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連載
ふわふわと言われないように (後編)
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*
亮一はあれだけお酒を飲んでいたのにも関わらず、帰ってすぐにシャワーを浴びると仕事を始めた。
可南子はゆっくりと入浴し、しっかりと温まった身体でアイスを食べ始める。
帰り道、可南子は家の近くでアイスクリームを買って帰ってきた。肉や揚げ物のような塩辛い重いものを食べると、甘くて冷たいものが食べたくなる。
甘いけど軽い、シャリシャリとしたミルクセーキ味のアイスクリーム。
口の中に広がる甘い風味は重くない。
夜のアイスは罪悪感というエッセンスがあるものの、特別な美味しさがある。
仕事に集中する亮一の横顔は精悍で、目に気難しさを浮かべてパソコンを睨んでいた。
やはり、近寄りがたく感じる。
棘がある草木のように、触ったら怪我をしそうだと思う。けれど、それが本当に硬い棘かどうかは、触ってみないとわからない。
可南子は仕事をしている亮一のそばに寄って、おそるおそる亮一の硬く大きな背中に自分の背中を預けた。
亮一は少し驚いたように振り向いただけで、重さも何もかも問題が無いように、そのまま仕事を続ける。
背中に亮一を感じて、ほっと可南子は息を吐く。
大きくて厚い背中は秘密の隠れ家のようで、高揚を感じながらも心は安らいだ。
仕事に集中をしている亮一に、可南子は話しかけない。
静かな部屋にパソコンのキーボードを叩く音と、時計の秒針が進む音だけが聞こえる。
アイスに体温を奪われ始めた可南子は、亮一の背中を暖かく感じ始めた。
コーンを齧(かじ)りながら白い天井を眺めていると、亮一から話し掛けられる。
「それ、全部食うつもりか」
「はい」
「……冷えるぞ」
「でも、食べきらないと。後で熱いお茶を飲むから大丈夫」
カップでは無いので、中途半端に残せるアイスではない。
ふっと含み笑いが聞こえてきたが、亮一が可南子からアイスを取り上げる事は無かった。可南子も亮一の背中で笑みを浮かべる。
同棲を始めて、こんなゆったりした気分で過ごすのは初めてかもしれない。
穏やかな時間の流れに身を任せていると、こんな時間が続けばいいのにと思う。
数え切れない日々の中に、安穏な時間を重ねていく。重なり合った時間は光を放射して眩しい輝きを放つ。
広がっていく幸せの真ん中にある結びつきに名前があるとすれば、それは恋ではない気がした。
……結婚。
やっと思い当たった自分に可南子は愕然とした。
全く心に響かなかった『結婚』という言葉が、血が通ったように脈(みゃく)打ち、どきどきと心臓を高鳴らせる。
亮一はずっと一緒に過ごしたいが為に、結婚という手段を選ぼうとしているのだと思うと、亮一の行動の意味がわかる気がした。
可南子が漠然と一緒にいたいと思っているのに対し、亮一は明確に一緒に居ると決めている。そう考えれば、齟齬の辻褄が合う。
狼狽を収めるように、可南子はアイスを次々と口に運ぶ。
亮一はよく『離さないからな』と可南子に言うのは、一生ぐらいの長さのことなのだ。
最後の一口のコーンにはアイスが入っていなかった。口の中の唾液を取られて、心なしか苦い味が口の中に広がる。
突如、現実味を増した結婚という言葉に、前にした食事会を思い出す。お互いの両親が全く反対していなかった。
つまり、すぐに結婚できるのだ。
亮一は当たり前のように気づいていて、可南子を責めることも無い。
それなのに、可南子は亮一の言う結婚の意味を考える事も無く、自分が亮一のそばにいられるように、もっとしっかりしないといけないと思っていた。
……確かに、努力の方向が違う。
広信の言葉は、問題の核心を付いていた。
アイスを食べ終わり、可南子は亮一の背中から体を起こす。
「り、亮一さん」
仕事をしている亮一の背後で、可南子は膝を抱える。
努力の方向を間違えていないようにと願いながら、緊張から少し締まった喉に違和感を覚えつつ、息を吸い込んだ。
「私、ちゃんとしたお付き合いってしたことが無いんです。だから、その、結婚は、待ってもらえますか。まだ、こうやって、彼氏と彼女で、普通にどこかに出かけたりしたいです」
膝を抱えた腕の上に額を乗せて、まるで膝に話しかけるように小さな声で口にした。聞こえていないならそれで良いと思ったのは、まだ自分に問題がある気がしたからだ。
パソコンのキーを叩く音が止んだかと思うと、亮一が立ち上がった。
亮一の動きに顔を上げた可南子の横を通って、真正面に胡坐をかいて座る。
亮一の真剣な双眸に見据えられて、可南子は後戻りできない迫力に尻込みした。
けれど、逃げれば逃げるほど、真実から遠ざかる。
間違った努力が、問題を引き起こすのはもうわかった。
険しくさえ見える亮一に、可南子は微笑んだ。
亮一の強い眼差しを受け入れると、自分の中の弱さと中和するように、もつれた思考が解けていく。
「……だめですか」
「どこに行きたい。映画とか、テーマパーク、そんなのか」
相変わらず行動が早いと思いながら、可南子は笑みを深める。
可南子は横に誰が座るかわからない映画に行くことが無い。
テーマパークにも昔に行った事はあるが、混み具合と待ち時間の長さから、もう一度行きたいとまでは思わなかった。
でも、二人ならどこでも楽しいのかもしれない。
引かれるかなと思いつつ、一人でよく出かける好きな場所を口に出す。
「あと、美術館と博物館も」
「わかった」
意外にすんなりと受け入れられて、可南子は肩透かしをくらう。亮一がそんなとことに興味があるとは思えなかったからだ。
亮一は大きい手で、可南子の頭をいつもよりも強めに撫でた。
可南子は眠くなるような安心感に包まれる。
愉楽に誘う甘い香りの中に居る可南子に、密やかに亮一は告げた。
「……今日は、調子に乗りそうだから、止めておく」
何の話だろうと思って首を傾げた可南子が、目を見開いて頬を染めた。
「な、何も言ってませんよ!」
「歯を磨いて寝ろよ」
「……子ども扱いが過ぎます」
可南子の頬に、亮一は顔を寄せる。
ざり、とした髭の感触がくすぐったい。
「結婚は、待つ」
低く響く吐息のような亮一の声に、可南子の心は晴れやかになる。
亮一の揺ぎ無さは可南子を引っ張りあげるが、可南子が引くと力で掴まえにくる。
それは、亮一に追わせるように、可南子が仕組んでいるようにも見えた。
そんな関係でなく、たおやかに循環していくような、自然と与え合えるような関係になれるだろうか。
可南子は頬に触れてきた亮一の手に顔を傾けて、その大きな手を壊れ物のように指で撫でた。
「ありがとうございます」
引かれ合うように軽く重ねた唇から、アイスの味がしたかはわからない。
額を付けて見つめ合うと、どちらからともなく微笑んだ。
*
月曜日、亮一と可南子が家を出る時間が重なった。
いつもは亮一が二十分ほど早く出社するのだが、本人が言うには珍しく寝坊したらしい。
亮一が革靴の紐を締め終わった後に、可南子は9センチのヒールに足を入れた。目線が高くなって亮一の白いワイシャツの襟が横から見える。
週末は家で過ごしていて常に肩の辺りを見ていたので、その変化に違和感があった。亮一を見上げると、週末中よりも首の角度が小さく済む。
しっかりすることで近づこうとしていたのに、物理的な道具が自分を亮一に近づけてくれている。
こだわりから固さが抜け、こういう視点もあるのだと思うと、もっと頭は柔らかくあった方がいいのかもしれないと可南子は思った。
「亮一さん」
仕事に行く前の亮一の顔は、どこか厳しさが漂う。きっと会社に着いて仕事が始まると本当に厳しい顔になるのだろう。
ピンストライプのスーツの上から腕を掴んで顔を上げると、亮一が顔を近づけてくれる。
可南子はグロスを付けていることを思い出して、慌てて顔を逸らした。
「……おい」
至極当然に、亮一が少し怒ったような声を出す。
「ご、ごめんなさい。グロスをつけていました」
「わかってて、誘ったんじゃないのか」
「……忘れていました」
週末の気分が抜けていない自分が恥ずかしくて、可南子は白い肌を赤く染める。
亮一はしょうがないといった顔をすると、そのまま可南子の額に唇をつけた。
光沢のある甘い気持ちが胸に湧き上がり、切ないのに喜びに膨らむ感情は、亮一に巻き取られている意識そのものだ。
濃いのに透き通った好きだという気持ちは、前の恋愛には感じたことがないと言い切れる。
「亮一さん、今日は何時に帰ってきますか」
どうとでも取れる言葉を口にすると、可南子の肌が火照った。
ささやきのような精一杯の言葉は、明確には何も示していない。
亮一は可南子の額から唇を離した。
「……早く帰ってくる」
そう言って亮一は、可南子の背中に手をやると撫で下ろして臀部に触れた。
「はい」
可南子は亮一の少し厚みのある下唇に指を触れさせた。亮一の端正な顔には、先ほどまでの厳しさが無くなっていた。
記憶は、そこにあるのに気がつかない染(し)みのように、いろいろな影響を自分に与えている。
尖(とが)った不安は自分から掴みに行かなければ、ただそこにある沢山の感情の中の一つでしかない。
不必要なものを選ばないと決めるのは、この人が居ればきっと容易い。
「出るか」
亮一は腕時計を見て口の端を歪める。可南子も腕時計を確認して、かなりぎりぎりの時間に慌てる。
「遅れますね」
きつく締め上げた大人を演じなくて良い場所があるなら、昔のようにそこにあるものだけを感じてみたい。
可南子は靴箱を開けて走っても全く問題の無い、ヒールの高さが1センチの靴を出すとすぐに履き替えた。
「これで駅まで走れます」
可南子が笑顔を向けると、亮一は可笑しそうに顔を緩ませて玄関のドアを開けた。
「早足だな」
「亮一さんの早足は、私の小走りですよ」
「否定できないな」
亮一は笑った。
後ろに楽しみがある日の仕事は、捗(はかど)る上に時間も早く経つ。
駅への道すがら、亮一は腕時計を見ながらも嫌な顔を一つせずに、可南子の歩幅に合わせてくれる。
可南子は亮一の横顔を見上げる。
高く通った鼻筋の峰はやや尖って、意志を感じる眉の真下にある切れ長の目は、睫が綺麗に縁取っている。くっきりとした線で描かれたような上唇と、少しだけ厚い下唇。
以前は切なく見上げるだけだった亮一の横顔を、今は朗(ほが)らかな気持ちで見上げることができる。
可南子の気持ちが、細かく震えて昂(たか)ぶった。
「あの、亮一さん、好きです」
「知ってる。俺も好きだぞ」
「……すごく、知ってます」
身体が熱く感じたのは小走りのせいかもしれない。
二人は顔を見合わせて笑むと、もう少しだけ速度を上げて駅へと急いだ。
亮一はあれだけお酒を飲んでいたのにも関わらず、帰ってすぐにシャワーを浴びると仕事を始めた。
可南子はゆっくりと入浴し、しっかりと温まった身体でアイスを食べ始める。
帰り道、可南子は家の近くでアイスクリームを買って帰ってきた。肉や揚げ物のような塩辛い重いものを食べると、甘くて冷たいものが食べたくなる。
甘いけど軽い、シャリシャリとしたミルクセーキ味のアイスクリーム。
口の中に広がる甘い風味は重くない。
夜のアイスは罪悪感というエッセンスがあるものの、特別な美味しさがある。
仕事に集中する亮一の横顔は精悍で、目に気難しさを浮かべてパソコンを睨んでいた。
やはり、近寄りがたく感じる。
棘がある草木のように、触ったら怪我をしそうだと思う。けれど、それが本当に硬い棘かどうかは、触ってみないとわからない。
可南子は仕事をしている亮一のそばに寄って、おそるおそる亮一の硬く大きな背中に自分の背中を預けた。
亮一は少し驚いたように振り向いただけで、重さも何もかも問題が無いように、そのまま仕事を続ける。
背中に亮一を感じて、ほっと可南子は息を吐く。
大きくて厚い背中は秘密の隠れ家のようで、高揚を感じながらも心は安らいだ。
仕事に集中をしている亮一に、可南子は話しかけない。
静かな部屋にパソコンのキーボードを叩く音と、時計の秒針が進む音だけが聞こえる。
アイスに体温を奪われ始めた可南子は、亮一の背中を暖かく感じ始めた。
コーンを齧(かじ)りながら白い天井を眺めていると、亮一から話し掛けられる。
「それ、全部食うつもりか」
「はい」
「……冷えるぞ」
「でも、食べきらないと。後で熱いお茶を飲むから大丈夫」
カップでは無いので、中途半端に残せるアイスではない。
ふっと含み笑いが聞こえてきたが、亮一が可南子からアイスを取り上げる事は無かった。可南子も亮一の背中で笑みを浮かべる。
同棲を始めて、こんなゆったりした気分で過ごすのは初めてかもしれない。
穏やかな時間の流れに身を任せていると、こんな時間が続けばいいのにと思う。
数え切れない日々の中に、安穏な時間を重ねていく。重なり合った時間は光を放射して眩しい輝きを放つ。
広がっていく幸せの真ん中にある結びつきに名前があるとすれば、それは恋ではない気がした。
……結婚。
やっと思い当たった自分に可南子は愕然とした。
全く心に響かなかった『結婚』という言葉が、血が通ったように脈(みゃく)打ち、どきどきと心臓を高鳴らせる。
亮一はずっと一緒に過ごしたいが為に、結婚という手段を選ぼうとしているのだと思うと、亮一の行動の意味がわかる気がした。
可南子が漠然と一緒にいたいと思っているのに対し、亮一は明確に一緒に居ると決めている。そう考えれば、齟齬の辻褄が合う。
狼狽を収めるように、可南子はアイスを次々と口に運ぶ。
亮一はよく『離さないからな』と可南子に言うのは、一生ぐらいの長さのことなのだ。
最後の一口のコーンにはアイスが入っていなかった。口の中の唾液を取られて、心なしか苦い味が口の中に広がる。
突如、現実味を増した結婚という言葉に、前にした食事会を思い出す。お互いの両親が全く反対していなかった。
つまり、すぐに結婚できるのだ。
亮一は当たり前のように気づいていて、可南子を責めることも無い。
それなのに、可南子は亮一の言う結婚の意味を考える事も無く、自分が亮一のそばにいられるように、もっとしっかりしないといけないと思っていた。
……確かに、努力の方向が違う。
広信の言葉は、問題の核心を付いていた。
アイスを食べ終わり、可南子は亮一の背中から体を起こす。
「り、亮一さん」
仕事をしている亮一の背後で、可南子は膝を抱える。
努力の方向を間違えていないようにと願いながら、緊張から少し締まった喉に違和感を覚えつつ、息を吸い込んだ。
「私、ちゃんとしたお付き合いってしたことが無いんです。だから、その、結婚は、待ってもらえますか。まだ、こうやって、彼氏と彼女で、普通にどこかに出かけたりしたいです」
膝を抱えた腕の上に額を乗せて、まるで膝に話しかけるように小さな声で口にした。聞こえていないならそれで良いと思ったのは、まだ自分に問題がある気がしたからだ。
パソコンのキーを叩く音が止んだかと思うと、亮一が立ち上がった。
亮一の動きに顔を上げた可南子の横を通って、真正面に胡坐をかいて座る。
亮一の真剣な双眸に見据えられて、可南子は後戻りできない迫力に尻込みした。
けれど、逃げれば逃げるほど、真実から遠ざかる。
間違った努力が、問題を引き起こすのはもうわかった。
険しくさえ見える亮一に、可南子は微笑んだ。
亮一の強い眼差しを受け入れると、自分の中の弱さと中和するように、もつれた思考が解けていく。
「……だめですか」
「どこに行きたい。映画とか、テーマパーク、そんなのか」
相変わらず行動が早いと思いながら、可南子は笑みを深める。
可南子は横に誰が座るかわからない映画に行くことが無い。
テーマパークにも昔に行った事はあるが、混み具合と待ち時間の長さから、もう一度行きたいとまでは思わなかった。
でも、二人ならどこでも楽しいのかもしれない。
引かれるかなと思いつつ、一人でよく出かける好きな場所を口に出す。
「あと、美術館と博物館も」
「わかった」
意外にすんなりと受け入れられて、可南子は肩透かしをくらう。亮一がそんなとことに興味があるとは思えなかったからだ。
亮一は大きい手で、可南子の頭をいつもよりも強めに撫でた。
可南子は眠くなるような安心感に包まれる。
愉楽に誘う甘い香りの中に居る可南子に、密やかに亮一は告げた。
「……今日は、調子に乗りそうだから、止めておく」
何の話だろうと思って首を傾げた可南子が、目を見開いて頬を染めた。
「な、何も言ってませんよ!」
「歯を磨いて寝ろよ」
「……子ども扱いが過ぎます」
可南子の頬に、亮一は顔を寄せる。
ざり、とした髭の感触がくすぐったい。
「結婚は、待つ」
低く響く吐息のような亮一の声に、可南子の心は晴れやかになる。
亮一の揺ぎ無さは可南子を引っ張りあげるが、可南子が引くと力で掴まえにくる。
それは、亮一に追わせるように、可南子が仕組んでいるようにも見えた。
そんな関係でなく、たおやかに循環していくような、自然と与え合えるような関係になれるだろうか。
可南子は頬に触れてきた亮一の手に顔を傾けて、その大きな手を壊れ物のように指で撫でた。
「ありがとうございます」
引かれ合うように軽く重ねた唇から、アイスの味がしたかはわからない。
額を付けて見つめ合うと、どちらからともなく微笑んだ。
*
月曜日、亮一と可南子が家を出る時間が重なった。
いつもは亮一が二十分ほど早く出社するのだが、本人が言うには珍しく寝坊したらしい。
亮一が革靴の紐を締め終わった後に、可南子は9センチのヒールに足を入れた。目線が高くなって亮一の白いワイシャツの襟が横から見える。
週末は家で過ごしていて常に肩の辺りを見ていたので、その変化に違和感があった。亮一を見上げると、週末中よりも首の角度が小さく済む。
しっかりすることで近づこうとしていたのに、物理的な道具が自分を亮一に近づけてくれている。
こだわりから固さが抜け、こういう視点もあるのだと思うと、もっと頭は柔らかくあった方がいいのかもしれないと可南子は思った。
「亮一さん」
仕事に行く前の亮一の顔は、どこか厳しさが漂う。きっと会社に着いて仕事が始まると本当に厳しい顔になるのだろう。
ピンストライプのスーツの上から腕を掴んで顔を上げると、亮一が顔を近づけてくれる。
可南子はグロスを付けていることを思い出して、慌てて顔を逸らした。
「……おい」
至極当然に、亮一が少し怒ったような声を出す。
「ご、ごめんなさい。グロスをつけていました」
「わかってて、誘ったんじゃないのか」
「……忘れていました」
週末の気分が抜けていない自分が恥ずかしくて、可南子は白い肌を赤く染める。
亮一はしょうがないといった顔をすると、そのまま可南子の額に唇をつけた。
光沢のある甘い気持ちが胸に湧き上がり、切ないのに喜びに膨らむ感情は、亮一に巻き取られている意識そのものだ。
濃いのに透き通った好きだという気持ちは、前の恋愛には感じたことがないと言い切れる。
「亮一さん、今日は何時に帰ってきますか」
どうとでも取れる言葉を口にすると、可南子の肌が火照った。
ささやきのような精一杯の言葉は、明確には何も示していない。
亮一は可南子の額から唇を離した。
「……早く帰ってくる」
そう言って亮一は、可南子の背中に手をやると撫で下ろして臀部に触れた。
「はい」
可南子は亮一の少し厚みのある下唇に指を触れさせた。亮一の端正な顔には、先ほどまでの厳しさが無くなっていた。
記憶は、そこにあるのに気がつかない染(し)みのように、いろいろな影響を自分に与えている。
尖(とが)った不安は自分から掴みに行かなければ、ただそこにある沢山の感情の中の一つでしかない。
不必要なものを選ばないと決めるのは、この人が居ればきっと容易い。
「出るか」
亮一は腕時計を見て口の端を歪める。可南子も腕時計を確認して、かなりぎりぎりの時間に慌てる。
「遅れますね」
きつく締め上げた大人を演じなくて良い場所があるなら、昔のようにそこにあるものだけを感じてみたい。
可南子は靴箱を開けて走っても全く問題の無い、ヒールの高さが1センチの靴を出すとすぐに履き替えた。
「これで駅まで走れます」
可南子が笑顔を向けると、亮一は可笑しそうに顔を緩ませて玄関のドアを開けた。
「早足だな」
「亮一さんの早足は、私の小走りですよ」
「否定できないな」
亮一は笑った。
後ろに楽しみがある日の仕事は、捗(はかど)る上に時間も早く経つ。
駅への道すがら、亮一は腕時計を見ながらも嫌な顔を一つせずに、可南子の歩幅に合わせてくれる。
可南子は亮一の横顔を見上げる。
高く通った鼻筋の峰はやや尖って、意志を感じる眉の真下にある切れ長の目は、睫が綺麗に縁取っている。くっきりとした線で描かれたような上唇と、少しだけ厚い下唇。
以前は切なく見上げるだけだった亮一の横顔を、今は朗(ほが)らかな気持ちで見上げることができる。
可南子の気持ちが、細かく震えて昂(たか)ぶった。
「あの、亮一さん、好きです」
「知ってる。俺も好きだぞ」
「……すごく、知ってます」
身体が熱く感じたのは小走りのせいかもしれない。
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