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手袋 -2-
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今後、より多くの治療が必要になる事を想定してだろう、例の若い医者…やはり自衛隊員という扱いになるらしい…もウミと一緒にやってきて、島に詰めることになった。それで、町医者の医院には大掛かりな設備が持ち込まれる事になった。現在の島の設備では外科手術なんか満足にできないという事もあるが、そもそも町医者の専門が内科であるのも、この対応となった一因ではないかと思っている。僕はそれが、ウミを治す為ではなく、延命させるだけの為であることをなんとなく悟っていた。基本は、町医者と自衛隊員の医者の二名体制となるが、陸ではいつでもヘリを飛ばせる体制になっているらしかった。
ウミが入院していた期間、当然だが、浄化作業は滞る事になった。もう十月に入っている。残るエリアは九つ。つまり、今までのペースで消化すれば約三週間となり、当初予定していた期限である十月末には間に合う。ギリギリというスケジュールではない。けれど、ウミが島に帰って来た翌日から、容赦なく浄化作業は再開する事になった。何をそんなに焦る必要があるのか。理由があるとすると、ウミの体力が浄化完了までもつか、だろうか。もはや誰がこの話の黒幕なのかは解らないが、ウミの命よりも浄化が優先されるであろうことは、なんとなく気づいている。
ウミの誕生日は来週…。それまでに、編み物も終わらせなければ…。
週末、僕は野辺とアメリに連絡をして、久々にカフェで集まる事にした。色々と話したい事はあったが…とりわけ、アメリが委員長と同様に浄化の影響を予め認識していたかは気になりはしたが、それを責めた所でアメリに悪気がないのは解っている…僕が相談したいと思っているのは、ウミをどうにかして浄化作業から解放できないか、という事だ。引っかかっているのは、以前、アメリの島外退避が決まった時に聞いた、野辺の言葉だ。親父の船で陸へ会いにいける、と。
一足先にカフェに着くと、デッキでマスターが花の水やりをしていた。確か、ウミが育てていた花だ。まだ綺麗に咲いている。
マスターは僕の存在に気が付くと、手で扉を開けて中に入れてくれた。客は他に誰もいない。正面のガラス窓を透かして見える景色を構成する、積乱雲と突き抜けるような蒼空が、今日も、まるで一枚の絵画の様だった。浄化の事がなければ、落ち着いて景色を見ながら、コーヒーの香りと一緒に、編み物でもできたのだろうけれど…。
マスターは僕に、窓から一番近いテーブルをあてがってくれた。僕は、アイスコーヒーを注文した。
「君が一人で来るなんて、珍しいですね」マスターはコーヒーをドリップしながら、落ち着いた口ぶりで言った。「木百合さんが来なくなってから、すっかり寂しくなってしまいましたよ」
そう言えば、島民の半数がいなくなったから、ウミがいなくても切り盛りができる、とか言ってたな。確かにそんな感じだ。
「後から、野辺とアメリが来ますから、少し賑やかになるかもしれませんよ」
僕の言葉に、マスターは静かに頷いた。
「客としてでいいから、木百合さんも来られるとよかったけれどね…。あの娘が大切な役目を果たしているという事は、ある程度耳にしていますけれどね…。君は、木百合さんと頻繁に顔を合わせているのでしょう?」
僕は首肯した…けれど、ウミが元気か、と訊かれたら、なんと回答していいんだろうか…。マスターはそんな僕の様子を見て、何かを悟った様でもあった。
「粗挽きの深煎り。ある程度氷が溶けてから飲んでください」
マスターは、僕の前にコースターとストローを設置すると、コーヒーの入ったグラスを置いた。
「コーヒーは、奥が深そうですね」
僕が言うと、マスターは、フフフ、と笑った。
「コーヒー、ワイン、ウイスキー、いずれも奥が深いですよ。ワインはブドウの品種やビンテージや畑や土、あるいはデカントに左右されるし、ウイスキーは原酒や、樽の種類やサイズ、貯蔵年数やブレンド有無、ブレンド方法、飲み方に左右される。実はビールだって、注ぎ方や温度、グラス形状で香りや味が変わる。コーヒーが厄介なのは、これらのお酒と比べると、注ぎ手に多くの項目が任されている事です。豆の種類や産地はもちろんそうだけれど、焙煎方法、挽き方、挽く粗さ、ドリップに使う道具、ドリップ温度、ドリップ方法。こだわり出したらきりがない。実は、私はコーヒーが嫌いだった。苦いだけでおいしくない。香りがいい、というのは勿論、思っていましたけれどね。でも、これは、自分にあったコーヒーに出会っていないだけなのではないか、と考えて、沢山研究しましたよ」
そう言えば、このマスターは一級建築士だったっけ。凝り性なんだろうな…。
「それで、マスターの納得のいくコーヒーにたどり着けたから、このカフェを開いた…ですかね?」
「いやいや。違うんです。逆で、何年もかけて、豆も、焙煎も、ドリップも、道具も研究し続けた結果、私が導き出した結論は『やっぱり自分はコーヒーが嫌いだ』」
僕は思わず笑った。
「なんですか、それ」
「いやね、でも、人生そんな物だったりするんですよ。時間や力をかけて取り組んだ結論が、実は理想と真逆だったなんてね。でも、その結論に私は満足をしたし、納得をしている。だから、こうしてカフェをやっている訳です」
解るような、解らないような…。
「僕は…このコーヒー、とても美味しいと思いますよ」
マスターは、目を細めると、満足そうに数回頷いた。
「…木百合さんにも、いずれ教えてあげたかったけれどね…」
ウミの淹れるコーヒーか…。
「そういえば…」僕が言った。「ウミは、どうしてバイトをしていたんでしょうね? お爺さんの年金や両親の遺族年金なんかで、暮らしはできているんじゃないかと思っていたんですけど…」
「ああ…そうですね…」マスターが言った。「まあ、詳しい事は教えて貰ってはいないんですけれど、妹さんの為にお金を貯めたい、と言っていましたよ。もしかすると、陸の私立中学とか高校の受験ができるように、準備していたのかもしれないですね」
アスカの為…。そういえば、以前ウミは、アスカを島から出したい、と言っていた…。それで、バイトをしていた、というのか…。
「ウミは、もうすぐ誕生日なんですよね…」
「ほう、それは知りませんでした。ええと…いくつになるのかな」
「十六歳です」
「次に木百合さんに会ったら、私からもおめでとうと言っていた、と伝えて下さいね」
僕は頷いた。
「それで、ウミにプレゼントしようと思って、手袋を編んでいるんですけれど、野辺とアメリが来るまで、ここで作業してもいいですか?」
マスターは、もちろん、ごゆっくり、というと、カウンターに戻っていった。僕は鞄から編みかけの手袋とかぎ針を出すと、時折窓から水平線を眺めながら、進めて行った。
暫くして、野辺とアメリが一緒に入って来た。
二人は、前回もそうしたように、マスターにアイスコーヒーを注文すると、僕の座っているテーブルに慌ただしく腰かけた。急に時間の流れ方が変わったみたいで、なんだかおかしかった。
「あっ、圷くん、それって…」アメリが、僕の手許を指して言った。「編み物? へえ、そういう特技があったんだね」
「お前の新たな一面を発見したな。巫女のコスプレで女装をしたんだ。今更何も驚くまい」
野辺が囃した。僕は慌てて編み物を鞄に突っ込んだ。
「そういう物言いは、今時っぽくないな。野辺はいずれセクハラで訴えられると見た」
僕の言葉に、野辺は、ククク、と笑った。
「それで、相談、というのは? 木百合に関する事だとは解るけれど、俺たちに何ができるだろうか」
僕は頷いた。
「島に戻ってきて、今のところウミの体調は安定しているように見えるんだけれど…このまま浄化作業を続けたら、もっと酷い事になるのは目に見えているんだ…。だから、ウミの状態がこれ以上悪くなる前に、浄化作業を止めさせたい」
「それは同感だ。俺も木百合の事が心配だ」野辺が言った。「アメリから、母親である神主に言ってもらうのが一番手っ取り早いんじゃねえかな」
野辺はアメリの方を見た。アメリは表情を曇らせると、言葉を詰まらせた。アメリは、この浄化をやめる事ができないと知っている。
「誰かに話をしてやめる、という選択肢はないと考えてる」僕が言った。「ウミが体調を崩しても周りはそれを無視したし、ウミ自身も中断する事を拒否したからね…」
国家機密、あるいは軍事機密である事については、二人には言わなかった。
「じゃあどうすればいい? 無理やり木百合を誘拐して、連れ出すしかないんじゃないか?」
「その通りだと思う」野辺はふざけたつもりかもしれないが、僕はその意見を肯定した。「ウミの意志に反しても、ウミを拘束して、島の外に逃がしたいんだ」
「それって…」アメリが言った。「でも、どうすればいいのかしら…」
野辺は鹿爪らしい顔をすると、腕組みをした。
「…親父の船か…」野辺が言った。「俺の親父の船を使えば、島の外に出る事はできる」
僕は首肯した。
「もし野辺が協力してくれるなら、夜中にでも船を出して逃亡したい」
「ちょっと待って、島外退避期間は、船を出すことは禁止されているでしょ?」
「禁止されてるから、逆に都合がいいんだよ」アメリの言葉に被せるように野辺が言った。「もし見つかっても、追跡しづらい筈だ。定期的にエンジンをかけてバッテリーを充電していない船はすぐには追ってこられない。漁に出ている船がいないから、航行中に邪魔をされる事もない。誰も漁に出ていないって事は、レーダーで見張ってる連中もいないだろうから、こっそり抜け出すには好都合だ」
アメリは、不安そうな表情を崩さなかった。
「うまく島から出られたとしても…その後、行く当てはどうするの?」
そこまでは、まだ考えていない…。委員長のところは頼れないだろう。先に退避している島民の誰かを訪れる、というのはひとつの手かもしれないけれど、すぐに見つかって連れ戻されてしまうだろう。できるだけ遠くに逃げて、信頼できる機関に頼る事が出来ればいいのだけれど…それはどこだろうか。警察とか…。機密情報なら公的機関は不適かもしれない。一層の事、海外に逃げる事ができればよいのに…。
「いいよ、アメリは付いてこなくていい」野辺が言った。「というか、付いてくるな。リスクを負う人数は少ない方がいいから、俺と圷の二人でやる」
ああ、これは、アメリを気遣って言っているのだ。アメリは狼狽えている。仕方がない。親友のウミが心配なのは当然だろうし、古杜家の人間としての責任も感じているに違いない。
「わたし…どうしよう」
アメリは、小さく呟いた。
「圷、明日の昼、港に集合な。船の設備の説明をお前にしておく必要があるのと、詳細な作戦を立てる必要があるだろうからな」
僕は微笑すると、大きく頷いた。野辺が乗り気なのは、本当に助かる。
話題が区切れたので、僕らはアイスコーヒーを啜った。
「そういえば、圷くん、さっきは何を編んでいたの」
またその話に戻すのか…。でも、実は、アメリに相談をするか迷っていた事がある。それは、手袋を一双で作るのか、片方でやめるのか、だ。だって、ウミの右手はなくなってしまったのだから…。
「来週、ウミの誕生日だろ? それで、プレゼントにと、手袋を編んでるんだけれど…」僕は言葉に詰まった。「今、ちゃんと左右になるように二つ編んでいるんだけれど、二つを渡すべきか、左手用の一つだけにするべきかを、迷ってるんだ…」
僕の言葉の意味に、二人は気が付いたように、俯いた。
「木百合の腕の事は、残念だったな…」
野辺が言った。その口調が暗かったものだから、三人とも、更に沈黙してしまった…。
「ウミの事だから…」アメリが口を開いた。「絶対に、両手分を渡した方がいいと思うな。片方だけだと、足りない、未完成だ、って怒るんじゃないかな」
その様子は、確かに明確に、頭の中で想像ができるな…。
「…そうだね、ありがとう」僕が言った。「ちゃんと左右つくってプレゼントしようと思うよ」
図らずも、アメリに相談ができてよかった。何の気なしに作り続けていたけれど、頭の中で、渡す時の事がシミュレーションできていない。
それから次の会話になかなか発展できず、僕らはまた、何となく黙ってしまった。
「あっ、そうだ」僕は、話題を変えようと思い、わざとらしく大きな声を出した。「そういえば、ウミから、ピアノの練習をしておけって言われてたんだよね」
「ああ、それなら」アメリが言った。「わたしだって、アスカちんからギターの練習をしておくように言われてたんだった…」
「俺は、カホンか…」
「練習するなら、自由に使っていいよ」
マスターがカウンターから声をかけてきた。僕らは、互いに顔を見合わせた。
ウミが入院していた期間、当然だが、浄化作業は滞る事になった。もう十月に入っている。残るエリアは九つ。つまり、今までのペースで消化すれば約三週間となり、当初予定していた期限である十月末には間に合う。ギリギリというスケジュールではない。けれど、ウミが島に帰って来た翌日から、容赦なく浄化作業は再開する事になった。何をそんなに焦る必要があるのか。理由があるとすると、ウミの体力が浄化完了までもつか、だろうか。もはや誰がこの話の黒幕なのかは解らないが、ウミの命よりも浄化が優先されるであろうことは、なんとなく気づいている。
ウミの誕生日は来週…。それまでに、編み物も終わらせなければ…。
週末、僕は野辺とアメリに連絡をして、久々にカフェで集まる事にした。色々と話したい事はあったが…とりわけ、アメリが委員長と同様に浄化の影響を予め認識していたかは気になりはしたが、それを責めた所でアメリに悪気がないのは解っている…僕が相談したいと思っているのは、ウミをどうにかして浄化作業から解放できないか、という事だ。引っかかっているのは、以前、アメリの島外退避が決まった時に聞いた、野辺の言葉だ。親父の船で陸へ会いにいける、と。
一足先にカフェに着くと、デッキでマスターが花の水やりをしていた。確か、ウミが育てていた花だ。まだ綺麗に咲いている。
マスターは僕の存在に気が付くと、手で扉を開けて中に入れてくれた。客は他に誰もいない。正面のガラス窓を透かして見える景色を構成する、積乱雲と突き抜けるような蒼空が、今日も、まるで一枚の絵画の様だった。浄化の事がなければ、落ち着いて景色を見ながら、コーヒーの香りと一緒に、編み物でもできたのだろうけれど…。
マスターは僕に、窓から一番近いテーブルをあてがってくれた。僕は、アイスコーヒーを注文した。
「君が一人で来るなんて、珍しいですね」マスターはコーヒーをドリップしながら、落ち着いた口ぶりで言った。「木百合さんが来なくなってから、すっかり寂しくなってしまいましたよ」
そう言えば、島民の半数がいなくなったから、ウミがいなくても切り盛りができる、とか言ってたな。確かにそんな感じだ。
「後から、野辺とアメリが来ますから、少し賑やかになるかもしれませんよ」
僕の言葉に、マスターは静かに頷いた。
「客としてでいいから、木百合さんも来られるとよかったけれどね…。あの娘が大切な役目を果たしているという事は、ある程度耳にしていますけれどね…。君は、木百合さんと頻繁に顔を合わせているのでしょう?」
僕は首肯した…けれど、ウミが元気か、と訊かれたら、なんと回答していいんだろうか…。マスターはそんな僕の様子を見て、何かを悟った様でもあった。
「粗挽きの深煎り。ある程度氷が溶けてから飲んでください」
マスターは、僕の前にコースターとストローを設置すると、コーヒーの入ったグラスを置いた。
「コーヒーは、奥が深そうですね」
僕が言うと、マスターは、フフフ、と笑った。
「コーヒー、ワイン、ウイスキー、いずれも奥が深いですよ。ワインはブドウの品種やビンテージや畑や土、あるいはデカントに左右されるし、ウイスキーは原酒や、樽の種類やサイズ、貯蔵年数やブレンド有無、ブレンド方法、飲み方に左右される。実はビールだって、注ぎ方や温度、グラス形状で香りや味が変わる。コーヒーが厄介なのは、これらのお酒と比べると、注ぎ手に多くの項目が任されている事です。豆の種類や産地はもちろんそうだけれど、焙煎方法、挽き方、挽く粗さ、ドリップに使う道具、ドリップ温度、ドリップ方法。こだわり出したらきりがない。実は、私はコーヒーが嫌いだった。苦いだけでおいしくない。香りがいい、というのは勿論、思っていましたけれどね。でも、これは、自分にあったコーヒーに出会っていないだけなのではないか、と考えて、沢山研究しましたよ」
そう言えば、このマスターは一級建築士だったっけ。凝り性なんだろうな…。
「それで、マスターの納得のいくコーヒーにたどり着けたから、このカフェを開いた…ですかね?」
「いやいや。違うんです。逆で、何年もかけて、豆も、焙煎も、ドリップも、道具も研究し続けた結果、私が導き出した結論は『やっぱり自分はコーヒーが嫌いだ』」
僕は思わず笑った。
「なんですか、それ」
「いやね、でも、人生そんな物だったりするんですよ。時間や力をかけて取り組んだ結論が、実は理想と真逆だったなんてね。でも、その結論に私は満足をしたし、納得をしている。だから、こうしてカフェをやっている訳です」
解るような、解らないような…。
「僕は…このコーヒー、とても美味しいと思いますよ」
マスターは、目を細めると、満足そうに数回頷いた。
「…木百合さんにも、いずれ教えてあげたかったけれどね…」
ウミの淹れるコーヒーか…。
「そういえば…」僕が言った。「ウミは、どうしてバイトをしていたんでしょうね? お爺さんの年金や両親の遺族年金なんかで、暮らしはできているんじゃないかと思っていたんですけど…」
「ああ…そうですね…」マスターが言った。「まあ、詳しい事は教えて貰ってはいないんですけれど、妹さんの為にお金を貯めたい、と言っていましたよ。もしかすると、陸の私立中学とか高校の受験ができるように、準備していたのかもしれないですね」
アスカの為…。そういえば、以前ウミは、アスカを島から出したい、と言っていた…。それで、バイトをしていた、というのか…。
「ウミは、もうすぐ誕生日なんですよね…」
「ほう、それは知りませんでした。ええと…いくつになるのかな」
「十六歳です」
「次に木百合さんに会ったら、私からもおめでとうと言っていた、と伝えて下さいね」
僕は頷いた。
「それで、ウミにプレゼントしようと思って、手袋を編んでいるんですけれど、野辺とアメリが来るまで、ここで作業してもいいですか?」
マスターは、もちろん、ごゆっくり、というと、カウンターに戻っていった。僕は鞄から編みかけの手袋とかぎ針を出すと、時折窓から水平線を眺めながら、進めて行った。
暫くして、野辺とアメリが一緒に入って来た。
二人は、前回もそうしたように、マスターにアイスコーヒーを注文すると、僕の座っているテーブルに慌ただしく腰かけた。急に時間の流れ方が変わったみたいで、なんだかおかしかった。
「あっ、圷くん、それって…」アメリが、僕の手許を指して言った。「編み物? へえ、そういう特技があったんだね」
「お前の新たな一面を発見したな。巫女のコスプレで女装をしたんだ。今更何も驚くまい」
野辺が囃した。僕は慌てて編み物を鞄に突っ込んだ。
「そういう物言いは、今時っぽくないな。野辺はいずれセクハラで訴えられると見た」
僕の言葉に、野辺は、ククク、と笑った。
「それで、相談、というのは? 木百合に関する事だとは解るけれど、俺たちに何ができるだろうか」
僕は頷いた。
「島に戻ってきて、今のところウミの体調は安定しているように見えるんだけれど…このまま浄化作業を続けたら、もっと酷い事になるのは目に見えているんだ…。だから、ウミの状態がこれ以上悪くなる前に、浄化作業を止めさせたい」
「それは同感だ。俺も木百合の事が心配だ」野辺が言った。「アメリから、母親である神主に言ってもらうのが一番手っ取り早いんじゃねえかな」
野辺はアメリの方を見た。アメリは表情を曇らせると、言葉を詰まらせた。アメリは、この浄化をやめる事ができないと知っている。
「誰かに話をしてやめる、という選択肢はないと考えてる」僕が言った。「ウミが体調を崩しても周りはそれを無視したし、ウミ自身も中断する事を拒否したからね…」
国家機密、あるいは軍事機密である事については、二人には言わなかった。
「じゃあどうすればいい? 無理やり木百合を誘拐して、連れ出すしかないんじゃないか?」
「その通りだと思う」野辺はふざけたつもりかもしれないが、僕はその意見を肯定した。「ウミの意志に反しても、ウミを拘束して、島の外に逃がしたいんだ」
「それって…」アメリが言った。「でも、どうすればいいのかしら…」
野辺は鹿爪らしい顔をすると、腕組みをした。
「…親父の船か…」野辺が言った。「俺の親父の船を使えば、島の外に出る事はできる」
僕は首肯した。
「もし野辺が協力してくれるなら、夜中にでも船を出して逃亡したい」
「ちょっと待って、島外退避期間は、船を出すことは禁止されているでしょ?」
「禁止されてるから、逆に都合がいいんだよ」アメリの言葉に被せるように野辺が言った。「もし見つかっても、追跡しづらい筈だ。定期的にエンジンをかけてバッテリーを充電していない船はすぐには追ってこられない。漁に出ている船がいないから、航行中に邪魔をされる事もない。誰も漁に出ていないって事は、レーダーで見張ってる連中もいないだろうから、こっそり抜け出すには好都合だ」
アメリは、不安そうな表情を崩さなかった。
「うまく島から出られたとしても…その後、行く当てはどうするの?」
そこまでは、まだ考えていない…。委員長のところは頼れないだろう。先に退避している島民の誰かを訪れる、というのはひとつの手かもしれないけれど、すぐに見つかって連れ戻されてしまうだろう。できるだけ遠くに逃げて、信頼できる機関に頼る事が出来ればいいのだけれど…それはどこだろうか。警察とか…。機密情報なら公的機関は不適かもしれない。一層の事、海外に逃げる事ができればよいのに…。
「いいよ、アメリは付いてこなくていい」野辺が言った。「というか、付いてくるな。リスクを負う人数は少ない方がいいから、俺と圷の二人でやる」
ああ、これは、アメリを気遣って言っているのだ。アメリは狼狽えている。仕方がない。親友のウミが心配なのは当然だろうし、古杜家の人間としての責任も感じているに違いない。
「わたし…どうしよう」
アメリは、小さく呟いた。
「圷、明日の昼、港に集合な。船の設備の説明をお前にしておく必要があるのと、詳細な作戦を立てる必要があるだろうからな」
僕は微笑すると、大きく頷いた。野辺が乗り気なのは、本当に助かる。
話題が区切れたので、僕らはアイスコーヒーを啜った。
「そういえば、圷くん、さっきは何を編んでいたの」
またその話に戻すのか…。でも、実は、アメリに相談をするか迷っていた事がある。それは、手袋を一双で作るのか、片方でやめるのか、だ。だって、ウミの右手はなくなってしまったのだから…。
「来週、ウミの誕生日だろ? それで、プレゼントにと、手袋を編んでるんだけれど…」僕は言葉に詰まった。「今、ちゃんと左右になるように二つ編んでいるんだけれど、二つを渡すべきか、左手用の一つだけにするべきかを、迷ってるんだ…」
僕の言葉の意味に、二人は気が付いたように、俯いた。
「木百合の腕の事は、残念だったな…」
野辺が言った。その口調が暗かったものだから、三人とも、更に沈黙してしまった…。
「ウミの事だから…」アメリが口を開いた。「絶対に、両手分を渡した方がいいと思うな。片方だけだと、足りない、未完成だ、って怒るんじゃないかな」
その様子は、確かに明確に、頭の中で想像ができるな…。
「…そうだね、ありがとう」僕が言った。「ちゃんと左右つくってプレゼントしようと思うよ」
図らずも、アメリに相談ができてよかった。何の気なしに作り続けていたけれど、頭の中で、渡す時の事がシミュレーションできていない。
それから次の会話になかなか発展できず、僕らはまた、何となく黙ってしまった。
「あっ、そうだ」僕は、話題を変えようと思い、わざとらしく大きな声を出した。「そういえば、ウミから、ピアノの練習をしておけって言われてたんだよね」
「ああ、それなら」アメリが言った。「わたしだって、アスカちんからギターの練習をしておくように言われてたんだった…」
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