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第六章──信(たより)の愛し人、裏切りを超えて
74話
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蒼真は、夜明け前に里を出ようとした。荷物を纏め、破れた絹綾きぬあやの袋をしっかりと懐に仕舞い込んだ。足音を立てずに、その正面にある玄関の扉に手をかける。年月を重ねた杉板製の引き戸。節目の浮いた板にはところどころ染みが浮かびあがり、雨に打たれた跡が斑に残っている。丁寧に塗り重ねられた黒塗りは、もはやところどころ剥げ、地の木目が覗いている。金具はかつて真鍮だったのだろうが、今はくすんで黒ずみ、触れるとわずかに冷たい。だが、それでも扉はきちんと拭かれ、敷居には小さな箒の跡が見える。
「最後となれば、普段は目の行かぬところまで見えてしまうものよ……」
蒼真はゆっくりと引戸を引いた。
「えっ……何ゆえ、ここに……?」
「きっと蒼真殿は、夜明けを待たず黙してこの里を立たれようと、そう案じまして……」
待っていたのは秋架だった。
「しかし……」
「蒼真殿はわかりやすきお方……まこと誠実なお人ゆえ」
秋架は寂しく微笑んだ。
「明け方の風は冷たうございます。早うお戻りなされませ」
蒼真は帰るよう促した。
「少しばかり、お話を賜りとう存じまする……」
「何を申される。これ以上、疑わしき余所者と刻を重ねるは秋架殿にとりて良きことならず……ごめん……」
蒼真は笠を目深くかぶり、里を出ようとした。
「お待ちくだされ……蒼真さま……篠原蒼真さま」
蒼真はぎょっとし、秋架に振り向いた。
「な、何ゆえ……我が真名を……」
秋架はそっと、懐から小袋を出した。
「それは……その御袋は、殿の『信』を許された者のみに授けらるる鷹司家の加護の証にて候。いかにして秋架殿が……それを……」
秋架に上に立つ者の風格の輝きが見える。
「我が性は鷹司。父は鷹司文綱。されど端女の子なれば、日陰に生まれし姫君と、戯れに申されておりました」
「そ、それは……知らなんだ……」
初めて聞く。文綱に端女の子がいたことに驚いた。夜明け前の冷たい風が沸き上がる何かを揺るがす。
「表立つことはなく、使用人としてひそやかに仕えておりましたゆえ……」
「しかし、なぜにここに? 何ゆえ、この辺境におられるのですか?」
蒼真は里を出ていくことをしばし忘れ、秋架に問い詰めるように言葉を重ねた。ここに文綱の血を受け継ぐ者がいたことに血が滾る思いがした。
「殿は慈悲深き御方。陰ながらのわが身にも情けをかけてくださり、先の西嶺との戦に際し、この中立の地、高杜に身を寄せよとお命じくださいました。されば、われもまた蒼真殿と同じ、余所者にてございます」
だが、たとえ端女の子とて文綱の血潮がそうさせるのか。蒼真は片膝を付き秋架に頭を伏せた。
「頭をお上げくだされ……蒼真殿。そなたがわれに頭を下げる理由など、ござりませぬ」
秋架は着物が汚れることもいとわず、膝をつき頭を深々と下げる蒼真に寄り添った。
「われは信じております。蒼真殿……そなたが無実であると……」
信じることを疑わない慈悲深い秋架に蒼真の心は持たなかった。
「御免つかまつる……」
蒼真は立ち上がり、想いを振り切るように走り去った。茜色の空が、まだ灰色に眠る高杜を包む頃、彼の姿は谷の霧に紛れて、静かに消えていった。姿を見送る秋架。
──護るは、信じらるることとは別なり……──
その言葉が、風に乗って届いたような気がした。きっと彼は、自らを差し出すことで、この里の『信』を守ろうとしたのだ。秋架は、門の外に続く山道を見つめる。何も言えなかった。何もできなかった。
──あの御方は、恐らくや真直にして、己が定めし道を往かれん──
秋架はなぜだか胸が温かくなり、寂しさが込み上げていた。
「最後となれば、普段は目の行かぬところまで見えてしまうものよ……」
蒼真はゆっくりと引戸を引いた。
「えっ……何ゆえ、ここに……?」
「きっと蒼真殿は、夜明けを待たず黙してこの里を立たれようと、そう案じまして……」
待っていたのは秋架だった。
「しかし……」
「蒼真殿はわかりやすきお方……まこと誠実なお人ゆえ」
秋架は寂しく微笑んだ。
「明け方の風は冷たうございます。早うお戻りなされませ」
蒼真は帰るよう促した。
「少しばかり、お話を賜りとう存じまする……」
「何を申される。これ以上、疑わしき余所者と刻を重ねるは秋架殿にとりて良きことならず……ごめん……」
蒼真は笠を目深くかぶり、里を出ようとした。
「お待ちくだされ……蒼真さま……篠原蒼真さま」
蒼真はぎょっとし、秋架に振り向いた。
「な、何ゆえ……我が真名を……」
秋架はそっと、懐から小袋を出した。
「それは……その御袋は、殿の『信』を許された者のみに授けらるる鷹司家の加護の証にて候。いかにして秋架殿が……それを……」
秋架に上に立つ者の風格の輝きが見える。
「我が性は鷹司。父は鷹司文綱。されど端女の子なれば、日陰に生まれし姫君と、戯れに申されておりました」
「そ、それは……知らなんだ……」
初めて聞く。文綱に端女の子がいたことに驚いた。夜明け前の冷たい風が沸き上がる何かを揺るがす。
「表立つことはなく、使用人としてひそやかに仕えておりましたゆえ……」
「しかし、なぜにここに? 何ゆえ、この辺境におられるのですか?」
蒼真は里を出ていくことをしばし忘れ、秋架に問い詰めるように言葉を重ねた。ここに文綱の血を受け継ぐ者がいたことに血が滾る思いがした。
「殿は慈悲深き御方。陰ながらのわが身にも情けをかけてくださり、先の西嶺との戦に際し、この中立の地、高杜に身を寄せよとお命じくださいました。されば、われもまた蒼真殿と同じ、余所者にてございます」
だが、たとえ端女の子とて文綱の血潮がそうさせるのか。蒼真は片膝を付き秋架に頭を伏せた。
「頭をお上げくだされ……蒼真殿。そなたがわれに頭を下げる理由など、ござりませぬ」
秋架は着物が汚れることもいとわず、膝をつき頭を深々と下げる蒼真に寄り添った。
「われは信じております。蒼真殿……そなたが無実であると……」
信じることを疑わない慈悲深い秋架に蒼真の心は持たなかった。
「御免つかまつる……」
蒼真は立ち上がり、想いを振り切るように走り去った。茜色の空が、まだ灰色に眠る高杜を包む頃、彼の姿は谷の霧に紛れて、静かに消えていった。姿を見送る秋架。
──護るは、信じらるることとは別なり……──
その言葉が、風に乗って届いたような気がした。きっと彼は、自らを差し出すことで、この里の『信』を守ろうとしたのだ。秋架は、門の外に続く山道を見つめる。何も言えなかった。何もできなかった。
──あの御方は、恐らくや真直にして、己が定めし道を往かれん──
秋架はなぜだか胸が温かくなり、寂しさが込み上げていた。
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