェリカ、君を愛することはできない」 結婚式の後、侯爵家の騎士のレナード・フォーブズは妻へそう告げた。彼は主君の娘、キャロライン・リンスコット侯爵令嬢を愛していたのだ。 アンジェリカの言葉には耳を貸さず、キャロラインへの『真実の愛』を貫こうとするレナードだったが――。 ※ 他サイトにも投稿しています。