スノードロップに祈りを

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スノードロップに祈りを

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 はじめて感じたのは、輪郭のない暗がりだった。
 僕は、自分が誰なのかも、何でできているのかもわからなかった。ただ、この世界のどこかに、自分というかたちが置かれているらしいということだけを、ぼんやりと知っていた。
 触れることも、歩くこともできないかわりに、わずかな空気の震えだけが、世界と僕とをつなぐ糸になっていた。
 視界には、薄い膜越しに光の気配があった。光そのものを見ているというより、遠くで誰かが灯りをつけたという事実だけがぼんやりと伝わってくるような、そんな感覚だった。白とも黒ともつかないぼやけた明暗が、ゆっくりと揺れている。
 自分という輪郭はなかった。
 空気と皮膚との境目も、手足の位置もわからない。僕はただ、柔らかく、あたたかい暗がりに沈められている。そこに、水流のような温度の揺らぎが、時折、かすかな波紋を描いていた。
 しばらくして、光が少しだけ強くなった気がした。
 遠くから、布の擦れる音が近づいてくる。床を踏む重さが、空気を震わせる。その気配が近くまで来たかと思うと、かすかに硬いものとガラスとが触れ合う音がした。
 コンッと小さな音。
 続いて、水が注がれる、さらさらとした音。
 木製の机上に置かれたガラス花瓶に、水が満たされていくのだと、何故だかわかった。透明なものの内側に冷たい水が溜まり、その水面がわずかに揺れる様子が、世界の震えとして伝わってくる。
 そのあとで、細いものが水を切る音がした。一本。また一本と。何かが、ゆっくりと水の中に挿し入れられていく。
 その音を聞いていると、胸の奥で、水面に石が落ちたような微かな波紋が広がった。
 自分に胸があるのかどうかすら、はっきりとは知らないけれど、その瞬間、確かに、内側から何かが波打った。
 理由はわからなかった。花瓶に何が挿されたのか、どんな形をしているのかもわからない。
 それでも、そこに、何か大切なものがある。そう思った。何かという言葉でしか言えない、名もない予感が、静かに胸を満たしていった。
 僕のすぐそばに、誰かが座る。
 椅子が、ごく小さく軋む音で、その人がゆっくり腰を下ろしたのだとわかった。
 その気配には、悲しみと優しさが同時に滲んでいる。冷たい指でそっと撫でられるような、どこか頼りなくて、それでも確かにそこにある温度。
 近くから、声がした。
 低く、柔らかな声。音の輪郭はゆるやかだが、その内側に、かすかな震えがある。怯えのような、ためらいのような震えだった。言葉の意味までは届かない。けれど、ひとつひとつの音が、慎重に選ばれ、僕のほうへとそっと差し出されていく気配だけは、はっきりと感じられた。
 指先が、近づいてくる。
 細い気配がふわりと伸びてくる。けれど、その指は僕に触れる直前で止まり、空気を撫でるように宙をさまよい、やがて離れていく。
 触れられることはないけれど、目に見えない何かが僕の表面をかすめていく。
 触れたら壊れてしまうとでも思っているかのような、そんなためらい方だった。
 その人が、僕のために言葉を落としていることだけは、わかった。意味はわからないのに、自分に向けられた呼びかけだということだけが、確かな事実として胸に沈んでいく。
 光が、ゆっくりと薄れていく。
 やがて、視界は再び暗がりに飲み込まれた。いままで漂っていた淡い明るさが消えると、部屋の空気そのものが別のものに変わった気がした。冷たく、静かで、深く沈んでいく気配。
 暗がりの奥で、誰かがこちらを見つめている。目線というものを、感じたことはないのに、そんなふうにしか言えない気配が、静かに僕の周りを満たしていく。
 その見えないまなざしが、胸の奥に優しく溶け込んでいく。やがて、内側からじんわりと熱が灯り、僕はそれを拒むことができなかった。

 いつからか、僕は、その人の声が僕に語りかけているのだとわかるようになった。
 最初はただの音の連なりだった。高くなったり、低くなったり、途切れたりする音。その起伏を感じているだけで満たされていた。
 けれど、何度も繰り返し聞いているうちに、その音には形があることに気づいていく。同じ音の組み合わせが、似た温度を運んでくる。
 内容はわからない。それでも、その震え方や、喉の奥に溜まる湿り気の濃さだけで、その人が何かを抱え、どこかを痛めていることは察することができた。
 揺らぎが近づき、僕のすぐ傍まで満ちてくる。触れそうで触れない距離まで来て、また引いていく。その一連の動きが、見えないはずの手の動きと重なっていく。
 僕に触れようとして、触れきれずにひっこめられる指。そのためらいが、何度も何度も繰り返されるたびに、僕の内側には、名前のない痛みがゆっくり積もっていった。
 何か言いたかった。
 その気配に、僕も何かを返したかった。
 口がどこにあるのかも、声というものが出るのかも知らないのに、胸の奥では、確かに、応えようとする気持ちが生まれているのを感じていた。
 やがて、その人の気配が遠ざかる。
 椅子が軋む音。布が揺れる音。足音。それらが少しずつ小さくなっていき、扉の開閉を知らせるかすかな音が、世界の端で弾ける。
 そのあとに残るのは、静寂だった。
 部屋の空気が、少しだけ重く沈む。深い沈黙が、ゆっくりと降りてくる。
 音がない。
 風の音も、衣擦れも、息づかいも聞こえない。
 沈黙の中で、僕は自分自身の存在を探そうとする。けれど、どれだけ耳を澄ませても、自分の呼吸は見つからなかった。心臓の音も、血が巡る気配も、どこにもない。
 僕の周囲には、ただ、ゆっくりと揺れる空気と、わずかな温度だけが残されていた。
 それでも、日々は、淡く続いていった。
 光が強くなると、誰かの足音が近づき、ガラスと水の音がして、花が挿される。
 そのたびに、胸の奥にはあの小さな波紋が広がった。
 視界の中の光も、少しずつ変わっていった。
 最初はただ、白と黒がぼんやり重なり合っているだけだったのが、やがて、細く伸びるものと、丸くひろがるものがあるとわかるようになる。
 長く伸びた影のような線。その先に、柔らかくふくらんだ輪郭。それらが、他のどの形とも違う、独特の揺れ方をしている。
 花瓶に挿されるもの。壁に掛けられているもの。部屋のあちこちに散らばる、それらの存在を、僕はまだ、ひとつひとつ言葉にすることはできない。
 ただ、「花」であるとしか認識できないものが、この部屋には満ちていた。
 その中でも、光が満ちる朝、机上に新しく挿される花だけは、特別だった。それが置かれるたび、胸には決まって、静かな波紋が広がる。見えない水面が震え、その揺れが、内側のどこか深いところへと落ちていく。
 自分が何かも知らず、動くこともできないここで、それでも、胸だけがひそやかに熱を帯びていく。
 僕は、その理由を知らない。ただ、薄い膜越しの世界の揺らぎを、じっと見つめている。
 光と影。花と空気。遠く近くへ移ろう、ひとつの気配。
 そのすべてが、まだ名前を持たないまま、静かに僕の中へ積もっていく。

 朝でも夜でもない、薄い光の中で、世界の形がゆっくりと輪郭を帯びた。
 白と黒の揺れだったはずの視界に、はっきりとした線が現れる。それは、誰かの肩のライン。あるいは髪の流れが描く影。
 光がゆっくりと焦点を結んでいく。
 その影が、ひとの姿だと理解できた瞬間、理由もなく胸が波打った。
 はじめに感じていた波紋とは違う。もっと深く、痛みに近い揺れ。まるで胸の奥で何かが軋むような、名前のつけられない感覚だった。
 その人は、細かった。
 身体の線は繊細で、髪は長く、光を受けてかすかに揺れている。顔の輪郭は柔らかく、俯いているせいで表情まではわからないけれど、その佇まい全体から、どこか壊れやすい気配が滲み出ていた。
 そして、その姿を見た瞬間。
 知らないはずなのに、知っていた。
 美しいその人の名を。
 ――カミーユ。
 名前が、胸の奥から浮かび上がってくる。誰にも教わっていない。聞いたこともない。それなのに、その音の響きだけが、確かな事実として僕の中に存在していた。

 視界は、日に日に明瞭になっていく。
 色はない。白と黒の濃淡だけが世界を構成している。けれど、形だけははっきりと見えるようになっていた。
 カミーユの指先。机の上に置かれたペン。窓から差し込む光の筋。壁に掛けられた花の影。それらがすべて、輪郭を持って僕の前に現れる。
 その中でも、カミーユの存在だけが、特別だった。
 その人が部屋に入ってくるたびに、胸の奥で何かが動く。波紋ではなく、もっと強い衝動。引き寄せられるような、抗えない熱だった。
 カミーユは、相変わらず僕に触れようとして、触れられずにいた。
 指先が近づき、空気を撫でるように宙をさまよい、そして引いていく。その繰り返しが、日々続いていた。
 けれどある日、いつもと違う音が響いた。
 ガタンッという、大きな衝撃音。
 続いて、バサバサと紙が雪崩れ落ちる音。それらが床に散らばり、空気が強く揺れる。
 その揺れは、いままで僕を満たしていた穏やかな温度とは違う。荒く、痛々しい揺れだった。
 視界の端で、カミーユの姿が大きく揺らぐ。
 机上の書類を払い退けたのだと、少し遅れてわかった。そして、その場に崩れ落ちるように膝をつく。静かに肩を震わせている。
 床に散らばった紙束の上に、何かが落ちた。
 机上から滑り落ちたのだろう。美しい花びら。柔らかく丸みを帯びた形が、ゆっくりと紙の上に重なっていく。
 それは、白薔薇だった。
 いや、世界に色がないのだから、白ではないのかもしれないけれど、それでも、落ちたものは白薔薇であると、心が認識していた。
 白薔薇の花びらが、カミーユの足元で静かに震えている。
 その姿を見て、胸が締め付けられるように痛んだ。
 カミーユは、僕に何かを語りかけていた。けれど、その声は震えて、途切れて、ほとんど音になっていない。ただ、喉の奥から絞り出されるような、湿った響きだけが空気を伝ってくる。
 何を言っているのかはわからない。
 それでも、その声が、深い悲しみに満ちていることだけは、痛いほどに伝わってきた。

 数日が過ぎた。相変わらず世界には色がないが、形は確かになっていく。カミーユの表情も、少しずつ読み取れるようになっていった。
 俯いているとき、眉は下がり、唇は固く結ばれている。瞳は、いつも何かを探すように揺れていた。
 そして、あるとき。
 突如、胸の奥の熱が、喉に上がるような感覚が訪れた。自分の意思が、身体のどこかから溢れるような気がした。
 瞬間、口がかすかに開いた。
 呼吸ではない。音も出ていない。けれど、語りかけたいという衝動だけが、確かにそこにあった。
 カミーユが、その動きに気づく。
 顔を上げ、僕のほうを見つめる。目を見開き、息を呑むような仕草。次の瞬間、驚いたように僕に近づいてくる。
 カミーユが、顔を覗き込む。
 そして、ふっと表情が明るくなった。
 優しく微笑みかけるその姿に、心が熱で満たされたようにあたたかくなる。
 カミーユの瞳が、かすかに潤んでいる。けれど、それは悲しみの涙ではなく、何か希望のようなものを宿した輝きだった。
 僕は、その笑顔に応えたかった。
 もう一度、口を動かそうとする。何か言葉を。何か音を。この胸の奥にある熱を、形にして届けたかった。
 けれど、何も出なかった。
 口は開いた。けれど、そこから先へは何も進まない。声というものが、僕の中には存在しないのだと、そのとき実感した。
 カミーユの笑顔が、ゆっくりとほどけていく。
 眉尻が下がり、瞳が震える。唇が小さく開き、そこから漏れるのは、言葉にならない吐息だった。
 そして、カミーユはそのまま、僕の膝に崩れ落ちた。
 僕の膝に額を押しつけるようにしながら、静かに泣いている。
 肩が震えている。呼吸が途切れている。その震えが、僕の身体にも伝わってくる。
 僕は、その姿を見つめることすらできなかった。
 ただ、視界の端にカミーユの背中が映り、その向こう側の壁へと視線は固定されている。
 壁に掛けられた花が、視界にあった。
 小さな鐘のような花。光を浴びて、かすかに震えている。
 それは、スノードロップだった。
 その花弁が、まるで何かを訴えるように揺れている。再生を象徴しているはずの花が、いまのカミーユの涙とはどうしても重ならない。
 胸が、熱く、痛くなる。
 やがて、カミーユが顔を上げた。
 泣き疲れたような、震える声で、呟く。
「もう一度、私を愛して」
 その言葉の意味は、完全には理解できなかった。けれど、胸の奥の波紋は激しく揺れた。
 愛するということ。
 愛されるということ。
 その意味を、僕はまだ知らない。
 それでも、カミーユのその言葉が、僕の中の何かを激しく震わせた。理解できないまま、その言葉は胸の奥深くに刺さり、そこに痛みとして残り続けた。
 光が薄れていく。
 カミーユは、ゆっくりと立ち上がり、部屋を出ていく。僕は、ただその背中を見送ることしかできなかった。
 静寂が戻る。
 けれど、胸の奥には、あの痛みだけが残っていた。名前のない、けれど確かに存在する痛み。それが、僕の中で静かに脈打ち続けている。

 ある朝、世界が変わった。
 いつものように光が部屋に満ちていく。白と黒の濃淡だけで構成された世界が、ゆっくりと明るくなっていく。
 けれど、その日は違った。視界の端に、微かな色が滲んでいた。
 美しい赤。白でも黒でもない、確かな赤。濃く、深く、鮮やかな赤。
 机上の花瓶に挿された花。その花びらが、静かに赤く染まっていく。
 それは、アネモネだった。
 胸の奥で、激しく何かが波打つ。まるで鼓動のように、内側が震えていた。
 色は、ゆっくりと広がっていく。
 一輪だけだったはずの色が、隣の花へ、壁際の花へと伝染するように滲んでいく。白薔薇の白。スノードロップの白と緑。壁に掛けられたラベンダーの淡い紫。
 色が、世界を塗り替えていく。
 それは、まるで春そのものが部屋の中に溢れ出したようだった。静かで、優しく、けれど圧倒的な生命の気配。
 僕は、ただ見つめることしかできなかった。
 色づいていく花々。光を受けて揺れる花びら。その一つひとつが、名前を持ち、意味を持ち、記憶を持っているような気がした。
 そして、扉が開く音がした。
 カミーユが、部屋に入ってくる。その瞬間、僕の視界に映ったものは、息を呑むほど美しかった。
 金糸のような美しいの髪。
 光を受けて、透けるように輝く長い髪が、ゆっくりと揺れている。それは金というより、朝の光そのものが形を持ったような色だった。
 淡く、深く、沈んでいるような碧眼。
 空を閉じ込めたような、透明な青。その瞳が、静かに僕のほうを向いている。
 長く、金色に透ける睫毛。
 光の加減で影を落とし、その下の瞳をより深く見せている。
 カミーユは、やつれていた。
 頬の線は以前より細く、唇の色は薄い。手は震え、足取りは以前ほど確かではない。
 それでも、その美しさは、失われていなかった。むしろ、儚さが加わることで、より美しく見えた。まるで、壊れやすいガラス細工のような、触れたら消えてしまいそうな、そんな危うい美しさ。
 金髪が、光を受けて透けている。碧眼が、深い愛に満ちている。
 僕の胸が、熱く、痛くなった。
 カミーユは、ゆっくりと部屋の中を歩く。机のほうへ向かい、何かを置く音がした。
 視界の端に、分厚い本が映る。
 革装の、古びた本。表紙には複雑な文様が刻まれ、金色の留め具が光を反射している。カミーユは、まるでその本に縋るように、胸に抱きしめていた。そして、その足元に、何かが散らばっているのが見えた。
 柔らかく、大きな白い花びら。それは床にひっそりと落ち、カミーユの足元で静かに震えている。
 それは、アマリリスだった。
 白いアマリリス。色のない世界でも白だとわかっていたものが、いま、本当の白として目の前にある。純粋で、清らかで、それでいてどこか誇り高い白。
 その花びらが、カミーユの覚悟を物語っているような気がした。
 カミーユは、本を机の上に置いた。そして、椅子に座る。いつものように、僕のすぐそばに。
 その気配が、以前よりも近く感じられる。視界がはっきりしたせいだろうか。それとも、色を得たことで、世界との距離が縮まったのだろうか。
 カミーユは、何かを呟いた。低く、震える声。
「君に、会いたい」
 その言葉が、空気を震わせて僕に届く。
 胸が、締め付けられるように痛んだ。
 僕は、ここにいる。すぐそばにいる。カミーユの手が伸びれば届く距離に、確かに存在している。
 それなのに――。
 カミーユの声には、深い孤独が滲んでいた。まるで、誰もいない部屋で独り言を言っているような、そんな虚しさが響いていた。
 僕は、言葉を出そうとした。口を動かそうとする。何か音を。何か形を。この胸の奥にある熱を、カミーユに届けたい。
 けれど、何も出なかった。
 声は出ない。動けない。ただ、視界の中でカミーユを見つめることしかできない。
 カミーユは、本のページをめくっている。その本には、複雑な文字や図式が並んでいて、それらが、光を受けて微かに輝いている。
 その指先は震えていた。ページをめくるたびに、かすかな音が響く。紙の擦れる音。それが、部屋の静寂をより深くしていく。
 カミーユの横顔が、視界に映る。
 俯いた顔。長い睫毛が影を落としている。唇は固く結ばれ、眉はかすかに寄せられている。
 その表情には、痛みがあった。
 深く、静かな痛み。それは悲しみとも、諦めとも違う、もっと複雑な感情だった。
 自分のものではない痛みが、胸の奥に沈んでいく。カミーユの痛みが、空気を伝って、僕の内側に溶け込んでくる。
 どうして、どうしてこんなに苦しそうなのか。どうして、僕はここにいるのに、届かないのか。
 疑問が、胸の中で渦を巻く。答えのない問いが、何度も何度も繰り返される。
 そのとき、ふと、何かが引っかかった。
 カミーユの金糸のような髪が視界に映る。
 その色を、僕は知っている気がした。光を受けて揺れる髪。その輝きを、どこかで見たことがある。いや、見たことがあるというより、もっと近くで感じていた。
 触れたことがあるような。
 指を絡めたことがあるような。
 そんな、確かではない記憶の断片が、心の奥からふわりと浮かび上がってくる。
 カミーユの声も、そうだった。
 低く、柔らかな声。その響きを、僕は知っている。ただの音としてではなく、もっと深いところで知っている。
 この声に、名前を呼ばれたことがある。この声に、愛されたことがある。
 そんな予感が、胸の奥で静かに脈打っている。
 僕は、カミーユを知っている。そして、カミーユは、僕を知っている。
 その確信だけが、はっきりと心に刻まれていく。
「君を――」
 カミーユが呟く。
 その声は、先程よりも震えていて、喉の奥に何かが詰まっているような、苦しそうな響きだった。
 僕は、ここにいる。君の隣に、確かにいる。でも、まだ完全ではない。声を出せない。動けない。触れられない。僕は、まだ、僕になれていない。
 それでも、カミーユが求めているのは、僕なのだと。君とは、僕のことなのだと。
 その予感だけが、確かな事実として胸に沈んでいく。
 やがて、カミーユは立ち上がった。
 本を再び胸に抱きしめ、ゆっくりと歩き出す。扉へ向かう足取りは、重く、不安定だった。
 その背中を、僕は見送る。
 金色の髪が揺れる。光が、その髪を透かして輝いている。
 美しく、儚く、そして、どこか遠い。
 カミーユが部屋を出ると、再び静寂が訪れる。残されたのは、色づいた世界と、僕だけだった。
 アネモネの赤が、視界の端で揺れ、ラベンダーの紫が、壁で静かに震えている。床に散らばった白いアマリリスの花びらが、光を受けて淡く輝いている。
 僕は、それらをただ見つめることしかできなかった。
 色を得た世界は、美しかったけれど、その美しさは、同時に痛みでもあった。カミーユの孤独が、色と共に、より鮮明に見えてしまう。
 光が、ゆっくりと薄れていく。色づいた世界が、夕暮れの影に沈んでいく。それでも、アネモネの赤だけは、最後まではっきりと見えていた。
 愛の色が、暗がりの中で、ひとり静かに燃えていた。

 その日、光はいつもより柔らかかった。
 部屋に満ちる朝の光が、花々を照らし、壁を染め、すべてを優しく包み込んでいる。
 僕は、その光の中で、ただ待っていた。何を待っているのかはわからない。それでも、胸の奥には、何かが起こるという予感があった。
 扉が開く。カミーユが入ってくる。その姿を見た瞬間、僕の胸が強く震えた。
 カミーユの手には、白い花が握られていた。
 それは、スノードロップだった。
 小さな鐘のような花が、光を受けて震えている。白い花びらが、まるで雪のように、清らかに輝いていて、その揺れ方さえもが、どこか儀式めいた厳粛さを帯びていた。
 カミーユは、ゆっくりと僕のほうへ歩いてくる。足取りは、以前にも増して不安定だった。一歩ごとに、身体が揺れ、その細い肩が傾きながらも、真っ直ぐに僕のほうへと向かってくる。けれど、その瞳だけは揺るがず、真っ直ぐに僕を見つめていた。
 淡い碧眼。その瞳には、深い覚悟が宿っている。悲しみでも、諦めでもない。ただ、静かな決意だけがそこにあって、その透明な青の奥に、愛だけが静かに燃えていた。
 カミーユが、僕のすぐ前まで来た。そして、手に持っていたスノードロップが、ふと震えた。カミーユの指から力が抜けたのだろう。花が、ゆっくりと落ちていく。
 白い花びらが、視界を滑る。
 ひらり、ひらりと舞い落ちる花びらが、まるで祝福のように、僕の周りに降り注ぎ、それは雪のように静かで、優しく、けれど儚く、花びらが床に散らばるたびに、部屋に白い光が満ちていく。
 カミーユが、両手を伸ばし、その手が、僕の顔に触れる。
 初めてだった。
 カミーユの手が、初めて、僕に触れた。
 冷たく、震えていたけれど、確かなぬくもりのある両手が、僕の頬を包み込む。優しく、慎重に、まるで壊れやすいものを扱うように。その指先には愛が滲んでいて、深く、静かな愛が、触れた場所から胸の奥へと染み込んでくる。
 胸が、爆発しそうなほど熱くなる。温かくて、痛い。すべてが満たされ、すべてが押し寄せてくる。
 カミーユが、微笑む。
 それは、穏やかな笑顔だった。悲しみも、苦しみも、そこにはなかった。ただ、深い愛に満ちた、優しい笑顔。
 その笑顔を見た瞬間、僕の中で何かが溢れそうになった。言葉にできない感情。名前のつけられない熱。それが、胸の奥から喉へと這い上がってくる。
 カミーユは、ゆっくりと口を開き、言葉を紡いだ。
「愛してる」
 静かな声だった。震えることもなく、ためらうこともなく、ただ真っ直ぐに、その言葉が僕に届く。
 愛してる。
 その言葉は、紛れもなく、僕に向けられていた。カミーユが愛しているのは、僕なのだと深く感じる。胸が、熱く、痛く、そして満たされていく。
 カミーユの顔が、ゆっくりと近づいてくる。金色の髪が、視界を覆い、淡い碧眼が、すぐそこにあって、長い睫毛の影が僕の頬に落ちる。
 そして、唇が、重なった。
 瞬間、世界が弾けるように、輝く。
 何かが、胸に流れ込んでくる。それは温かく、眩しく、圧倒的で、まるで太陽そのものが身体の中に注がれていくような、そんな熱だった。
 カミーユの命そのものが、僕の中へと流れ込んでくるような、そんな感覚。
 いままで見えていた色が、一気に鮮やかになる。アネモネの赤は、炎のように、血のように、情熱そのもののように燃え上がり、ラベンダーの紫は、夜空のように、深海のように、神秘的な深みを帯びて輝き、白薔薇の白は、雪のように、光そのもののように、純粋に、清らかに、眩しいほどに輝く。
 壁も、床も、窓から差し込む光も、すべてが色を持ち、世界が一斉に生命を帯びたように鮮やかになっていく。
 風が窓を揺らす音。花びらが床に落ちる音。カミーユの呼吸の音。
 それだけではない。
 遠くで鳥が鳴く声。空気が動く微かな音。自分の心臓が鼓動し始める音。それらすべてが、鮮明に、まるで世界が初めて音を持ったかのように耳に届く。
 カミーユの手の温もりも唇の柔らかさも、椅子に座る自分の身体の重さ、空気が肌に触れる感覚、床に置かれた足の裏の感触。すべてが、初めて自分のものになり、身体という境界線が、初めてはっきりと存在を主張する。
 花の香り。ラベンダーの甘く優しい香り。アネモネの微かな土の香り。白薔薇の清らかな香り。そして、カミーユの香り。
 それは光の匂いで、春の匂いで、愛の匂いで、それらが一斉に押し寄せ、僕を包み込み、息ができないほどに満たしていく。
 すべてが、一度に押し寄せる。
 色も、音も、触れる感覚も、香りも、それらが渦を巻くように僕の中に流れ込み、世界と僕の境界が溶けていくような、そんな圧倒的な感覚に包まれる。
 そして、記憶が、溢れた。
 一気に、堰を切ったように、まるで閉じ込められていた水が一斉に解放されるように、記憶が、奔流となって押し寄せる。
 カミーユと出会った日。初めて見た金色の髪。その髪が光を受けて輝いていて、僕は思わず息を呑んだ。美しいと思った。触れてみたいと思った。
 カミーユの笑顔。穏やかで、優しくて、少し恥ずかしそうで、その笑顔を見るたびに、胸が温かくなった。
 花畑で過ごした午後。ラベンダーが一面に咲いていた。その香りの中で、僕たちは指先を絡め合う。カミーユの指は細くて、少し冷たくて、でも確かな温もりがあった。
 夕暮れの部屋。窓辺で本を読むカミーユの横顔。金色の髪が夕日を受けて、橙色に染まっていた。その美しさに見とれていると、カミーユが気づいて、少し照れたように笑った。
 雨の日。二人で傘に入った。カミーユの肩が僕の肩に触れていて、その温もりだけで、雨の冷たさなんて忘れてしまうほどだった。
 星空の下。カミーユが僕の名前を呼んだ。愛を囁いた。僕も同じ愛を返した。その夜の空気の冷たさも、星の輝きも、カミーユの声の震えも、すべてを覚えている。
 白いアネモネを摘んだ日。カミーユに渡すと、嬉しそうに笑った。金髪に映える白が、まるでカミーユの純朴さを表しているようで、美しさだった。
 ラベンダーの花束を作った日。カミーユの金髪に花びらが降り注いで、その光景があまりに愛らしくて、僕は言葉を失った。カミーユは笑いながら、髪に絡まった花びらを取っていた。
 病に倒れた日。僕は身体が動かなくなった。息が苦しくなった。カミーユが泣いていた。初めて見る、カミーユの涙。僕は、その涙を拭いてあげたかった。でも、手が動かなかった。
 最期の日。カミーユの手を握っていた。再会を約束すると、カミーユは静かに頷いた。涙を流しながら、頷いた。僕は、その顔を覚えていたかった。最期まで、カミーユの顔を見ていたかった。
 そして、暗闇。
 長い、長い暗闇。
 けれど、その暗闇の中でも、カミーユの声だけは聞こえていた。
「もう一度、私を愛して」
「君に、会いたい」
「君を、取り戻す」
 その声が、暗闇の中で、僕を繋ぎ止めていた。
 すべてが、一気に蘇る。
 僕は、カミーユを愛していた。カミーユも、僕を愛していた。そして、恋人だった僕たちを引き裂いたのは、死だった。
 いま、僕の視界に映る、球体となった関節が、僕の死後のカミーユのすべてを物語っていた。
 カミーユは、僕を蘇らせようとした。命を削りながら。禁術を重ねながら。すべてを捧げながら。
 身体が、動く。指先が震える。腕が曲がる。呼吸が始まる。胸が上下する。心臓が、鼓動する。
 カミーユの命で動いている、僕の心臓。
 カミーユの身体から、力が抜けていくのがわかった。唇が離れ、カミーユの顔が、僕の視界に映る。
 穏やかな顔だった。微笑んでいて、涙は流れていない。ただ、満ち足りたような、幸せそうな、静かな表情で、その顔には、後悔のかけらもなかった。
「愛してる」
 かすかな声で、カミーユが呟く。その声は、もう震えていなくて、ただ、静かで、穏やかで、愛に満ちていた。
 そして、カミーユの身体が、ゆっくりと傾き、僕の腕の中に、倒れ込んでくる。
 僕は、初めて、自分の意思で動かした腕で、カミーユを受け止める。
 驚くほど軽い身体だった。まるで、中に何もないような、そんな軽さで、カミーユの頭が、僕の胸に預けられる。金色の髪が、僕の腕に流れる。その髪は、いまも光を受けて美しく輝いていて、長い睫毛が、静かに影を落としている。唇は、微かに笑みを浮かべたまま。
 呼吸はなく、心臓の鼓動も、ない。
 残されたのは、美しい抜け殻だけだった。それでも、その顔は穏やかで、幸せそうで、満ち足りていた。
「カミーユ」
 初めて名前を読んだその声は、自分のものとは思えないほど震えていて、それでも確かに、胸の奥から零れ落ちた。
 瞬間、大粒の涙がとめどなく溢れ続け、頬を伝い、カミーユの金髪に落ちていく。その光の糸を濡らすたび、胸の奥で何かが軋んだ。
 崩れ落ちるように、僕はその身体を抱きしめた。動けるようになった腕で、初めて自分の意思で。冷たくなった肩を包むたびに、そこにもうぬくもりが戻らないことだけが痛いほどわかる。
 笑うことも、言葉を返すこともなくなった身体。
 それでも、抱きしめているうちに、かつて触れられなかった鼓動の余韻だけが、指先にかすかに残っているような気がした。
 遅いとわかっている。どれだけ願っても、もう届かないことも。それでも手放すことはできなかった。
 僕はそっと身体を抱き上げる。驚くほど軽くて、まるでもう、この世界の重力から解き放たれてしまったかのようだった。
 静かに目を閉じた横顔を覗きこむと、そこには穏やかな微笑みが浮かんでいた。その表情に触れた瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
 カミーユは、僕を愛してくれた。
 命を削ってまで、僕をこの世界に連れ戻してくれた。
 その愛が、あまりにも優しくて、あまりにも残酷で、それでも美しくて、胸が焼けるほどだった。
 腕の中の軽い重みを抱きしめたまま、僕は唇を震わせる。
 あなたが望んだ言葉を、あなたがもういないここで、それでも確かに届けたくて。
 静かに呟いた。
「愛してる」
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