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香りだした花
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◇
金曜日の朝、可南子はクローゼットを開けたまま洋服をじっと見ていた。
今日は、小宮の退職日だ。
小宮の退職は、異例の形で迎えられようとしている。
まず、部単位で用意する花や記念品の準備を、上長から用意の必要なしと通達があった。
長く勤めた社員が辞めるときは、ケータリングが用意されることもあるが、それもない。 会社としても、もう来ないと踏んだのだろう。
小宮の退職日である今日の出社と、それ以上に、仕事の後に亮一の家に行く事に、可南子は落ち着きを失っていた。
クローゼットの中にある、どの服も選べないほどに、心が騒いでいる。
……あの、真っ赤な半個室のせいだ。
亮一が自分を見る目が、脳裏に焼き付けられたように、瞼を閉じても甦る。
……あ、赤の呪い。
情熱を司るという真っ赤な部屋にいたせいだ。
緊張から早朝に目が覚めて、そわそわする気持ちをそらすためにシャワーを浴びた。
いつも通りに足にボディクリームを塗っていると、唐突に、夜を待ち望む準備のように思えて、慌ててもう一度シャワーを浴びる。
そして、可南子は普段は塗るクリームを塗らずに、今に至る。
「し、仕事に行くわけだから」
自分に言い聞かせる。
ハンガーに掛けている、抑えた『赤色』のVネックのセーターに手が伸びて、可南子は慌てて手を引っ込めた。可南子は、自分が、完全におかしくなっていることに気付く。
亮一は大きな身体の大きな手で、優しくしてくれる事に、惹かれることを抑えられなかった。可南子なりに一生懸命に「どうして良くしてくれるのか」を問いかけたが、望む事を言ってくれることは無かった。
好きだと伝えても、抱いてくるだけで、もう無理だと、駄目だと思った。
それなのに、三年前から好きなんだと言われた。もっと、早くに言ってくれればと思った。
でも、付き合うことになってから、その文句を言わせない程に、言葉と行動で熱く想いを伝えてくる。
昨日も食事をしたゴシック調の店の、真っ赤な半個室からの帰り道、手を繋いでいる間中、手を撫でられ続けた。
亮一の手は可南子を、行為の最中に導こうとする。その体温の高い手から進入してくる熱は、消えていた火を燻らせる。やがて、体の深淵、暗闇の中に、松明の明かりのように、ぽつぽつと明かりが灯る。そうなると、可南子の身体は理性を振り切って、支配権を亮一に明け渡そうとする。染み出す悦は身体の仕度をし始め、漏れようとする熱い吐息に息が詰まる。
その様子をじっと見ている亮一の目が委ねろ、と求めてくる。道端でそれをされて、可南子はさすがに勘弁して欲しいと音を上げた。
すぐに亮一は、不安とか寂しいとかいう目を向けてきて、その叱られた猟犬のような顔に、可南子は弱る。
人通りの多い道で立ち止まって話し合い、折衷案として腕を組むということで納得してもらった。
亮一の腕を控えめに掴んだ可南子に、亮一は不満の声を上げ、すぐに立ち止まる。
『腕の組み方が浅い』
可南子は唖然として、亮一の顔を見上げてしまった。納得する腕の深さは、腕を二の腕まで絡ませるほどだった。可南子の小さな胸が当たるほどの近さに、凍ったように固まってしまう。
結局、手を撫でられながら歩くという事を選択してしまった。つい、口から文句が出る。
『そんなに言うなら、最初から……』
最後の方が消えたのは、言ってもしょうがない事だったのと、恥ずかしかったからだ。
『三年を、埋めようとしている』
繋がれた手が緩やかに手首まで上がっていき、可南子はつられるようにそちらを向いた。
『足りていないか』
可南子の手は、亮一の手に導かれ、人通りの多い道で亮一の唇に触れさせられた。言葉と一緒に、指に亮一の柔らかい唇。
吐息は呼吸する度に掛かり、指から電気のような痺れが全身に走り続け、肌が粟立つ。
人の目が、ちらちらと自分たちに注がれているのは気付いていた。
けれど、それは亮一にだと思っていた。でも、その時は、あきらかに二人に集まったのがわかった。しかも、一瞬じゃなく、見られている。
『た、足りています』
可南子は気持ちを総動員して、笑顔を作った。ここで、消極的な顔を見せたら駄目だと思った。
何かもう可南子の想像を超えることが起こると確信できた。
『そうか、安心した』
亮一もそのきつく見られがちな目元を緩ませて笑んだ後に、目を伏せた。
可南子が、人の視線から解放されると、ほっとしたのと同時だった。
指を、舌の先端で、触れるように舐められた。
この生ぬるい感覚を受けた身体の箇所が、熱を発した。
可南子の全身から熱い汗がじわりと浮かんで、やっと亮一の意図がわかった。
直接的な刺激を受けて、亮一の欲望が完璧に浮き彫りになって見えた。
『き、今日は、帰りますよ』
『……そうか、残念だ』
やっぱり、と可南子は思った。
可南子から、今日、家に行きたいと言わせたかったのだ。
さすがに力で手を引こうとすると、亮一はそれをさせまいと力強く握った。
まだ手は亮一の手から離れず、人の目はずっと自分たちを注目し続けている。
可南子は道に迷った人のように、困り果てた顔を亮一に向けた。
『明日は、お邪魔しますから』
『良かった』
『そ、その、口で言えば良いと思うんですよ』
『好きだと、口で言うだけでいいのか』
当たり前に推移する時間が、ぽっかりと無くなる、呆然とするしかない時間。そんな無の時間が何度も訪れる。
亮一は、すでに可南子の欲しかった言葉を、遥かに超えた所にいる。戒めを解いた自由な振る舞いで、可南子に想いを吹き込んでくる。
『明日は絶対に行くから。もう、今日は帰ろう。明日は早くお仕事を終わらせないと』
『……確かに』
素直に頷き、手を離した亮一に、可南子は自分が失言をした気がした。
昨夜の事を思い出すと発言への恥ずかしさに消え入りたくなる。それなのに、胸にあるのは強い期待。
また赤のVネックのセーターに手が伸びた。今日、亮一に会うなら、鎖骨が出ていようが、髪を上げていようが、きっと何も言われない。この気持ちは、好きのもっと上なのかもしれない。
◇
赤のセーターにベージュの細身のひざ丈フレアースカートを合わせて出社する。伸びた髪は邪魔になるので、まとめて上げた。
コットンパールのピアスを触りながら、オフィスに足を踏み入れると、やはり控えめながらも視線を注がれた。
可南子の調子が何だかおかしいのは小宮のせいだと、と思われている。感情を見せないように気を張っていたら、今週で一番、仕事が進んだ。
終業を知らせるベルが鳴って、可南子は壁に掛けてある時計を見上げた。
……小宮さんの、退職。
この一ヶ月が頭の中に巡った。
いろいろな事が変わりすぎて、考えるよりも先に受け入れたほうが早い気がする。
そのまま時計から目線を落とすと、上役席にいる磯田が目に入った。
磯田と目が合うと「おつかれ」と口を動かされた。
いろいろ気を使っていてくれていた事を、可南子はわかっている。
机の引き出しを開けると、まだ開けていないアーモンドチョコレートの箱があった。
それを持つと立ち上がって、磯田の席のそばまで寄る。
「沢山のお仕事、ありがとうございました」
そう言って、磯田に差し出す。
「俺が甘党って知ってるとは、さすが可南子だな。ありがとう」
いつもの軽い口調で、それを受け取ってくれる。可南子を見上げてにやりと笑った磯田の目元の皺が深くなった。
「……で、俺と可南子の仲だ。彼氏はいつ紹介してくれるんだ」
ちゃんと声を潜めて聞いてくれた事を、配慮と言っていいのか、可南子はわからない。
急に振られた予想もしない話なのに、可南子は動揺の欠片も見せなかった。ただ、じわりと汗が浮かんだ。
可南子は仕事用の顔を作って、何のことだかわからない顔をする。
「何の話ですか」
「可南子は顔に出やすい」
「いませんよ。調子が悪かったのは、小宮さんが」
「彼氏が悲しむぞ」
そう言われた瞬間、あの、不安だという亮一の顔が頭に浮かんで、左頬の筋肉がぴくりと動いた。
亮一は、会社の人に彼女の存在を聞かれたら、「いない」と答えるのだろうか。
もしそうならと思うと、可南子は胸が痛んだ。
「ほら、それだ。ここが動く」
磯田は可笑しそうに、自分の左頬を指で触れた。
「聞かれてもいないのに言う必要も無いだろうが、聞かれて答えないのはよくないぞ。可南子なら、尚更な」
「……磯田さん。ここ、職場ですよ」
何とか、差し支えの無い話に変えようと、何か振れる仕事の話がないかを考える。
感情が優先した状態で、理性が働かず、まったく思い浮かばない。
「職場だが、就業時間は終わったぞ」
そう言って振り返ると、磯田は壁に掛けてある時計を指差す。
「真田の結婚式で噂になってた男前と付き合ったとか、そんな騒がれそうな裏話でもあるのか。俺も写真を見せられたぞ。厳つい男前」
可南子は無意識に額を押さえた。
この女子力が高い上司も、そんな写真をいつの間にか撮っている女子も、どうなっているの、と思う。
「……図星か。可南子はどこまでも面白いな」
磯田は興味深げに笑って腕を組むと、椅子の背もたれに身体を倒す。
「……お願いですから、磯田さん自ら話していかないで下さい」
「お、認めたな」
可南子は顔を両手で覆う。
……ああ、本当に嫌だ。
「良い事だと俺は思っているぞ。いいんじゃないのか。肩の力を抜いて」
可南子は瞬きをする。
懸命に培ってきた、苦味を伴う自立心に亀裂が入って、ひ弱な自分が顔を出している。
誰にも受け入れられないと思っていたその繊細さは、当の昔に見抜かれていた。可南子は二の句を継げない。
「仕事の手を抜くのは困るが、可南子は、それはないだろう」
努めて冷静に磯田を見ると、好意的な笑顔に迎えられた。
あっけらかんと受け入れられているのを目の当たりにして、冷静さが崩れだす。
動揺して、どう逃げようかと考えていると、結衣の声がした。
「可南子、今日の仕事は何時に終わりそう」
後ろから嬉々とした雰囲気を、堂々と振りまきながら、結衣が近づいてきた。可南子は、助かったと思った。
結衣は手にA4の用紙を、パーティ用の三角錐の帽子のように丸めたものを持っている。
「結衣さん、その、手に持っているものは何ですか」
「これは、お祝いのクラッカーです」
お祝いとは、小宮の退職のことだろう。
そういうと、頂点を下にして、紐があるような振りで下に引いた。何回も引く仕草をする結衣は、嬉しさを全く隠していなかった。
「今日、ちょっとだけ飲みに行こうよ。あ、磯田さんもいらっしゃいませんか」
「両手に花か」
その発想は何、と、驚いて可南子は磯田を見る。
「何人か誘っているから独占は無理ですよ。でも、脇を固めて差し上げることは出来るかも」
「いいな。行く」
「楽しい会になってきましたね。じゃ、可南子、後でまた内線するね」
……行くことに、なっている。
結衣の背中を見送って磯田を見ると、まだ笑顔だった。
「あの厳つい彼氏に連絡して来い。飲みになりましたってな」
もう、可南子は仕事用の顔は作れなかった。
あちこちに、ひびが入っている。香りも蜜も無い、美しい花。人目は引くが、人をどこか惹き付けない花が、突然、その香り漂わせ始める。その蜜が甘い事を、無意識に触れ回っている。そんな変化は、身近な人間にはわかってしまうと、可南子にはわからない。
「……だ、大丈夫です」
赤くなった顔を隠すように、磯田から可南子は顔をそらした。
金曜日の朝、可南子はクローゼットを開けたまま洋服をじっと見ていた。
今日は、小宮の退職日だ。
小宮の退職は、異例の形で迎えられようとしている。
まず、部単位で用意する花や記念品の準備を、上長から用意の必要なしと通達があった。
長く勤めた社員が辞めるときは、ケータリングが用意されることもあるが、それもない。 会社としても、もう来ないと踏んだのだろう。
小宮の退職日である今日の出社と、それ以上に、仕事の後に亮一の家に行く事に、可南子は落ち着きを失っていた。
クローゼットの中にある、どの服も選べないほどに、心が騒いでいる。
……あの、真っ赤な半個室のせいだ。
亮一が自分を見る目が、脳裏に焼き付けられたように、瞼を閉じても甦る。
……あ、赤の呪い。
情熱を司るという真っ赤な部屋にいたせいだ。
緊張から早朝に目が覚めて、そわそわする気持ちをそらすためにシャワーを浴びた。
いつも通りに足にボディクリームを塗っていると、唐突に、夜を待ち望む準備のように思えて、慌ててもう一度シャワーを浴びる。
そして、可南子は普段は塗るクリームを塗らずに、今に至る。
「し、仕事に行くわけだから」
自分に言い聞かせる。
ハンガーに掛けている、抑えた『赤色』のVネックのセーターに手が伸びて、可南子は慌てて手を引っ込めた。可南子は、自分が、完全におかしくなっていることに気付く。
亮一は大きな身体の大きな手で、優しくしてくれる事に、惹かれることを抑えられなかった。可南子なりに一生懸命に「どうして良くしてくれるのか」を問いかけたが、望む事を言ってくれることは無かった。
好きだと伝えても、抱いてくるだけで、もう無理だと、駄目だと思った。
それなのに、三年前から好きなんだと言われた。もっと、早くに言ってくれればと思った。
でも、付き合うことになってから、その文句を言わせない程に、言葉と行動で熱く想いを伝えてくる。
昨日も食事をしたゴシック調の店の、真っ赤な半個室からの帰り道、手を繋いでいる間中、手を撫でられ続けた。
亮一の手は可南子を、行為の最中に導こうとする。その体温の高い手から進入してくる熱は、消えていた火を燻らせる。やがて、体の深淵、暗闇の中に、松明の明かりのように、ぽつぽつと明かりが灯る。そうなると、可南子の身体は理性を振り切って、支配権を亮一に明け渡そうとする。染み出す悦は身体の仕度をし始め、漏れようとする熱い吐息に息が詰まる。
その様子をじっと見ている亮一の目が委ねろ、と求めてくる。道端でそれをされて、可南子はさすがに勘弁して欲しいと音を上げた。
すぐに亮一は、不安とか寂しいとかいう目を向けてきて、その叱られた猟犬のような顔に、可南子は弱る。
人通りの多い道で立ち止まって話し合い、折衷案として腕を組むということで納得してもらった。
亮一の腕を控えめに掴んだ可南子に、亮一は不満の声を上げ、すぐに立ち止まる。
『腕の組み方が浅い』
可南子は唖然として、亮一の顔を見上げてしまった。納得する腕の深さは、腕を二の腕まで絡ませるほどだった。可南子の小さな胸が当たるほどの近さに、凍ったように固まってしまう。
結局、手を撫でられながら歩くという事を選択してしまった。つい、口から文句が出る。
『そんなに言うなら、最初から……』
最後の方が消えたのは、言ってもしょうがない事だったのと、恥ずかしかったからだ。
『三年を、埋めようとしている』
繋がれた手が緩やかに手首まで上がっていき、可南子はつられるようにそちらを向いた。
『足りていないか』
可南子の手は、亮一の手に導かれ、人通りの多い道で亮一の唇に触れさせられた。言葉と一緒に、指に亮一の柔らかい唇。
吐息は呼吸する度に掛かり、指から電気のような痺れが全身に走り続け、肌が粟立つ。
人の目が、ちらちらと自分たちに注がれているのは気付いていた。
けれど、それは亮一にだと思っていた。でも、その時は、あきらかに二人に集まったのがわかった。しかも、一瞬じゃなく、見られている。
『た、足りています』
可南子は気持ちを総動員して、笑顔を作った。ここで、消極的な顔を見せたら駄目だと思った。
何かもう可南子の想像を超えることが起こると確信できた。
『そうか、安心した』
亮一もそのきつく見られがちな目元を緩ませて笑んだ後に、目を伏せた。
可南子が、人の視線から解放されると、ほっとしたのと同時だった。
指を、舌の先端で、触れるように舐められた。
この生ぬるい感覚を受けた身体の箇所が、熱を発した。
可南子の全身から熱い汗がじわりと浮かんで、やっと亮一の意図がわかった。
直接的な刺激を受けて、亮一の欲望が完璧に浮き彫りになって見えた。
『き、今日は、帰りますよ』
『……そうか、残念だ』
やっぱり、と可南子は思った。
可南子から、今日、家に行きたいと言わせたかったのだ。
さすがに力で手を引こうとすると、亮一はそれをさせまいと力強く握った。
まだ手は亮一の手から離れず、人の目はずっと自分たちを注目し続けている。
可南子は道に迷った人のように、困り果てた顔を亮一に向けた。
『明日は、お邪魔しますから』
『良かった』
『そ、その、口で言えば良いと思うんですよ』
『好きだと、口で言うだけでいいのか』
当たり前に推移する時間が、ぽっかりと無くなる、呆然とするしかない時間。そんな無の時間が何度も訪れる。
亮一は、すでに可南子の欲しかった言葉を、遥かに超えた所にいる。戒めを解いた自由な振る舞いで、可南子に想いを吹き込んでくる。
『明日は絶対に行くから。もう、今日は帰ろう。明日は早くお仕事を終わらせないと』
『……確かに』
素直に頷き、手を離した亮一に、可南子は自分が失言をした気がした。
昨夜の事を思い出すと発言への恥ずかしさに消え入りたくなる。それなのに、胸にあるのは強い期待。
また赤のVネックのセーターに手が伸びた。今日、亮一に会うなら、鎖骨が出ていようが、髪を上げていようが、きっと何も言われない。この気持ちは、好きのもっと上なのかもしれない。
◇
赤のセーターにベージュの細身のひざ丈フレアースカートを合わせて出社する。伸びた髪は邪魔になるので、まとめて上げた。
コットンパールのピアスを触りながら、オフィスに足を踏み入れると、やはり控えめながらも視線を注がれた。
可南子の調子が何だかおかしいのは小宮のせいだと、と思われている。感情を見せないように気を張っていたら、今週で一番、仕事が進んだ。
終業を知らせるベルが鳴って、可南子は壁に掛けてある時計を見上げた。
……小宮さんの、退職。
この一ヶ月が頭の中に巡った。
いろいろな事が変わりすぎて、考えるよりも先に受け入れたほうが早い気がする。
そのまま時計から目線を落とすと、上役席にいる磯田が目に入った。
磯田と目が合うと「おつかれ」と口を動かされた。
いろいろ気を使っていてくれていた事を、可南子はわかっている。
机の引き出しを開けると、まだ開けていないアーモンドチョコレートの箱があった。
それを持つと立ち上がって、磯田の席のそばまで寄る。
「沢山のお仕事、ありがとうございました」
そう言って、磯田に差し出す。
「俺が甘党って知ってるとは、さすが可南子だな。ありがとう」
いつもの軽い口調で、それを受け取ってくれる。可南子を見上げてにやりと笑った磯田の目元の皺が深くなった。
「……で、俺と可南子の仲だ。彼氏はいつ紹介してくれるんだ」
ちゃんと声を潜めて聞いてくれた事を、配慮と言っていいのか、可南子はわからない。
急に振られた予想もしない話なのに、可南子は動揺の欠片も見せなかった。ただ、じわりと汗が浮かんだ。
可南子は仕事用の顔を作って、何のことだかわからない顔をする。
「何の話ですか」
「可南子は顔に出やすい」
「いませんよ。調子が悪かったのは、小宮さんが」
「彼氏が悲しむぞ」
そう言われた瞬間、あの、不安だという亮一の顔が頭に浮かんで、左頬の筋肉がぴくりと動いた。
亮一は、会社の人に彼女の存在を聞かれたら、「いない」と答えるのだろうか。
もしそうならと思うと、可南子は胸が痛んだ。
「ほら、それだ。ここが動く」
磯田は可笑しそうに、自分の左頬を指で触れた。
「聞かれてもいないのに言う必要も無いだろうが、聞かれて答えないのはよくないぞ。可南子なら、尚更な」
「……磯田さん。ここ、職場ですよ」
何とか、差し支えの無い話に変えようと、何か振れる仕事の話がないかを考える。
感情が優先した状態で、理性が働かず、まったく思い浮かばない。
「職場だが、就業時間は終わったぞ」
そう言って振り返ると、磯田は壁に掛けてある時計を指差す。
「真田の結婚式で噂になってた男前と付き合ったとか、そんな騒がれそうな裏話でもあるのか。俺も写真を見せられたぞ。厳つい男前」
可南子は無意識に額を押さえた。
この女子力が高い上司も、そんな写真をいつの間にか撮っている女子も、どうなっているの、と思う。
「……図星か。可南子はどこまでも面白いな」
磯田は興味深げに笑って腕を組むと、椅子の背もたれに身体を倒す。
「……お願いですから、磯田さん自ら話していかないで下さい」
「お、認めたな」
可南子は顔を両手で覆う。
……ああ、本当に嫌だ。
「良い事だと俺は思っているぞ。いいんじゃないのか。肩の力を抜いて」
可南子は瞬きをする。
懸命に培ってきた、苦味を伴う自立心に亀裂が入って、ひ弱な自分が顔を出している。
誰にも受け入れられないと思っていたその繊細さは、当の昔に見抜かれていた。可南子は二の句を継げない。
「仕事の手を抜くのは困るが、可南子は、それはないだろう」
努めて冷静に磯田を見ると、好意的な笑顔に迎えられた。
あっけらかんと受け入れられているのを目の当たりにして、冷静さが崩れだす。
動揺して、どう逃げようかと考えていると、結衣の声がした。
「可南子、今日の仕事は何時に終わりそう」
後ろから嬉々とした雰囲気を、堂々と振りまきながら、結衣が近づいてきた。可南子は、助かったと思った。
結衣は手にA4の用紙を、パーティ用の三角錐の帽子のように丸めたものを持っている。
「結衣さん、その、手に持っているものは何ですか」
「これは、お祝いのクラッカーです」
お祝いとは、小宮の退職のことだろう。
そういうと、頂点を下にして、紐があるような振りで下に引いた。何回も引く仕草をする結衣は、嬉しさを全く隠していなかった。
「今日、ちょっとだけ飲みに行こうよ。あ、磯田さんもいらっしゃいませんか」
「両手に花か」
その発想は何、と、驚いて可南子は磯田を見る。
「何人か誘っているから独占は無理ですよ。でも、脇を固めて差し上げることは出来るかも」
「いいな。行く」
「楽しい会になってきましたね。じゃ、可南子、後でまた内線するね」
……行くことに、なっている。
結衣の背中を見送って磯田を見ると、まだ笑顔だった。
「あの厳つい彼氏に連絡して来い。飲みになりましたってな」
もう、可南子は仕事用の顔は作れなかった。
あちこちに、ひびが入っている。香りも蜜も無い、美しい花。人目は引くが、人をどこか惹き付けない花が、突然、その香り漂わせ始める。その蜜が甘い事を、無意識に触れ回っている。そんな変化は、身近な人間にはわかってしまうと、可南子にはわからない。
「……だ、大丈夫です」
赤くなった顔を隠すように、磯田から可南子は顔をそらした。
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