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第四話
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雨の匂いが校舎の廊下にまで広がっている。ガラス窓の外では、細い雨がしとしとと降り続けていた。放送室の窓ガラスには、水滴がゆっくりと流れ落ちて、外の世界をぼんやりとかすませていた。
梅雨の湿気は空気の奥まで染み込んで、少し動くだけで制服が肌に張りつくような気がする。
そんな中、あたしたちは今日も撮影をしていた。けれど、どうにも上手くいかない日が続いていた。
撮影が思ったように進まない。
葵ちゃんの脚本はすごいけど、映像にするとどこか硬くて、動きが出ない。
楓は「もうすぐ撮り終えたい」と言うあたしの言葉に、「クオリティより完成優先でいいだろ」と笑ってくれるけど、笑いの中に少しだけ焦りが混じっている気がした。
葵ちゃんは机に座って、黙々と脚本を見直している。あの落ち着いた姿を見ると、なぜか少し安心する。
でも、いちばん問題なのは――黒瀬くんだった。
彼はカメラを構えているけれど、なかなかシャッターを押さない。
レンズの向こうで、いつも何かを探しているように見える。その横顔は静かで、集中しているようで、どこか遠くにいるみたいだった。
「流れが止まってる」
葵ちゃんがぽつりとつぶやいた。その声が放送室の湿った空気に溶けていく。
今日の撮影は、ドラマの中で主人公が『笑って』台詞を言う場面だった。
笑顔のシーン。あたしは自分の笑顔にはちょっと自信があった。見ている人の心を明るくするような、そんな表情を作れたらと思っていた。
けれど、黒瀬くんの手は途中で止まった。
シャッターの音が、鳴らない。
放送室の中に、時計の秒針の音だけが響いている。息を飲むような静けさ。窓の外で蝉の声がかすかに鳴いて、近づきつつある夏を思わせた。
「どうしたの?」
思わず声をかけると、黒瀬くんは視線を少し下げて、小さく息をついた。
「……笑ってる顔が、撮れない」
え、と小さく声が漏れた。その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
放送室の空気が一気に冷たくなった気がした。
楓が「撮れないってなんだよ」と言いかけたけれど、葵ちゃんが首を振ってそれを止めた。
黒瀬くんは何も言わず、ただカメラから視線を逸らし、窓の外を見つめていた。ガラスを伝う雨の筋が、彼の横顔を切り取るみたいに映っていた。
――その瞬間、あたしは初めて知った。
映像を撮るってことは、人の心を覗くことなんだって。
撮影がうまくいかない日が続いていた。
黒瀬くんが笑顔のシーンでシャッターを押せなくなってから、放送室の空気は少しずつ重くなっていった。
その日は、朝から雨が降っていた。
放課後、楓はサッカー部の練習。葵ちゃんは塾。放送室には、あたしと黒瀬くんの二人だけ。
窓を打つ雨の音が、部屋いっぱいに響いている。
あたしは机に向かって、次のシーンの絵コンテを描いていた。黒瀬くんは窓際に座って、カメラを膝の上に置いている。
触れているのに、触れていない。まるで、大切なものを扱うのが怖いみたいに。
「……黒瀬くん」
思わず声をかけていた。彼は顔を上げて、こちらを見る。
「なんだ」
「あのさ……」
言葉が続かない。
何を言えばいいんだろう。「大丈夫?」なんて、軽々しく言えない。
黒瀬くんの目の奥には、あたしの知らない景色がある。それが、どれほど痛いものなのか、あたしには分からない。
「……なんでもない」
結局、そう言って視線を逸らした。雨の音だけが、静かに流れる。
しばらくして、黒瀬くんが口を開いた。
「お前、本当に笑顔が好きなんだな」
「え?」
「いつも、笑ってる。どんなときでも」
その声は、責めているわけでも、褒めているわけでもなかった。ただ、不思議そうに言っているだけ。
「うん。笑顔って、あたたかいんだ」
あたしは絵コンテから顔を上げた。
「誰かが笑ってると、こっちまで嬉しくなるでしょ? だから、あたしも笑うの」
黒瀬くんは何も言わずに、雨に煙る窓の外を見ていた。その横顔が、どこか遠くて、でも少しだけ柔らかく見えた。
「……お前の笑顔は、眩しい」
小さな声だった。
「え?」
「だから、撮るのが怖い」
黒瀬くんがこちらを向いた。
その目には、初めて見る感情が浮かんでいた。恐れ、痛み、そして――何か、もっと別の、名前のつけられないもの。
「黒瀬くん……」
「なんでもない」
彼は立ち上がって、カメラを棚に置いた。
「先に帰る」
「あ、待って――」
引き止めようとしたけど、黒瀬くんはもうドアに手をかけていた。振り返って、一瞬だけこちらを見る。
「また明日」
それだけ言って、出ていった。ドアが閉まる音がして、また雨の音だけになった。
窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。笑っているつもりだったのに、目が少し潤んでいた。
「眩しい……」
つぶやいて、窓に額を押し当てる。冷たいガラスが、頬の熱を吸い取っていった。
雨はまだ、やみそうになかった。
撮影がうまくいかなかった日から、あたしたちの間には、少しだけ見えない隙間ができた。みんな同じ場所にいても、心はバラバラな方向を向いているように感じた。
放送室の中で、葵ちゃんは机に向かって黙々と脚本を書き直している。ノートの上を走るペンの音が、時計の音と重なって響く。
楓は軽口を叩いて空気をやわらげようとしてくれるけれど、どこか空回りしていた。
あたしはと言えば、どうやって黒瀬くんに声をかけたらいいのか分からずにいた。
あの日の「笑ってる顔が撮れない」という言葉が、何度も頭の中でリピートして、消えてくれなかった。
どうして、そんなふうに感じたんだろう。
笑顔って、あたしにとっては光のようなものなのに。
昼休み、教室の窓際の席で、あたしはノートを開いた。真っ白なページの真ん中に、大きく『笑顔』と書かれた文字。その二文字を見ていると、胸の奥が少しだけ痛くなった。
胸の奥で言葉がにじむ。
笑顔って、誰かを救うだけのものじゃないのかもしれない。誰かの笑顔が、誰かの心を痛めることもあるんだ。
そんなこと、考えたこともなかった。でも、黒瀬くんのあの顔を見たとき、初めてそう思った。
窓の外では、雨がやんで、曇り空のすき間から光が差している。
教室の隅では、誰かが笑っていた。その笑い声さえも、少しだけ遠く聞こえた。
グラウンドでは、楓がサッカーのボールを蹴っている。彼はボールを追いかけながら、時々こちらの方をちらっと見る。けれど、あたしが気付くと、すぐに視線をそらしてしまう。
楓はいつも通りに明るく見えるけど、その明るさの奥に、何か言えないものを隠しているような気がした。
その日も、放課後の放送室に漂う空気は、どこか重かった。
葵ちゃんは塾があるからと先に帰って、楓はサッカー部の夜練に行くと言って、早めに荷物をまとめて出ていった。
外は、さっきまで雨が降っていた。窓の外のグラウンドはまだぬれていて、白いラインが夕方の光を受けてうっすらと滲んでいる。カーテンのすき間から流れ込む風が、湿った土とアスファルトのにおいを運んできた。
「帰ろう」
黒瀬くんの声がして、あたしは顔を上げた。
机の上にカメラが置かれたままになっている。彼はそれをそっと持ち上げ、レンズキャップを閉めた。
外に出ると、空はもう暗くなっていて、街灯がひとつ、またひとつと点きはじめていた。校門の外の道には、水たまりがいくつもできていて、街灯の明かりを鏡みたいに映している。
小雨はもう止んでいたけれど、空気の中にはまだ、雨の匂いが残っていた。
並んで歩く。
黒瀬くんは無言だった。足音と、遠くで鳴る自転車のベルの音だけが響く。
沈黙が長く続いたあとで、あたしはなんとなく話しかけた。
「……今日も、撮影、あんまり進まなかったね」
「……ああ」
彼の声は、少し遅れて返ってきた。
それだけ。
けれど、その「……ああ」の間に、言葉にならない何かが含まれている気がした。
しばらく歩いたあと、あたしは前を見たまま言った。
「でも、みんな頑張ってるよね。葵ちゃんは脚本をずっと調整してるし、楓も撮れた映像から編集を進めていってる。黒瀬くんは――」
そのあとの言葉が、出てこなかった。「どうして、笑顔が撮れないの」という、その一言が。
沈黙がまた落ちる。
でも、それは気まずい沈黙じゃなかった。どこか、雨上がりの空気みたいに、静かで柔らかい沈黙だった。
その中で、彼がふっとつぶやいた。
「……妹がいたんだ」
声は小さかった。けれど、はっきりと耳に届いた。
あたしは思わず立ち止まりそうになったけれど、黒瀬くんは歩くスピードを変えなかった。あたしもそのまま並んで歩く。心臓の鼓動が、さっきよりも速くなっていた。
「すみれって言うんだ。小さくて、笑うと太陽みたいに顔が明るくなった」
黒瀬くんの声は、少し掠れていた。歩きながら、遠くを見るようにして話している。
「家では、よく写真を撮ってた。光がうまく入ると、あいつの顔がいちばんきれいに撮れた。笑うと、ほんとに、空気まで明るくなるんだ」
彼の言葉のひとつひとつが、雨上がりの風に混じって流れていく。
胸の奥が、じんと熱くなった。あたしは何も言えず、ただ彼の横顔を見た。街灯の光が頬にかかって、影の中に沈んでいく。
「でも、ある日、突然、事故で、……いなくなった」
その言葉は、とても静かだった。静かすぎて、風の音の方が大きく聞こえたくらいだった。
「最後に撮った写真で、あいつは笑ってた。それが、最後だった」
あたしの喉がきゅっと詰まる。何か言いたいのに、言葉が出てこなかった。
雨の匂いが、また強くなって、胸の奥にしみこんでいくようだった。
黒瀬くんは立ち止まらず、淡々と歩きながら言った。
「その写真は、今も消せない。笑顔も、撮れなくなった。……俺が笑顔を撮ると、お前が、すみれみたいに、そのまま消えてしまいそうで」
あたしは立ち止まってしまった。喉の奥が熱くなって、息を吸うのも苦しかった。
彼は少し先で立ち止まり、こちらを振り返った。街灯の光が背中に当たって、輪郭だけが淡く光っている。
あたしは深呼吸をして、胸の奥の言葉を引き出すように口を開いた。
「あたしは、消えないよ」
自分の声が、少し震えていた。
「黒瀬くんがもう一度笑顔を撮れるようになるまで、何度だって笑いかけるから。一緒に笑顔になれるように、あたしが笑うから」
風が吹いた。水たまりの表面が、静かに揺れた。
黒瀬くんの目がわずかに見開かれる。何も言わずに視線をそらしたけれど、その瞳の奥に、一瞬だけ光が宿った。それは、雨上がりの空にかすかに残る夕陽みたいな光だった。
あたしの胸の中にも、同じ光がともった気がした。
二人のあいだを通り抜けた風が、髪をそっと揺らす。風の中には、雨と光のにおいが混ざっていた。そのにおいが、どこか懐かしくて、あたしは小さく、でも確かに笑った。
翌日、放送部の撮影が再開された。
曇り空の下、校舎の屋上に三脚を立てて、黒瀬くんがカメラの位置を調整している。あたしは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
昨日、雨のなかで、黒瀬くんが話してくれたこと。すみれちゃんのこと。笑顔が撮れなくなったこと。そして、あたしが「消えない」と言ったこと。
全部、胸の中であたたかく残っている。
「準備できたぞ」
黒瀬くんが声をかけてくる。その声は、昨日よりも少しだけ明るい気がした。
「うん!」
カメラの前に立つ。ファインダーの向こうから、黒瀬くんの目がこちらを見ている。いつもと同じ、真剣な目。でも、今日は何かが違う。その目の奥に、光が宿っている気がした。
「……撮るぞ」
「待って」
思わず、手を上げていた。あたしは、ファインダーの向こうの彼をまっすぐ見た。
「あたし、何度だって笑うから。だから、怖がらないで」
黒瀬くんの指が、一瞬止まった。風が吹いて、髪が揺れる。屋上の金網が、カタカタと鳴った。
それから、黒瀬くんは小さく頷いた。
「……ああ」
その一言が、今までで一番やわらかく聞こえた。
撮影が始まる。ピッ、と録画の音。
あたしは笑った。作り笑いじゃない。演技でもない。ただ、黒瀬くんがそこにいてくれることが嬉しくて、自然に笑っていた。
黒瀬くんがカメラを下ろして、液晶を確認している。その顔が、ほんの少しだけ笑っていた。
「……撮れた」
小さな声。でも、その声には確かな温度があった。
あたしは駆け寄って、モニターをのぞきこんだ。画面の中の自分は、今まで見たことのない表情をしていた。光を浴びて、風に髪を揺らして、心から笑っている。その笑顔の奥には、何か、悲しみにも似た、でも温かいものが宿っていた。
「これ……」
「お前の、本当の笑顔」
黒瀬くんが言った。
「笑顔は、嬉しいときだけのものじゃない。悲しいときも、苦しいときも、それでも笑おうとする。そういう顔が――」
言葉を切って、黒瀬くんは空を見上げた。
「一番、きれいなんだ」
胸の奥が、熱くなった。黒瀬くんは、あたしのこと、こんなふうに見ていてくれたんだ。ただの明るい笑顔じゃなくて。その奥にあるものまで、ちゃんと見ていてくれたんだ。
「ありがとう」
声が震えた。黒瀬くんは、こちらを向いて、少しだけ笑った。
楓が階段を上がってくる音が聞こえた。
「おーい、撮れたか?」
「うん! ばっちり!」
明るく返事をする。でも、胸の奥では、まだ黒瀬くんの言葉があたたかく響いていた。
空を見上げると、雲の切れ間から光が差し込んでいた。あたしと黒瀬くんの間に、確かに何かが生まれた気がした。それが何なのか、まだ名前はつけられない。でも、温かくて、大切で、消えてほしくないもの。
風が吹いて、髪が揺れた。その風が、二人の間を通り抜けていった。
***
気が付けば、夏になっていた。校舎の外では、ポツポツと蝉が鳴いている。白い壁がまぶしいくらいに光を反射して、どこまでも青い空が広がっていた。
放送室の中は、クーラーのない熱気と、窓から入る風が混ざっている。机の上には、カメラと脚本。そして、あたしたち四人。
黒瀬くんはカメラのレンズを拭いている。その手つきは、まるで何かを大切に撫でているみたいだった。
楓はモニターの画面を見ながら、「今日で撮り終わるな」と言って、いつものように笑う。
葵ちゃんは、脚本の最後のページを静かにめくって、「これで終わり」とつぶやいた。「終わり」って言葉が、胸の奥に少しだけ刺さる。
この夏の光の中で、あたしたちはひとつの物語を作ってきた。だからこそ、終わってしまうのがさびしい。
黒瀬くんが、カメラを構えながら言った。
「……今日のラストシーン、教室で撮ろう。夕陽が入る時間、六時くらいに」
「分かった!」
目が合った瞬間、胸の奥がぽっと熱くなった。何も言わなくても伝わる何かがある気がして、嬉しかった。
外から入ってくる風が、ひまわりの匂いを運んでくる。真夏の空気は重たいけれど、どこか優しかった。
――今日が最後の撮影。
この瞬間を、ちゃんと形に残したい。
教室には、オレンジ色の光が差し込んでいた。窓際のカーテンがゆっくり揺れて、床の上で光が波みたいに動く。机の上のペットボトルが、夕陽を反射してきらきら光っていた。
「準備できたぜ」
楓の声が響く。葵ちゃんは膝の上に脚本を置いて、黙って頷いた。
黒瀬くんがカメラを構え、あたしに視線を向ける。少し緊張して、喉がからからになる。でも、あの目を見ていたら、逃げたくなかった。
黒瀬くんが、小さく言った。
「……このシーン、何度か撮っていいか」
「じゃあ、何度でも笑うね」
撮影開始の音が鳴った。
ピッ。
その音が、教室の空気を震わせた。
最初の笑顔は、まだ少しぎこちなかった。でも、何度も何度も撮っていくうちに、緊張がとけていく。笑うたびに、胸の奥に温かい光が灯るような気がした。
レンズの奥で、黒瀬くんの瞳が光っていた。あたしをまっすぐ見ていて、でもどこか優しかった。まるで、その光の中で生きているのは、あたしだけみたいだった。
「もう一回」
「うん」
ピッ。
光が揺れる。
カメラの中で、あたしの笑顔が、演技から本当に変わっていくのが、自分でもわかった。
そのとき、窓の外から強い風が吹き込んだ。カーテンが大きく揺れて、カメラマイクのコードが外れる。バチン、と音がして、あたしはびっくりして後退った。
「わっ――!」
足が机の脚にぶつかって、バランスを崩す。
その瞬間――黒瀬くんの手が、あたしを抱きとめた。
気づいたら、黒瀬くんの胸の中にいた。息が止まりそうになる。心臓の音が、耳の奥まで響いてくる。
「……ごめん。危なかったから」
黒瀬くんが小さくつぶやいた。あたしは顔を上げて、少し笑った。
「ありがと」
夕陽が二人の間を照らしていた。その光の中で、彼の横顔がやけに近く見えた。胸がドキッと跳ねた。
その光景を、葵ちゃんと楓が少し離れた場所から見ていた。
楓は何かを言いかけて、唇を結んだまま。葵ちゃんは静かに、「良いシーン」とだけつぶやいた。
教室の中に、夏の匂いと、少しの静けさが残った。
数日も経てば、外は、蝉の声でいっぱいだった。放送室の中は、扇風機が回っていて、カタカタと風を切る音がしていた。
「ここ、フェード入れるな」
楓がモニターの前に座って、編集ソフトを操作している。葵ちゃんはその横で脚本を抱え、黙って画面を見つめていた。あたしと黒瀬くんは後ろに並んで、完成間近の映像を見ている。
モニターの中には、夕陽の教室で笑顔を浮かべるあたし。その映像は、想像していたよりずっとやさしくて、あたたかかった。
「……綺麗に撮れてるじゃん」
楓が言った。その声は穏やかだったけど、どこか胸の奥に沈むような響きがあった。
あたしはよくわからないまま、「でしょ!」と笑って同意した。葵ちゃんは「呼吸が合ってきたね」と言って、小さく微笑んだ。黒瀬くんは少し間を置いて、短く言った。
「悪くない」
その一言が、夏の風みたいに胸に広がった。嬉しくて、ちょっと泣きそうになる。
葵ちゃんが静かに言った。
「この映像、きっと届く」
楓が少しうなずいて、編集を進める。フェードアウトのタイミングを調整する彼の指先が、少し震えていた。
蝉の声が遠くで響く。放送室の空気が、ひとつの呼吸みたいにそろっていく。
帰り道。太陽はもう沈みかけていて、校舎の影が長く伸びていた。濡れたアスファルトの上に、夕焼けの色が映っている。
あたしと黒瀬くんは、並んで歩いていた。
カメラのストラップが、彼の肩で小さく揺れている。それを見るたび、あのときの教室の光を思い出す。
「……お前の笑顔、ちゃんと撮れた」
黒瀬くんが言った。
「じゃあ、次はあたしが黒瀬くんを撮る番だね」
「俺を?」
「うん。笑ってるところ、今度はあたしが撮りたい」
黒瀬くんは少し驚いたように目を瞬かせて、それから、ふっと笑った。その笑顔は、あたしが知っているどんな笑顔よりも、やわらかかった。
夕暮れの風が、髪を揺らす。空がゆっくりと紫に変わっていく。
――たぶんあたしは、この瞬間を、ずっと忘れない。
世界が金色に染まって、心の奥まで光が届いていた。
***
風の色が変わった。校舎の裏の木々が少しずつ赤くなって、空の青もどこかやわらかく見える。
あたしたちが作った初めてのテレビドラマ『笑顔』は、いよいよコンテストに出す時期を迎えていた。
放送室の窓を開けると、冷たい風がふわりと入ってくる。夏の終わりの匂いと、秋の始まりの匂いがまざったような風。
パソコンとにらめっこをして編集を続ける楓。その視線の先には、あたしたちが撮った映像のタイムラインが並んでいる。
「……ここのフェード、あと一秒遅くしてみようか」
黒瀬くんの指がモニターの上をすべる。
映像の中で、夕陽の光がゆっくりと消えていった。
「うん、いい感じ!」
あたしは嬉しくなって身を乗り出す。
光の残り方ひとつで、こんなにも印象が変わるなんて。
黒瀬くんの横顔を見ながら、あたしはあらためて思った。この人は、光を見つける人なんだって。
葵ちゃんは後ろで脚本を抱えて、モニターを見つめていた。
「いいね」
その声は落ち着いていて、でも少しうれしそうだった。
楓は黒瀬くんの指示に従ってパソコンを操作しながら、ふーっと息を吐いた。
「やっと完成か。長かったな」
「でも、あっという間だったよね」
あたしが言うと、楓は「お前だけだろ」と笑って肩をすくめた。けれど、その笑顔の奥にはどこか優しい影が見えた。
コンテストの応募締め切りまであと数日。
放送室の空気はどこか特別だった。放課後の光が窓から差しこんで、チョークの粉をきらきら光らせている。
編集が終わったあとも、あたしたちは何度も再生ボタンを押した。
――笑顔のあたし。
――カメラを構える黒瀬くん。
――パソコンと向き合う楓。
――脚本を見つめる葵ちゃん。
画面に直接映っているわけではないけど、その全部が、映像の中で呼吸していた。あの夏の光も、あの日の風も、ちゃんとそこにあった。
提出が終わった帰り道。夕焼け空の下、あたしたちは四人で歩いていた。
「なんか、終わっちゃったね」
ぽつりとつぶやくと、楓がすぐに返した。
「終わりじゃねえよ。始まりだろ」
そう言って笑う彼の声が、秋の空気にやさしく溶けていった。
「コンテスト、行かないと」
葵ちゃんの言葉に、あたしの胸が少し高鳴る。
黒瀬くんは小さく「ああ」とつぶやいただけだったけど、その声には決意がこもっていた
梅雨の湿気は空気の奥まで染み込んで、少し動くだけで制服が肌に張りつくような気がする。
そんな中、あたしたちは今日も撮影をしていた。けれど、どうにも上手くいかない日が続いていた。
撮影が思ったように進まない。
葵ちゃんの脚本はすごいけど、映像にするとどこか硬くて、動きが出ない。
楓は「もうすぐ撮り終えたい」と言うあたしの言葉に、「クオリティより完成優先でいいだろ」と笑ってくれるけど、笑いの中に少しだけ焦りが混じっている気がした。
葵ちゃんは机に座って、黙々と脚本を見直している。あの落ち着いた姿を見ると、なぜか少し安心する。
でも、いちばん問題なのは――黒瀬くんだった。
彼はカメラを構えているけれど、なかなかシャッターを押さない。
レンズの向こうで、いつも何かを探しているように見える。その横顔は静かで、集中しているようで、どこか遠くにいるみたいだった。
「流れが止まってる」
葵ちゃんがぽつりとつぶやいた。その声が放送室の湿った空気に溶けていく。
今日の撮影は、ドラマの中で主人公が『笑って』台詞を言う場面だった。
笑顔のシーン。あたしは自分の笑顔にはちょっと自信があった。見ている人の心を明るくするような、そんな表情を作れたらと思っていた。
けれど、黒瀬くんの手は途中で止まった。
シャッターの音が、鳴らない。
放送室の中に、時計の秒針の音だけが響いている。息を飲むような静けさ。窓の外で蝉の声がかすかに鳴いて、近づきつつある夏を思わせた。
「どうしたの?」
思わず声をかけると、黒瀬くんは視線を少し下げて、小さく息をついた。
「……笑ってる顔が、撮れない」
え、と小さく声が漏れた。その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
放送室の空気が一気に冷たくなった気がした。
楓が「撮れないってなんだよ」と言いかけたけれど、葵ちゃんが首を振ってそれを止めた。
黒瀬くんは何も言わず、ただカメラから視線を逸らし、窓の外を見つめていた。ガラスを伝う雨の筋が、彼の横顔を切り取るみたいに映っていた。
――その瞬間、あたしは初めて知った。
映像を撮るってことは、人の心を覗くことなんだって。
撮影がうまくいかない日が続いていた。
黒瀬くんが笑顔のシーンでシャッターを押せなくなってから、放送室の空気は少しずつ重くなっていった。
その日は、朝から雨が降っていた。
放課後、楓はサッカー部の練習。葵ちゃんは塾。放送室には、あたしと黒瀬くんの二人だけ。
窓を打つ雨の音が、部屋いっぱいに響いている。
あたしは机に向かって、次のシーンの絵コンテを描いていた。黒瀬くんは窓際に座って、カメラを膝の上に置いている。
触れているのに、触れていない。まるで、大切なものを扱うのが怖いみたいに。
「……黒瀬くん」
思わず声をかけていた。彼は顔を上げて、こちらを見る。
「なんだ」
「あのさ……」
言葉が続かない。
何を言えばいいんだろう。「大丈夫?」なんて、軽々しく言えない。
黒瀬くんの目の奥には、あたしの知らない景色がある。それが、どれほど痛いものなのか、あたしには分からない。
「……なんでもない」
結局、そう言って視線を逸らした。雨の音だけが、静かに流れる。
しばらくして、黒瀬くんが口を開いた。
「お前、本当に笑顔が好きなんだな」
「え?」
「いつも、笑ってる。どんなときでも」
その声は、責めているわけでも、褒めているわけでもなかった。ただ、不思議そうに言っているだけ。
「うん。笑顔って、あたたかいんだ」
あたしは絵コンテから顔を上げた。
「誰かが笑ってると、こっちまで嬉しくなるでしょ? だから、あたしも笑うの」
黒瀬くんは何も言わずに、雨に煙る窓の外を見ていた。その横顔が、どこか遠くて、でも少しだけ柔らかく見えた。
「……お前の笑顔は、眩しい」
小さな声だった。
「え?」
「だから、撮るのが怖い」
黒瀬くんがこちらを向いた。
その目には、初めて見る感情が浮かんでいた。恐れ、痛み、そして――何か、もっと別の、名前のつけられないもの。
「黒瀬くん……」
「なんでもない」
彼は立ち上がって、カメラを棚に置いた。
「先に帰る」
「あ、待って――」
引き止めようとしたけど、黒瀬くんはもうドアに手をかけていた。振り返って、一瞬だけこちらを見る。
「また明日」
それだけ言って、出ていった。ドアが閉まる音がして、また雨の音だけになった。
窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。笑っているつもりだったのに、目が少し潤んでいた。
「眩しい……」
つぶやいて、窓に額を押し当てる。冷たいガラスが、頬の熱を吸い取っていった。
雨はまだ、やみそうになかった。
撮影がうまくいかなかった日から、あたしたちの間には、少しだけ見えない隙間ができた。みんな同じ場所にいても、心はバラバラな方向を向いているように感じた。
放送室の中で、葵ちゃんは机に向かって黙々と脚本を書き直している。ノートの上を走るペンの音が、時計の音と重なって響く。
楓は軽口を叩いて空気をやわらげようとしてくれるけれど、どこか空回りしていた。
あたしはと言えば、どうやって黒瀬くんに声をかけたらいいのか分からずにいた。
あの日の「笑ってる顔が撮れない」という言葉が、何度も頭の中でリピートして、消えてくれなかった。
どうして、そんなふうに感じたんだろう。
笑顔って、あたしにとっては光のようなものなのに。
昼休み、教室の窓際の席で、あたしはノートを開いた。真っ白なページの真ん中に、大きく『笑顔』と書かれた文字。その二文字を見ていると、胸の奥が少しだけ痛くなった。
胸の奥で言葉がにじむ。
笑顔って、誰かを救うだけのものじゃないのかもしれない。誰かの笑顔が、誰かの心を痛めることもあるんだ。
そんなこと、考えたこともなかった。でも、黒瀬くんのあの顔を見たとき、初めてそう思った。
窓の外では、雨がやんで、曇り空のすき間から光が差している。
教室の隅では、誰かが笑っていた。その笑い声さえも、少しだけ遠く聞こえた。
グラウンドでは、楓がサッカーのボールを蹴っている。彼はボールを追いかけながら、時々こちらの方をちらっと見る。けれど、あたしが気付くと、すぐに視線をそらしてしまう。
楓はいつも通りに明るく見えるけど、その明るさの奥に、何か言えないものを隠しているような気がした。
その日も、放課後の放送室に漂う空気は、どこか重かった。
葵ちゃんは塾があるからと先に帰って、楓はサッカー部の夜練に行くと言って、早めに荷物をまとめて出ていった。
外は、さっきまで雨が降っていた。窓の外のグラウンドはまだぬれていて、白いラインが夕方の光を受けてうっすらと滲んでいる。カーテンのすき間から流れ込む風が、湿った土とアスファルトのにおいを運んできた。
「帰ろう」
黒瀬くんの声がして、あたしは顔を上げた。
机の上にカメラが置かれたままになっている。彼はそれをそっと持ち上げ、レンズキャップを閉めた。
外に出ると、空はもう暗くなっていて、街灯がひとつ、またひとつと点きはじめていた。校門の外の道には、水たまりがいくつもできていて、街灯の明かりを鏡みたいに映している。
小雨はもう止んでいたけれど、空気の中にはまだ、雨の匂いが残っていた。
並んで歩く。
黒瀬くんは無言だった。足音と、遠くで鳴る自転車のベルの音だけが響く。
沈黙が長く続いたあとで、あたしはなんとなく話しかけた。
「……今日も、撮影、あんまり進まなかったね」
「……ああ」
彼の声は、少し遅れて返ってきた。
それだけ。
けれど、その「……ああ」の間に、言葉にならない何かが含まれている気がした。
しばらく歩いたあと、あたしは前を見たまま言った。
「でも、みんな頑張ってるよね。葵ちゃんは脚本をずっと調整してるし、楓も撮れた映像から編集を進めていってる。黒瀬くんは――」
そのあとの言葉が、出てこなかった。「どうして、笑顔が撮れないの」という、その一言が。
沈黙がまた落ちる。
でも、それは気まずい沈黙じゃなかった。どこか、雨上がりの空気みたいに、静かで柔らかい沈黙だった。
その中で、彼がふっとつぶやいた。
「……妹がいたんだ」
声は小さかった。けれど、はっきりと耳に届いた。
あたしは思わず立ち止まりそうになったけれど、黒瀬くんは歩くスピードを変えなかった。あたしもそのまま並んで歩く。心臓の鼓動が、さっきよりも速くなっていた。
「すみれって言うんだ。小さくて、笑うと太陽みたいに顔が明るくなった」
黒瀬くんの声は、少し掠れていた。歩きながら、遠くを見るようにして話している。
「家では、よく写真を撮ってた。光がうまく入ると、あいつの顔がいちばんきれいに撮れた。笑うと、ほんとに、空気まで明るくなるんだ」
彼の言葉のひとつひとつが、雨上がりの風に混じって流れていく。
胸の奥が、じんと熱くなった。あたしは何も言えず、ただ彼の横顔を見た。街灯の光が頬にかかって、影の中に沈んでいく。
「でも、ある日、突然、事故で、……いなくなった」
その言葉は、とても静かだった。静かすぎて、風の音の方が大きく聞こえたくらいだった。
「最後に撮った写真で、あいつは笑ってた。それが、最後だった」
あたしの喉がきゅっと詰まる。何か言いたいのに、言葉が出てこなかった。
雨の匂いが、また強くなって、胸の奥にしみこんでいくようだった。
黒瀬くんは立ち止まらず、淡々と歩きながら言った。
「その写真は、今も消せない。笑顔も、撮れなくなった。……俺が笑顔を撮ると、お前が、すみれみたいに、そのまま消えてしまいそうで」
あたしは立ち止まってしまった。喉の奥が熱くなって、息を吸うのも苦しかった。
彼は少し先で立ち止まり、こちらを振り返った。街灯の光が背中に当たって、輪郭だけが淡く光っている。
あたしは深呼吸をして、胸の奥の言葉を引き出すように口を開いた。
「あたしは、消えないよ」
自分の声が、少し震えていた。
「黒瀬くんがもう一度笑顔を撮れるようになるまで、何度だって笑いかけるから。一緒に笑顔になれるように、あたしが笑うから」
風が吹いた。水たまりの表面が、静かに揺れた。
黒瀬くんの目がわずかに見開かれる。何も言わずに視線をそらしたけれど、その瞳の奥に、一瞬だけ光が宿った。それは、雨上がりの空にかすかに残る夕陽みたいな光だった。
あたしの胸の中にも、同じ光がともった気がした。
二人のあいだを通り抜けた風が、髪をそっと揺らす。風の中には、雨と光のにおいが混ざっていた。そのにおいが、どこか懐かしくて、あたしは小さく、でも確かに笑った。
翌日、放送部の撮影が再開された。
曇り空の下、校舎の屋上に三脚を立てて、黒瀬くんがカメラの位置を調整している。あたしは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
昨日、雨のなかで、黒瀬くんが話してくれたこと。すみれちゃんのこと。笑顔が撮れなくなったこと。そして、あたしが「消えない」と言ったこと。
全部、胸の中であたたかく残っている。
「準備できたぞ」
黒瀬くんが声をかけてくる。その声は、昨日よりも少しだけ明るい気がした。
「うん!」
カメラの前に立つ。ファインダーの向こうから、黒瀬くんの目がこちらを見ている。いつもと同じ、真剣な目。でも、今日は何かが違う。その目の奥に、光が宿っている気がした。
「……撮るぞ」
「待って」
思わず、手を上げていた。あたしは、ファインダーの向こうの彼をまっすぐ見た。
「あたし、何度だって笑うから。だから、怖がらないで」
黒瀬くんの指が、一瞬止まった。風が吹いて、髪が揺れる。屋上の金網が、カタカタと鳴った。
それから、黒瀬くんは小さく頷いた。
「……ああ」
その一言が、今までで一番やわらかく聞こえた。
撮影が始まる。ピッ、と録画の音。
あたしは笑った。作り笑いじゃない。演技でもない。ただ、黒瀬くんがそこにいてくれることが嬉しくて、自然に笑っていた。
黒瀬くんがカメラを下ろして、液晶を確認している。その顔が、ほんの少しだけ笑っていた。
「……撮れた」
小さな声。でも、その声には確かな温度があった。
あたしは駆け寄って、モニターをのぞきこんだ。画面の中の自分は、今まで見たことのない表情をしていた。光を浴びて、風に髪を揺らして、心から笑っている。その笑顔の奥には、何か、悲しみにも似た、でも温かいものが宿っていた。
「これ……」
「お前の、本当の笑顔」
黒瀬くんが言った。
「笑顔は、嬉しいときだけのものじゃない。悲しいときも、苦しいときも、それでも笑おうとする。そういう顔が――」
言葉を切って、黒瀬くんは空を見上げた。
「一番、きれいなんだ」
胸の奥が、熱くなった。黒瀬くんは、あたしのこと、こんなふうに見ていてくれたんだ。ただの明るい笑顔じゃなくて。その奥にあるものまで、ちゃんと見ていてくれたんだ。
「ありがとう」
声が震えた。黒瀬くんは、こちらを向いて、少しだけ笑った。
楓が階段を上がってくる音が聞こえた。
「おーい、撮れたか?」
「うん! ばっちり!」
明るく返事をする。でも、胸の奥では、まだ黒瀬くんの言葉があたたかく響いていた。
空を見上げると、雲の切れ間から光が差し込んでいた。あたしと黒瀬くんの間に、確かに何かが生まれた気がした。それが何なのか、まだ名前はつけられない。でも、温かくて、大切で、消えてほしくないもの。
風が吹いて、髪が揺れた。その風が、二人の間を通り抜けていった。
***
気が付けば、夏になっていた。校舎の外では、ポツポツと蝉が鳴いている。白い壁がまぶしいくらいに光を反射して、どこまでも青い空が広がっていた。
放送室の中は、クーラーのない熱気と、窓から入る風が混ざっている。机の上には、カメラと脚本。そして、あたしたち四人。
黒瀬くんはカメラのレンズを拭いている。その手つきは、まるで何かを大切に撫でているみたいだった。
楓はモニターの画面を見ながら、「今日で撮り終わるな」と言って、いつものように笑う。
葵ちゃんは、脚本の最後のページを静かにめくって、「これで終わり」とつぶやいた。「終わり」って言葉が、胸の奥に少しだけ刺さる。
この夏の光の中で、あたしたちはひとつの物語を作ってきた。だからこそ、終わってしまうのがさびしい。
黒瀬くんが、カメラを構えながら言った。
「……今日のラストシーン、教室で撮ろう。夕陽が入る時間、六時くらいに」
「分かった!」
目が合った瞬間、胸の奥がぽっと熱くなった。何も言わなくても伝わる何かがある気がして、嬉しかった。
外から入ってくる風が、ひまわりの匂いを運んでくる。真夏の空気は重たいけれど、どこか優しかった。
――今日が最後の撮影。
この瞬間を、ちゃんと形に残したい。
教室には、オレンジ色の光が差し込んでいた。窓際のカーテンがゆっくり揺れて、床の上で光が波みたいに動く。机の上のペットボトルが、夕陽を反射してきらきら光っていた。
「準備できたぜ」
楓の声が響く。葵ちゃんは膝の上に脚本を置いて、黙って頷いた。
黒瀬くんがカメラを構え、あたしに視線を向ける。少し緊張して、喉がからからになる。でも、あの目を見ていたら、逃げたくなかった。
黒瀬くんが、小さく言った。
「……このシーン、何度か撮っていいか」
「じゃあ、何度でも笑うね」
撮影開始の音が鳴った。
ピッ。
その音が、教室の空気を震わせた。
最初の笑顔は、まだ少しぎこちなかった。でも、何度も何度も撮っていくうちに、緊張がとけていく。笑うたびに、胸の奥に温かい光が灯るような気がした。
レンズの奥で、黒瀬くんの瞳が光っていた。あたしをまっすぐ見ていて、でもどこか優しかった。まるで、その光の中で生きているのは、あたしだけみたいだった。
「もう一回」
「うん」
ピッ。
光が揺れる。
カメラの中で、あたしの笑顔が、演技から本当に変わっていくのが、自分でもわかった。
そのとき、窓の外から強い風が吹き込んだ。カーテンが大きく揺れて、カメラマイクのコードが外れる。バチン、と音がして、あたしはびっくりして後退った。
「わっ――!」
足が机の脚にぶつかって、バランスを崩す。
その瞬間――黒瀬くんの手が、あたしを抱きとめた。
気づいたら、黒瀬くんの胸の中にいた。息が止まりそうになる。心臓の音が、耳の奥まで響いてくる。
「……ごめん。危なかったから」
黒瀬くんが小さくつぶやいた。あたしは顔を上げて、少し笑った。
「ありがと」
夕陽が二人の間を照らしていた。その光の中で、彼の横顔がやけに近く見えた。胸がドキッと跳ねた。
その光景を、葵ちゃんと楓が少し離れた場所から見ていた。
楓は何かを言いかけて、唇を結んだまま。葵ちゃんは静かに、「良いシーン」とだけつぶやいた。
教室の中に、夏の匂いと、少しの静けさが残った。
数日も経てば、外は、蝉の声でいっぱいだった。放送室の中は、扇風機が回っていて、カタカタと風を切る音がしていた。
「ここ、フェード入れるな」
楓がモニターの前に座って、編集ソフトを操作している。葵ちゃんはその横で脚本を抱え、黙って画面を見つめていた。あたしと黒瀬くんは後ろに並んで、完成間近の映像を見ている。
モニターの中には、夕陽の教室で笑顔を浮かべるあたし。その映像は、想像していたよりずっとやさしくて、あたたかかった。
「……綺麗に撮れてるじゃん」
楓が言った。その声は穏やかだったけど、どこか胸の奥に沈むような響きがあった。
あたしはよくわからないまま、「でしょ!」と笑って同意した。葵ちゃんは「呼吸が合ってきたね」と言って、小さく微笑んだ。黒瀬くんは少し間を置いて、短く言った。
「悪くない」
その一言が、夏の風みたいに胸に広がった。嬉しくて、ちょっと泣きそうになる。
葵ちゃんが静かに言った。
「この映像、きっと届く」
楓が少しうなずいて、編集を進める。フェードアウトのタイミングを調整する彼の指先が、少し震えていた。
蝉の声が遠くで響く。放送室の空気が、ひとつの呼吸みたいにそろっていく。
帰り道。太陽はもう沈みかけていて、校舎の影が長く伸びていた。濡れたアスファルトの上に、夕焼けの色が映っている。
あたしと黒瀬くんは、並んで歩いていた。
カメラのストラップが、彼の肩で小さく揺れている。それを見るたび、あのときの教室の光を思い出す。
「……お前の笑顔、ちゃんと撮れた」
黒瀬くんが言った。
「じゃあ、次はあたしが黒瀬くんを撮る番だね」
「俺を?」
「うん。笑ってるところ、今度はあたしが撮りたい」
黒瀬くんは少し驚いたように目を瞬かせて、それから、ふっと笑った。その笑顔は、あたしが知っているどんな笑顔よりも、やわらかかった。
夕暮れの風が、髪を揺らす。空がゆっくりと紫に変わっていく。
――たぶんあたしは、この瞬間を、ずっと忘れない。
世界が金色に染まって、心の奥まで光が届いていた。
***
風の色が変わった。校舎の裏の木々が少しずつ赤くなって、空の青もどこかやわらかく見える。
あたしたちが作った初めてのテレビドラマ『笑顔』は、いよいよコンテストに出す時期を迎えていた。
放送室の窓を開けると、冷たい風がふわりと入ってくる。夏の終わりの匂いと、秋の始まりの匂いがまざったような風。
パソコンとにらめっこをして編集を続ける楓。その視線の先には、あたしたちが撮った映像のタイムラインが並んでいる。
「……ここのフェード、あと一秒遅くしてみようか」
黒瀬くんの指がモニターの上をすべる。
映像の中で、夕陽の光がゆっくりと消えていった。
「うん、いい感じ!」
あたしは嬉しくなって身を乗り出す。
光の残り方ひとつで、こんなにも印象が変わるなんて。
黒瀬くんの横顔を見ながら、あたしはあらためて思った。この人は、光を見つける人なんだって。
葵ちゃんは後ろで脚本を抱えて、モニターを見つめていた。
「いいね」
その声は落ち着いていて、でも少しうれしそうだった。
楓は黒瀬くんの指示に従ってパソコンを操作しながら、ふーっと息を吐いた。
「やっと完成か。長かったな」
「でも、あっという間だったよね」
あたしが言うと、楓は「お前だけだろ」と笑って肩をすくめた。けれど、その笑顔の奥にはどこか優しい影が見えた。
コンテストの応募締め切りまであと数日。
放送室の空気はどこか特別だった。放課後の光が窓から差しこんで、チョークの粉をきらきら光らせている。
編集が終わったあとも、あたしたちは何度も再生ボタンを押した。
――笑顔のあたし。
――カメラを構える黒瀬くん。
――パソコンと向き合う楓。
――脚本を見つめる葵ちゃん。
画面に直接映っているわけではないけど、その全部が、映像の中で呼吸していた。あの夏の光も、あの日の風も、ちゃんとそこにあった。
提出が終わった帰り道。夕焼け空の下、あたしたちは四人で歩いていた。
「なんか、終わっちゃったね」
ぽつりとつぶやくと、楓がすぐに返した。
「終わりじゃねえよ。始まりだろ」
そう言って笑う彼の声が、秋の空気にやさしく溶けていった。
「コンテスト、行かないと」
葵ちゃんの言葉に、あたしの胸が少し高鳴る。
黒瀬くんは小さく「ああ」とつぶやいただけだったけど、その声には決意がこもっていた
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