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連載
干渉する過去 (後編)
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◇
晃は朝子に何かを言ったようで、亮一に複雑な表情を向けてくることは無かった。
つつがなく食事が終わり、上の階のバーで飲んで帰るという晃と朝子と別れて二人はエレベーターを待つ。
やっと二人になれると亮一がほっとしていたところに、ふいに、可南子が口を開いた。
「……亮一さんのご両親、もしかして結衣さんと同じ心配をされていますか?」
突然、鳩尾に一発入ったような痛みは、何事も無かったと安心していた気持ちを引き千切った。
可南子なりに、晃や朝子の態度の中に、微妙な緊張感を感じていたのかもしれない。
腹の中に溜められるより聞かれる方が何倍もましだと、亮一は気持ちを切り替える。
「……そうだ」
「わたし、力不足かな」
可南子が微苦笑しながらぼそり、と呟いた独り言の語尾は、隣で一緒にエレベーターを待っていた女子グループの笑い声に掻き消された。
亮一の胸にぞわり、と冷えた感覚が広がった。
可南子が漂わす甘い香りは、変わらず力強く芳香を放っているのに、その存在を消そうとしているのがわかった。残り香だけがこの手に残りそうな感覚は、棘が刺さって取れない嫌な痛みだ。
亮一は繋いでいる手に少しだけ力を込める。
「その反対だ」
朝子は三十路に差し掛かった子供が二人とも結婚しないことを、常々ぼやいていた。子どもたちの結婚と孫に飢えていたが、生真面目なのに自由人の長男の亮一と、「結婚しない」と豪語する長女の久実という婚期が見えない二人に諦めが入っていた。
だがつい最近、瀬名家の双子がいる長兄夫婦に、もう一人出来たと報告があった。しかも結衣まで、十年も付き合っていた広信と結婚した。親しい隣の家に慶事が重なる。
収まっていた感情が噴出し「なぜうちは」と嘆いていた所に、亮一の同棲の話が出た。
しかも相手が結衣から話を聞いたことのある好感の持てる可南子だと知り、期待が盛り上がったらしい。
それを可南子の前でオプラートに包みながらも話してしまうあたり、相当に気分が高揚しているようだった。
食事の席で延々とその話をするので、亮一は目で晃に「やめさせろ」と訴え続けた。
「母親の話、あれ、どう聞いた」
「……結衣さんのお兄さんの所の、赤ちゃんが楽しみだって」
「おかしいだろ、違うだろ」
自分の存在を頑なに、最下層にするのかが理解できずに、思わずきつく突っ込む。
「……俺に、可南子とさっさと結婚しろって言ってたんだ」
「そんなことを言って無かったよ。ひたすら赤ちゃんって」
「子供の話も、結衣の兄ちゃんに掛けて、早く孫が見たいって言ってたんだ」
「亮一さん、それは飛躍しすぎだと思う」
可南子に責められるような目を向けられて、亮一は軽く眩暈がする。
何もどこも飛躍していないどころか、百パーセント、理解している自信がある。
「とにかく、可南子と真面目に付き合えと、俺が言われている」
おまけに、母親からは可南子を逃すなと遠まわしに脅されていた。この歳で親に恋愛に口を出されるとは思わなかったと、亮一は渋面を作る。
今日はあくまで義理を立てて報告しただけで、ここまで入り込まれるとは思っていなかった。
「……今まで、そこまで不真面目に付き合ってきたの?」
最愛の彼女からの素朴な質問に、亮一は錆びた剣で胸を一突きされる。逃げ場を作られなかった問いかけは、胸に鈍く痛みを残す。
「……可南子は、けっこうストレートに物事を聞くよな」
「あ、すいません」
「……そうだな、褒められるようなことはしていないな」
何をもって『無下に扱う』ことになるのかはわからないが、そこいるのにいないように扱われるのは、一番つらいと、今ならわかる。好きなら、視界に入るために何をすべきかと考えるはずだ。性格によっては、その度が越すこともあるだろう。
「……亮一さん、優しいのにね」
可南子が不思議そうな顔を亮一に向けた。
亮一は口の端を上げて自嘲する。優しいと無関心と紙一重だ。亮一にとって、感情が動かない関係で優しくするのは難しいことではない。
可南子に優しくするのは、理由なんて横に置いてでも、ただ大事にしたいからだ。
「優しいけど、押しはとっても強いよね」
ふわりと微笑んだ可南子の笑顔には、どんな含みも無かった。
繁茂する夏草のように、その笑顔が無秩序に胸の奥に入り込んでくる。
「可南子にだけな」
抱きしめることが出来ない分、亮一は全ての想いを込めて可南子の目を見つめる。
洪水のように流れ込んでくる捧げられた想いに、可南子は恥ずかしげに頬を染めて目を伏せた。
「エレベーター、来ましたよ」
扉が開いたエレベーターに人が乗り込んでいくのを、可南子は指し示した。
すでに満員状態のエレベーターに、亮一は『行ってくれ』と開閉ボタンのそばにいる女性に目で示す。ボタンに手を伸ばしたのを見て、亮一は感謝の小さな会釈をする。
扉が閉まる瞬間、亮一は可南子に腕を引っ張られた。
「……好き、だから」
可南子が真摯な色を湛えた、潤んだ大きな黒い目で、亮一の視界を全て独占するように顔を覗き込んできた。
珍しく複雑な様相に、亮一のほうが慌てる。
「その、私も、頑張るから」
どうしたんだ、と言い掛けて、はっとする。さっきのエレベーターのやり取りのせいかと思い当たり、亮一の頬が緩んだ。
亮一は話しかけた人が男女問わず、照れたり引いたりする姿に慣れている。確かにさっきのエレベーターの女性は、あきらかに顔を赤らめていた。
嫉妬されるのは、独占されている息苦しさと同じだ。その苦しささえも、快感に変わる。
「俺も好きだ。俺は、可南子が俺を好きでいてくれれば、それでいいんだ」
可南子の髪を撫でて言うと、潤んだ目で見返された。
この目がずっと続くことを願うのは、頭か心か、よくわからない。
次に来たエレベーターには、エレベーターホールにいる誰も乗ってこなかった。
「誰も乗りませんでしたね。待ち合わせとかだったのかな」
「ま、どうでもいいな」
亮一は可南子の頬を両手で包み込むと、迷うことなくその唇に自分の唇を重ねる。
可南子を近くに感じる温もりは、心地よい湿気を含んだ風のようだ。心を乾かすことは無い。
「で、今日はどうする」
軽く口づけをして、甘い香りがするグロスを舐める。唇を決して離さないでする会話は、息に宿った欲情が肌を伝う。下半身に血が流れ込み、猛りに血が昇ってくる痛みは、腰を覆っている布地への反発だ。
「どうって」
「うちに泊まるよな」
可南子の上唇を唇で食むと「んっ」と、小さな声を漏らした。
艶やかな髪を撫でて、そのまま背中から腰へと手をゆっくりと背骨に沿わせて降ろす。
「返事は」
「ふ、服が」
明日は可南子の父親との昼食の約束だ。確かに泊まって家に戻っていると、時間が無さ過ぎる。
手の平で臀部の上部の曲線を味わうと、鎮静しない乾きに支配されていた気分が収まっていく。
「なら、今から買いに行こう。俺が払う」
それはだめ、と言った唇を包み込み、可南子の自意識を溶かすように、抑制した舌の動きでその唇を開かせる。
腕の中で強張った可南子を宥めるように、その頬を撫でる。
「今日のお礼だ。距離感がほぼ無い、ウエットな親に付き合ってもらった」
瀬名家との付き合いが密すぎるのかそういう性格なのか、朝子は距離が近い。その距離感を嫌がった元彼女もいる。
ぶるぶると頭を振る可南子は、想定内だった。
「もうそろそろ、エレベーターが止まるぞ。どうする」
亮一の低く響く言葉に、可南子は極度に身体を強張らせた。唇を離すと白い首筋の香りを嗅ぐように鼻を寄せる。狂わせるような甘い香りは、どこから出ているのかがわからない。妄想と理想が相まった幻想的な果実のような香りは、どんな傷でも癒やせる気がする。
「泊まる。洋服は、自分で買う」
「……頑固だな」
「ど、どっちが」
亮一は可南子の首に歯を立てて噛むと、そのまま吸い付く。
「か、買ってください!」
「よし」
可南子は亮一から身体を離すと、必死な表情でバックの化粧ポーチの中から小さな鏡を出す。
それを開いて首筋を見るが角度と小ささの関係でよく見えないらしく、泣きそうな顔になった。
「付いていないぞ」
「し、信じられません」
責めるように見られて、つい、むっとして亮一は漏らしてしまう。
「消えるのを待つ必要も無い。完全にというわけにはいかないだろうが、消せる」
「は」
「消せるんだよ。言うなれば、ただの内出血だろ」
「……なんで、そんなことを知ってるの」
「ネットで調べたら、普通に出てくる」
可南子の手を取ろうとすると、さっと手を遠ざけられて、亮一は心臓に針を刺されたような痛みを覚えた。
口を引き結んで必死に冷静を装う可南子が、バックの中に鏡を片付ける。
「あの、お手洗いに、行ってきます」
エレベーターが一階で開くと、可南子は首筋を押さえたまま亮一の横をすり抜けようとした。考えるよりも先にその腕を掴んでしまう。その細く柔らかい感触に、手に力を込めてしまった事を後悔した。
そのままエレベーターから降りると、人の流れに邪魔にならない所に可南子を連れて行く。
「……付けていない」
見上げてきた可南子の表情にものさびしい、か弱いものを見て、亮一は過去の彼女の事を想像されていることに気づく。
こんな痕をつけるような事を、彼女とはしたことがない。痕を付けられそうになったことならあるが、やんわりと誤魔化してきた。
……もっと早く、会いたかったんだ。どこに、いたんだ。
結衣から話を聞いて可南子に興味を持った時点で、会えるように頼み込めば良かったと思っても、もう遅い。神や仏があるなら、もっと早く会わせてくれれば良かったのと思う。
可南子が強く気持ちを持つように笑顔を浮かべると、亮一の心臓に痛みが走った。
自分の過去を振り返れと言われても、流石に水を差すように心配ばかりをしてくる外野を恨みたくなる。
「……広信だ」
「なに……」
「大学生の時、あいつがそういうのに興味を持って、つき合わされたんだ」
また、そんな嘘をついて。可南子にそんな目で見られて、亮一は大きく天を仰いだ。
亮一は十代の当時を苦々しく思いながら、自分の二の腕を顎で差した。
広信は何かを面白がると、とことんまでやるところがある。広信が食堂や図書館でよく人間観察をしていたのを思い出す。
最初は自分の腕でしていたが『人じゃないと意味がない』と思い立ったらしい。それに、よく一緒にいた亮一が付き合わされた。
付けられるだけならまだしも、付けるように言われたのは拷問だった。
「さすがに、腕にそんなのを付けて生活するわけにはいかないだろう」
亮一はただでさえ大学で『女に不自由しない』と噂になっていた。それを喜んでいたわけでは無かったので、広信に付けられた練習の痕を必死になって消していた。
「……何を、やっているんですか」
「十代の健康な男にそれは禁句だろ。とにかく、疑うなら広信に聞いてくれ」
帰るまで絶対に離さないつもりで、亮一は可南子の手を握り直す。
絶えず沸き起こる感情には、雨音が混じっている。晴れ間だけではないからこそ、促され、個性豊かな関係が育っていくと信じたい。
可南子が堪え切れなくなったように、硬かった表情を和(やわ)らげた。そのまま、空いている手で口元を押さえて笑っている。
「仲が、良いですね」
亮一は可南子の手を優しく引いて、歩くように促した。笑いを抑えられない可南子が、それにつられるように歩き出す。
苦味の中にある甘さを噛み締めるように、亮一は可南子の柔らかい手の甲を親指で撫でた。
可南子はこめかみの辺りを亮一の二の腕に触れさせて、やはり笑っている。
甘えるような仕草を自然にされると、長い一日が何とか、柔らかい花床に上手に着地した気がした。
結びつきが、無駄に見える小競り合いを繰り返して強くしなやかに伸びていく。
……明日を越えれば、一緒に暮らせる。
亮一が可南子に微笑みかけると、笑って潤んだ目をそのままに、憂いのない優しげな笑顔で返してくれる。
清らな笑顔がそばにあれば、乾かなくていい。甘い香りがあれば、苦くならずに済む。柔らかい肌に触れられれば、感情があることを思い出す。時折とても儚ない表情は、自分が強くあり続ける理由になる。
可南子という存在に、依存している。
亮一は可南子の繋いだ可南子の手を持ち上げて、可南子の白く細い指の甲に、唇を触れさせる。ひんやりとした柔らかい指先は、唇に気持ちが良い。
「り、亮一さん」
「まず、服を買う。……それから、家に帰って消すぞ」
唇から手を離しながら言うと、可南子が呆けた表情をした後、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
それから目に力を入れて何かを訴えてこようとした可南子に、亮一は切り出す。
「買わせてくれ。頼む」
困ったように可南子が小さな口を噤んだ。
「すごい、安いのな」
亮一が珍しく軽い口調で言うと、可南子が目を見張る。すぐに、俯いて肩をおかしそうに震わせた。
「じゃ、私も亮一さんに何かすごく安いのを買わせてください」
……出た、等価交換。
亮一は苦笑いする。それでも、可南子に大きな瞳を輝かせた明るい笑顔を向けられると断れない。
「……それで、手打ちだな」
「はい」
週末の駅へと続く人通りが多い道を歩くと、男女を問わず何人かが振り返って行く。
……俺の彼女は、可愛いからな。
亮一は、にんまりと笑む。
可南子に目を落とすと、黒い髪が歩く度に柔らかく揺れていた。上がった睫の下に、白と黒がしっかり分かれた潤んだ瞳が煌いている。華奢なのに背筋がしっかり伸びた姿勢は、隙を決して見せない。人から向けられる視線を華麗にかわして、ただ前を見て歩いていた。
そして、時折、親しげな表情を亮一にだけ向けてくる。
永遠に燃え尽きそうに無い気持ちが、どんどん高まっていく。
二人だけの時間を慈しむように、亮一は可南子の白い手の甲を親指で撫でた。
晃は朝子に何かを言ったようで、亮一に複雑な表情を向けてくることは無かった。
つつがなく食事が終わり、上の階のバーで飲んで帰るという晃と朝子と別れて二人はエレベーターを待つ。
やっと二人になれると亮一がほっとしていたところに、ふいに、可南子が口を開いた。
「……亮一さんのご両親、もしかして結衣さんと同じ心配をされていますか?」
突然、鳩尾に一発入ったような痛みは、何事も無かったと安心していた気持ちを引き千切った。
可南子なりに、晃や朝子の態度の中に、微妙な緊張感を感じていたのかもしれない。
腹の中に溜められるより聞かれる方が何倍もましだと、亮一は気持ちを切り替える。
「……そうだ」
「わたし、力不足かな」
可南子が微苦笑しながらぼそり、と呟いた独り言の語尾は、隣で一緒にエレベーターを待っていた女子グループの笑い声に掻き消された。
亮一の胸にぞわり、と冷えた感覚が広がった。
可南子が漂わす甘い香りは、変わらず力強く芳香を放っているのに、その存在を消そうとしているのがわかった。残り香だけがこの手に残りそうな感覚は、棘が刺さって取れない嫌な痛みだ。
亮一は繋いでいる手に少しだけ力を込める。
「その反対だ」
朝子は三十路に差し掛かった子供が二人とも結婚しないことを、常々ぼやいていた。子どもたちの結婚と孫に飢えていたが、生真面目なのに自由人の長男の亮一と、「結婚しない」と豪語する長女の久実という婚期が見えない二人に諦めが入っていた。
だがつい最近、瀬名家の双子がいる長兄夫婦に、もう一人出来たと報告があった。しかも結衣まで、十年も付き合っていた広信と結婚した。親しい隣の家に慶事が重なる。
収まっていた感情が噴出し「なぜうちは」と嘆いていた所に、亮一の同棲の話が出た。
しかも相手が結衣から話を聞いたことのある好感の持てる可南子だと知り、期待が盛り上がったらしい。
それを可南子の前でオプラートに包みながらも話してしまうあたり、相当に気分が高揚しているようだった。
食事の席で延々とその話をするので、亮一は目で晃に「やめさせろ」と訴え続けた。
「母親の話、あれ、どう聞いた」
「……結衣さんのお兄さんの所の、赤ちゃんが楽しみだって」
「おかしいだろ、違うだろ」
自分の存在を頑なに、最下層にするのかが理解できずに、思わずきつく突っ込む。
「……俺に、可南子とさっさと結婚しろって言ってたんだ」
「そんなことを言って無かったよ。ひたすら赤ちゃんって」
「子供の話も、結衣の兄ちゃんに掛けて、早く孫が見たいって言ってたんだ」
「亮一さん、それは飛躍しすぎだと思う」
可南子に責められるような目を向けられて、亮一は軽く眩暈がする。
何もどこも飛躍していないどころか、百パーセント、理解している自信がある。
「とにかく、可南子と真面目に付き合えと、俺が言われている」
おまけに、母親からは可南子を逃すなと遠まわしに脅されていた。この歳で親に恋愛に口を出されるとは思わなかったと、亮一は渋面を作る。
今日はあくまで義理を立てて報告しただけで、ここまで入り込まれるとは思っていなかった。
「……今まで、そこまで不真面目に付き合ってきたの?」
最愛の彼女からの素朴な質問に、亮一は錆びた剣で胸を一突きされる。逃げ場を作られなかった問いかけは、胸に鈍く痛みを残す。
「……可南子は、けっこうストレートに物事を聞くよな」
「あ、すいません」
「……そうだな、褒められるようなことはしていないな」
何をもって『無下に扱う』ことになるのかはわからないが、そこいるのにいないように扱われるのは、一番つらいと、今ならわかる。好きなら、視界に入るために何をすべきかと考えるはずだ。性格によっては、その度が越すこともあるだろう。
「……亮一さん、優しいのにね」
可南子が不思議そうな顔を亮一に向けた。
亮一は口の端を上げて自嘲する。優しいと無関心と紙一重だ。亮一にとって、感情が動かない関係で優しくするのは難しいことではない。
可南子に優しくするのは、理由なんて横に置いてでも、ただ大事にしたいからだ。
「優しいけど、押しはとっても強いよね」
ふわりと微笑んだ可南子の笑顔には、どんな含みも無かった。
繁茂する夏草のように、その笑顔が無秩序に胸の奥に入り込んでくる。
「可南子にだけな」
抱きしめることが出来ない分、亮一は全ての想いを込めて可南子の目を見つめる。
洪水のように流れ込んでくる捧げられた想いに、可南子は恥ずかしげに頬を染めて目を伏せた。
「エレベーター、来ましたよ」
扉が開いたエレベーターに人が乗り込んでいくのを、可南子は指し示した。
すでに満員状態のエレベーターに、亮一は『行ってくれ』と開閉ボタンのそばにいる女性に目で示す。ボタンに手を伸ばしたのを見て、亮一は感謝の小さな会釈をする。
扉が閉まる瞬間、亮一は可南子に腕を引っ張られた。
「……好き、だから」
可南子が真摯な色を湛えた、潤んだ大きな黒い目で、亮一の視界を全て独占するように顔を覗き込んできた。
珍しく複雑な様相に、亮一のほうが慌てる。
「その、私も、頑張るから」
どうしたんだ、と言い掛けて、はっとする。さっきのエレベーターのやり取りのせいかと思い当たり、亮一の頬が緩んだ。
亮一は話しかけた人が男女問わず、照れたり引いたりする姿に慣れている。確かにさっきのエレベーターの女性は、あきらかに顔を赤らめていた。
嫉妬されるのは、独占されている息苦しさと同じだ。その苦しささえも、快感に変わる。
「俺も好きだ。俺は、可南子が俺を好きでいてくれれば、それでいいんだ」
可南子の髪を撫でて言うと、潤んだ目で見返された。
この目がずっと続くことを願うのは、頭か心か、よくわからない。
次に来たエレベーターには、エレベーターホールにいる誰も乗ってこなかった。
「誰も乗りませんでしたね。待ち合わせとかだったのかな」
「ま、どうでもいいな」
亮一は可南子の頬を両手で包み込むと、迷うことなくその唇に自分の唇を重ねる。
可南子を近くに感じる温もりは、心地よい湿気を含んだ風のようだ。心を乾かすことは無い。
「で、今日はどうする」
軽く口づけをして、甘い香りがするグロスを舐める。唇を決して離さないでする会話は、息に宿った欲情が肌を伝う。下半身に血が流れ込み、猛りに血が昇ってくる痛みは、腰を覆っている布地への反発だ。
「どうって」
「うちに泊まるよな」
可南子の上唇を唇で食むと「んっ」と、小さな声を漏らした。
艶やかな髪を撫でて、そのまま背中から腰へと手をゆっくりと背骨に沿わせて降ろす。
「返事は」
「ふ、服が」
明日は可南子の父親との昼食の約束だ。確かに泊まって家に戻っていると、時間が無さ過ぎる。
手の平で臀部の上部の曲線を味わうと、鎮静しない乾きに支配されていた気分が収まっていく。
「なら、今から買いに行こう。俺が払う」
それはだめ、と言った唇を包み込み、可南子の自意識を溶かすように、抑制した舌の動きでその唇を開かせる。
腕の中で強張った可南子を宥めるように、その頬を撫でる。
「今日のお礼だ。距離感がほぼ無い、ウエットな親に付き合ってもらった」
瀬名家との付き合いが密すぎるのかそういう性格なのか、朝子は距離が近い。その距離感を嫌がった元彼女もいる。
ぶるぶると頭を振る可南子は、想定内だった。
「もうそろそろ、エレベーターが止まるぞ。どうする」
亮一の低く響く言葉に、可南子は極度に身体を強張らせた。唇を離すと白い首筋の香りを嗅ぐように鼻を寄せる。狂わせるような甘い香りは、どこから出ているのかがわからない。妄想と理想が相まった幻想的な果実のような香りは、どんな傷でも癒やせる気がする。
「泊まる。洋服は、自分で買う」
「……頑固だな」
「ど、どっちが」
亮一は可南子の首に歯を立てて噛むと、そのまま吸い付く。
「か、買ってください!」
「よし」
可南子は亮一から身体を離すと、必死な表情でバックの化粧ポーチの中から小さな鏡を出す。
それを開いて首筋を見るが角度と小ささの関係でよく見えないらしく、泣きそうな顔になった。
「付いていないぞ」
「し、信じられません」
責めるように見られて、つい、むっとして亮一は漏らしてしまう。
「消えるのを待つ必要も無い。完全にというわけにはいかないだろうが、消せる」
「は」
「消せるんだよ。言うなれば、ただの内出血だろ」
「……なんで、そんなことを知ってるの」
「ネットで調べたら、普通に出てくる」
可南子の手を取ろうとすると、さっと手を遠ざけられて、亮一は心臓に針を刺されたような痛みを覚えた。
口を引き結んで必死に冷静を装う可南子が、バックの中に鏡を片付ける。
「あの、お手洗いに、行ってきます」
エレベーターが一階で開くと、可南子は首筋を押さえたまま亮一の横をすり抜けようとした。考えるよりも先にその腕を掴んでしまう。その細く柔らかい感触に、手に力を込めてしまった事を後悔した。
そのままエレベーターから降りると、人の流れに邪魔にならない所に可南子を連れて行く。
「……付けていない」
見上げてきた可南子の表情にものさびしい、か弱いものを見て、亮一は過去の彼女の事を想像されていることに気づく。
こんな痕をつけるような事を、彼女とはしたことがない。痕を付けられそうになったことならあるが、やんわりと誤魔化してきた。
……もっと早く、会いたかったんだ。どこに、いたんだ。
結衣から話を聞いて可南子に興味を持った時点で、会えるように頼み込めば良かったと思っても、もう遅い。神や仏があるなら、もっと早く会わせてくれれば良かったのと思う。
可南子が強く気持ちを持つように笑顔を浮かべると、亮一の心臓に痛みが走った。
自分の過去を振り返れと言われても、流石に水を差すように心配ばかりをしてくる外野を恨みたくなる。
「……広信だ」
「なに……」
「大学生の時、あいつがそういうのに興味を持って、つき合わされたんだ」
また、そんな嘘をついて。可南子にそんな目で見られて、亮一は大きく天を仰いだ。
亮一は十代の当時を苦々しく思いながら、自分の二の腕を顎で差した。
広信は何かを面白がると、とことんまでやるところがある。広信が食堂や図書館でよく人間観察をしていたのを思い出す。
最初は自分の腕でしていたが『人じゃないと意味がない』と思い立ったらしい。それに、よく一緒にいた亮一が付き合わされた。
付けられるだけならまだしも、付けるように言われたのは拷問だった。
「さすがに、腕にそんなのを付けて生活するわけにはいかないだろう」
亮一はただでさえ大学で『女に不自由しない』と噂になっていた。それを喜んでいたわけでは無かったので、広信に付けられた練習の痕を必死になって消していた。
「……何を、やっているんですか」
「十代の健康な男にそれは禁句だろ。とにかく、疑うなら広信に聞いてくれ」
帰るまで絶対に離さないつもりで、亮一は可南子の手を握り直す。
絶えず沸き起こる感情には、雨音が混じっている。晴れ間だけではないからこそ、促され、個性豊かな関係が育っていくと信じたい。
可南子が堪え切れなくなったように、硬かった表情を和(やわ)らげた。そのまま、空いている手で口元を押さえて笑っている。
「仲が、良いですね」
亮一は可南子の手を優しく引いて、歩くように促した。笑いを抑えられない可南子が、それにつられるように歩き出す。
苦味の中にある甘さを噛み締めるように、亮一は可南子の柔らかい手の甲を親指で撫でた。
可南子はこめかみの辺りを亮一の二の腕に触れさせて、やはり笑っている。
甘えるような仕草を自然にされると、長い一日が何とか、柔らかい花床に上手に着地した気がした。
結びつきが、無駄に見える小競り合いを繰り返して強くしなやかに伸びていく。
……明日を越えれば、一緒に暮らせる。
亮一が可南子に微笑みかけると、笑って潤んだ目をそのままに、憂いのない優しげな笑顔で返してくれる。
清らな笑顔がそばにあれば、乾かなくていい。甘い香りがあれば、苦くならずに済む。柔らかい肌に触れられれば、感情があることを思い出す。時折とても儚ない表情は、自分が強くあり続ける理由になる。
可南子という存在に、依存している。
亮一は可南子の繋いだ可南子の手を持ち上げて、可南子の白く細い指の甲に、唇を触れさせる。ひんやりとした柔らかい指先は、唇に気持ちが良い。
「り、亮一さん」
「まず、服を買う。……それから、家に帰って消すぞ」
唇から手を離しながら言うと、可南子が呆けた表情をした後、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
それから目に力を入れて何かを訴えてこようとした可南子に、亮一は切り出す。
「買わせてくれ。頼む」
困ったように可南子が小さな口を噤んだ。
「すごい、安いのな」
亮一が珍しく軽い口調で言うと、可南子が目を見張る。すぐに、俯いて肩をおかしそうに震わせた。
「じゃ、私も亮一さんに何かすごく安いのを買わせてください」
……出た、等価交換。
亮一は苦笑いする。それでも、可南子に大きな瞳を輝かせた明るい笑顔を向けられると断れない。
「……それで、手打ちだな」
「はい」
週末の駅へと続く人通りが多い道を歩くと、男女を問わず何人かが振り返って行く。
……俺の彼女は、可愛いからな。
亮一は、にんまりと笑む。
可南子に目を落とすと、黒い髪が歩く度に柔らかく揺れていた。上がった睫の下に、白と黒がしっかり分かれた潤んだ瞳が煌いている。華奢なのに背筋がしっかり伸びた姿勢は、隙を決して見せない。人から向けられる視線を華麗にかわして、ただ前を見て歩いていた。
そして、時折、親しげな表情を亮一にだけ向けてくる。
永遠に燃え尽きそうに無い気持ちが、どんどん高まっていく。
二人だけの時間を慈しむように、亮一は可南子の白い手の甲を親指で撫でた。
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