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崩壊
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将也さんが無言でわたしの横を通り、リビングを出る。わたしはふらふらとその後を付いて行った。
玄関で将也さんがドクターマーチンを履く。その様子を、ずっと見守っていた。
靴の爪先が綺麗だな、と思った。いつもの履き込まれたのではない。新しく買い替えたのだろうか、とわたしはぼんやりと思った。
将也さんが玄関ドアを開ける。わたしは思わず、将也さんのライダースの裾を掴んだ。将也さんが振り向く。
「あの、あの日のことなんですけど」
わたしは迷った。言っていいのか、それとも黙って見送った方がいいのか。
「あの日のことも、その前も……全部、なかったことにしてください。わたし……わたし、もう無理です。
将吾さんと結婚するのに、将也さんのことでこんなに悩んで、不安定になって。もう、嫌なんです」
一気にそこまで言うと、もう涙が溢れて止まらなかった。静かな玄関に嗚咽が響く。将也さんは優しい声で、わたしを落ち着かせるように言った。
「なんでオレの気持ち、わからないの」
わからない。抱かれてもキスしても、愛していると囁かれても、将也さんはわたしを将吾さんから奪うわけでもなく、隠れて会うこともない。
「将也さんは、どんなつもりでわたしを抱いたんですか。愛してるって言ってくれたけど、本当にそうなら、わたし……」
「抱いた?」
その反応に、わたしは顔を上げて将也さんを見た。いつもと変わらない目力。長いまつ毛。きりりとした眉。
「へぇ……」
違う。同じようで同じではない。目の前にいるのは、わたしの前にいるのは。
「七海、兄貴に抱かれたのか」
仄暗い目の奥に、嫉妬の炎を燃やした将吾さんが、わたしの顔を覗き込んだ。
わたしは驚きのあまり何も言えなかった。最悪な形で、自ら将吾さんに裏切りを教えてしまったのだ。
将吾さんはわたしをどうするだろう。もしぶたれるようなことがあったとしても、自分に文句を言える筋合いはないのだと覚悟を決める。
目を閉じて振り下ろされる腕、あるいは罵倒の言葉を待っても、将吾さんは何も言わなかった。
恐る恐る目を開けてみると、将吾さんは怒りを耐えているのか、目を伏せて強く唇を噛みしめていた。
「将吾さん……」
将吾さんの目がわたしを射る。強い目だ。将也さんと同じく、心の奥底まで見通す、嘘を許さない目だった。
「兄貴に抱かれたのか。そうなのか?」
「将吾、さん」
「兄貴とオレ、どっちが良かった? 兄貴の愛し方とオレの愛し方、どっちが好きだ?」
「……」
「兄貴にどんな風に愛された? 言ってみろ」
少しずつ、将吾さんの語気が荒くなる。普段は冷静で、あまり感情的になることがなく穏やかな人柄なのに、今は苦悶の表情で内側に燃える怒りを抑えつけているのがわかる。
「まさかまた兄貴に取られるとはな」
将吾さんは自嘲した。わたしは将吾さんの心の傷の深さを思い、泣くことしかできない自分にさらに腹が立った。
将吾さんの気が済むなら、責められてもなじられてもいい。できることならば罪を償いたい。償えるならば、許されるならばどんなことにも耐えるから、と祈るような気持ちを持つ。
「七海、オレを裏切って……楽しいか」
わたしは反射的に首を横に振った。楽しいわけがない。
取り返しのつかないことをしたという強い後悔に吐き気を感じた。
「将吾さん、ごめんなさい」
わたしはようやく、小さな声で将吾さんに謝った。将吾さんはわたしをしばらく見つめると立ち上がり、棚からプログラミング言語の分厚い本を一冊取り出した。
「七海と兄貴がおかしいと思ったのは、今年になってからだ。七海の、兄貴に対する態度が明らかに変わったからさ」
将吾さんはふっと寂しそうに笑ってみせた。
「この前、七海と兄貴がマンションの前にいたとき、それは確信になった。
二人が会うなら、オレの出張中に行動するって思って仕込んでおいた」
将吾さんの手が背表紙を弄び、何かを取り出した。
「動体感知センサー付きカメラ。これは二回目の録画だ。一つ目は出張前に設置して、一昨日回収した」
わたしは目の前に出されたそれを、信じられない思いで見つめた。
「回収したのを見るまでは、まさか七海から兄貴に抱きつくなんて想像もしなかったけどね」
将也さんが殴られ、怪我の手当てをしたあのときだ。撮られていたのか、とわたしは血の気が引くのを感じた。
「七海は問いただしても絶対言わないだろ? 兄貴のフリして接したらどういう態度を取るかなって思ってさ。髪の色が違ってたって、オレと兄貴を間違える奴が多いんだし。町谷くんとかね」
実の両親も間違えるほどそっくりな双子。ライブハウスの受付の人も、リコさんも、将吾さんを将也さんだと思い込んでいた。
「町谷くんに協力してもらって、今日遅く帰らせるように頼んだ。その間にまたカメラ仕込んで、兄貴になりきってここにいたら、七海はどういう態度を取るかなって」
将吾さんの手が肩に触れ、抱き寄せられた。わたしは抵抗できず、されるがままだった。
「まさかこんなに早く帰ってくると思わなかった……油断したな」
肩に置かれた手に力がこもる。不意に顎を掴まれて、上を向かされた。
「オレは七海のことが本気で好きだ。兄貴に取られたくない、失いたくない」
将吾さんの顔が寄ってくる。キスを求めていることを察知して、わたしは本能的に口を引き結んだ。
将吾さんは失望を宿した瞳で、わたしを見つめた。
「やっぱり兄貴がいいか」
将吾さんはわたしの顎から手を外すと、すっと身を引いた。
「オレ、今日はソファで寝るからさ。七海は寝室で寝て。内鍵、掛けておいて」
出ていけと言われるかと思っていたのに、拍子抜けだった。わたしは寝室に入り、内鍵をかけた。
ベッドに横になってもなかなか寝付けない。自分のしたことを後悔し、将吾さんを傷つけたことを申し訳なく思っている。
将吾さんを抱きしめて、許しを乞いたい。それで少しでも、罪が贖えるのならば。
わたしはそっと寝室の鍵を開けた。時計の針はとうに夜中を過ぎている。廊下に素足の裏が触れ、ひんやりとした感触に思わず身震いした。
リビングの明かりは消えていた。暗闇に目が慣れてくると、ソファで布団をかぶっている将吾さんの姿がぼんやりと浮かび上がる。
そっと近づき、ひざまずいた。
「将吾、さん」
声がかすれた。
「七海? どうした」
起き上がる将吾さんに、わたしは唇を寄せた。驚いて受け止めきれなかったのか、将吾さんの歯と軽くぶつかった。
将吾さんは躊躇いながらも柔らかく、優しく自分の口腔を探るわたしの舌を受け入れた。
ひとしきりキスを堪能し、唇を離す。ごめんなさい、という言葉は軽すぎた。ならば、なにを言えばいいのか。
「七海……」
「一緒に、寝よ」
しばらくの沈黙の後、かすれた将吾さんの声が鼓膜を揺らす。
「一緒に寝るのがどういう意味だかわかってるのか。オレは、七海がオレを選んでくれたって思っちゃうよ」
わたしは返事をしなかった。
言わない、ということは都合がいい。それが自分を守ることもあれば、そうでないときもある。今はただ、深く傷ついた将吾さんを抱きしめたかった。
たとえそれが、自分本位な贖罪であったとしても。
玄関で将也さんがドクターマーチンを履く。その様子を、ずっと見守っていた。
靴の爪先が綺麗だな、と思った。いつもの履き込まれたのではない。新しく買い替えたのだろうか、とわたしはぼんやりと思った。
将也さんが玄関ドアを開ける。わたしは思わず、将也さんのライダースの裾を掴んだ。将也さんが振り向く。
「あの、あの日のことなんですけど」
わたしは迷った。言っていいのか、それとも黙って見送った方がいいのか。
「あの日のことも、その前も……全部、なかったことにしてください。わたし……わたし、もう無理です。
将吾さんと結婚するのに、将也さんのことでこんなに悩んで、不安定になって。もう、嫌なんです」
一気にそこまで言うと、もう涙が溢れて止まらなかった。静かな玄関に嗚咽が響く。将也さんは優しい声で、わたしを落ち着かせるように言った。
「なんでオレの気持ち、わからないの」
わからない。抱かれてもキスしても、愛していると囁かれても、将也さんはわたしを将吾さんから奪うわけでもなく、隠れて会うこともない。
「将也さんは、どんなつもりでわたしを抱いたんですか。愛してるって言ってくれたけど、本当にそうなら、わたし……」
「抱いた?」
その反応に、わたしは顔を上げて将也さんを見た。いつもと変わらない目力。長いまつ毛。きりりとした眉。
「へぇ……」
違う。同じようで同じではない。目の前にいるのは、わたしの前にいるのは。
「七海、兄貴に抱かれたのか」
仄暗い目の奥に、嫉妬の炎を燃やした将吾さんが、わたしの顔を覗き込んだ。
わたしは驚きのあまり何も言えなかった。最悪な形で、自ら将吾さんに裏切りを教えてしまったのだ。
将吾さんはわたしをどうするだろう。もしぶたれるようなことがあったとしても、自分に文句を言える筋合いはないのだと覚悟を決める。
目を閉じて振り下ろされる腕、あるいは罵倒の言葉を待っても、将吾さんは何も言わなかった。
恐る恐る目を開けてみると、将吾さんは怒りを耐えているのか、目を伏せて強く唇を噛みしめていた。
「将吾さん……」
将吾さんの目がわたしを射る。強い目だ。将也さんと同じく、心の奥底まで見通す、嘘を許さない目だった。
「兄貴に抱かれたのか。そうなのか?」
「将吾、さん」
「兄貴とオレ、どっちが良かった? 兄貴の愛し方とオレの愛し方、どっちが好きだ?」
「……」
「兄貴にどんな風に愛された? 言ってみろ」
少しずつ、将吾さんの語気が荒くなる。普段は冷静で、あまり感情的になることがなく穏やかな人柄なのに、今は苦悶の表情で内側に燃える怒りを抑えつけているのがわかる。
「まさかまた兄貴に取られるとはな」
将吾さんは自嘲した。わたしは将吾さんの心の傷の深さを思い、泣くことしかできない自分にさらに腹が立った。
将吾さんの気が済むなら、責められてもなじられてもいい。できることならば罪を償いたい。償えるならば、許されるならばどんなことにも耐えるから、と祈るような気持ちを持つ。
「七海、オレを裏切って……楽しいか」
わたしは反射的に首を横に振った。楽しいわけがない。
取り返しのつかないことをしたという強い後悔に吐き気を感じた。
「将吾さん、ごめんなさい」
わたしはようやく、小さな声で将吾さんに謝った。将吾さんはわたしをしばらく見つめると立ち上がり、棚からプログラミング言語の分厚い本を一冊取り出した。
「七海と兄貴がおかしいと思ったのは、今年になってからだ。七海の、兄貴に対する態度が明らかに変わったからさ」
将吾さんはふっと寂しそうに笑ってみせた。
「この前、七海と兄貴がマンションの前にいたとき、それは確信になった。
二人が会うなら、オレの出張中に行動するって思って仕込んでおいた」
将吾さんの手が背表紙を弄び、何かを取り出した。
「動体感知センサー付きカメラ。これは二回目の録画だ。一つ目は出張前に設置して、一昨日回収した」
わたしは目の前に出されたそれを、信じられない思いで見つめた。
「回収したのを見るまでは、まさか七海から兄貴に抱きつくなんて想像もしなかったけどね」
将也さんが殴られ、怪我の手当てをしたあのときだ。撮られていたのか、とわたしは血の気が引くのを感じた。
「七海は問いただしても絶対言わないだろ? 兄貴のフリして接したらどういう態度を取るかなって思ってさ。髪の色が違ってたって、オレと兄貴を間違える奴が多いんだし。町谷くんとかね」
実の両親も間違えるほどそっくりな双子。ライブハウスの受付の人も、リコさんも、将吾さんを将也さんだと思い込んでいた。
「町谷くんに協力してもらって、今日遅く帰らせるように頼んだ。その間にまたカメラ仕込んで、兄貴になりきってここにいたら、七海はどういう態度を取るかなって」
将吾さんの手が肩に触れ、抱き寄せられた。わたしは抵抗できず、されるがままだった。
「まさかこんなに早く帰ってくると思わなかった……油断したな」
肩に置かれた手に力がこもる。不意に顎を掴まれて、上を向かされた。
「オレは七海のことが本気で好きだ。兄貴に取られたくない、失いたくない」
将吾さんの顔が寄ってくる。キスを求めていることを察知して、わたしは本能的に口を引き結んだ。
将吾さんは失望を宿した瞳で、わたしを見つめた。
「やっぱり兄貴がいいか」
将吾さんはわたしの顎から手を外すと、すっと身を引いた。
「オレ、今日はソファで寝るからさ。七海は寝室で寝て。内鍵、掛けておいて」
出ていけと言われるかと思っていたのに、拍子抜けだった。わたしは寝室に入り、内鍵をかけた。
ベッドに横になってもなかなか寝付けない。自分のしたことを後悔し、将吾さんを傷つけたことを申し訳なく思っている。
将吾さんを抱きしめて、許しを乞いたい。それで少しでも、罪が贖えるのならば。
わたしはそっと寝室の鍵を開けた。時計の針はとうに夜中を過ぎている。廊下に素足の裏が触れ、ひんやりとした感触に思わず身震いした。
リビングの明かりは消えていた。暗闇に目が慣れてくると、ソファで布団をかぶっている将吾さんの姿がぼんやりと浮かび上がる。
そっと近づき、ひざまずいた。
「将吾、さん」
声がかすれた。
「七海? どうした」
起き上がる将吾さんに、わたしは唇を寄せた。驚いて受け止めきれなかったのか、将吾さんの歯と軽くぶつかった。
将吾さんは躊躇いながらも柔らかく、優しく自分の口腔を探るわたしの舌を受け入れた。
ひとしきりキスを堪能し、唇を離す。ごめんなさい、という言葉は軽すぎた。ならば、なにを言えばいいのか。
「七海……」
「一緒に、寝よ」
しばらくの沈黙の後、かすれた将吾さんの声が鼓膜を揺らす。
「一緒に寝るのがどういう意味だかわかってるのか。オレは、七海がオレを選んでくれたって思っちゃうよ」
わたしは返事をしなかった。
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