13 / 31
彼の実家
しおりを挟む
年末年始は、二人の実家に順番に行く予定だ。
まずは北海道の将吾さんの実家に泊まり、元旦の飛行機で東京に帰る。それからわたしの実家がある群馬に行く。ハードスケジュールだけれども三が日明けに将吾さんはまた海外に出張するから、仕方がなかった。
将吾さんの家族には初めて会う。緊張する、と告げると将吾さんも「オレも七海の家族に会うの、緊張するよ」と言われ、将吾さんでも緊張することがあるのだと安心した。
「お土産も入れたし、防寒着も入れたし、よし」
わたしは寝る前にもう一度荷物の確認をした。冬の北海道がどれくらい寒いのか見当がつかず、セーターや防寒着を詰め込んだ。
それだけでなく、東京土産のお菓子に将吾さんの下の弟、将平さんの子どもたちにおもちゃやお菓子も用意したから荷物はぱんぱんだ。
「七海、パッキング終わった? もう寝ようよ」
「うん、心配だからもう一度確認する」
忘れ物がないか再度確認し、すでにベッドにいる将吾さんの横に入る。
「おいで」と脇の下に抱え込まれ、彼の温もりにほっと安心する。
電気を消しておやすみと言い合い、目を閉じて何分くらい経った頃だろうか。将吾さんのスマートフォンが、鳴った。
「会社からだ」
将吾さんは起き上がるとスマートフォンを持ち、話しながらリビングに移動した。暖かかった布団の中が急激に冷えた気がして、小さく震える。
将吾さんはしばらくして寝室に戻ってくると「ごめん、ちょっと会社行ってくる」と、服を着替え始めた。
「何かトラブルでもあった?」
「うん、長くなるかもしれないから先に寝てて」
「明日、大丈夫そう?」
「極力出発に間に合うよう頑張るけど、どうしても無理だったら家には連絡入れておくから、申し訳ないけど先に行ってもらえないかな」
「そんな……無理だよ」
「空港には将平が迎えに来てくれるから。オレも夕方の便に乗れるようにする」
将吾さんは「ごめんな」とわたしの頬にキスし、何度となく髪を撫でると「なんでこんなときに」と愚痴を言いながら出て行った。
翌朝、将吾さんからスマートフォンにメッセージが入っていた。
思ったよりも時間がかかりそうだということ、その日の最終便に間に合わなかったら大晦日の便で帰ること、将平さんには連絡済みだから悪いけど先に向かって、という内容が入っていた。
文句を言っても仕方がない。わたしは支度をして空港に向かった。
スーツケースを預けて身軽になり、空港内をブラブラとする。ときどきメッセージアプリを確認すれども、将吾さんからの連絡はなかった。
搭乗時間の三十分前に搭乗口に移動した。搭乗口前のベンチは家族連れやカップル、友達同士などであふれていた。
わたしは、隅の方にひとつだけ空いていたベンチに腰掛けた。飛行機は満席らしく、人いきれに軽い目まいを感じた。
搭乗案内が流れたときに、マナーモードにしているスマートフォンが振動した。メッセージアプリを開くと、将吾さんからのメッセージが表示された。
もしや仕事が終わったのかと期待しつつ見てみると、大晦日の夕方の便で帰るということと、将也さんに飛行機のチケットを渡したから一緒に帰ってくれ、と書いてあった。
わたしは信じられない思いでその文を繰り返し読んだ。苦手な将也さんと一緒に帰るなんて……無理だ。
カチャカチャという金属の触れ合う音が耳に入った。下を向いていた視界に、ドクターマーチンの爪先が入る。わたしの目の前で止まり、動かない。
わたしはゆっくりと顔を上げた。
黒のスキニージーンズ。しっかりとした防寒コート。ニットキャップにサングラス。スカルの指輪は、右手人差し指の定位置にある。蛍光灯の明かりに後ろから照らされ、顔が良く見えない。
「七海ちゃん、行こ。もう搭乗できる」
将也さんはわたしを促すと、踵を返して搭乗ゲートに向かった。
飛行機の中は荷物をしまう人、立ち上がって家族と話している人、小さな子どもの泣き声などでごった返していた。
「七海ちゃん、奥入って」
将也さんはからだを斜めにしてわたしを窓側の席に入らせた。
「荷物、上げようか」
「お願いします」
脱いだコートをたたんで渡すと、将也さんは自分のコートと一緒に頭上の荷物入れに入れてくれた。
「座んねぇの」
言われて、自分が立ち上がったままでいたことに気づき、すぐに腰を下ろした。
エコノミーの三人がけの席は狭い。将也さんは、長い足を窮屈そうに折りたたんで席に収まっている。肩と肩が触れ合いそうで、わたしは緊張した。
「ごめんな。将吾じゃなくてオレで」
「いえ、大丈夫です」
「あいつの仕事柄さ、わりとこういうこと、頻繁にあると思うんだよね。けど、あいつのせいじゃないから理解してやって」
「はい、わかってます」
言葉の端々から将吾さんを思いやっているのがなんとなく伝わる。本当は優しい人。ただ、ぶっきらぼうで愛想がなく、物言いがストレートだから怖いだけなのだ。
シートベルト着用のサインが出て、飛行機が滑走路に移動する。加速し、ふわりと機体が浮かぶ。上昇する機体が斜めになる。
鼓膜がおかしくなって、何度も唾を飲み込む。気分を紛らわすために小さな窓から外を眺めた。
肩に、何かが触れた。え、と振り向こうとしたら、将也さんの頭が肩に寄りかかっていた。
「ま、将也、さん」
声をかけても返事はなく、深い寝息が聞こえるだけだった。
肩が異常に緊張した。動いたら目を覚ましてしまうかも、と思うと身じろぎひとつ取れない。
「ん……」
将也さんが少し動く。ふわりと金髪が揺れる。それを見て、そういえば髪の色を戻したんだな、と気がつく。
骨っぽい、大きな手がパーカーの袖から覗く。節くれだった長い指にいくつもはまっている指輪、切りそろえられた爪。
その指が体に触れたときのことを思い出して、ずきん、と中心が疼いた。生々しい……あのときの指の感触。夢うつつで抱き込まれ、口移しで飲まされた水。
将也さんはなにかを思っただろうか。いや、思うはずがない。わたしは将吾さんと結婚する予定で、将来の、義理の妹になるのだから。
飛行機が空港についても、将也さんはぐっすりと眠ったままだった。
そっと肩を揺すっても目を覚まさず、少し強めに揺すると、ようやくぱちぱちと瞬きして、目を開けた。
「ごめん、寄っかかってた?」
曖昧に頷き、降りる支度をする。将也さんもすぐに立ち上がり、荷物入れからコートを出してくれた。
手荷物受取場で荷物を受け取り、出口に行くと、将吾さんによく似た背格好の男性が迎えに来てくれていた。一番下の弟、将平さんだ。
将也さんが助手席に乗り、わたしが後部シートに収まると、将平さんの運転で実家へと向かう。道すがら、将平さんは将也さんに近況を聞いていて、わたしは聞くともなしに2人の会話を聞いていた。
「兄貴まだバンドやってんの」
「ああ」
「こっちでライブとかやんないの」
「まぁ、そのうちな」
バンドのこと、音楽のこと、将平さんの家族、ご実家の家族のこと。話される内容に意識を向けながら、わたしはうとうとし始めた。昨晩将吾さんが会社に呼び出されてから、よく眠れなかったのだ。
車はしばらく市街地を走り、実家に到着した。実家にはご両親、お祖母さん、そして近くに住んでいる将平さんの家族が集っており賑やかだ。
食事が終わるとそのままみかんや菓子をつまむ。義父と将也さんはテレビを見ながら日本酒を飲んでいる。将平さんと家族は、下の子がまだ小さいこともあって早々に部屋に引き上げた。
お祖母さんも「もう寝る」と部屋に入ったのが三十分ほど前だ。義父は酔って寝てしまい、将也さんが部屋に担いでいった。
「七海ちゃん、テレビでも見てゆっくりしててね」
「はい、ありがとうございます」
義母の気遣いに甘え、何をするともなくソファに座り、テレビを見ていた。
「親父、ちょっと痩せたんじゃね」
「そうかしら。お腹周りはだいぶ緩んできたって言ってたけどねぇ」
戻ってきた将也さんと義母の会話を聞きながら、わたしはリビングを見渡した。
この場所で、将吾さんがどんな幼少期を過ごしたのか、と思いを馳せる。
両親の愛に育まれ、ときにはきっと、兄弟三人つかみ合いの喧嘩とかもあったのだろう。わたしは愛おしい気持ちで部屋全体を感じていた。
「七海ちゃん、風呂入っちゃえば」
突然頭の上から話しかけられ、わたしはびくんと体を縮ませた。将也さんだ。
「あの、お義母さんは」
さっきまで将也さんと話していた義母の姿がなかった。
「もう寝るって。風呂入ってないのオレと七海ちゃんだけだから先、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」
お風呂に案内してもらい、いったん客間に戻って荷物から着替えを出す。
次に入るのが将也さんだと思うとゆっくり浸かる気持ちにはなれず、手早くシャワーで済ませた。
リビングに戻ると、将也さんはダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。こちらに背を向けて何かに集中している。わたしがお風呂を出たことに気づいていないようだった。
そっと、近づいた。椅子に座る将也さんを見下ろす。将吾さんとつむじの向きが同じことに気が付き、改めて二人がよく似ていると感じ入る。
「あの」
将也さんは声をかけても振り向かず、そこでわたしは将也さんがイヤホンをしていることに気がついた。
低くハミングする声が心地よい。なんのメロディだろう。この鼻歌を聞きながら眠ったら、とても心地よく眠りにつけそうだな、と思う。
「え、あれ? 七海ちゃん、もう風呂出たんだ」
気配に気がついた将也さんが振り返った。
「あ、はいっ」
わたしは不意を突かれて思わず後ずさりした。そんなわたしを見て、将也さんはふっと笑った。
「なぁ、まだオレのこと怖い?」
「えっ、いえっ、違います、その」
思わぬ問いかけに、わたしは動揺した。
「まぁ、ちょっとキツイこととか言ったかもだけどさ。基本、オレそんな怖くないからさ」
「はいっ……ごめんなさい」
「や、だからまぁ、そういうとこなんだけど」
将也さんは困ったように頭をぽりぽりと掻いた。
「ま、いいや。風呂入ってくる」
立ち上がると将也さんは、少しふらついた。
「将也さんっ」
わたしはとっさに将也さんに手を差し出した。けれども、将也さんはすかさずその手を振り払った。
「お風呂、入れます?」
「ああ、大丈夫」
将也さんは歩きだそうとしてまたふらついた。
「そんなんでお風呂入るの、危ないです。部屋で休んだほうがいいですよ」
「あー……、うん」
「部屋、二階ですか? 掴まってください」
将也さんが遠慮がちに肩に掴まる。わたしが一歩踏み出すと将也さんはバランスを崩した。
「あっ」
よろけ、ガタンと大きな音を立て、わたしと将也さんは重なるように床に倒れこんだ。
「痛っ」
「ごめん」
からだを起こそうと顔を上げると、すぐ近くに将也さんの顔があった。酔って、少し赤い頬。開いた唇に色気を感じ、思わず下を向く。
「悪りぃ、どっかぶつけたか」
「いえ、大丈夫です」
将也さんの声は優しくて耳馴染みがよい。わたしはゆっくりと顔を上げ、吸い込まれるように将也さんの瞳を見つめた。
いつもは強い目力が緩んでいる。透明感のある瞳。キリッとした二重と、眉毛。まつ毛が長い。目の下の泣きぼくろは、将吾さんと同じ位置にある。
どきん。
どきん。
急に胸が高鳴ったように感じた。耳の中で、体の中で、どくどくと脈打つのはなんなのか。
どきん。
どきん。
将也さんの目の中に自分がいる。将也さんもまた、わたしの目の中に自分の姿を確認しているだろうか。
どきん。
どきん。
将也さんの手が、指が頰に触れる。手のひらで頰を、包まれる。
どきん。
どきん。
突然、壁にかかった時計の、秒針が進む音が耳の奥で響く。
どきん。
どきん。
自分の心臓の音。
時計の秒針の音。
それらが重なる。将也さんに見つめられている。頬に触れている手が、少しずつ移動して唇に触れた。
「七海ちゃん……」
将也さんの親指が唇に触れ、頰に触れ、耳に触れ、髪に触れた。
「すげぇ綺麗だね、サラサラ」
指が髪を、梳く。毛先まで梳くとまた戻る。それを繰り返しながら将也さんは気持ちよさげに目を細めた。
「七海ちゃん」
掠れた声の呼びかけに返事ができない。将也さんの細められた目の中で、わたしはどう映っているのだろう。
髪を梳いていた指がわたしの顎を軽く捉え、少し上を向かされた。次に何をされるかを予感し、わたし抗おうとした。
言わなければ。たしなめなければ。この手を払って、「将也さん、酔ってますよ」と。
なのに、体も口も動かなかった。目だけは、自然と閉じることができた。
将也さんの唇の感触、動き。入り込む舌の甘さ。
電気ショックのようにからだがピリピリすることに驚きながらも、わたしは将也さんの唇に酔い、その感触を、彼の唾液を堪能した。
互いの味を味わい、信じられないほど積極的に将也さんの唇を貪った後、わたしは我に返って体を離そうと立ち上がった。将也さんも立ち上がった。
「七海ちゃん、ごめん」
その場から逃げようとしたわたしの腕を、将也さんが掴んだ。
「逃げないで」
体が思うように動かなかった。まるでスローモーションで動いているような、水の中でもがいているような不自由感。引き寄せられ、腰を抱かれた。
「ごめん。ごめん、オレ……酔ってる」
わたしはどうしたらいいのか、わからなかった。ただひとつはっきりとわかったのは、気持ちも体も含めて、もっと将也さんを知りたい、と自分が強く欲していることだった。
「酔ってるから。ほんとごめん。言い訳になんねぇけど」
「いえ……」
ごめん、と謝る割には、将也さんはわたしを離さなかった。強く抱きしめられたまま、わたしは段々と気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
離れなければ、と思う。もしも誰かが起きてきたら、この様子を見られたら、と気持ちが焦った。
そのとき、将也さんが体を離した。愛おしそうに、何かに耐えるようにわたしを見る。
その潤んだ瞳に、わたしは再び体の奥が疼くのを感じた。将也さんの目は、明らかに……わたしを求めていた。
「忘れてくれる? 酔ってたから。ほんとごめん」
すっと目が逸らされた。その瞬間に、言いようのない寂しさに襲われた。こんな感覚は、将吾さんに感じたことはなかった。ただ目を逸らされただけで拒否されたような、存在を無視されたような、心許なさと孤独に心がヒリヒリとする。
わたしは将也さんを残して客間に戻り、敷いてもらってあった布団を頭から被った。
将也さんとのキスを思い出すと、体が震えた。唇の厚さ、感触……柔らかさ。吸い付くように求められて、離れようと思っても離れられなくて、このままずっと、くっついているのかと思ったほどだった。それなのに、忘れて、と言われてしまった。
あんな情熱的で溶け合うようなキスを、忘れられるわけがない。わたしはそっと自分の唇に触れた。
将也さんは、自分のことをどう思っているのだろうか。どうしてキスをしてきたのだろうか。弟の婚約者だと、わかりきっているはずなのに。
リコさんは、将也さんは好きな女性にしか触れないと言っていた。キスも……そうだろうか。
わたしは、夜が明けるまで一睡もできず、悶々と考え続けた。出口のない迷路に迷い込んでしまったように、ぐるぐると思考を巡らせながら。
少しずつ明るくなったころに、ようやくうとうとと眠りにつくことができた。
まずは北海道の将吾さんの実家に泊まり、元旦の飛行機で東京に帰る。それからわたしの実家がある群馬に行く。ハードスケジュールだけれども三が日明けに将吾さんはまた海外に出張するから、仕方がなかった。
将吾さんの家族には初めて会う。緊張する、と告げると将吾さんも「オレも七海の家族に会うの、緊張するよ」と言われ、将吾さんでも緊張することがあるのだと安心した。
「お土産も入れたし、防寒着も入れたし、よし」
わたしは寝る前にもう一度荷物の確認をした。冬の北海道がどれくらい寒いのか見当がつかず、セーターや防寒着を詰め込んだ。
それだけでなく、東京土産のお菓子に将吾さんの下の弟、将平さんの子どもたちにおもちゃやお菓子も用意したから荷物はぱんぱんだ。
「七海、パッキング終わった? もう寝ようよ」
「うん、心配だからもう一度確認する」
忘れ物がないか再度確認し、すでにベッドにいる将吾さんの横に入る。
「おいで」と脇の下に抱え込まれ、彼の温もりにほっと安心する。
電気を消しておやすみと言い合い、目を閉じて何分くらい経った頃だろうか。将吾さんのスマートフォンが、鳴った。
「会社からだ」
将吾さんは起き上がるとスマートフォンを持ち、話しながらリビングに移動した。暖かかった布団の中が急激に冷えた気がして、小さく震える。
将吾さんはしばらくして寝室に戻ってくると「ごめん、ちょっと会社行ってくる」と、服を着替え始めた。
「何かトラブルでもあった?」
「うん、長くなるかもしれないから先に寝てて」
「明日、大丈夫そう?」
「極力出発に間に合うよう頑張るけど、どうしても無理だったら家には連絡入れておくから、申し訳ないけど先に行ってもらえないかな」
「そんな……無理だよ」
「空港には将平が迎えに来てくれるから。オレも夕方の便に乗れるようにする」
将吾さんは「ごめんな」とわたしの頬にキスし、何度となく髪を撫でると「なんでこんなときに」と愚痴を言いながら出て行った。
翌朝、将吾さんからスマートフォンにメッセージが入っていた。
思ったよりも時間がかかりそうだということ、その日の最終便に間に合わなかったら大晦日の便で帰ること、将平さんには連絡済みだから悪いけど先に向かって、という内容が入っていた。
文句を言っても仕方がない。わたしは支度をして空港に向かった。
スーツケースを預けて身軽になり、空港内をブラブラとする。ときどきメッセージアプリを確認すれども、将吾さんからの連絡はなかった。
搭乗時間の三十分前に搭乗口に移動した。搭乗口前のベンチは家族連れやカップル、友達同士などであふれていた。
わたしは、隅の方にひとつだけ空いていたベンチに腰掛けた。飛行機は満席らしく、人いきれに軽い目まいを感じた。
搭乗案内が流れたときに、マナーモードにしているスマートフォンが振動した。メッセージアプリを開くと、将吾さんからのメッセージが表示された。
もしや仕事が終わったのかと期待しつつ見てみると、大晦日の夕方の便で帰るということと、将也さんに飛行機のチケットを渡したから一緒に帰ってくれ、と書いてあった。
わたしは信じられない思いでその文を繰り返し読んだ。苦手な将也さんと一緒に帰るなんて……無理だ。
カチャカチャという金属の触れ合う音が耳に入った。下を向いていた視界に、ドクターマーチンの爪先が入る。わたしの目の前で止まり、動かない。
わたしはゆっくりと顔を上げた。
黒のスキニージーンズ。しっかりとした防寒コート。ニットキャップにサングラス。スカルの指輪は、右手人差し指の定位置にある。蛍光灯の明かりに後ろから照らされ、顔が良く見えない。
「七海ちゃん、行こ。もう搭乗できる」
将也さんはわたしを促すと、踵を返して搭乗ゲートに向かった。
飛行機の中は荷物をしまう人、立ち上がって家族と話している人、小さな子どもの泣き声などでごった返していた。
「七海ちゃん、奥入って」
将也さんはからだを斜めにしてわたしを窓側の席に入らせた。
「荷物、上げようか」
「お願いします」
脱いだコートをたたんで渡すと、将也さんは自分のコートと一緒に頭上の荷物入れに入れてくれた。
「座んねぇの」
言われて、自分が立ち上がったままでいたことに気づき、すぐに腰を下ろした。
エコノミーの三人がけの席は狭い。将也さんは、長い足を窮屈そうに折りたたんで席に収まっている。肩と肩が触れ合いそうで、わたしは緊張した。
「ごめんな。将吾じゃなくてオレで」
「いえ、大丈夫です」
「あいつの仕事柄さ、わりとこういうこと、頻繁にあると思うんだよね。けど、あいつのせいじゃないから理解してやって」
「はい、わかってます」
言葉の端々から将吾さんを思いやっているのがなんとなく伝わる。本当は優しい人。ただ、ぶっきらぼうで愛想がなく、物言いがストレートだから怖いだけなのだ。
シートベルト着用のサインが出て、飛行機が滑走路に移動する。加速し、ふわりと機体が浮かぶ。上昇する機体が斜めになる。
鼓膜がおかしくなって、何度も唾を飲み込む。気分を紛らわすために小さな窓から外を眺めた。
肩に、何かが触れた。え、と振り向こうとしたら、将也さんの頭が肩に寄りかかっていた。
「ま、将也、さん」
声をかけても返事はなく、深い寝息が聞こえるだけだった。
肩が異常に緊張した。動いたら目を覚ましてしまうかも、と思うと身じろぎひとつ取れない。
「ん……」
将也さんが少し動く。ふわりと金髪が揺れる。それを見て、そういえば髪の色を戻したんだな、と気がつく。
骨っぽい、大きな手がパーカーの袖から覗く。節くれだった長い指にいくつもはまっている指輪、切りそろえられた爪。
その指が体に触れたときのことを思い出して、ずきん、と中心が疼いた。生々しい……あのときの指の感触。夢うつつで抱き込まれ、口移しで飲まされた水。
将也さんはなにかを思っただろうか。いや、思うはずがない。わたしは将吾さんと結婚する予定で、将来の、義理の妹になるのだから。
飛行機が空港についても、将也さんはぐっすりと眠ったままだった。
そっと肩を揺すっても目を覚まさず、少し強めに揺すると、ようやくぱちぱちと瞬きして、目を開けた。
「ごめん、寄っかかってた?」
曖昧に頷き、降りる支度をする。将也さんもすぐに立ち上がり、荷物入れからコートを出してくれた。
手荷物受取場で荷物を受け取り、出口に行くと、将吾さんによく似た背格好の男性が迎えに来てくれていた。一番下の弟、将平さんだ。
将也さんが助手席に乗り、わたしが後部シートに収まると、将平さんの運転で実家へと向かう。道すがら、将平さんは将也さんに近況を聞いていて、わたしは聞くともなしに2人の会話を聞いていた。
「兄貴まだバンドやってんの」
「ああ」
「こっちでライブとかやんないの」
「まぁ、そのうちな」
バンドのこと、音楽のこと、将平さんの家族、ご実家の家族のこと。話される内容に意識を向けながら、わたしはうとうとし始めた。昨晩将吾さんが会社に呼び出されてから、よく眠れなかったのだ。
車はしばらく市街地を走り、実家に到着した。実家にはご両親、お祖母さん、そして近くに住んでいる将平さんの家族が集っており賑やかだ。
食事が終わるとそのままみかんや菓子をつまむ。義父と将也さんはテレビを見ながら日本酒を飲んでいる。将平さんと家族は、下の子がまだ小さいこともあって早々に部屋に引き上げた。
お祖母さんも「もう寝る」と部屋に入ったのが三十分ほど前だ。義父は酔って寝てしまい、将也さんが部屋に担いでいった。
「七海ちゃん、テレビでも見てゆっくりしててね」
「はい、ありがとうございます」
義母の気遣いに甘え、何をするともなくソファに座り、テレビを見ていた。
「親父、ちょっと痩せたんじゃね」
「そうかしら。お腹周りはだいぶ緩んできたって言ってたけどねぇ」
戻ってきた将也さんと義母の会話を聞きながら、わたしはリビングを見渡した。
この場所で、将吾さんがどんな幼少期を過ごしたのか、と思いを馳せる。
両親の愛に育まれ、ときにはきっと、兄弟三人つかみ合いの喧嘩とかもあったのだろう。わたしは愛おしい気持ちで部屋全体を感じていた。
「七海ちゃん、風呂入っちゃえば」
突然頭の上から話しかけられ、わたしはびくんと体を縮ませた。将也さんだ。
「あの、お義母さんは」
さっきまで将也さんと話していた義母の姿がなかった。
「もう寝るって。風呂入ってないのオレと七海ちゃんだけだから先、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」
お風呂に案内してもらい、いったん客間に戻って荷物から着替えを出す。
次に入るのが将也さんだと思うとゆっくり浸かる気持ちにはなれず、手早くシャワーで済ませた。
リビングに戻ると、将也さんはダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。こちらに背を向けて何かに集中している。わたしがお風呂を出たことに気づいていないようだった。
そっと、近づいた。椅子に座る将也さんを見下ろす。将吾さんとつむじの向きが同じことに気が付き、改めて二人がよく似ていると感じ入る。
「あの」
将也さんは声をかけても振り向かず、そこでわたしは将也さんがイヤホンをしていることに気がついた。
低くハミングする声が心地よい。なんのメロディだろう。この鼻歌を聞きながら眠ったら、とても心地よく眠りにつけそうだな、と思う。
「え、あれ? 七海ちゃん、もう風呂出たんだ」
気配に気がついた将也さんが振り返った。
「あ、はいっ」
わたしは不意を突かれて思わず後ずさりした。そんなわたしを見て、将也さんはふっと笑った。
「なぁ、まだオレのこと怖い?」
「えっ、いえっ、違います、その」
思わぬ問いかけに、わたしは動揺した。
「まぁ、ちょっとキツイこととか言ったかもだけどさ。基本、オレそんな怖くないからさ」
「はいっ……ごめんなさい」
「や、だからまぁ、そういうとこなんだけど」
将也さんは困ったように頭をぽりぽりと掻いた。
「ま、いいや。風呂入ってくる」
立ち上がると将也さんは、少しふらついた。
「将也さんっ」
わたしはとっさに将也さんに手を差し出した。けれども、将也さんはすかさずその手を振り払った。
「お風呂、入れます?」
「ああ、大丈夫」
将也さんは歩きだそうとしてまたふらついた。
「そんなんでお風呂入るの、危ないです。部屋で休んだほうがいいですよ」
「あー……、うん」
「部屋、二階ですか? 掴まってください」
将也さんが遠慮がちに肩に掴まる。わたしが一歩踏み出すと将也さんはバランスを崩した。
「あっ」
よろけ、ガタンと大きな音を立て、わたしと将也さんは重なるように床に倒れこんだ。
「痛っ」
「ごめん」
からだを起こそうと顔を上げると、すぐ近くに将也さんの顔があった。酔って、少し赤い頬。開いた唇に色気を感じ、思わず下を向く。
「悪りぃ、どっかぶつけたか」
「いえ、大丈夫です」
将也さんの声は優しくて耳馴染みがよい。わたしはゆっくりと顔を上げ、吸い込まれるように将也さんの瞳を見つめた。
いつもは強い目力が緩んでいる。透明感のある瞳。キリッとした二重と、眉毛。まつ毛が長い。目の下の泣きぼくろは、将吾さんと同じ位置にある。
どきん。
どきん。
急に胸が高鳴ったように感じた。耳の中で、体の中で、どくどくと脈打つのはなんなのか。
どきん。
どきん。
将也さんの目の中に自分がいる。将也さんもまた、わたしの目の中に自分の姿を確認しているだろうか。
どきん。
どきん。
将也さんの手が、指が頰に触れる。手のひらで頰を、包まれる。
どきん。
どきん。
突然、壁にかかった時計の、秒針が進む音が耳の奥で響く。
どきん。
どきん。
自分の心臓の音。
時計の秒針の音。
それらが重なる。将也さんに見つめられている。頬に触れている手が、少しずつ移動して唇に触れた。
「七海ちゃん……」
将也さんの親指が唇に触れ、頰に触れ、耳に触れ、髪に触れた。
「すげぇ綺麗だね、サラサラ」
指が髪を、梳く。毛先まで梳くとまた戻る。それを繰り返しながら将也さんは気持ちよさげに目を細めた。
「七海ちゃん」
掠れた声の呼びかけに返事ができない。将也さんの細められた目の中で、わたしはどう映っているのだろう。
髪を梳いていた指がわたしの顎を軽く捉え、少し上を向かされた。次に何をされるかを予感し、わたし抗おうとした。
言わなければ。たしなめなければ。この手を払って、「将也さん、酔ってますよ」と。
なのに、体も口も動かなかった。目だけは、自然と閉じることができた。
将也さんの唇の感触、動き。入り込む舌の甘さ。
電気ショックのようにからだがピリピリすることに驚きながらも、わたしは将也さんの唇に酔い、その感触を、彼の唾液を堪能した。
互いの味を味わい、信じられないほど積極的に将也さんの唇を貪った後、わたしは我に返って体を離そうと立ち上がった。将也さんも立ち上がった。
「七海ちゃん、ごめん」
その場から逃げようとしたわたしの腕を、将也さんが掴んだ。
「逃げないで」
体が思うように動かなかった。まるでスローモーションで動いているような、水の中でもがいているような不自由感。引き寄せられ、腰を抱かれた。
「ごめん。ごめん、オレ……酔ってる」
わたしはどうしたらいいのか、わからなかった。ただひとつはっきりとわかったのは、気持ちも体も含めて、もっと将也さんを知りたい、と自分が強く欲していることだった。
「酔ってるから。ほんとごめん。言い訳になんねぇけど」
「いえ……」
ごめん、と謝る割には、将也さんはわたしを離さなかった。強く抱きしめられたまま、わたしは段々と気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
離れなければ、と思う。もしも誰かが起きてきたら、この様子を見られたら、と気持ちが焦った。
そのとき、将也さんが体を離した。愛おしそうに、何かに耐えるようにわたしを見る。
その潤んだ瞳に、わたしは再び体の奥が疼くのを感じた。将也さんの目は、明らかに……わたしを求めていた。
「忘れてくれる? 酔ってたから。ほんとごめん」
すっと目が逸らされた。その瞬間に、言いようのない寂しさに襲われた。こんな感覚は、将吾さんに感じたことはなかった。ただ目を逸らされただけで拒否されたような、存在を無視されたような、心許なさと孤独に心がヒリヒリとする。
わたしは将也さんを残して客間に戻り、敷いてもらってあった布団を頭から被った。
将也さんとのキスを思い出すと、体が震えた。唇の厚さ、感触……柔らかさ。吸い付くように求められて、離れようと思っても離れられなくて、このままずっと、くっついているのかと思ったほどだった。それなのに、忘れて、と言われてしまった。
あんな情熱的で溶け合うようなキスを、忘れられるわけがない。わたしはそっと自分の唇に触れた。
将也さんは、自分のことをどう思っているのだろうか。どうしてキスをしてきたのだろうか。弟の婚約者だと、わかりきっているはずなのに。
リコさんは、将也さんは好きな女性にしか触れないと言っていた。キスも……そうだろうか。
わたしは、夜が明けるまで一睡もできず、悶々と考え続けた。出口のない迷路に迷い込んでしまったように、ぐるぐると思考を巡らせながら。
少しずつ明るくなったころに、ようやくうとうとと眠りにつくことができた。
0
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
義兄様と庭の秘密
結城鹿島
恋愛
もうすぐ親の決めた相手と結婚しなければならない千代子。けれど、心を占めるのは美しい義理の兄のこと。ある日、「いっそ、どこかへ逃げてしまいたい……」と零した千代子に対し、返ってきた言葉は「……そうしたいなら、そうする?」だった。
旦那様の愛が重い
おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。
毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。
他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。
甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。
本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる