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父と娘の暗躍
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リスフォード川のほとりに建つ小さな別荘は、朝霧に半ば溶けているようだった。
外界からの音は遠く、波が濡れた石をゆっくりと撫でるだけ。
その隠れ家の書斎で、ザンジス宰相は机に肘をつき、指先で飲み込めぬ怒りを揉み砕いていた。
帳簿は奪われ、運び屋たちは捕縛され、証拠は王宮へ送られた。
冷たい現実だけが、灰色の朝を満たしている。
「ノアよ……まさかここまでやるとはな」
ザンジスは低く吐き捨てるように言った。
かつて自分が操った数多の貴族たちが、今や“正義”の名のもとに自分を追う。
机を叩く掌に、血の気が戻るような感覚と同時に、底知れぬ焦りが湧いた。
「逃げるしかないのだな、金を持って国外へ――」
外套を肩にかける前に、書斎の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、黒い仮面の跡を残す化粧はしていない、だがその瞳だけはいつもと同じ、冷たい光を宿した若い女性だった。マーガレット・ザンジス。
父の元へ歩み寄るその足取りには、焦燥よりも計算の冷たさが宿っていた。
「――お父様。ニュースは把握しておりますわ。証拠の件、もう手遅れに思えます。」
マーガレットの声は柔らかく、だが刃物のように研がれている。
ザンジスは顔を上げ、その瞳に娘の表情を確かめた。
「マーガレット……。お前に来させたのは理由がある。王都に残ればお前も道連れだ。だが、私が消えれば、少しは時間が稼げるかもしれん」
マーガレットは一瞬だけ黙った。月明かりの差す窓辺に、彼女の横顔が鋭く浮かぶ。
そして、まるで楽しげに、あるいは挑発するかのように微笑んだ。
「お父様……もう、陛下に逆らうことはできませんわね。証拠も押さえられている。
けれど――それでも“終わり”にしたくないなら、奪えばいいじゃない。お父様の名誉を私が奪い返すの。」
ザンジスはその言葉にいたく興味を示した。
「お前の考えは?」とだけ問う。
マーガレットは近づき、父の顔を真っ直ぐに見据える。
「ノア殿下の“信頼”を奪うのです。殿下には“公”としての面と“私情”がある。
彼は人を守ることに誇りを持つ。だが、同時に感情に弱い。そこを突けば、彼は自ら崩れる。」
ザンジスの瞳が一瞬、録られた魚のように光る。
「――つまり、王子を道連れにする、と?」
「ええ。」
マーガレットの笑いは軽く、しかし残酷だった。
「ノア殿下が女装して“ノアーチェ”として動き、ラービス・カリスに心を寄せているという噂。それに、カリスという存在が本当は“女”――ラービス・カリーナであるという事実。」
彼女の口元が薄く吊り上がる。
「どちらも“性別の詐称”ですわ。国家の重要な情報に触れていた。
陛下の耳にそれが入れば、“王族の欺瞞”として大問題。ノア殿下は政治的に終わりを迎えるでしょう。」
ザンジスは驚きと同時に、目の奥で何かが弾けるのを感じた。
「お前、まさか本当に――」と呟くが、その声は震えている。
マーガレットは小首をかしげる。
「情報は集めましたの。ノア殿下の専属メイドが、ふとした拍子に口を滑らせたのです。“ノアーチェ”の存在を、そしてカリスの妙な行動を。あとは繋げるだけ。」
ザンジスはゆっくりと立ち上がった。逃亡以前に抱えていた傲慢が、瞳に一瞬戻る。
「よくぞ集めた。だが、王都に戻る者がそれを聞いたら――」
マーガレットは父の言葉を遮るように前に出た。
「戻る必要はありませんわ。私が王都で動きます。ルイ殿下を利用しましょう。彼は弟を邪魔だと見る。兄弟の“裂け目”に火を放てば、ノアは自壊する。」
ザンジスは指を組み、冷たい笑みを浮かべた。
「――つまり、お前が表でルイを操り、私が影で導く、と?」
「ふふ、そういうことですわ。お父様。私はあなたのために汚れ仕事などいといません。」
マーガレットの瞳が飴のように輝いた。だがその輝きは、慈愛や愛情のものではなく、復讐と計算の光だ。
ザンジスは立ち尽くしたまましばらく考え、やがてゆっくりと頷いた。
「分かった。王都の重鎮たちを欺き、ノアを政治的に葬る。だが注意しろ――王族の落としどころは読めぬ。失敗すれば、お前も終わりだ。」
マーガレットは一瞬だけ驚いたように見えたが、すぐに意味深な笑みを浮かべる。
「私は壊れてもいいのですわ。お父様のためなら、それくらいの犠牲は厭いません。」
ザンジスは娘のその言葉を聞いて、久々に胸の内に残る何かを感じた。――それが血の絆なのか、あるいは計算された演技なのか、今はわからない。だが彼は、一つだけ確信していた。
「ならば、やれ。お前のやり方で、奴をおとしめよ。王都が燃えるならば、共に燃えよう。」
マーガレットは深く一礼してから、振り返ると窓の外へと歩き出した。
朝靄の中、彼女の黒髪が一房、冷たく揺れた。
――リスフォードの水面を滑る小舟は、ゆっくりと岸を離れていく。
その波紋の端で、二人の間に結ばれた暗い盟約だけが、確かに波を立てていた。
外界からの音は遠く、波が濡れた石をゆっくりと撫でるだけ。
その隠れ家の書斎で、ザンジス宰相は机に肘をつき、指先で飲み込めぬ怒りを揉み砕いていた。
帳簿は奪われ、運び屋たちは捕縛され、証拠は王宮へ送られた。
冷たい現実だけが、灰色の朝を満たしている。
「ノアよ……まさかここまでやるとはな」
ザンジスは低く吐き捨てるように言った。
かつて自分が操った数多の貴族たちが、今や“正義”の名のもとに自分を追う。
机を叩く掌に、血の気が戻るような感覚と同時に、底知れぬ焦りが湧いた。
「逃げるしかないのだな、金を持って国外へ――」
外套を肩にかける前に、書斎の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、黒い仮面の跡を残す化粧はしていない、だがその瞳だけはいつもと同じ、冷たい光を宿した若い女性だった。マーガレット・ザンジス。
父の元へ歩み寄るその足取りには、焦燥よりも計算の冷たさが宿っていた。
「――お父様。ニュースは把握しておりますわ。証拠の件、もう手遅れに思えます。」
マーガレットの声は柔らかく、だが刃物のように研がれている。
ザンジスは顔を上げ、その瞳に娘の表情を確かめた。
「マーガレット……。お前に来させたのは理由がある。王都に残ればお前も道連れだ。だが、私が消えれば、少しは時間が稼げるかもしれん」
マーガレットは一瞬だけ黙った。月明かりの差す窓辺に、彼女の横顔が鋭く浮かぶ。
そして、まるで楽しげに、あるいは挑発するかのように微笑んだ。
「お父様……もう、陛下に逆らうことはできませんわね。証拠も押さえられている。
けれど――それでも“終わり”にしたくないなら、奪えばいいじゃない。お父様の名誉を私が奪い返すの。」
ザンジスはその言葉にいたく興味を示した。
「お前の考えは?」とだけ問う。
マーガレットは近づき、父の顔を真っ直ぐに見据える。
「ノア殿下の“信頼”を奪うのです。殿下には“公”としての面と“私情”がある。
彼は人を守ることに誇りを持つ。だが、同時に感情に弱い。そこを突けば、彼は自ら崩れる。」
ザンジスの瞳が一瞬、録られた魚のように光る。
「――つまり、王子を道連れにする、と?」
「ええ。」
マーガレットの笑いは軽く、しかし残酷だった。
「ノア殿下が女装して“ノアーチェ”として動き、ラービス・カリスに心を寄せているという噂。それに、カリスという存在が本当は“女”――ラービス・カリーナであるという事実。」
彼女の口元が薄く吊り上がる。
「どちらも“性別の詐称”ですわ。国家の重要な情報に触れていた。
陛下の耳にそれが入れば、“王族の欺瞞”として大問題。ノア殿下は政治的に終わりを迎えるでしょう。」
ザンジスは驚きと同時に、目の奥で何かが弾けるのを感じた。
「お前、まさか本当に――」と呟くが、その声は震えている。
マーガレットは小首をかしげる。
「情報は集めましたの。ノア殿下の専属メイドが、ふとした拍子に口を滑らせたのです。“ノアーチェ”の存在を、そしてカリスの妙な行動を。あとは繋げるだけ。」
ザンジスはゆっくりと立ち上がった。逃亡以前に抱えていた傲慢が、瞳に一瞬戻る。
「よくぞ集めた。だが、王都に戻る者がそれを聞いたら――」
マーガレットは父の言葉を遮るように前に出た。
「戻る必要はありませんわ。私が王都で動きます。ルイ殿下を利用しましょう。彼は弟を邪魔だと見る。兄弟の“裂け目”に火を放てば、ノアは自壊する。」
ザンジスは指を組み、冷たい笑みを浮かべた。
「――つまり、お前が表でルイを操り、私が影で導く、と?」
「ふふ、そういうことですわ。お父様。私はあなたのために汚れ仕事などいといません。」
マーガレットの瞳が飴のように輝いた。だがその輝きは、慈愛や愛情のものではなく、復讐と計算の光だ。
ザンジスは立ち尽くしたまましばらく考え、やがてゆっくりと頷いた。
「分かった。王都の重鎮たちを欺き、ノアを政治的に葬る。だが注意しろ――王族の落としどころは読めぬ。失敗すれば、お前も終わりだ。」
マーガレットは一瞬だけ驚いたように見えたが、すぐに意味深な笑みを浮かべる。
「私は壊れてもいいのですわ。お父様のためなら、それくらいの犠牲は厭いません。」
ザンジスは娘のその言葉を聞いて、久々に胸の内に残る何かを感じた。――それが血の絆なのか、あるいは計算された演技なのか、今はわからない。だが彼は、一つだけ確信していた。
「ならば、やれ。お前のやり方で、奴をおとしめよ。王都が燃えるならば、共に燃えよう。」
マーガレットは深く一礼してから、振り返ると窓の外へと歩き出した。
朝靄の中、彼女の黒髪が一房、冷たく揺れた。
――リスフォードの水面を滑る小舟は、ゆっくりと岸を離れていく。
その波紋の端で、二人の間に結ばれた暗い盟約だけが、確かに波を立てていた。
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