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しおりを挟む数日後、家族で岩瀬浜の海水浴場に行った。十二年ぶりに目にする故郷の海だった。柴田と美音が泳いでいる間、実家のあった場所に行ってみた。純香の家は跡形もなく、そこにはもう、当時の原風景は無かった。物悲しさの中で、雑草に覆われた空き地を見ている時だった。ハッとした。隣の板垣の家も無かったのだ。……あの刑事は、板垣とどこで話をしたのだろう。純香は、斜向かいの橋本を訪ねた。
戸を開けたのは、皺を刻んだ女だった。
「こんにちは。お向かいの板垣さんは今、どこに?」
麦わら帽子の鍔を持ち上げて尋ねた。
「板垣さんは、十年ほど前に引っ越されたちゃ」
「どちらに?」
「さあ……。聞いてませんが」
「……そうですか。最近、刑事さんが訪ねて来ませんでしたか?」
「ケイジ? 警察の?」
「え」
「なーん、そんな人ちゃ来てませんが」
「そうですか。どうも失礼しました」
「あんた、どっかで会うてませんか 」
橋本が顔を覗き込んだ。
「……さあ」
目と鼻の先に住んでいる橋本夫人のことは、子供の頃から知っていた。だが、根掘り葉掘り訊かれたくなかった純香は、あえて面識のない振りをした。
はて、あの刑事は板垣の引っ越し先を突き止めて、そこで話を訊いたのだろうか……。釈然とせぬままに、海水浴場に戻った。
――それから数日後、美音と一緒に桜木町までショッピングに出掛けた時だった。
「あれっ。こんにちは」
すれ違った三十半ばの男に声をかけられた。誰なのか思い出せずにいると、
「一度、お宅にお邪魔した刑事の津久井です」
と、本人が教えてくれた。
「――ああ。あの時の」
純香はやっと思い出すと、表情を緩めた。
「その節はどうも。もう一人の刑事さんはお元気ですか」
先日、花束を持って結婚の祝いをしに来てくれたが、ついでのように聞いてみた。
「あ、松崎さんですか」
(エッ! 松崎?)
「松崎さんて仰るんですか? あの刑事さん」
「そうですよ。定年で退職しました。例のあの事件が最後の仕事だったわけです」
「あの刑事さん、息子さんはいらっしゃいます?」
「……ええ。いますよ。でも、どうして?」
津久井が眉をひそめた。
「あ、いいえ。私の知り合いにも松崎っているんで、ご親戚かと思って」
「もう四十歳ぐらいになるかな、〈越中中島〉で産婦人科を営ってます」
仮に、あの刑事が、母を犯した松崎という男の父親だとしたら……。純香はこの時、新たな復讐を予感した。
「……そうですか。じゃ、違う人だわ」
「そうそう。今だから話すけど、実はあの時、あなたに不審を抱いて、あなたのお母さんの自殺の真相を調べてたんですが、途中で打ち止めになって――」
「お母さん、早く行こ」
美音が純香の手を引っ張った。
「その子は?」
「柴田の子供です」
「結婚なさったんですか」
「……ええ」
「それは、おめでとうございます。でもまさか、柴田さんと結婚するとは――」
「どういう意味でしょ」
純香は不愉快な顔をした。
「あ、いえ。復讐目的で柴田さんに近づいたんだと、私どもは考えてたもんですから」
「はぁ?」
純香は露骨に嫌な顔をしてやった。
「そうじゃなかったんですね。どうも失礼しました。お幸せに」
津久井は蔑むような目で見て、背を向けた。それはまるで、「殺された若い女と肉体関係があった、コブつきの中年男と、よくまぁ結婚したな」そんな野卑な言葉を吐き捨てられた思いだった。
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