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突然の来訪者

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 行くと決まったので、イザベラは太陽の位置を確認した。
 西に傾きかけていて、この時期の日はまだ長いとはいえ、小屋に案内をしたらすぐに戻らないと本当に暗くなる。

 街には街灯があるがここには無いのだ。
 ランプさえも持ってきていないのだから、いくら夜目がきくといっても危ないことには変わりない。
 侯爵家の人間を怪我なんてさせたら家業に影響がある。
 イザベラはぶるりと震えて小屋へと足を向けた。

 できる限り早く歩いたので、思いのほか早くに小屋に着いた。
 疲れ切ったイザベラは飛んで帰れたら良いのにと思う。
 小屋は温泉の源泉を引き込んでいて、熱気と湿気がすごく、快適に過ごせるという場所ではない。
 不快さがイザベラの疲れを倍増させた。

 源泉は熱湯で壁に大きな穴をあけて銅管で湯を引き込み、摘んだハーブが入った銅製の入れ物を蒸留できるようにしている。
 火を使って蒸留した方が効率的なのだが、ここは母が温泉を利用して蒸したハーブの香りを楽しめないか、という実験の発想から作った小屋だ。
 伯爵家の財力で建てた、ここは大きな実験小屋。
 母の発想力や行動力に父は夢中になったらしい。

「この太い銅管の中に湯を流して、穴を開けた部分に器具を置くのですね。面白い」
「いつもは蓋をしています。銅管はとても暑いのでお気を付けください」

 この銅管に常に高温のお湯が流れているお陰で、冬の小屋は温かい。

「引き込んだ湯は反対側に排出されます。そこは川の水を引き込んで、湯殿を作って入浴が出来るようなつくりにしています。母は自分が楽しむために作ったようですが、動物が浸かっているのも見かけます」
「追い払わないのですか」

 ハドリーが目を丸くした。イザベラは額に浮かんだ汗を手のひらで拭いながら首を横に振る。

「無駄ですから」

 野生の獣だった学習するのだ。柵を作っても乗り越えてきたり、破られたりするので対策は諦めている。落ち葉対策の屋根があるせいで、雨宿りの場所としても使われているようだ。
 イザベラが先にいれば遠慮するのか入ってこないので、あまり気にしていない。

「露天ですか……。後で見せてください」

 蒸留用の器具を見ていたハドリーが機嫌よく言ってきたので、イザベラは帰るのが遅くなりそうだと苦笑した。

「それにしてもここは興味深い」

 壁にはさまざまの長さ、太さの銅管が立て掛けてあり、大小多くのガラス瓶も整然と並べられている。
 整理整頓はあまりされていない、この狭い実験小屋に好奇心丸出しのハドリーに、どう帰るように促せばいいのか。
 イザベラは壁に作り付けている棚から、ハーブ水が入った手の平サイズの小瓶を手に取った。

「ハーブ水はこちらに」
「ああ、ありがとう」

 受け取ったものの、やはり帰る気がないらしい。
 小屋の中の熱気に充てられたイザベラは額の汗をぬぐう。今日は天気が良く、気温も高めの中で案内を続けていた。
 外気温より高い小屋の温度と湿度のせいで、まったく汗が引かないところかますます汗が出てくる。
 水が欲しいが湧き水の場所まで水を汲みに行くのも億劫だ。
 でも侯爵家のハドリーに水の一杯くらい出さないと父の顔が立たないのか。
 ぐるぐると考えがまとまらない。
 マントを脱ぐと少しはマシなのだろうが、このまま小屋を出るのが正解だ。
 イザベラは小さく耳を揺らしながら、ハドリーを見上げる。

「あの、もう、そろそろ……。水も汲める場所がありますし……」

 言いながら、ひく、と鼻が香りに反応した。
 清涼感のある柑橘とスパイスが混じった香りだ。
 出会ったときのあの香りは、ハドリーから漂ってきていたのかとぼんやり理解する。

 途端に脳が刺激されて、酩酊に堕ちていく。
 鼻腔を通じて体中を駆け巡る、痺れを伴う高揚する感覚。鼻の奥に甘ったるい香りが刻み込まれる。
 もっと、もっと嗅ぎたい、と頭の片隅で思った瞬間、心臓がズキンッと大きく跳ねあがった。

「……っ」

 呼吸が苦しくなり、イザベラは香りの元であるハドリーの背中を呆然と見つめる。
 彼には何の変化もなく反応もなく、興味深げに小屋の中のいろいろな器具を見ていた。
 ラウラは自分のこの状態を知っていた。発情している。コントロールが難しいくらいの発情。

 ハーブの効き目を確認する為に、わざとハーブを飲まずに発情を起こす時がある。
 けれど発情が始まった瞬間、即効性のあるハーブを口にしていた。
 この強くオメガの欲求に引きずりこまれる危機感を伴う発情は初めてだ。
 でも、ハーブがあれば大丈夫。
 イザベラは焦りながらも冷静にマントのポケットを探った。
 いつもは入れている発情を抑えるハーブが入った小瓶が、指先に当たらない。

「……どうして」

 無いと理解した瞬間の絶望が、イザベラを理性に引き留めていた。
 小瓶を探す指先まで血が沸騰しているような脈動をしている。
 発情しているのが隠せているとは思えない。
 ハドリーは自分に背を向けたままだ。
 発情の香りに反応しない、なんていうことがあるのだろうか。

 両脚の間が火照って熱くてたまらない。
 ハドリーに、あの大きな人に、奪われたくて仕方がない。
 イザベラは唇を強く噛んで衝動を堪えた。
 口に中に血の味が広がっても、目の前にアルファがいるのに触れてもらえない苦しみの方が勝る。
 イザベラは爪が食い込むほど拳を握りしめた。

「大丈夫ですか」

 ハドリーがこちらを振り向いて心配げな表情を浮かべている。
 その顔にオメガの香りに浮かされて情欲に支配された兆候はない。
 ありえない、と思いつつも、実は自分がオメガの香りを発していないのかもしれないと希望も持つ。

「あ、あの……」

 小屋の中でアルファの香りが更に濃く密に充満していく。
 自分の欲求を満たす相手として、ハドリーを見つめてしまう自分に愕然とした。
 それでもハドリーは冷静な様子だ。
 狼の獣人はアルファであっても、番にしか反応しないのだろうか。
 それなら幸運だ。自分は過ちを犯さずに済むのだから。
 イザベラは粉々になった、あるかどうかもわからない理性をかき集める。
 
「ハイエット様は先にお戻りになっていてください。私、汗をかいたので、流してきます。」
「コートナー……」

 呼び止めるハドリーの声を振り切って、イザベラは湯殿へ続く扉を開けた。
 扉を閉めた後、震える手で閂を下ろす。

「嫌だ……っ」

 動きやすい服を、毟るように脱ぎ捨て、湯の中に飛び込んだ。
 ざばんと大きな水しぶきの音が立ったが気になんてしていられない。
 お湯の上はとても熱く、下は冷たい状態で混ざってはいなかった。
 いっそ冷たければいいのに。

 イザベラは頭までざぶんと潜って、自分の火照りを収めようと懸命に試みた。
 このまま湯の中にいることができれば、香りは誰にも迷惑を掛けないはずだ。
 それなのに、息苦しくて、空気を求めて顔を出してしまう。
 生きる本能と、オメガとしての本能と。
 ラウラは涙をこらえながら、また肺いっぱいに空気を吸い込むと、湯の中に潜った。
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