仄暗い部屋から

神崎真紅

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第二章

act 15 不信感

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 その電話が掛かって来たのは、瞳の尿検からちょうど一週間が過ぎた日だった。

 「宮原瞳さん…でよろしいですか?」
 「はい・・・・そうですが。」
 「私、宮原さんの担当刑事で、佐川と言います。17日の10時から検事調べがありますので、検察庁に行って下さい。」
 「検事調べ、ですか?」
 「ええ、瞳さんの検事調べですよ」
 「あたしの、ですか?判りました。10時ですね」

  何だろう?
  あたしの尿から覚醒剤反応が出たのなら、刑事が来る筈だ。

  瞳には、何が何だか判らなかった。
  賢司に面会に行って、初めてその意味を教えて貰った。

 「賢司、あたし17日に検事調べがあるの」
 「あぁ、それはな、俺の話した事と瞳の言う事に食い違いがないか調べるんだよ。それと、瞳の尿から覚醒剤反応出なかったぞ」
 「本当に?よかった・・・・。恐かったんだ~」
 「だから大丈夫だって、言っただろ?」

  ここは刑事二課。
  マル暴の刑事なら、賢司の知り合いがいた筈だった。
  賢司はあたしの知らない所で、何か裏工作でもしたのかしら。

 「それからね、賢司の二ヶ月分の給料、兄貴分に差し押さえられちゃったよ」
 「だろうな、兄貴ならやりかねないわ」
 「あと今夜、賢司のお姉さんと一緒に話しに来るって言ってたよ。もう関係無いんだから、放って置いて欲しいよ」
 「悪いな、瞳。嫌な思いばかりさせちまってよ」
 「いいよ、賢司。あたしだって黙って引き下がる筈ないじゃん。取引先潰してやったよ」
 「はは、とうとうやったのか。ざまあみろ、だな。これで兄貴も終わりだな」

  賢司は、さも愉快そうに笑って応えた。

 「賢司がいなかったら、仕事なんか出来ないもんね」
 「まぁな、何《いず》れあそこの会社は潰れたさ」
 「あ~今夜憂鬱だなぁ・・・・。何を今更話しに来るんだろ?しかもお姉さんまで一緒にさ」
 「姉貴には俺のカード預けてあるんだ。返して貰え」
 「すんなり返してくれる相手かな。あたしお姉さん本当に苦手なんだよ」

  ふぅ、と、ため息をつきながら瞳は言った。

 「そのカードに俺の仕事の金が振り込まれるんだ。その金は生活費に使っていいから、カードを返して貰えよ」
 「判ったよ。何か言われるだろうな」
 「それだけやれば、もう付き合わなくていいからな」
 「宮原さん、時間ですよ」

  もう15分過ぎたの?
  早いな。

 「じゃあな、明日も面会に来てくれよ。まだ話したい事と、頼みたい事があるからな。瑠花、元気にしてな。バイバイだよ」
 「パパ、バイバイ」

  少し寂しい笑顔を返して、賢司は重いドアの向こうに戻って行った。

 「瑠花、帰ろうか」

  後ろ髪を引かれる思いで、面会室を出た。
  また明日会える。

  それでもふとした時に、本当にこの方法しか、なかったのだろうかと疑問に思う。
  賢司は堅気だ。
  いくら昔その筋の事務所に名札がぶら下がっていた時期があったとしても、今は一般人なのだ。
  反対に警察を味方につければ、よかったのではないだろうか?

  賢司は選択肢を誤ったのではないだろうか?

  瞳の心に重苦しくのし掛かる、どす黒い感情。
  許さない。
  あの日、あたしが逃げ出さないで賢司と向き合えば良かったんだ。
  許せない。
  兄貴分なんて、潰してやるんだから。

  でも、瞳が一番許せないのは、瞳自身だった。
  賢司を独りぼっちにするんじゃ、なかった。

  まさに『後悔先に立たず』である。
  今更どうする事も出来ないのだから。

  賢司は今は留置所の中だ。これから先、裁判が行われ、どんな判決が下されるかは闇の中だ。
  それに賢司はまだ執行猶予期間中だ。
  その間での再犯は、何より重い事だろう。
  実刑は免れない。

  しかも、前回瞳が情状証人に立って、賢司を更正させると約束をしているのだ。
  果たして瞳は今回情状証人に立てるのだろうか?
  前回、新宿で捕まった時に雇った私選弁護士との、打ち合わせの内容を書いたメモがある筈なのだが、賢司が部屋中を滅茶苦茶にしてしまったので、どこにあるのか見当も付かない。

 「せめてあのメモがあればなぁ」

  瞳は肩を落として、部屋を片付けた。
  賢司が散らかした部屋を見ながら、瞳はそこに賢司がいない事の寂しさを痛感していた。
  もう、暫くの間はこんな事も起こらないのだ。
  賢司が帰って来るのは、三年以上は先になるだろう。

  その時。
  瞳の携帯が鳴った。
  賢司のお姉さんからだ。

 「今夜6時頃にそこに行くから、部屋にいてね。賢司の給料の内訳の話しもあるから、和枝も一緒に行くから」

  和枝というのは、兄貴分の奥さんだ。
  今更何を話しに来るんだろう。
  賢司の給料なんて、最初から払う気なんてないだろうに。
  憂鬱な気分で、二人が来るのを待った。



  ーーーーーピンポーン・・・・

「はい・・・・」
 「あたしだけど」
 「今、開けます」

  オートロックを解錠した。
  コーヒーを淹れて待っていた。

 「こんばんは」
 「こんばんは・・・・、どうぞ散らかってますけど」

  リビングにコーヒーの香りが漂う。

 「そんな事後回しでいいから、座って」

  お姉さんに言われて、瞳は少し離れて座る。

 「先ずはあたしの話しだけど、瞳、賢司と離婚して籍を抜いてくれない?」
 「嫌です。離婚はしません」

  瞳は即答した。

 「あたしはあんたの事を思って、離婚の話しをしてるんだけど。これから先、賢司の尻拭いが出来るの?」

  尻拭い?
  何の話しをしているの?

 「あの、それはどう言う事でしょうか?」
 「賢司がまた変な所から金借りてるかも知れないよ。そのケツがあんたに拭けるのかって事」
 「大丈夫です。賢司はそんな借金はしてませんから」
 「本当にそれでいいんだね?それじゃこの場であたし達とは縁を切って貰うよ」
 「構いません」
 「そう、あたしの話しはそれだけだから。次、和枝の番だよ」

  和枝が重い口を開いた。

 「あたしは聞きたい事があるの」
 「はい・・・・」
 「うちの取引先にチクリの電話が入ったんだ。それ、瞳だよね?」
 「はい」
 「大きな会社だから、そんな電話が入った時は録音してあったの。瞳の声だった」
 「・・・・」
 「何でそんな事したの?誰かに頼まれたの?それとも瞳が勝手にやったの?」
 「・・・・頼まれました」
 「誰に?賢司に?」
 「賢司と夏樹です」
 「やっぱり。夏樹は知ってると思ったんだ。様子がおかしかったから。でも何でそんな事したの?」
 「夏樹が辞めたがってたからです」
 「そう、それ夏樹と賢司に聞いてもいいんだね?」
 「構いませ。」
 「判った。この件はそれだけなんだけど、次は賢司の給料の事を話すね」
 「はい」
 「2月と3月分で52万あるんだけど、それはこの間の新宿のヤクザに渡すから。それから残金は分割でいいから」
 「はい・・・・」

  そんなにあったかな?
  水増し請求か・・・・。
  相変わらず金には汚いなこの女。
  たかられてるなぁ。
  賢司はピエロだね。

 「分割の支払いは、振り込みでいいですか?」
 「うん、それでいいよ」
 「判りました。毎月5日に振り込みます」
 「和枝、それで話しは終わりか?」
 「うん、あたしの話しはそれだけ。後で夏樹と賢司に聞くから」
 「じゃ、もう帰ろうか。7時過ぎたよ」

  あ~、もううんざり。
  早く帰って下さいって感じだよ。

 「それじゃ、これで縁切りだからね。何があっても瞳が責任取りなよ」
 「はい、判りました」

  漸《ようや》く二人が引き上げて行った。

 「ママ、お腹減ったよ・・・・」

  瑠花が待ちくたびれた様子で言う。

 「あぁ、ゴメンね。瑠花、直ぐにご飯にするからね」

  もう8時だよ。
  瑠花が眠くなっちゃう。
  本当に、迷惑な人達だな。
  でも、これで縁切りだから、もう終わりだね。

  その夜は、簡単にご飯を済ませて、瑠花とお風呂に入って眠りについた。

  次の日、和枝から電話が入った。

 「夏樹に聞いたら、そんな事頼んだ事ないって言ってたよ。瞳さんが勝手にやったんじゃないですかって。瞳さんの頭がおかしいんじゃないですかって。嘘つきで嘘ばっかりついてるしって言ってた」
 「夏樹が、ですか?」
 「そうだよ」
 「夏樹がそう言ってるんなら、それが本当です」
 「瞳、認めるの?」
 「はい・・・・」
 「そう、判った。明日賢司にも話して来るから」
 「はい・・・・」

  電話を切ってから、瞳は呼吸が速くなるのを感じた。
  まずい。
  過呼吸の発作が起きる。
  瞳は先回りして、安定剤を20錠飲んだ。
  けれど薬は効いて来なく、呼吸は速くなる一方で、四肢が痺れて感覚がなくなってきた。
  賢司がいたら、間違いなく病院に連れて行ってくれるだろう。
  けれど、今、すがるべき賢司はここにはいない。

 「ママ、どうしたの?」

  瑠花が心配している。
  何とか発作を治めなくちゃ。

  瞳は安定剤をあと30錠飲んだ。
  オーバードーズも治るどころか、酷くさえなってる。
  紙袋を口元にあてて、暫くはそのまま呼吸をする。
  ペーパーバック法と言うらしいが、過剰に血液中に取り込まれた酸素を吐き出す事が、治療法なのだ。

  過呼吸に薬は、ない。
  本人は、死ぬほど苦しむが、過呼吸で死ぬ事はない。

  だが、安定剤の過剰摂取は、死ぬ事もある。
  這う様にして、瞳はベッドに横たわった。
  身体に力が入らない。
  呼吸が出来ない。

  安定剤を飲んだその他に、いつもの睡眠薬も飲んだ。
  過呼吸は、眠るしか治療法はない。

  意識が遠退くのを感じながら、瑠花の事を考えていた。
  遠くで、『ママ』と呼んでいる声が聞こえていた。
  無意識に、瑠花を抱いてそのまま眠りに堕ちた。

  翌朝、瞳は全身に痛みを感じて目覚めた。
  安定剤の過剰摂取は、筋肉を溶かし、急激に血圧が下がってしまう。
  身体が痛いのは、筋肉が溶けたせいだろう。
  まだ、かなりふらつく。
  安定剤が抜けてないのだろう。

  キッチンに行って、取り敢えず水分を摂る事にした。
  瑠花は、昨夜遅かったからか、まだすやすやと寝息を立てていた。
  可愛い寝顔・・・・。
  瑠花の寝顔だけでも、充分瞳の元気を取り戻せる。

  これから先、幾度過呼吸の発作を起こすか判らない。
  けれど、瞳はそれを逆手に取って、賢司の刑期を短くするつもりで考えていた。
  瞳は、精神障害者の手帳も交付されている。
  つまり、要介護の必要ありと、診断書を裁判に提出すればいいのだ。
  しかも、ヤクザに脅かされている事も話すつもりだ。

  兄貴分とは縁を切ったのだ。
  係わる事など何もない。

  万が一にも、ここに来る事があったら、瞳は迷わず110番通報するつもりで考えていた。
  夏樹は多分兄貴分のパシりだろう。
  会社を辞めたのに、未だに会社の携帯を使っている事が決め手だ。
  番号くらい変えればいいのに。

  バカだね・・・・。
  もう、何を優しく言われても信じない。
  瞳は固く決心した。
  あたしも携帯番号変えよう。
  縁を切ったのだ。
  携帯番号を知らせる必要もない。

  瞳の心にはっきりと芽生えた、不信感だった。
  それは、嫌悪感を伴いながら、瞳の心に傷をつける。

  瞳の元には、次々と色々な電話が入って来る。
  殆どが瞳の知らない事ばかりで、瞳はその対応に困惑していた。

  仕事の話し。
  賢司の借金の話し。
  その全てを今、瞳が解決しなければならない。
  たった独りで、瞳にどこまで出来るだろう。

  今は、とにかく賢司に一日でも早く帰って来て貰うしかない。
  その為なら、誰を敵に回しても構わない覚悟だった。
  その夜、和枝から電話が入った。

 「明日賢司の面会に行きたいんだけど。話しがあるの」
 「あたしも話しがあるから明日も来てくれって言われてますから」

  瞳は面会を譲らなかった。


 「じゃあ賢司の担当の刑事に話しするからいいわ」

  そうは言っていたが、この和枝はかなりの食わせ者だ。
  瞳は念のために、朝一で面会に行った。
  案の定、受付で和枝は待っていた。

 「瞳さ、この間もう関係ないんだから迷惑はかけないって言ってたよね?」

  瞳は面会用紙に書き込みながら、返事をした。

 「そう言いましたけど、それが何か?」

  その言葉には、はっきりとした和枝への嫌悪感が露《あらわ》になっていた。

 「昨日岡田とか言う人から電話が入って、賢司の借金を代わりに払ってくれって言われた。どうしてうちの情報をそんな人に話すの?関係ないんだから迷惑かくないでくれない?」
 「岡田さんとは昨日電話で話しました。あたしが代わりに払う事で合意してますけど、それが何か?」
 「何なの?その言い方?じゃ何でうちの情報を漏らすの?」
 「あたしは何も話してませんけど、それが何か?」
 「瞳が全部話したって、言ってたけど」
 「話してませんけど、それが何か?」
 「は?もういいわ。刑事と話すから」

  その時、刑事に呼ばれた。

 「宮原さん、どうぞ」

  助かった。

 「はい、今行きます」

  和枝を無視して、瞳は瑠花と一緒に面会室に入って行った。
  外で和枝が刑事に話しているのが、聞こえた。

 「そんな事、ここに話しに来られても・・・・」

  やっぱり相手にされてない。

 「よっ!瑠花元気か?」
 「賢司聞いてよ、外で和枝が騒いでるよ。あたしに突っ掛かって来たから、相手にしなかったら、刑事に話してるよ」
 「あぁ、面会に来たんだよ。断ったけどな」
 「やっぱり、あたしより先に面会するつもりだったんだ。どこまでも汚ない女」
 「岡田さんだろ?本部に電話入ったらしいからな」
 「あたしにも電話入ったよ。あたしが代わりに払うって約束したんだよ」
 「多分、瞳に掛ける前の事だろ。またそんな電話が入らない様に、ちゃんと話してくれよ」
 「もう大丈夫だと思うよ。岡田さん別に怒ってなかったし。でも一応今日また電話しとくよ」
 「悪いな。俺瞳の過呼吸理由にダブル執行狙おうかと考えたけど、今出たんじゃ意味がないしな」
 「そんな事ないよ?助けてくれる人はいっぱいいるよ?そんな事になる前に、一言相談してくれればって、言ってくれた人は何人もいるんだよ」
 「そうだな・・・・。ま、今更仕方ないけどな」
 「賢司がいないと過呼吸を起こすよ、あたしは。あと何回起こすか、判らないよ」
 「そうだな・・・・。弁護士が国選の割には結構動いてくれるんだわ。ま、それでも保釈は無理だって言われたけどな。爆弾持ってるし、逃げる可能性があるって見なされるらしいからな」
 「さすがに保釈金の一割出せないよ。500万だったら50万だもんね。瑠花との生活で一杯だもん」
 「無理に今回は出なくてもいいかと思うしな。ただお前の過呼吸が心配なんだ」
 「そろそろ時間です」

  あぁ、15分って短いなぁ。

 「瞳、明日も来てくれ。待ってるからな。じゃな、気を付けて帰れよ」
 「うん、朝一番に来るから。誰にも会わないでね」

  鉄の扉を開けて、賢司に手を振って部屋を出た。
  この瞬間が何とも云えなく淋しい。

  賢司の大きな手を握って、離さなければ良かったね。
  あたしがもっと強ければ、賢司と離れないで済んだのかな?

  逃げ出したのは、あたしだ。
  全ては、あの朝に始まったんだ。

  和枝になんか、相談するんじゃ、なかったんだ。
  あたしが解決しなければならなかったんだ。

  瞳は知らないうちに零れ落ちていた涙を、拭いもせずにそのまま啜《すす》り泣いた。
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