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着物の彼女 後編

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亮一と可南子、二人が付き合い始めた、ちょっと先の話です。
本編終了してないですが、ご容赦ください。(2016/1/1現在)

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「ねぇ、かなちゃん。亮一の部屋って興味が無い?」
 結衣が可南子の写真を撮ろうとして、スマホを忘れた事に気づき瀬名家に一旦戻り、亮一の母親と妹が台所に下がった時だった。
 ダイニングテーブルで肘をついて、タブレットで仕事の資料を読んでいた広信が、ふいに顔も上げずに言った。
 大学時代から一緒にいる広信は、志波家によく泊まりに来ていて、志波家のリビングダイニングにとても馴染んでいた。
「部屋、ですか?」
 リビングのソファに腰掛ける前、可南子は首を傾げた。
「うん。彼氏の部屋って気にならない?学生時代のものがそのまま残っているから、けっこう面白いと思うよ」
「でも」
 興味はあるけれど、という顔をして、可南子は亮一の顔を見上げた。
「見たいなら、行こう」
 亮一が、可南子の細い手首を掴んだ。
 視界の端で広信を見ると、タブレットから顔も上げずに、さっさと行けとばかりに、肘を付いていないほうの手を、ひらひらさせていた。
 亮一は、広信に頭が上がらない気が、最近している。
 二階に上がって右奥の自分の部屋のドアを開けると、可南子を押し込んでドアを閉めた。
 この部屋に女を連れてきて、ドアを閉めたのは初めてだった。
 学生時代の彼女が来たときは、春夏秋冬を問わず、この扉は全開だった。
 そうしろと言われたわけではないが、何かやましいことをしていると思われるのが嫌だった。
 亮一は背後に手を回して鍵を閉めると、可南子を見る。
 鍵をかけてやっと二人になれた感じがして、少し落ち着いた。
 可南子は特に亮一の様子に何かを感じる様子も無く、部屋を見渡している。
 だいたいのものは今の家に運んでいるので、あるのは空きが目立つ腰の高さ程の本棚と勉強机、ベッドくらいだった。
 和装の可南子が、自分が大学生の時までいた部屋にいるのが不思議だが、違和感はなかった。
 着物を身に纏い、可南子の拳ひとつより、少し小さいくらいで抜かれた衣紋から見える白いうなじは、清廉(せいれん)なのに、妖艶(ようえん)だった。
しゃんとした背筋に、帯のたれ先から描かれた臀部の曲線が美しい後姿はそそる。
 ……今すぐ、家に連れて帰りたい。
 亮一の不埒(ふらち)すぎる想像をまったく気づきもせず、本棚の上にある空手の道場で撮った集合写真を指差して可南子が言った。
「空手、本当だったんですね」
「そんなつまらない嘘はつかない」
「そうですけど、何となく。あ、やっぱり若い。けど、この頃から大きいんだ」
 少し身を屈めて、高校生の自分を探して微笑む可南子の横顔と、纏めた髪からこぼれた後れ毛を見て、どうしてここが家ではないのかと切なくなる。
「あ」
 可南子は突然、背を正して、亮一に向き合った。
 亮一は誰かに蹴破られないようにするかのように、鍵を閉めたドアを背にしたまま立っていた。
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」
 古式ゆかしく腰を30度ほど曲げるお辞儀をした後、ゆっくりと可南子は亮一の顔を見上げた。
「挨拶が遅れました。ごめんなさい」
 亮一が考えすぎて出来なかったことを自然とされて堪(たま)らず、二歩で近寄ると可南子を抱き寄せた。
「あけまして、おめでとうございます。……すごく、きれいだ。脱がしたいくらいに」
「脱がされるのは、本当に困る。でも、うれしいです。ありがとうございます」
 くすくす、と笑いながら、可南子は亮一の肩に腕を回した。
 クスノキからつくられる樟脳(しょうのう)のにおいが、可南子から微かに香ってきて、亮一の心がまた少し落ち着いてくる。
 亮一の肩に回した可南子の腕から、着物の袖が、二の腕まで落ちた。
 可南子の生の腕が、正月でも肌着とニットのセーターだけの亮一の背中に感触として伝わると、下半身に熱が集まった。
「……なんで、俺を見なかったのか、聞いて良いか」
「なんで、見なかったって、広信さんと、お仕事をしていましたよね」
 あっさりと返されて、亮一は苦笑いをした。
「……お父さんと帰りたがった理由は」
 三十分足らずの滞在で、亮一とも話さず帰ろうとしたのは、何故なのかを知りたかった。
「お正月は人が少ないから大丈夫だとは思うんだけど、人が多い時間帯の電車で帰ると着崩れた時が怖いから。だったら父親と帰ったほうがいいです。だいたい、母が着物を着て行きなさいってうるさくて。最後まで抵抗していたせいで、出発が遅くなって、父に送ってもらわないといけなくなりました」
「俺が帰りに送るのを嫌がったのは?」
「お仕事をされていたみたいだし。お正月早々、迷惑でしょう」
「……甘えろよ、いい加減」
 体を離すと、可南子の両頬を包んで、顔の角度を上げた。
「だって、自分の足も電車もあるし」
 あくまで甘えようとしてこない頑固な赤い唇に、亮一は唇を重ねる。
 乞うように少し開いた唇に舌を割り込ませると、可南子が飲んでいたコーヒーの味がした。
「んっ」
「やっぱり、脱がしたい」
「だ、め」
「何で」
 可南子の柔らかい唇に、ちゅっ、と音を立てて口付けした後、両頬を触れるように持ったまま、可南子の返答を待つ。
「何で、って、ここ、ご実家ですよ」
「後で送る最中に、ホテルに行けばいい。けばけばしい所、行った事無いって言っていたろ」
「脱いだら、こんなに上手に着られないから、だめです」
 照れて居心地の悪そうな顔が可愛いく、額に口付ける。
 亮一は、いろいろと杞憂(きゆう)に過ぎなかったとわかり、可南子の頬から手を離すとまた抱き寄せた。
 確かに、言われてみれば、いつもの細い感覚ではなくて、何かたくさんの布が詰まっているような抱き心地がする。
「着崩れだの、脱いだら着られないだの、だったら手洗いはどうするんだ」
「……す、裾よけの裾を持って、持ち上げて、帯に挟むんですよ。ピンチを持ち歩くのが一番でしょうけど、面倒だし」
「大雑把だな」
「否定はしません。私、補正がすごく必要だから崩れやすいの。だから、無理です」
「でも、自分で着付けられるんだろ」
「こういう不毛な水掛け論になるじゃないですか。あきらかに母と違うレベルの着付けで、家に帰れないよ」
「今更だろ」
 可南子が一瞬、返答に詰まったのが可愛くて、少し抱きしめる腕に力を込めた。
「だいたい、着物ってそうそうクリーニングに出さないの。汚したら大事(おおごと)です。脱ぎ捨てた皺も嫌なので衣紋掛けが無いところで脱げません」
「汚すって、濡れるって事か」
「……この会話、何か得るものはある?」
「ある。俺は脱がしたい」
「だから、駄目だって」
「その、着崩れを直すとかも場数の問題じゃないのか。だったら、家から練習用になるような着物を借りてくればいい。家で、着物で過ごせば良い」
 着物に疎い亮一の目にも、可南子が着ている物が良いものだとわかる。
 着物姿で家にいる可南子を想像すると、にんまりとしてしまった。
「亮一さんって、時折、ものすごく子供っぽい理屈を、それっぽくこねますよ」
「それも今更だろ」
「とにかく、絶対に、脱がない」
 背中を、ぺしり、と手で叩かれる。もちろん、まったく痛みは無い。
 ……俺は、脱がしたい。
「さっき、無視されて寂しかったんだが」
「今度は何ですか。お仕事をしていたよね」
「俺と会ってすぐにお暇(いとま)しますと言ったり、お父さんと帰ると言ったり」
「着崩れが怖かったって言っているじゃないですか。だいたい、昨日も朝まで一緒にいたと思うんだけど」
「……寂しくて、すぐにさらって、家に連れて帰ろうかと思った」
 低い声が出た。
 本当だったからだ。
 目の前が真っ暗になるような気分と、苛立ちで体中が真っ赤に燃える気分が共存していた。
「…………わかりましたよ。練習に使えるような着物があるか母に聞いてみます」
「よし」
 亮一は可南子の体を離して、もう赤い紅が落ちた可南子の唇に、唇を落とした。
 可南子がどんどん心に入り込んでくる。
 もう限界だと思っていた所へさえも、こじ開けることなく、気づいたら入り込んでいる。
 どこまで入ってきても、許せる。
 明日からまた一緒に住めることが嬉しい。
 明日、可南子は実家から着物を持って帰ってくるだろうか。
 その時は、絶対に車で迎えに行こう。
 近いうちに、着物姿の可南子を抱ける事を想像してみると、どんなことでもできそうな気がした。

 
 その頃の一階。


「人の恋路を邪魔する奴は、亮一に蹴られて死んじゃうよ」
 広信がやはりタブレットから顔を上げずに、馬、の部分を、亮一、にして言うと、突然、生々しい臨場感が増し、結衣と久実は顔を見合わせて苦い顔をした。
「かなちゃんが帰るって言った時、亮さん、凄みが増したよね。怖かったよね。なかなか見ない亮さんだった」
「可南子がそれに無頓着だったのが怖い」
 結衣は朝子が淹れてくれたお茶を、礼を言って飲みながら、亮一の表情を思い出して顔をしかめた。
「本当に、可南子ちゃんに振られたら、亮一はどうなってしまのかしらねぇ」
 母親である朝子は、二人がいる二階を見上げながら、誰もがあえて踏み込まなかった所に言及した。
「ねぇ、広(ひろ)君、どう思う?」
 朝子は好青年に見える広信に話しかけた。
「うーん。かなちゃんを監禁して、平然と生活してそうですよね」
 広信も相変わらずの人のよさそうな顔で、恐ろしいことをさらりと言った。
 また、結衣と久実は顔を見合わせて苦い顔をする。
「犯罪者か……。志波家から犯罪者を出すわけにはいかないわねぇ」
 朝子もソファに座ると、平然として緑茶をすすった。
「周りがとやかく言わなければいいだろ。久実、あんまり亮一をからかうなよ」
 亮一の父親である晃(あきら)が、リモコンでテレビのチャンネルを変え続けながら言う。
「はぁい」
 亮一の見たことの無い雰囲気を見た後だったので、久実は素直に返事をする。
「二人が降りてくるまで、とにかく、二階は不可侵よ」
 朝子が、結衣と久実に釘を刺す。
 程なくして二人は降りてくるのだが、ご機嫌な亮一と眉間に皺を寄せた可南子との対比を見ても、とやかく言うまいと、誰も何も触れなかった。
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