忘雪(わすれゆき)

紫 李鳥

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「……おすみさんは、生まれは?」

 良治が重い口を開いた。

「……南です」

「南か。じゃ、雪は見たことないだろ?」

「南でも少しは降ります」

「こっちの雪は凄いぞ。屋根ぐらいまで積もる」

 良治が大袈裟に頭の上に手をかざした。

「えっ! そんなに?」

 澄が子供のように目を丸くした。

「嘘だよ」

「も。びっくりしちゃった」

 少し怒った顔をした。

「ハハハ……。だが、この辺ぐらいは積もるぞ」

 良治が胸元に手を置いた。

「そんなに?」

「ああ。だから、雪だるまやかまくらが作れる」

 澄の猪口に注いでやった。

「へぇー。作ってみたい」

 酒が入った澄は頬をあかくしていた。

 そんな楽しげな二人を見て、香は愁色しゅうしょくを濃くした。



 数年前に妻を病気で亡くした良治は、自棄やけになり、博打ばくちにのめり込んだ。気付いた時には博徒ばくとの世界に片足を入れ、侠客きょうかくまがいになっていた。だが、心底から悪党になれない良治は、その道から抜け出したいと思っていた。しかし、筋を通した辞め方も分からず、後回しにしていた。

 澄もまた、不器用な女だった。男に苦労しながらも、尽くすことしかできない健気けなげな女だった。だがいつの日か、報われない愛に疲れを知った。そして、生まれ変わってやり直す覚悟でその地をてた。



 良治はそれから、足繁あししげく〈酒処 勝〉に通うようになった。――それは、他の客が帰った閉店間近、澄がかわやに行っている時だった。

「……あの子に惚れんくださいよ」

 洗い物をしながら、香が言った。その言葉に、良治は傾けようとした猪口を口許くちもとで止めた。

「あの子にはこれ以上苦労させたくない。よしさん、どうか分かってくれ」

 手ぬぐいで手を拭きながら頼んだ。

「……ああ」

「すまない」

 香は頭を下げた。良治は物思わしい顔つきで酒をあおった。

「女将さん。よしさんの横に座ってもいい?」

 酔っていた澄は、厠から戻ると、遠慮のない口を利いた。

「……ああ」

 香は無愛想な返事をした。澄は白い歯をこぼすと急いで座り、良治の横顔を見た。香は、子供のようにあどけなく笑う澄を一瞥いちべつすると、小鉢を洗った。


 閉店時間になると、良治が腰を上げた。

「ごちそうさん」

「毎度っ。気ぃつけてな」

 香が礼を言った。

「女将さん。そこまで送っていい?」

 澄が気持ちをはやらせていた。

「あー。すぐ戻れよ」

「はーい」

 急いで良治を追った。駆けて行く澄の下駄の音を聞きながら、香は深いため息をいた。


 下駄の音に振り返った良治は、立ち止まると澄を待った。はにかんで俯いた澄は、良治の腕に抱きつくと、ゆっくりと歩いた。

 ……良治さんの家が遠いとこならいいな。そしたらずっと、こうして一緒に居られるのに……。澄はそんなことを思っていた。

「……この辺でいいよ」

 突然、良治が足を止めた。顔を上げると、月明かりに小さな橋が浮かんでいた。澄が、着いてしまったことをつまらなそうにしていると、突然、良治が顎を掴んだ。互いは見つめ合った。そして、良治がゆっくりと唇を重ねた。だが、それはあまりにも短い接吻くちづけだった。

「……おやすみ」

 良治は一言ひとことそう言うと、振り切るように小走りで橋を渡って家陰やかげに消えた。

「……良治さん」

 良治の唇は温かくて、そして、優しかった。――


 だがそれっきり、良治は店に来なくなった。澄から笑顔が消えた。そんな澄の心中を察しながらも、香は見て見ぬ振りをしていた。

 ……お前のためだ、お澄。良治はやくざだ、惚れちゃいけない。香は心でそう諭した。


 そんなある日。香は澄に縁談を持ち掛けた。

「……お澄」

 布団に入っている澄の背中に声を掛けた。

「……はい」

「吉川さんが、お前のことを嫁に欲しいと」

 それは、常連客の大地主の名前だった。

「……」

「十四になる娘さんがいるが、お前も若くないんだから贅沢ぜいたくは言えんぞ。そのぐらいは我慢しろ」

「……」

「財産はあるから食うに困らん。悪い話じゃないだろ?」

「……私、誰とも結婚する気はありません」

「じゃ、お前はなんのためにこんな地の果てまで来た? また、男で苦労したいのか。苦労から逃れたくてここまでやって来たんじゃないのか」

「……」

「身を固めて幸せになってくれ。お前が可愛いから言うんだぞ。澄、悪いことは言わないから嫁に行ってくれ」

「……考えさせてください」

 逢いたい! 良治さんに逢いたい! 澄は心で叫んだ。


 ――早くに目を覚ました澄は、朝靄の中を良治を見送った橋の袂まで行ってみた。だが、一軒家なのか、借家なのか、ましてや、良治の名字さえ知らない澄には捜しようがなかった。

 落胆して部屋に戻ると、香が布団の中からこっちを見ていた。ギクッとして、目を丸くしていると、

「どこに行っていた」

 香が抑揚のない言い方をした。

「……散歩を」

 角巻を畳んだ。


 その夜。良治をよく知る大工の杉原が一人呑んでいた。澄は、香が厠に行った隙に良治の名字と住まいを聞き出した。
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