Al-Harara fi Ramad

ナタ=デ=ココ

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冷たい祈り

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 夜明け前、遠くの尖塔から礼拝の時刻を告げる声が響いた。
 その声に応じるように、聖都の人々は一斉に目を覚ます。家々の扉が開き、同じ方角へ向かって額を地につける姿が、通りのあちこちに並んだ。
 この聖都では、祈りが朝を呼ぶ。
 ここは神権政府が統べる地である。法学者――神学を修め、聖典を読み解く学者にして為政者――が人々の生活のすべてを定めていた。一日五度の礼拝、清めの作法、禁忌の数々。神の言葉だけが法であり、それを解釈できる者達だけが、この国を動かしていた。
 僕もまた、その声に導かれて目を覚ました。
 冷たい水で顔を洗い、部屋の中央に敷かれた絨毯の上に立つ。身体の向きを整え、膝を折り、額を地につける。決まった祈りを唱える。それは短く、意味を考えるまでもないほど体に染みついていた。
 背筋を丸め、頭を下げ、祈りを捧げること。
 それが、正しい朝の始まりだった。

 礼拝堂の回廊を歩くと、すれ違う法学者達が静かに礼を交わす。彼らは僕を知っている。氷を操る力を持つ、神に選ばれた特別な存在として。僕は法学者ではないけれど、この聖都で生まれ、法学者達に育てられ、神のために生きることを教えられてきた。
 この力は祝福なのだと。
 僕の存在意義そのものなのだと。
 途中、風に焦げた匂いが混じった。香油の甘い香りの奥に、焦げた木と煙の気配がする。通りの向こうで、一人の法学者が小声で言う。
「夜のうちに市場で火事があったそうです。灯籠が燃えたとか」
「嫌な匂いだ」
 僕は短く答え、歩き続けた。街で何かが燃えることは珍しくない。この街では、炎すらも神が望んだ浄化と考えられていた。

 夜の名残がまだ空に滲む頃、礼拝堂の扉を押し開いた。外の空気が流れ込み、砂と香油の混ざった匂いが胸に広がる。
 通りには、すでに巡礼の人々が集まっていた。遠方から来た者達は、布の衣をまとい、手に細い灯を掲げている。
 法学者達が香炉に火を入れ、薄い煙が天へと昇っていく。
 僕は両手を胸の前に掲げた。掌の中で、空気が震える。
 熱を奪い、世界の温度を整える――それが僕の役割だ。
 呼吸を整えながら、指をひとつ、またひとつ動かす。僕の周囲に、氷の粒が生まれては漂い、ゆっくりと形を変えていく。硝子よりも繊細で、祈りの文様のような模様を描いた。氷の輪郭が光を反射し、壁に青い影を落とす。まるで神の言葉が、氷の形でこの世界に刻まれていくようだった。
 僕はそのまま目を閉じ、微かに微笑んだ。
「神の導きがあらんことを」
 瞬間、外から、悲鳴が聞こえた。
 最初は風の音に混じった錯覚だと思った。しかし、次に聞こえたのは、確かに人の声だった。
 それも、祈りではない。
 焼けるような叫び。
 法学者達が顔を見合わせる。ひとりが巡礼者達に道を開けるように指示する。次の瞬間、血のような光が通路に差し込んだ。
「炎だ!」
 誰かが叫ぶと同時に、爆発音が響いた。扉の外で何かが弾け、硝子が砕け散る。衝撃で堂の柱が軋み、天井のステンドグラスに亀裂が走る。赤、橙、青。光が裂け、まるで世界そのものが悲鳴を上げているようだった。
 外では、人々が燃えていた。
 長く続いていたはずの巡礼の列が崩れ、悲鳴と祈りが入り混じる。
 そのとき、炎の中から、ひとつの影が現れた。
 燃え上がる煙の向こうに、赤い瞳がゆらめいた。歩みは静かだった。その足が地に触れるたび、火の粉が散り、焦げた匂いが広がる。黒く焼けた衣の隙間から、青白い炎が漏れている。それは、人の姿をした炎そのものだった。
 彼の後ろには、同じ印をつけた者達が続いている。反政府組織〈アルミナ〉――異端の名。
 その炎が、聖なる朝を血と煙に塗り替えていく。
「退け!」
 僕は思わず声を上げた。
 法学者達は戦いの始まりを理解し、一斉にその場を離れる。
 扉の向こうで、炎の男が立ち止まり、ゆっくりと僕を見た。その目は、笑っていた。
「祈りの言葉はいらないのか」
 男の声は低く、掠れた声だった。
 僕の手のひらが自然と冷たくなる。息を吸い、足元の空気を凍らせた。氷が走る音が床を伝い、僕の影の形を変える。細かい結晶が広がり、壁を這うようにして礼拝堂を包んだ。硝子の破片に映る光が、青く揺らぐ。
「ここは聖地である。異端者は、万死に値する」
 僕は静かに言った。
 その言葉に、男はわずかに口角を上げた。その笑みは、無数の人間の憎悪を煮詰めたような、狂った笑みだった。
「神とともに死ね」
 次の瞬間、蒼い炎が爆ぜた。空気が悲鳴を上げ、熱風が押し寄せる。皮膚が焼ける匂いが充満し、光が、目を突く。
 祈りの場が、一瞬で戦場になった。
 僕は反射的に冷気を走らせた。足元の大理石が冷え、氷が花の様に咲いた。
 薄い膜のように冷気を身にまとい、熱を遮る。胸の奥が軋み、呼吸が凍る。
 炎が床を舐め、蒼の奔流が押し寄せる。視界が揺れ、音が遠ざかる。周囲が熱に包まれ、喉が焼けつくように乾いた。
 男の炎が押し寄せるたびに、身にまとった冷気を放ち、相殺する。幾度となく衝突し合う熱気と冷気により生み出された蒸気の中で、僕は息を詰めたまま前進する。思考より先に、身体が命じている。
 異端者を討てと。
 しかし、時が進むにつれ、炎の色が、少し違う気がした。ほんの刹那、蒼の奥に黒い影が混じる。煙が、男の背から立ちのぼっている。
 ――男の身体が、焼けている。
 そのことに気づいた瞬間、胸がざわついた。喉の奥に、スッと冷気が通るような感覚。言葉にするより早く、体が動いていた。
 僕は息を吸い、手元に意識を集中する。氷の破片が空中で集まり、刃となって放たれると、それは男の足元に突き刺さり、火花が散る。それと同時に、彼の炎が揺らいだ。
「貴様、自らを焼いているのか」
 声が震えたのは、熱のせいだろうか。
 男は薄く笑った。その笑みは痛みと同じ形をしていた。
「ああ、そうさ。ともに死んでくれるか、お前も、神も」
 彼が踏み込み、炎が地を這う。床が赤く染まり、空気が唸る。僕は足を叩きつけ、氷を走らせた。霜が瞬時に広がり、冷気が舞う。
 礼拝堂の外から、風が吹いた。冷たい空気が流れ込み、その流れに水分の粒が揺れているのを、肌で感じる。
 僕は目を閉じ、息を整えた。
 ――来い。
 瞬間、空気の震えが変わる。天井から、細かい霜が舞い降りてくる。それらが僕の周囲に集まり、ひとつの形を作る。氷の群れが、光を反射して揺れた。
 彼の表情が変わる。驚きの色が、ほんの一瞬だけその瞳に宿り、炎がためらいを見せた。
 僕はその隙を逃さずに、氷を一斉に操り、鋭い音を立てて空気を裂く。白い閃光が走り、氷の刃が彼の肩を裂いた。血が蒸発し、焦げた匂いが満ちる。
 それでも、彼は笑っていた。
「上等じゃねえか」
 声とともに、蒼炎が再び膨れあがる。だが、もう遅い。僕は彼の喉元に氷の刃を突き刺し、地に固定すると、間髪入れずに彼の足元を凍り付かせ、身動きのとれないようにした。
「貴様は、我らが父により裁かれるのだ。」
 その声が、冷たく響く。血反吐を吐きながらも、彼は口角を上げ、吐き捨てる。
「……偽りを、殺す」
 瞳の奥の蒼炎が淡く揺れ、やがて消えた。
 僕は背を向け、崩れた天井を見上げた。そこから差し込む光は、温かくも眩しくもなかった。
 ただ、白かった。祈りの色を失った光だけが、静かに床を照らしていた。
 ――判決は、神のみぞ知る。
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