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番外編
番外編 まだ恥じらってもいいですか? (4・終) ※R18
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◇
部屋の中に珈琲のいい香りが充満し始めた。休日の朝は亮一がこだわって珈琲を淹れてくれる。いつもなら立ち上がって亮一の手元を見に行く可南子だが、今朝はテレビ画面に釘付けになっていた。
壁の時計は朝の八時を指していたが、テレビ中では日焼けで浅黒い肌の男が女の乳首を嬲(なぶ)っている。
『おっぱい好きなの? おっぱい好きなの?』
男は仰向けで、その上に跨(またが)り、四つん這いになっている女のたわわに実った乳房を口に含んでいた。
細い体には似合わない大きな乳房を両手で掴み中央にぎゅっと寄せて、男は首を左右に烈しく振りながら両方の乳首を、舌を出して舐めている。
桃色の大きめの乳輪がぷくりと盛り上がって、舐めしゃぶられて赤くなっていく。
じゅぶじゅばと卑猥な音がして、唾液に濡れた乳首はしゃぶりつかれるせいで乾く暇もない。
『ああ、おっぱい、柔らかくて、おいしい。最高ですよ。ああ、おっぱい』
「珈琲、入ったぞ」
丁寧に淹れた珈琲を運んできてくれた亮一を、可南子は大きな目を更に丸くして、絶望的な顔で見上げた。
「これ、亮一さんの趣味……」
「違う」
苦虫を噛み潰したような表情で亮一は短く言い切る。
「胸……」
「入ってすぐそこに薦めてあったのを借りてきただけだ」
「でも、胸……」
「俺の趣味じゃない」
細いのに大きな胸がついている画面の中の女優を見た後、可南子は寝間着を着たままの自分の胸に目を落とす。
すとんと服は真下に落ちて膨らみは見当たらない。
「朝から、しかも食事をしながら見るものじゃない」
「ジムの後、返却しに行くっていうから」
亮一は呆れた様子で「だから今見るという発想がすごいよな」とぼやき、ローテーブルに珈琲が入ったマグカップを二つ置くとソファに腰かけた。
そして、パンを一口も食べず、再生されたアダルトビデオを瞬きも忘れて見ている可南子を見て溜息をつく。
「全部見る必要も無いだろ。感じがわかったなら消すぞ。頼むから食事をしてくれ」
「……昨日、私が寝た後、一人で見たの?」
「何でそうなるんだ」
「だって、借りてきたのに、見ようとしてないし」
「あのな、可南子が見たことないって言ってたから借りてきただけだ。俺はこんなのを見て自分を慰めてないぞ。昨日の夜だって可南子と」
「いやもうそういうのやめてやめて」
ソファとローテーブルの間に座っている可南子は、頬を赤らめながら膝を胸に引き寄せて耳を塞いだ。そして、ソファに座りうんざりした顔でテレビ画面を睨んでいる亮一に目をやる。くすんだ青のポロシャツの第二ボタンまで外した襟から覗く、首から鎖骨のラインに昨夜の激しさを思い出し、可南子は膝に顔を埋めた。
事の後、疲れ果ててシャワーも浴びずに寝た。それなのに朝は寝間着を着ており、亮一に聞くと身体も拭いてくれたらしい。
それだけでも恥ずかしいのに、朝、顔を洗う時にベビードールとショーツが洗濯ネットに入ってランドリーボックスに入っているのを見つけて、可南子は膝から崩れ落ちた。恥ずかしい姿を受け入れて貰ったのは嬉しい。でもこの様子だと、亮一は本当に夜用の下着を選ぶつもりかもしれない。
『ちゅぱちゅぱってしても、何も出ないのぉ、あっあっ』
画面の中では、男は乳首を口での愛撫で追い詰めながら、手を脚の間に移動させ、長い指で女の花弁を割ろうとしていた。
亮一は膝に肘をつき、切れ長の目を細めて溜息をつく。
「消すぞ」
「あの、これって、全部こんな感じですか」
「……まぁ、だな」
「映画とは、違うの?」
「目的が違うだろ。一応、聞くが、浩二の部屋には無かったのか」
「弟の部屋には入ってはいけないと言われていたので……」
「なるほどな。もう消していいか」
ソファに座っている亮一がリモコンをテレビ画面に向けたので、可南子は頷いた。唖然とするだけで、面白いわけではなかった。
浩二の部屋にはテレビがあったので、もしかしたら、こういうものもあったのかもしれない。だが、母親からきつく弟の部屋には入らないように言われていた可南子には知る由もない。
亮一がテレビを消して画面が真っ暗になったところで、可南子は目の前にコーヒーの入ったマグカップがあることに気付いた。
「あ、コーヒー、ありがとうございます。……気づかなかった」
可南子は亮一の方に振り向いて「ごめんね」とはにかんだ笑顔を向けた。
初めて見たアダルトビデオは衝撃的だったが、隣から聞こえてくる声に比べればかわいいものだ。生々しさが違う。
「どういたしまして。集中して見すぎだ」
「ごめんなさい。びっくりして、つい。でも、亮一さんの趣味がわかって良かった」
可南子は珈琲の香りに至福を感じながら、冗談を口にした。
それから机の上に広げられたパンを、身を乗り出して選び出す。
「……かな」
亮一に「かな」と呼ばれるようになったのはいつだったか思い出せない。
「はい」
笑顔で振り向くと、片眉を上げた亮一がここに座れと自分の太腿を指さしていた。
亮一の不穏な笑顔に、余計なことを言ったのだと気づく。
「……朝ごはん」
「いいから」
亮一はもう一度、自分の太腿を指さす。こういう時の亮一が譲らないことがわかっている可南子は観念してパン選びを中断した。
一言多い自分の口を罰するように、可南子は指で下唇をつまむ。
「私、余計な事を言ったね」
「そう思うのか」
はぐらかされて、太腿ではなく亮一の隣に座ろうとすると抱き寄せられた。結局、太腿に腰かけてしまい「重いよ」と降りようとすると、背中から回ってきた手が寝間着の裾から入った。亮一の手が熱いと感じるたび、可南子は自分の体温が低い事に気づく。
ボタンの無い上着は捲りあがって、亮一は邪魔と言わんばかりに手早く脱がせると遠くへ放り投げた。外気が肌を撫で、可南子は慌てて胸を隠すように前屈みになる。
腋下から入り込んだ亮一の大きな手は剥き出しになった小ぶりの椀をひっくり返したような形の良い乳房を揉み捏ねた。
手の平が立ち上がった先端を擦り、可南子の口から甘い声が漏れる。
「俺は、この胸が良い」
「わ、わかりました。ありがとうございます!」
亮一は服を脱いだ際に乱れた可南子の後ろ髪に頬を寄せた後、白い背中にいくつも口づけを落とす。腰を引き寄せられ、臀部に既に固くなった猛りがあたり可南子は息を呑んだ。わざと擦り付けてきているのは明らかで、亮一の片手は性急に可南子の寝間着の中に入り、ショーツの上から蜜唇を指で辿る。何度か往復されて、可南子は震えながら声を殺した。
「抱きたい」
湿ったショーツの端から入れた指で蜜をすくわれ耳元で囁かれると、可南子の隘路は道を狭くしながらうねった。欲していることは触れている亮一が一番わかっているはずだ。
亮一は可南子から手を離すと、ソファの背もたれと座面の隙間に指を差し入れた。そして、そこから見慣れた四角い包みを取り出す。思いもよらない場所から出てきたことに可南子は呆気に取られ言葉を失った。
「……亮一さん」
「まぁ、気にするなよ」
亮一は楽しそうに後ろから可南子をきつく抱きしめると、背中に頬をすりつける。髭のざらりとした感触が、少し痛くて気持ちいい。迷いのない亮一の行動は、頑なさを溶かしてくれる。
亮一は可南子を立ち上がらせ自分の方に振り向かせると、寝間着のボトムのウエストに手を触れた。目を離さないまま降ろされて、可南子は耐えきれず顔を逸らした。亮一は履いていたカーキの短パンを膝下まで下し、手慣れた様子で猛りに避妊具を被せる。
「おいで」
「……っ」
亮一に見上げられて可南子は生唾を飲み込んだ。亮一の声は、こういう時に従わなくてはいけない色を孕む。戸惑いに瞳を潤ませた可南子のウエストを、亮一は引き寄せた。
濃くて深みある甘い匂いを漂わせ、亮一は切れ長の目で可南子の視線を絡み取る。大きな手と長い指で繊細な人形に触れるように白く上向きの滑らかな臀部の上をなぞった。
可南子は導かれるまま亮一の硬い太腿に脚を開いて跨る。腰を落とすと猛りの膨れた尖端を蜜唇がぷくりと呑み込こんだ。身を沈めていくと、昨夜の余韻が押し寄せて覆いかぶさるかのように蕩けた媚肉が大きなものを難なく包み込む。その刺激は可南子の脳を快美に痺れさせていく。
火照って粟立つ可南子の腕を亮一の手が撫でた。
「綺麗だ、可南子」
亮一に言われるからこそ嬉しい言葉に、可南子はその唇に軽く唇を重ねて離す。亮一の手が応えるようにウエストのくびれを辿り、臀部へと行き着くと持ち上げるように撫でる。
「かな、俺は胸じゃなくて、こっちが趣味だ」
「……こっちって」
……お尻。
にやりと笑った亮一が、苦笑した可南子の唇に軽く口づける。そして、楽しそうに鼻頭を擦り付けてきた。
「だから、Tバックは好きだ。また、違うのを買う」
「……亮一さんの?」
亮一は噴き出して可南子を抱き寄せると、その白い首筋に顔を埋める。
「本当に発想がすごいよな。まぁ……可南子が望むなら、俺も履く」
筋肉質の体が下着を身に着けた姿を想像してしまった。可南子は亮一の肩に額を預けて、堪えられない笑いを漏らす。
「亮一さん、本気?」
「二人しか知らないんだ。別に問題ない」
ふたりという言葉の中毒性に、溢れた蜜がとろりと肉襞を柔らかくし、猛りに媚びるように纏わりついて蠢動した。奥まで埋めている亮一が息を吐く。どちらからでもなく深く唇を合わせると熱い息を吹き込み合った。
「かな、もう限界だ。動く」
朝だから元気なのかもしれない。
亮一の旺盛な動きにただ翻弄され溺れながら至福の時を味わう。育っていく快楽は底が無く、いつもそれが恐ろしい。
可南子の愛らしく淫靡(いんび)な喘ぎ声はどこまでも甘く、無意識に亮一の欲望を煽り続けた。
「ああっ」
亮一の手が可南子の臀部を持ち上げては下ろし続ける。中で大きく反って硬くなり、ぐちぐちと掻きまわされる感覚に可南子の肌に汗が噴き出した。悦楽の汗に濡れた肌に髪が張り付く。休みのない烈しい律動に可南子は背をのけ反らせた。突き出された可南子の薄紅色の実に亮一は軽く歯を立てる。
「あっ」
痛みは下腹部に繋がり、羞恥心はかき消え享楽に溺れていく。わざと陰核を擦り付けるように動かれ、狂おしいほどの気持ちよさに可南子は奥歯を噛みしめた。
硬く猛ったままの亮一を脈動で締め付け、搾り取るかのような力がかかる。
「あっ、いっ…………ッ」
目の前が真っ白になり突然重力を感じてぐったりとなった可南子の身体を亮一は抱きとめた。それでも、突き上げる律動はやめない。
「はぁっ、んっ、はぁ……っ」
ポロシャツ越しにもわかる汗ばんだ肌。香ってくる男らしい匂い。自分を抱き締めて離さない鍛えられた硬い腕。会ってから一貫して甘やかし続けてくれる態度に言葉。時々、子供っぽい嫉妬をしてくるのに、可南子がつまらない事で悩んでいても大きな心で見守り包んでくれる。
……嬉しい。
ぐちっぐちっと肌がぶつかり合う音の間隔に余裕がなくなる。身体が揺さぶられて呼吸が苦しい。それなのに、絶頂を迎えて真っ白なままの身体は光に染まっている。
亮一が数度猛々しく腰を突きあげたあと、呼吸を整えるように大きく息を吐くと、可南子の頬を包み込み、唇を重ねてきた。
それは先程までの荒々しさが嘘のような柔らかな触れ合いで、その差に可南子は微笑む。
「すまん、また無理させた」
きまりが悪そうに言った亮一の鼻に可南子は口づける。
「だいじょうぶ」
こちらを窺うような亮一に、可南子は力の向けた、こぼれんばかりの笑顔を返した。
◇
シャワーを浴び食事を終え、ジムに出掛けようと玄関で靴を履いていると、穏やかではない声色の会話が外から聞こえてきた。
可南子と亮一は顔を見合わせる。
「可南子はいてくれ。俺が先に出る」
言うや否や開けたドアの隙間から怒りの感情の高ぶった女の大声がして、可南子は慌てて亮一の腕を掴む。
「収まってからじゃ、だめ?」
「とりあえず、様子を見てくる。こっちの行動を制限されるのも困る」
「なら、私も一緒に出るよ」
「まずは安全を確認したい。そこにいてくれ」
可南子の弱い制止を背に、亮一は外に出て行った。可南子は閉まったドアに手をついて息を吐く。亮一のことだから大丈夫だろうが、やはり心配ではある。
外の様子を見に行ってくれたのは自分の為だとわかるので、可南子は大人しく履いた靴を脱いで玄関に座ると膝を抱いた。
漏れ聞こえてくるのは女の怒気を孕んだ大声で、そのたびに驚いて顔を上げる。何度、腕時計を見ても、秒針が数十秒ずつ進んでいるだけだ。時間がやけに長く感じるが、何が起こっているのかがまったくわからない。悩んだ挙句やはり様子を見ようと立ち上がる。
するとドアが開いて、機嫌の悪い顔の亮一が入ってきた。
「大丈夫だ。あと、これから隣から夜の騒音もない」
「え」
それから亮一は玄関に置いていたフィットネスバッグを持ち上げると肩に掛けて、可南子のバッグももう片方の手に持った。
「大丈夫? 怪我とかない?」
可南子は心配そうに不機嫌な亮一の顔や体を怪我が無いかを確認するように見る。
亮一はそんな可南子を見て、緊張を解くように大きな息を吐いた。
「隣の奴」
「うん」
「名前、知ってるか」
「……、……、…………ヤマキ、さん?」
「……木崎だ」
仕事では名刺に特徴や話したことを書いて名前を覚える可南子だが、私生活はまったく駄目だった。文字が殆ど被っていない事にバツが悪そうに目を泳がせた可南子の肩を、亮一は宥めるようにポンポンと叩く。
可南子が亮一と付き合ってないのに世話になっていた時から、出勤時間がほぼ同じで顔を合わせることが多かった。名前を一度聞いたがうろ覚えで、確認しようにも郵便受けにも表札にも名前が書いていない。聞きづらいまま数年が経ってしまった。
「あっちは、可南子さんって言ってたぞ」
「最初は相馬さんだったの。だけど、結婚したら可南子さんって……」
機嫌が悪い理由はそれか、と可南子は上目遣いに亮一を見る。だが、先程までの剣(けん)は表情から消えていた。
「まぁ、いいけどな。ジムに行くぞ」
「ああ、うん。でも、何だったの?」
「激しい痴話喧嘩だ。俺達には関係ない」
冷たく言い切った亮一を見ていると、関係あったのではと思ってしまう。だが、それ以上は聞けずに戸締りをして、エレベーターの前に向かうと女が一人立っていた。もう長く住んでいるので住人では無いのは一目でわかる。
背は結衣くらいだった。ふわりとした明るめの茶色の髪は背中の半分まであり軽く波立っている。黄みがかった健康そうな肌色にはラメがキラキラと光っていて、しっかりと黒のラインが入った目は強い光を宿している。女は亮一を見て「あ」と顔を上げて、横の可南子を見るとみるみる顔を険しくして睨んできた。何の心構えもなかった可南子はいきなり睨まれて怯む。
「どうも」
亮一がその女性に声を掛けながら可南子の手を握ってきた。可南子は驚いて握られた手を見た後に亮一の横顔を見上げる。先程の苛立ちが亮一の口元にあった。
「妻ですよ」
「……あいつ、死ねばいいのに」
女は憎々し気に吐き捨てた。
「恐ろしいな」
「どっちが」
エレベーターが上がってくる階数のランプを、薄笑いを浮かべながら女が眺めている。可南子はいくら鈍くても自分が何か関係あることがさすがにわかった。
どこかで会っただろうかと困惑していると、亮一は可南子の手を強く握ったまま手を引いて、来たエレベーターに乗り込んだ。
もちろん睨んできた女も乗って来て、狭い空間に息が詰まり可南子は汗をかく。だが、悪い事をした覚えもない、と腹に力を入れると堂々と亮一を見上げた。
「私、何か関係ある?」
「……無いな」
「どっか行くの?」
態度を軟化させた女の横顔には、先程の攻撃性は無かった。だが、まだ何か変な空気が漂っている。
「ジムだ。終わったら二人で見たアダルトのDVDを返す。それから、夜用の下着を選びに行く」
可南子は耳を疑った。さらりと亮一が言った言葉は、さらりとは流せない。じわじわと可南子は身体が熱くなり、焦りの汗が噴き出してくる。
「……な、何を」
「間違ってるか」
「まち、まちがっ」
「俺が選ぶって言っただろ」
亮一は可南子の臀部に視線をやる。その明らかな視線の動きに、手を振りほどこうとすると強い力で握り返される。耳まで赤い顔でぎっと睨んでも、亮一は涼しい顔を崩さない。
「俺たちはうまくいってるアピール」
女は両手ともピースの形を作ると『うまくいっている』という部分で二度ほどその指を折り曲げた。
「はー、嫌な感じ」
「俺たちはアピールしなくてもうまくいってる。それだけだ」
「なーんか、ムカつく」
「ムカつくんなら、話し合って決着つけて来いよ」
可南子は二人が何のやり取りをしているのかもわからない。だいたい、なぜこんな親しげなのかもわからない。
「後悔だけはしない方がいいんじゃないか」
エレベーターは静かに一階に着いた。
女が『開』のボタンを押しているのを見て、亮一は可南子の手を引いて先に降りる。
「……そうね。行ってくる」
女がエレベーターの中でボタンを押したまま、亮一に向ってそう言った。
「とばっちり、ごめんね」
最後に女は可南子に手を振って、エレベーターのドアが閉まる。
それを見届けて、何もなかったかのようにジムに行こうとする亮一を可南子は立ち止まって引き止めた。
「な、何。何なの。説明はないの? あんなこと、人前で言うのって」
「……全く、気が抜けない」
亮一はぼやくと、可南子の顎を上向かせて唇を重ねた。エレベーターの中でもない、マンションのエントランスだ。さすがに舌は唇を割って入って来なかった。少し乱暴に押し当てるだけの口づけなのに、いつもより荒々しく感じた。
「下着を選ばせてくれないか」
寂しげに切れ長の目を伏せ、息が掛かるほどの近さで亮一に問われて、きゅっと体の奥が波打つ。
言いたいことも聞きたいことも沢山あった。だが、小さく頷くと、亮一が「よし」と嬉しそうに可南子を抱き寄せた。
「行くぞ」
浮足立った亮一の後姿に、もやもやしたものが湧き上がる。
その不満が、可南子の口から別の形で出てきた。
「今日の夜は、普通に寝る」
「……俺の忍耐力」
わざとらしく天を仰ぐ亮一の悪戯っぽい顔を見ると、不満は簡単に溶けた。亮一がこの顔を自分にしか見せないことを知っている。可南子は笑みながら目を輝かせて亮一を見上げた。
「それ、俺意外に向けるなよ。頼むから」
胸のときめきも甘酸っぱさも亮一といるから感じられる。亮一以外に向けられるはずがない。
可南子との思いとは裏腹に、亮一は苦笑を浮かべる。そして、可南子を隠すように抱き寄せた。
部屋の中に珈琲のいい香りが充満し始めた。休日の朝は亮一がこだわって珈琲を淹れてくれる。いつもなら立ち上がって亮一の手元を見に行く可南子だが、今朝はテレビ画面に釘付けになっていた。
壁の時計は朝の八時を指していたが、テレビ中では日焼けで浅黒い肌の男が女の乳首を嬲(なぶ)っている。
『おっぱい好きなの? おっぱい好きなの?』
男は仰向けで、その上に跨(またが)り、四つん這いになっている女のたわわに実った乳房を口に含んでいた。
細い体には似合わない大きな乳房を両手で掴み中央にぎゅっと寄せて、男は首を左右に烈しく振りながら両方の乳首を、舌を出して舐めている。
桃色の大きめの乳輪がぷくりと盛り上がって、舐めしゃぶられて赤くなっていく。
じゅぶじゅばと卑猥な音がして、唾液に濡れた乳首はしゃぶりつかれるせいで乾く暇もない。
『ああ、おっぱい、柔らかくて、おいしい。最高ですよ。ああ、おっぱい』
「珈琲、入ったぞ」
丁寧に淹れた珈琲を運んできてくれた亮一を、可南子は大きな目を更に丸くして、絶望的な顔で見上げた。
「これ、亮一さんの趣味……」
「違う」
苦虫を噛み潰したような表情で亮一は短く言い切る。
「胸……」
「入ってすぐそこに薦めてあったのを借りてきただけだ」
「でも、胸……」
「俺の趣味じゃない」
細いのに大きな胸がついている画面の中の女優を見た後、可南子は寝間着を着たままの自分の胸に目を落とす。
すとんと服は真下に落ちて膨らみは見当たらない。
「朝から、しかも食事をしながら見るものじゃない」
「ジムの後、返却しに行くっていうから」
亮一は呆れた様子で「だから今見るという発想がすごいよな」とぼやき、ローテーブルに珈琲が入ったマグカップを二つ置くとソファに腰かけた。
そして、パンを一口も食べず、再生されたアダルトビデオを瞬きも忘れて見ている可南子を見て溜息をつく。
「全部見る必要も無いだろ。感じがわかったなら消すぞ。頼むから食事をしてくれ」
「……昨日、私が寝た後、一人で見たの?」
「何でそうなるんだ」
「だって、借りてきたのに、見ようとしてないし」
「あのな、可南子が見たことないって言ってたから借りてきただけだ。俺はこんなのを見て自分を慰めてないぞ。昨日の夜だって可南子と」
「いやもうそういうのやめてやめて」
ソファとローテーブルの間に座っている可南子は、頬を赤らめながら膝を胸に引き寄せて耳を塞いだ。そして、ソファに座りうんざりした顔でテレビ画面を睨んでいる亮一に目をやる。くすんだ青のポロシャツの第二ボタンまで外した襟から覗く、首から鎖骨のラインに昨夜の激しさを思い出し、可南子は膝に顔を埋めた。
事の後、疲れ果ててシャワーも浴びずに寝た。それなのに朝は寝間着を着ており、亮一に聞くと身体も拭いてくれたらしい。
それだけでも恥ずかしいのに、朝、顔を洗う時にベビードールとショーツが洗濯ネットに入ってランドリーボックスに入っているのを見つけて、可南子は膝から崩れ落ちた。恥ずかしい姿を受け入れて貰ったのは嬉しい。でもこの様子だと、亮一は本当に夜用の下着を選ぶつもりかもしれない。
『ちゅぱちゅぱってしても、何も出ないのぉ、あっあっ』
画面の中では、男は乳首を口での愛撫で追い詰めながら、手を脚の間に移動させ、長い指で女の花弁を割ろうとしていた。
亮一は膝に肘をつき、切れ長の目を細めて溜息をつく。
「消すぞ」
「あの、これって、全部こんな感じですか」
「……まぁ、だな」
「映画とは、違うの?」
「目的が違うだろ。一応、聞くが、浩二の部屋には無かったのか」
「弟の部屋には入ってはいけないと言われていたので……」
「なるほどな。もう消していいか」
ソファに座っている亮一がリモコンをテレビ画面に向けたので、可南子は頷いた。唖然とするだけで、面白いわけではなかった。
浩二の部屋にはテレビがあったので、もしかしたら、こういうものもあったのかもしれない。だが、母親からきつく弟の部屋には入らないように言われていた可南子には知る由もない。
亮一がテレビを消して画面が真っ暗になったところで、可南子は目の前にコーヒーの入ったマグカップがあることに気付いた。
「あ、コーヒー、ありがとうございます。……気づかなかった」
可南子は亮一の方に振り向いて「ごめんね」とはにかんだ笑顔を向けた。
初めて見たアダルトビデオは衝撃的だったが、隣から聞こえてくる声に比べればかわいいものだ。生々しさが違う。
「どういたしまして。集中して見すぎだ」
「ごめんなさい。びっくりして、つい。でも、亮一さんの趣味がわかって良かった」
可南子は珈琲の香りに至福を感じながら、冗談を口にした。
それから机の上に広げられたパンを、身を乗り出して選び出す。
「……かな」
亮一に「かな」と呼ばれるようになったのはいつだったか思い出せない。
「はい」
笑顔で振り向くと、片眉を上げた亮一がここに座れと自分の太腿を指さしていた。
亮一の不穏な笑顔に、余計なことを言ったのだと気づく。
「……朝ごはん」
「いいから」
亮一はもう一度、自分の太腿を指さす。こういう時の亮一が譲らないことがわかっている可南子は観念してパン選びを中断した。
一言多い自分の口を罰するように、可南子は指で下唇をつまむ。
「私、余計な事を言ったね」
「そう思うのか」
はぐらかされて、太腿ではなく亮一の隣に座ろうとすると抱き寄せられた。結局、太腿に腰かけてしまい「重いよ」と降りようとすると、背中から回ってきた手が寝間着の裾から入った。亮一の手が熱いと感じるたび、可南子は自分の体温が低い事に気づく。
ボタンの無い上着は捲りあがって、亮一は邪魔と言わんばかりに手早く脱がせると遠くへ放り投げた。外気が肌を撫で、可南子は慌てて胸を隠すように前屈みになる。
腋下から入り込んだ亮一の大きな手は剥き出しになった小ぶりの椀をひっくり返したような形の良い乳房を揉み捏ねた。
手の平が立ち上がった先端を擦り、可南子の口から甘い声が漏れる。
「俺は、この胸が良い」
「わ、わかりました。ありがとうございます!」
亮一は服を脱いだ際に乱れた可南子の後ろ髪に頬を寄せた後、白い背中にいくつも口づけを落とす。腰を引き寄せられ、臀部に既に固くなった猛りがあたり可南子は息を呑んだ。わざと擦り付けてきているのは明らかで、亮一の片手は性急に可南子の寝間着の中に入り、ショーツの上から蜜唇を指で辿る。何度か往復されて、可南子は震えながら声を殺した。
「抱きたい」
湿ったショーツの端から入れた指で蜜をすくわれ耳元で囁かれると、可南子の隘路は道を狭くしながらうねった。欲していることは触れている亮一が一番わかっているはずだ。
亮一は可南子から手を離すと、ソファの背もたれと座面の隙間に指を差し入れた。そして、そこから見慣れた四角い包みを取り出す。思いもよらない場所から出てきたことに可南子は呆気に取られ言葉を失った。
「……亮一さん」
「まぁ、気にするなよ」
亮一は楽しそうに後ろから可南子をきつく抱きしめると、背中に頬をすりつける。髭のざらりとした感触が、少し痛くて気持ちいい。迷いのない亮一の行動は、頑なさを溶かしてくれる。
亮一は可南子を立ち上がらせ自分の方に振り向かせると、寝間着のボトムのウエストに手を触れた。目を離さないまま降ろされて、可南子は耐えきれず顔を逸らした。亮一は履いていたカーキの短パンを膝下まで下し、手慣れた様子で猛りに避妊具を被せる。
「おいで」
「……っ」
亮一に見上げられて可南子は生唾を飲み込んだ。亮一の声は、こういう時に従わなくてはいけない色を孕む。戸惑いに瞳を潤ませた可南子のウエストを、亮一は引き寄せた。
濃くて深みある甘い匂いを漂わせ、亮一は切れ長の目で可南子の視線を絡み取る。大きな手と長い指で繊細な人形に触れるように白く上向きの滑らかな臀部の上をなぞった。
可南子は導かれるまま亮一の硬い太腿に脚を開いて跨る。腰を落とすと猛りの膨れた尖端を蜜唇がぷくりと呑み込こんだ。身を沈めていくと、昨夜の余韻が押し寄せて覆いかぶさるかのように蕩けた媚肉が大きなものを難なく包み込む。その刺激は可南子の脳を快美に痺れさせていく。
火照って粟立つ可南子の腕を亮一の手が撫でた。
「綺麗だ、可南子」
亮一に言われるからこそ嬉しい言葉に、可南子はその唇に軽く唇を重ねて離す。亮一の手が応えるようにウエストのくびれを辿り、臀部へと行き着くと持ち上げるように撫でる。
「かな、俺は胸じゃなくて、こっちが趣味だ」
「……こっちって」
……お尻。
にやりと笑った亮一が、苦笑した可南子の唇に軽く口づける。そして、楽しそうに鼻頭を擦り付けてきた。
「だから、Tバックは好きだ。また、違うのを買う」
「……亮一さんの?」
亮一は噴き出して可南子を抱き寄せると、その白い首筋に顔を埋める。
「本当に発想がすごいよな。まぁ……可南子が望むなら、俺も履く」
筋肉質の体が下着を身に着けた姿を想像してしまった。可南子は亮一の肩に額を預けて、堪えられない笑いを漏らす。
「亮一さん、本気?」
「二人しか知らないんだ。別に問題ない」
ふたりという言葉の中毒性に、溢れた蜜がとろりと肉襞を柔らかくし、猛りに媚びるように纏わりついて蠢動した。奥まで埋めている亮一が息を吐く。どちらからでもなく深く唇を合わせると熱い息を吹き込み合った。
「かな、もう限界だ。動く」
朝だから元気なのかもしれない。
亮一の旺盛な動きにただ翻弄され溺れながら至福の時を味わう。育っていく快楽は底が無く、いつもそれが恐ろしい。
可南子の愛らしく淫靡(いんび)な喘ぎ声はどこまでも甘く、無意識に亮一の欲望を煽り続けた。
「ああっ」
亮一の手が可南子の臀部を持ち上げては下ろし続ける。中で大きく反って硬くなり、ぐちぐちと掻きまわされる感覚に可南子の肌に汗が噴き出した。悦楽の汗に濡れた肌に髪が張り付く。休みのない烈しい律動に可南子は背をのけ反らせた。突き出された可南子の薄紅色の実に亮一は軽く歯を立てる。
「あっ」
痛みは下腹部に繋がり、羞恥心はかき消え享楽に溺れていく。わざと陰核を擦り付けるように動かれ、狂おしいほどの気持ちよさに可南子は奥歯を噛みしめた。
硬く猛ったままの亮一を脈動で締め付け、搾り取るかのような力がかかる。
「あっ、いっ…………ッ」
目の前が真っ白になり突然重力を感じてぐったりとなった可南子の身体を亮一は抱きとめた。それでも、突き上げる律動はやめない。
「はぁっ、んっ、はぁ……っ」
ポロシャツ越しにもわかる汗ばんだ肌。香ってくる男らしい匂い。自分を抱き締めて離さない鍛えられた硬い腕。会ってから一貫して甘やかし続けてくれる態度に言葉。時々、子供っぽい嫉妬をしてくるのに、可南子がつまらない事で悩んでいても大きな心で見守り包んでくれる。
……嬉しい。
ぐちっぐちっと肌がぶつかり合う音の間隔に余裕がなくなる。身体が揺さぶられて呼吸が苦しい。それなのに、絶頂を迎えて真っ白なままの身体は光に染まっている。
亮一が数度猛々しく腰を突きあげたあと、呼吸を整えるように大きく息を吐くと、可南子の頬を包み込み、唇を重ねてきた。
それは先程までの荒々しさが嘘のような柔らかな触れ合いで、その差に可南子は微笑む。
「すまん、また無理させた」
きまりが悪そうに言った亮一の鼻に可南子は口づける。
「だいじょうぶ」
こちらを窺うような亮一に、可南子は力の向けた、こぼれんばかりの笑顔を返した。
◇
シャワーを浴び食事を終え、ジムに出掛けようと玄関で靴を履いていると、穏やかではない声色の会話が外から聞こえてきた。
可南子と亮一は顔を見合わせる。
「可南子はいてくれ。俺が先に出る」
言うや否や開けたドアの隙間から怒りの感情の高ぶった女の大声がして、可南子は慌てて亮一の腕を掴む。
「収まってからじゃ、だめ?」
「とりあえず、様子を見てくる。こっちの行動を制限されるのも困る」
「なら、私も一緒に出るよ」
「まずは安全を確認したい。そこにいてくれ」
可南子の弱い制止を背に、亮一は外に出て行った。可南子は閉まったドアに手をついて息を吐く。亮一のことだから大丈夫だろうが、やはり心配ではある。
外の様子を見に行ってくれたのは自分の為だとわかるので、可南子は大人しく履いた靴を脱いで玄関に座ると膝を抱いた。
漏れ聞こえてくるのは女の怒気を孕んだ大声で、そのたびに驚いて顔を上げる。何度、腕時計を見ても、秒針が数十秒ずつ進んでいるだけだ。時間がやけに長く感じるが、何が起こっているのかがまったくわからない。悩んだ挙句やはり様子を見ようと立ち上がる。
するとドアが開いて、機嫌の悪い顔の亮一が入ってきた。
「大丈夫だ。あと、これから隣から夜の騒音もない」
「え」
それから亮一は玄関に置いていたフィットネスバッグを持ち上げると肩に掛けて、可南子のバッグももう片方の手に持った。
「大丈夫? 怪我とかない?」
可南子は心配そうに不機嫌な亮一の顔や体を怪我が無いかを確認するように見る。
亮一はそんな可南子を見て、緊張を解くように大きな息を吐いた。
「隣の奴」
「うん」
「名前、知ってるか」
「……、……、…………ヤマキ、さん?」
「……木崎だ」
仕事では名刺に特徴や話したことを書いて名前を覚える可南子だが、私生活はまったく駄目だった。文字が殆ど被っていない事にバツが悪そうに目を泳がせた可南子の肩を、亮一は宥めるようにポンポンと叩く。
可南子が亮一と付き合ってないのに世話になっていた時から、出勤時間がほぼ同じで顔を合わせることが多かった。名前を一度聞いたがうろ覚えで、確認しようにも郵便受けにも表札にも名前が書いていない。聞きづらいまま数年が経ってしまった。
「あっちは、可南子さんって言ってたぞ」
「最初は相馬さんだったの。だけど、結婚したら可南子さんって……」
機嫌が悪い理由はそれか、と可南子は上目遣いに亮一を見る。だが、先程までの剣(けん)は表情から消えていた。
「まぁ、いいけどな。ジムに行くぞ」
「ああ、うん。でも、何だったの?」
「激しい痴話喧嘩だ。俺達には関係ない」
冷たく言い切った亮一を見ていると、関係あったのではと思ってしまう。だが、それ以上は聞けずに戸締りをして、エレベーターの前に向かうと女が一人立っていた。もう長く住んでいるので住人では無いのは一目でわかる。
背は結衣くらいだった。ふわりとした明るめの茶色の髪は背中の半分まであり軽く波立っている。黄みがかった健康そうな肌色にはラメがキラキラと光っていて、しっかりと黒のラインが入った目は強い光を宿している。女は亮一を見て「あ」と顔を上げて、横の可南子を見るとみるみる顔を険しくして睨んできた。何の心構えもなかった可南子はいきなり睨まれて怯む。
「どうも」
亮一がその女性に声を掛けながら可南子の手を握ってきた。可南子は驚いて握られた手を見た後に亮一の横顔を見上げる。先程の苛立ちが亮一の口元にあった。
「妻ですよ」
「……あいつ、死ねばいいのに」
女は憎々し気に吐き捨てた。
「恐ろしいな」
「どっちが」
エレベーターが上がってくる階数のランプを、薄笑いを浮かべながら女が眺めている。可南子はいくら鈍くても自分が何か関係あることがさすがにわかった。
どこかで会っただろうかと困惑していると、亮一は可南子の手を強く握ったまま手を引いて、来たエレベーターに乗り込んだ。
もちろん睨んできた女も乗って来て、狭い空間に息が詰まり可南子は汗をかく。だが、悪い事をした覚えもない、と腹に力を入れると堂々と亮一を見上げた。
「私、何か関係ある?」
「……無いな」
「どっか行くの?」
態度を軟化させた女の横顔には、先程の攻撃性は無かった。だが、まだ何か変な空気が漂っている。
「ジムだ。終わったら二人で見たアダルトのDVDを返す。それから、夜用の下着を選びに行く」
可南子は耳を疑った。さらりと亮一が言った言葉は、さらりとは流せない。じわじわと可南子は身体が熱くなり、焦りの汗が噴き出してくる。
「……な、何を」
「間違ってるか」
「まち、まちがっ」
「俺が選ぶって言っただろ」
亮一は可南子の臀部に視線をやる。その明らかな視線の動きに、手を振りほどこうとすると強い力で握り返される。耳まで赤い顔でぎっと睨んでも、亮一は涼しい顔を崩さない。
「俺たちはうまくいってるアピール」
女は両手ともピースの形を作ると『うまくいっている』という部分で二度ほどその指を折り曲げた。
「はー、嫌な感じ」
「俺たちはアピールしなくてもうまくいってる。それだけだ」
「なーんか、ムカつく」
「ムカつくんなら、話し合って決着つけて来いよ」
可南子は二人が何のやり取りをしているのかもわからない。だいたい、なぜこんな親しげなのかもわからない。
「後悔だけはしない方がいいんじゃないか」
エレベーターは静かに一階に着いた。
女が『開』のボタンを押しているのを見て、亮一は可南子の手を引いて先に降りる。
「……そうね。行ってくる」
女がエレベーターの中でボタンを押したまま、亮一に向ってそう言った。
「とばっちり、ごめんね」
最後に女は可南子に手を振って、エレベーターのドアが閉まる。
それを見届けて、何もなかったかのようにジムに行こうとする亮一を可南子は立ち止まって引き止めた。
「な、何。何なの。説明はないの? あんなこと、人前で言うのって」
「……全く、気が抜けない」
亮一はぼやくと、可南子の顎を上向かせて唇を重ねた。エレベーターの中でもない、マンションのエントランスだ。さすがに舌は唇を割って入って来なかった。少し乱暴に押し当てるだけの口づけなのに、いつもより荒々しく感じた。
「下着を選ばせてくれないか」
寂しげに切れ長の目を伏せ、息が掛かるほどの近さで亮一に問われて、きゅっと体の奥が波打つ。
言いたいことも聞きたいことも沢山あった。だが、小さく頷くと、亮一が「よし」と嬉しそうに可南子を抱き寄せた。
「行くぞ」
浮足立った亮一の後姿に、もやもやしたものが湧き上がる。
その不満が、可南子の口から別の形で出てきた。
「今日の夜は、普通に寝る」
「……俺の忍耐力」
わざとらしく天を仰ぐ亮一の悪戯っぽい顔を見ると、不満は簡単に溶けた。亮一がこの顔を自分にしか見せないことを知っている。可南子は笑みながら目を輝かせて亮一を見上げた。
「それ、俺意外に向けるなよ。頼むから」
胸のときめきも甘酸っぱさも亮一といるから感じられる。亮一以外に向けられるはずがない。
可南子との思いとは裏腹に、亮一は苦笑を浮かべる。そして、可南子を隠すように抱き寄せた。
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