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男娼は雪花を囲う
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「あ…っん、あぁ………っ!」
広い部屋に女の嬌声が響き渡る。
肌のぶつかる音に合わせて漏れる己の声に触発されているのか、瞳には浮かされるような熱が籠っていた。
その原因である男は真逆の凍ったような表情で機械的にまたひとつ、女に新たな刺激を与える。
快感に跳ねる身体を自重で押さえつけながら、よくこんな一方的に乱れることができるものだと男の無表情に蔑みの色が混ざった。
いつも飽くことなく貪欲に美しさを求めているくせに、自分のような道具を使ってまで欲を満たそうとする姿の醜さになぜ気が付かないのだろう、と。
しかし男に後ろから押さえつけられている女がそれに気付くはずもなく、ただ与えられるままに啼き、身体を退け反らせる。
(……どこが悦いんだったか)
辛うじて以前買われたことは覚えているものの、重要でなく興味もない情報はどうしたって忘れる。
とりあえず波打つ豪奢な金髪を掻き分けながら指を這わせるようにして背中を撫ぜていくと、首筋近くで明らかな反応があった。
どうやら首や耳がお好みだったらしい。
「ああっ!!ルセド……ル、セド!!」
首を擽りながら耳に息を吹き込み、ゆるゆるとした動きで散々焦らした後で、一気に突き上げた。
最奥が絡みついてくる不快な感触に、背筋が粟立つ。
さっさと終わらせてしまおうと動きを早めると、女の喘ぎも一段と大きくなった。
(……っるさいな)
源氏名とはいえ、呼ばれると耳障りだ。
声を抑えさせるために思わずリネンを噛ませるが、先ほどからじっくりと快楽を教え込んだ身体は貴族としての誇りなどとっくに投げ棄てていて、不敬な行為にも碌に抵抗しない。
(っあ、くそ)
咥えてなおくぐもった音は漏れたものの、それ以上に締め付けられた時僅かに溢れた自分の生理的な呻き声が何度も頭で苛むように反響して、意識はそちらへ囚われる。
動揺という綻びをきっかけに思考がぐちゃぐちゃになるにつれて、頭を過ぎりかける大切な人の姿を男は必死で振り払った。
戻れない。
汚したくない。
帰れない。
帰りたい。
嫌わないで。
どうか、知らないでいて。
「んんぅっ!?」
思うことさえ己に赦していないはずの言葉が膨らんでしまったことへの苛立ちを、目の前の肢体にぶつける。
残る冷静な部分が、やはり自分もこの女たちとそう変わらないではないかと己を嘲笑った。
「……んっ……ああっ!!」
耐え切れず開いた口から噛ませていたリネンが外れる。
突然性急に追い詰められた女は、深く突き上げられた瞬間に達した。
強く搾り取るように収縮する刺激をやり過ごし、相手の呼吸が整ったのをみて引き抜く。
また女の身体がびくりと震えた。
「……っ相変わらずよかった、わ。ルセド」
「恐れ入ります」
「貴方を買うために髪を染める人がいるのも頷けるわ。銀髪になにか思い入れでも?」
「いえ」
「…………ねぇ、次はいつ会える?」
纏わりつくような粘度を持った声を、視線を向けられる。
このように問われた回数は1度や2度ではない。
男はいつものように冷淡に答えた。
「機会がありましたら、またいずれ」
……歩く。
華やかな表通りと薄暗い路地を、交互に繰り返し歩いて歩いて追っ手を巻いていく。
恋情や嫉妬心、その他様々な思惑から素性不明の男娼の正体を探ろうとする者は多い。
だが男は例えそのような気配がなくとも毎回仕事の後はこのような遠回りをしていた。
慎重を期すという面もあるが、なにより彼にとってこれはある種の儀式だった。
何よりも大切な、彼女の元へ帰るための。
(我ながら馬鹿らしいな)
どれだけ振り切ろうと足掻いても自分の身に染み付いてしまった穢れは落としようもないのに。
それでも少しでも綺麗になればあの人の側にいる自分を赦せるような気がして、今日もまた愚かな行為を繰り返した。
* * * * * * * * * *
「読み通りだ。マルゴー伯爵は王女派の家と繋がりがある。こちら側へ引き込める可能性が高い」
湯浴みを終えてすぐに報告を始める男に子爵は呆れたような視線を向けた。
夜の獣のようなしなやかな美しさを持つ男は、なるほど数多の貴婦人を狂わせる魅力があるのだろう。
それでも幼い頃を知る子爵にとって、彼はどこまでも哀れな子供でしかなかった。
「報告の前にちゃんと髪を拭きなさい。それに、またこんなに肌を擦って。……彼女が心配するよ」
痛々しく赤くなった肌に眉を潜めながら、男の主を引き合いに嗜める。
どうせ自分の心配などこの男に届きはしない。
それならばと名前を出せば、案の定決まり悪そうに目を逸らした。
「アリスには絶対に見せない。……それに、早く帰りたい。あの子が待ってる」
仕事を終えて裏庭から子爵邸へ入り込むと、彼はいつもすぐに湯浴みへ向かう。そして痛ましいほど念入りに汚れを落としては、着てきたものと全く同じ新しい服に着替えるのだ。
生まれてからずっと影として育てられてきた彼が家人に見つかるなんて心配はしていないし、家は好きに使っていいとも言っている。
しかし少しでも早く行為の跡を消そうと必死に己を傷つける姿は正直見ていて辛い。
心を痛めたところでいち貴族に諜報活動を辞めさせる権限などあるわけもなく、彼から齎される情報によって王位争いが事実こちらに優位に進んでいる以上、役目から解放されることもまずないだろう。
それに彼自身、そんなこと望まないに違いない。
だから、このように考えること自体エゴではあるけれども。
それでもやはり哀れだ、と子爵は思う。
確かに、彼の主は尊い人間だ。
実際子爵の父は彼女を逃すために命を落としたし、他にも沢山の人間が彼女を守るために死んでいる。
そして子爵自身も恐らく棄てろと言われればこの身を投げ打つのであろう。
しかしこの男は自分とは抱えているものが違う。
絶対的な忠誠、己の唯一に対する執着、崇拝ーー恋情。
どれかひとつでも棄ててしまえれば楽になれるのに、どれも棄てられず雁字搦めになって身を焦がしている。
まるで生き地獄だ。死ぬより辛くても離れることすらできない。
彼女はいずれ、王になる。
近ごろ暴君と悪名高い兄王とは反対に、民衆の間でさえ彼女は不遇な幼少期にも関わらず聡明な王女だと囁かれるようになった。
掌を返して取り入ろうとしてくる貴族たちに個人的な嫌悪感はあるが、それに目を瞑れば味方はかなり増えている。
噂に違わず彼女は非常に優秀だから、一度然るべき地位に就きさえすればそういった連中にも対処できるだろうし、王位簒奪の準備は順調に進んでいると言っていい。
しかし彼女が王になれば、彼の想いに報いる可能性は万に一つもなくなる。
(私は、甘いのだろうね)
彼女は優秀だ。
数え切れないほどの命を吸わされ、咲かされた花はその歪さも呑み込むほどに美しい。
まさに彼女は王足る存在に為った。
けれど数多の臣下に傅かれ華美な装飾品に彩られた王座に座るよりも、ふたりきり寄る辺のない王宮で手を取り合って生きていたあの時の方が、彼らは幸福だったのではないかと思ってしまうから。
もしも逃げられたところで彼らはなにもなかった頃には戻れないのに。
彼女ほどの適任がいない以上、自分だって王位から逃してあげることなどできないのに。
「報告はそれで充分だ。……帰って構わないよ」
だからこれは贖罪だ。
独断でふたりきりの箱庭を与えたことは、知られれば非難を受けるだろう。
しかしこの男はどれだけ恋情を募らせたとしても絶対に彼女に手は伸ばさない。
後々醜聞にならないように立ち回るくらいのことで彼が少しでも救われるなら、いくらだってやってやろう。
例え相反する想いに身を引き裂かれたとしても、きっと彼は主の側にいることを望むのだから。
「いっそ、心配させてくれればいいのだけどね」
身分の違いも、身体中に残る無数の跡も、全てをなかったことにして心のままに生きてくれたならば。
無責任と知りながら願わずにはいられない愚かな自分を嘲笑しながら、誰もいなくなった部屋で子爵はひとり呟いた。
* * * * * * * * * *
男はいつも家に着く直前に、わざと微かに物音を立てる。
そうすれば、優しい主が自分を出迎えに来てくれると知っているからだ。
「おかえり、ヴィー」
思惑通りぱたぱたと軽やかな足音と共に視界の端で銀色の髪が揺れる。
王宮にいる時は腰まであった彼女の豊かなそれは変装のために短く切り揃えられてしまった。
あの髪を失わせてしまったことに個人的な心苦しさはあるが、短髪だろうと彼女の心根から滲み出る美しさは全く損なわれない。
この前買ってきた香油で自ら手入れしたらしい銀雪のような髪は王宮にいたときと変わらず艶やかで、今日も男の主は誰より美しかった。
「遅くなって悪い。夕飯を買ってきたから一緒に食べよう。……ただいま、アリス」
愛称で呼び捨てるのも慣れた。
初め子爵にそれを許された時は夢でも見ているのかと思ったものだったが、幼い頃ふたりきりのときには使っていた呼び方だけあってブランクがあってもすぐ耳に馴染んだ。
(あと何回、呼ぶことを赦されるだろうか)
頭を過ぎる余計な考えを振り払って夜市で買ってきた紙袋を差し出す。
彼女は嬉しそうに受け取ってから、ふと表情を沈ませた。
「ごめんね、ヴィーに養って貰わなきゃいけないような情けない主で。……本当は私が養う側なんだけど」
「俺が好きでしてるから。アリスは何も悪くない」
やろうと思えばこちら側の貴族から援助を受けることもできるが、僅かな金の流れでも居処を掴まれる可能性があるからそれは出来る限り避ける方針になっている。
特に兄王が血眼になって王女を探し始めた今は危ない。
当然彼女が働きに出るなんてもっての外で、だから匿われざるを得ないのは仕方ないのに。
彼としては誇らしく思うことはあれど不満なんてひとつもないのだが、主としてはどうも気になるらしい。
「……だってヴィー、仕事辛いでしょ?」
「…………俺は慣れてるから。大丈夫」
僅かに言葉に詰まった。
しかし男は何もなかったかのように平坦に続ける。
彼女がその気になれば仕事の内容などすぐに調べられてしまうだろう。
今そうされないのは彼にとって知られたくないことなのだと察しているから。
きっと彼女はギリギリまで暴こうとしないでいてくれる。
だから、平気な顔でいなくては。
「ねぇ、ヴィー」
男の頬に伸ばしかけた手を引いて、彼女は目を伏せた。
睫毛の下でいつもの毅然とした姿からは想像できないほど不安げに揺れる瞳が、怖がりだった幼い頃を思い出させる。
そういえば、自分の後ろか隣ばかり歩いていた彼女が前を歩くようになったのはいつからだっただろうか。
「……私たち、なんでこんなに歪な関係になっちゃったんだろうね」
「どんな形になったって、俺はアリスの側にいる」
だから、不安になんてならないでくれ。
(汚れた俺では、もう君の手を握ってやることもできないから)
一生触れられなくとも。
一生目を合わせることすら叶わなくなっても。
男にとってそんなことは、彼女から離れる理由にはならない。
例え身を引き裂かれるより辛かったとして、だからなんだというのか。
「……ほら、アリス。余計なことばかり言っていると夕食が冷めるぞ」
男娼は今日も触れられない花を囲う。
仮初の箱庭は、それでも彼に赦された歪な幸福の象徴だった。
広い部屋に女の嬌声が響き渡る。
肌のぶつかる音に合わせて漏れる己の声に触発されているのか、瞳には浮かされるような熱が籠っていた。
その原因である男は真逆の凍ったような表情で機械的にまたひとつ、女に新たな刺激を与える。
快感に跳ねる身体を自重で押さえつけながら、よくこんな一方的に乱れることができるものだと男の無表情に蔑みの色が混ざった。
いつも飽くことなく貪欲に美しさを求めているくせに、自分のような道具を使ってまで欲を満たそうとする姿の醜さになぜ気が付かないのだろう、と。
しかし男に後ろから押さえつけられている女がそれに気付くはずもなく、ただ与えられるままに啼き、身体を退け反らせる。
(……どこが悦いんだったか)
辛うじて以前買われたことは覚えているものの、重要でなく興味もない情報はどうしたって忘れる。
とりあえず波打つ豪奢な金髪を掻き分けながら指を這わせるようにして背中を撫ぜていくと、首筋近くで明らかな反応があった。
どうやら首や耳がお好みだったらしい。
「ああっ!!ルセド……ル、セド!!」
首を擽りながら耳に息を吹き込み、ゆるゆるとした動きで散々焦らした後で、一気に突き上げた。
最奥が絡みついてくる不快な感触に、背筋が粟立つ。
さっさと終わらせてしまおうと動きを早めると、女の喘ぎも一段と大きくなった。
(……っるさいな)
源氏名とはいえ、呼ばれると耳障りだ。
声を抑えさせるために思わずリネンを噛ませるが、先ほどからじっくりと快楽を教え込んだ身体は貴族としての誇りなどとっくに投げ棄てていて、不敬な行為にも碌に抵抗しない。
(っあ、くそ)
咥えてなおくぐもった音は漏れたものの、それ以上に締め付けられた時僅かに溢れた自分の生理的な呻き声が何度も頭で苛むように反響して、意識はそちらへ囚われる。
動揺という綻びをきっかけに思考がぐちゃぐちゃになるにつれて、頭を過ぎりかける大切な人の姿を男は必死で振り払った。
戻れない。
汚したくない。
帰れない。
帰りたい。
嫌わないで。
どうか、知らないでいて。
「んんぅっ!?」
思うことさえ己に赦していないはずの言葉が膨らんでしまったことへの苛立ちを、目の前の肢体にぶつける。
残る冷静な部分が、やはり自分もこの女たちとそう変わらないではないかと己を嘲笑った。
「……んっ……ああっ!!」
耐え切れず開いた口から噛ませていたリネンが外れる。
突然性急に追い詰められた女は、深く突き上げられた瞬間に達した。
強く搾り取るように収縮する刺激をやり過ごし、相手の呼吸が整ったのをみて引き抜く。
また女の身体がびくりと震えた。
「……っ相変わらずよかった、わ。ルセド」
「恐れ入ります」
「貴方を買うために髪を染める人がいるのも頷けるわ。銀髪になにか思い入れでも?」
「いえ」
「…………ねぇ、次はいつ会える?」
纏わりつくような粘度を持った声を、視線を向けられる。
このように問われた回数は1度や2度ではない。
男はいつものように冷淡に答えた。
「機会がありましたら、またいずれ」
……歩く。
華やかな表通りと薄暗い路地を、交互に繰り返し歩いて歩いて追っ手を巻いていく。
恋情や嫉妬心、その他様々な思惑から素性不明の男娼の正体を探ろうとする者は多い。
だが男は例えそのような気配がなくとも毎回仕事の後はこのような遠回りをしていた。
慎重を期すという面もあるが、なにより彼にとってこれはある種の儀式だった。
何よりも大切な、彼女の元へ帰るための。
(我ながら馬鹿らしいな)
どれだけ振り切ろうと足掻いても自分の身に染み付いてしまった穢れは落としようもないのに。
それでも少しでも綺麗になればあの人の側にいる自分を赦せるような気がして、今日もまた愚かな行為を繰り返した。
* * * * * * * * * *
「読み通りだ。マルゴー伯爵は王女派の家と繋がりがある。こちら側へ引き込める可能性が高い」
湯浴みを終えてすぐに報告を始める男に子爵は呆れたような視線を向けた。
夜の獣のようなしなやかな美しさを持つ男は、なるほど数多の貴婦人を狂わせる魅力があるのだろう。
それでも幼い頃を知る子爵にとって、彼はどこまでも哀れな子供でしかなかった。
「報告の前にちゃんと髪を拭きなさい。それに、またこんなに肌を擦って。……彼女が心配するよ」
痛々しく赤くなった肌に眉を潜めながら、男の主を引き合いに嗜める。
どうせ自分の心配などこの男に届きはしない。
それならばと名前を出せば、案の定決まり悪そうに目を逸らした。
「アリスには絶対に見せない。……それに、早く帰りたい。あの子が待ってる」
仕事を終えて裏庭から子爵邸へ入り込むと、彼はいつもすぐに湯浴みへ向かう。そして痛ましいほど念入りに汚れを落としては、着てきたものと全く同じ新しい服に着替えるのだ。
生まれてからずっと影として育てられてきた彼が家人に見つかるなんて心配はしていないし、家は好きに使っていいとも言っている。
しかし少しでも早く行為の跡を消そうと必死に己を傷つける姿は正直見ていて辛い。
心を痛めたところでいち貴族に諜報活動を辞めさせる権限などあるわけもなく、彼から齎される情報によって王位争いが事実こちらに優位に進んでいる以上、役目から解放されることもまずないだろう。
それに彼自身、そんなこと望まないに違いない。
だから、このように考えること自体エゴではあるけれども。
それでもやはり哀れだ、と子爵は思う。
確かに、彼の主は尊い人間だ。
実際子爵の父は彼女を逃すために命を落としたし、他にも沢山の人間が彼女を守るために死んでいる。
そして子爵自身も恐らく棄てろと言われればこの身を投げ打つのであろう。
しかしこの男は自分とは抱えているものが違う。
絶対的な忠誠、己の唯一に対する執着、崇拝ーー恋情。
どれかひとつでも棄ててしまえれば楽になれるのに、どれも棄てられず雁字搦めになって身を焦がしている。
まるで生き地獄だ。死ぬより辛くても離れることすらできない。
彼女はいずれ、王になる。
近ごろ暴君と悪名高い兄王とは反対に、民衆の間でさえ彼女は不遇な幼少期にも関わらず聡明な王女だと囁かれるようになった。
掌を返して取り入ろうとしてくる貴族たちに個人的な嫌悪感はあるが、それに目を瞑れば味方はかなり増えている。
噂に違わず彼女は非常に優秀だから、一度然るべき地位に就きさえすればそういった連中にも対処できるだろうし、王位簒奪の準備は順調に進んでいると言っていい。
しかし彼女が王になれば、彼の想いに報いる可能性は万に一つもなくなる。
(私は、甘いのだろうね)
彼女は優秀だ。
数え切れないほどの命を吸わされ、咲かされた花はその歪さも呑み込むほどに美しい。
まさに彼女は王足る存在に為った。
けれど数多の臣下に傅かれ華美な装飾品に彩られた王座に座るよりも、ふたりきり寄る辺のない王宮で手を取り合って生きていたあの時の方が、彼らは幸福だったのではないかと思ってしまうから。
もしも逃げられたところで彼らはなにもなかった頃には戻れないのに。
彼女ほどの適任がいない以上、自分だって王位から逃してあげることなどできないのに。
「報告はそれで充分だ。……帰って構わないよ」
だからこれは贖罪だ。
独断でふたりきりの箱庭を与えたことは、知られれば非難を受けるだろう。
しかしこの男はどれだけ恋情を募らせたとしても絶対に彼女に手は伸ばさない。
後々醜聞にならないように立ち回るくらいのことで彼が少しでも救われるなら、いくらだってやってやろう。
例え相反する想いに身を引き裂かれたとしても、きっと彼は主の側にいることを望むのだから。
「いっそ、心配させてくれればいいのだけどね」
身分の違いも、身体中に残る無数の跡も、全てをなかったことにして心のままに生きてくれたならば。
無責任と知りながら願わずにはいられない愚かな自分を嘲笑しながら、誰もいなくなった部屋で子爵はひとり呟いた。
* * * * * * * * * *
男はいつも家に着く直前に、わざと微かに物音を立てる。
そうすれば、優しい主が自分を出迎えに来てくれると知っているからだ。
「おかえり、ヴィー」
思惑通りぱたぱたと軽やかな足音と共に視界の端で銀色の髪が揺れる。
王宮にいる時は腰まであった彼女の豊かなそれは変装のために短く切り揃えられてしまった。
あの髪を失わせてしまったことに個人的な心苦しさはあるが、短髪だろうと彼女の心根から滲み出る美しさは全く損なわれない。
この前買ってきた香油で自ら手入れしたらしい銀雪のような髪は王宮にいたときと変わらず艶やかで、今日も男の主は誰より美しかった。
「遅くなって悪い。夕飯を買ってきたから一緒に食べよう。……ただいま、アリス」
愛称で呼び捨てるのも慣れた。
初め子爵にそれを許された時は夢でも見ているのかと思ったものだったが、幼い頃ふたりきりのときには使っていた呼び方だけあってブランクがあってもすぐ耳に馴染んだ。
(あと何回、呼ぶことを赦されるだろうか)
頭を過ぎる余計な考えを振り払って夜市で買ってきた紙袋を差し出す。
彼女は嬉しそうに受け取ってから、ふと表情を沈ませた。
「ごめんね、ヴィーに養って貰わなきゃいけないような情けない主で。……本当は私が養う側なんだけど」
「俺が好きでしてるから。アリスは何も悪くない」
やろうと思えばこちら側の貴族から援助を受けることもできるが、僅かな金の流れでも居処を掴まれる可能性があるからそれは出来る限り避ける方針になっている。
特に兄王が血眼になって王女を探し始めた今は危ない。
当然彼女が働きに出るなんてもっての外で、だから匿われざるを得ないのは仕方ないのに。
彼としては誇らしく思うことはあれど不満なんてひとつもないのだが、主としてはどうも気になるらしい。
「……だってヴィー、仕事辛いでしょ?」
「…………俺は慣れてるから。大丈夫」
僅かに言葉に詰まった。
しかし男は何もなかったかのように平坦に続ける。
彼女がその気になれば仕事の内容などすぐに調べられてしまうだろう。
今そうされないのは彼にとって知られたくないことなのだと察しているから。
きっと彼女はギリギリまで暴こうとしないでいてくれる。
だから、平気な顔でいなくては。
「ねぇ、ヴィー」
男の頬に伸ばしかけた手を引いて、彼女は目を伏せた。
睫毛の下でいつもの毅然とした姿からは想像できないほど不安げに揺れる瞳が、怖がりだった幼い頃を思い出させる。
そういえば、自分の後ろか隣ばかり歩いていた彼女が前を歩くようになったのはいつからだっただろうか。
「……私たち、なんでこんなに歪な関係になっちゃったんだろうね」
「どんな形になったって、俺はアリスの側にいる」
だから、不安になんてならないでくれ。
(汚れた俺では、もう君の手を握ってやることもできないから)
一生触れられなくとも。
一生目を合わせることすら叶わなくなっても。
男にとってそんなことは、彼女から離れる理由にはならない。
例え身を引き裂かれるより辛かったとして、だからなんだというのか。
「……ほら、アリス。余計なことばかり言っていると夕食が冷めるぞ」
男娼は今日も触れられない花を囲う。
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