忘雪(わすれゆき)

紫 李鳥

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 その日の深夜。後片付けをした澄は先に二階に上がると、風呂敷包みと角巻を抱え、着物のままで布団に潜って狸寝入りした。――そして、香が寝付く時分を見計らうと、静かに布団を出た。抜き足差し足で襖に手をやった瞬間、

「どこへ行く」

 香の低い声がした。驚いた澄は、手にしていた角巻を落とてしまった。途端、明かりが点いた。

「どこへ行くかと訊いてるんだ。答えないか」

「……はばかりに」

「便所に行くのにわざわざ風呂敷包みを持って行くのか」

「……」

「いいから、ここに座れ」

 その言葉に澄は振り向いた。丹前たんぜんを羽織った香がしとねに正座していた。澄も香の前に正座した。

「そんなに良治に逢いたいか」

「……」

 澄は俯いていた。

「澄。これを見ろ」

 香はそう言うと、寝間着の衿を大きく開いて胸元を見せた。そこにあったのは、あかい牡丹の刺青いれずみだった。澄はあっと声を漏らして、目を丸くした。

「これは、惚れているあかしに彫ったものだ。昔の話だ。惚れた男はやくざだった」

「……」

 澄は緋牡丹を見つめていた。

「お前にこれほどまでに惚れられるか? 死ぬほどに、命懸けで惚れることができるか?」

 香はそう言いながら衿元を整えた。

「……」

「澄。尽くすことが惚れることじゃないぞ。惚れると言うのは簡単なことじゃない。その辺に転がっているもんじゃないぞ。お前にそれだけの覚悟があるのか? 澄。命を懸けて惚れる覚悟があるなら逢いに行け」

「……女将さん」

 顔を上げた。

「だが、いいか。捨てられたのなんのかんのと言って、戻ってくるようなことがあったら中にはれんぞ。そんな甘っちょろい気持ちなら逢っちゃいけない。偕老同穴 かいろうどうけつ。死ぬまで良治と離れない覚悟があるなら逢いに行け。……昔惚れた男は、もうこの世には居ない。その男のためにも生きているんだ。分かるか? この刺青があの人なんだ。この私が惚れた男なんだ」

 香は自分の乳房を掴んでいた。澄は、そんな香の目を真剣に見つめていた。

「……私、行きます。良治さんに逢いに」

 立ち上がった。

「ちょっと待て」

 香も立ち上がると押入れを開けた。

「こんなことがあるだろうと思って用意していた」

 取り出した風呂敷包みを手渡した。

「若い頃の着物だ、持っていけ。こんなことぐらいしかできないが、門出の祝いだ。風邪を引かんようにな」

「……女将さん」

 澄は涙ぐんでいた。

「ほら、早く行け。今頃よしさん、酒をあおっているだろ。早く行って笑顔を見せてやりな」

「……女将さん」

「場所は杉原さんから聞いてるだろ? 木島って表札があるから」

 香はそう言いながら、その風呂敷包みを澄に背負わせた。

「女将さん、お世話になりました。ありがとうございました」

 頭を下げた。

「元気でな」

「女将さんも」

 澄は角巻と自分の風呂敷包みを持った。そして、感謝を込めて深々と頭を下げた。――静まり返った路傍ろぼうに下駄の音が響いていた。


 〈木島〉と表札がある借家からは明かりが漏れていた。軽く戸を叩くと、

「誰だいっ」

 良治の声がした。

「澄です」

 澄の声に、良治は大急ぎで鍵を開けた。そこには笑顔で見上げる澄が居た。

「……澄さん」

 風呂敷包みを抱えた澄の格好で、ここに来た理由を察すると、

「さあ入って。寒かったろ」

 早口で言うと、中に入れた。

「どうしたんだい」

 察しはついたが訊いてみた。

「……あなたのおそばに置いてください」

 じらうように俯いた。

「……澄さん」

 互いはしばし見つめ合った。そして、澄の手から風呂敷包みを受け取った。


 澄から経緯いきさつを聞いた良治は、

「……こんな俺でもいいのか」

 ぽつりと言った。

「こんな私でもいい?」

 澄が逆に訊いた。

「ああ。こんな俺で良ければな」

「うん。いい」


 良治の呑んでいた湯呑みで、二人だけの祝言を挙げた。そして、その日が初夜となった。――


 それは、ひと月ほどが過ぎた頃だった。

「……足を洗いてぇ」

 酒の入った湯呑みを手にした良治が独り言のように呟いた。

「えっ?」

 飯を食っていた澄が顔を上げた。

「……だが、そう簡単にはいかねぇ」

 困惑した表情を見せた。

「あんたがその気なら、女将さんに頼んでみる。女将さんならなんとかしてくれるよ」

 澄は箸を置いた。

「……すまねぇな。お前には苦労ばかりかけちまって」

 良治は頭を下げた。

「何言ってんだい。私達、夫婦めおとじゃないか」

 澄が気丈夫を見せた。


 〈酒処 勝〉の閉店時間を見計らうと、店内を覗いた。客は居なかった。戸を開けると、香が板場から振り返った。

「女将さん」

「お澄、元気だったか? どうした」

「……女将さんにお願いがあって」

 深刻な顔を向けた。

「金か?」

「ううん。良治さんのことで」

「分かった。今、店を閉めるから二階に行ってな」

 板場から出ると、澄の肩に手を置いた。

「……はい」


 事情を聞いた香は、

「よし、分かった」

 一言そう言うと、便箋びんせんと筆を出した。――二通のそれを澄に渡すと、

「東京の浅草という所だ。佐野組を訪ねろ。住所も書いてある。もう一方の〈佐野昭様〉は、直接本人に手渡してくれ」

 念を押した。澄は大きく頷くと、

「……女将さん、ありがとうございます」

 涙ぐんだ。

「馬鹿、泣くな。ちょっと見ない間にかみさんらしくなったな。よしさんは可愛がってくれるか」

「はい」

 笑顔で返事をした。

「良かったな。幸せにな」

「はい」

「それよりほら、思い立ったが吉日だ。始発なんて悠長なことを言ってないで、これからすぐ旅立て。線路を東へ。東へ」
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