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番外編
新しいかたち 3・完
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――数年後
玄関でお気に入りの靴を履いた志波優佳は母親である可南子と同じ大きな目を真っ直ぐ両親に向けていた。ウサギのリュックを背負い、ウサギのぬいぐるみを持った優佳は機嫌がよく、笑顔を浮かべている。
顎のラインまで伸ばされた真っ黒な直毛の髪は絹糸のように光の加減で艶やかに光り、前髪は眉毛の上で切り揃えられていた。その髪に祖母である朝子に貰ったウサギのピン付け、興奮に頬を桃色に染めている。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
可南子は微笑んでの目線に合わせるようにしゃがんで、優佳の真っ白な、ぷっくりした頬に触れる。
優佳の横に立っている朝子は優しく目を細めた。
「明日にまた連れてくるわね」
「本当に迎えに行かなくていいですか?」
今日は優佳が初めて一人で志波の実家に泊まる日だった。亮一の両親が家にまで迎えに来てくれて、さらに送ってきてくれるという。さすがにそれは甘えすぎだと、そう決まった後も可南子は心配していた。
亮一はしゃがんでいる可南子の横で腕を組むと片眉を上げる。
「煩い親がいない所で猫かわいがりしたいんだろう」
初孫の優佳へ晃も朝子も財布の紐がゆるい。亮一は感謝しながらも甘やかさないように苦言を呈すが『老い先短い楽しみを奪うのか』と朝子も譲らない。
朝子は亮一の呆れた視線を逸らさずに受け止めて図星と言わんばかりに微笑する。
「というわけで、迎えに来なくていいのよ。それに」
「おい」
朝子が優佳の小さな手を握りながら続けようとした言葉を亮一が遮る。可南子は首を傾げて二人を見比べた。
「どうかしたの?」
「何もない」
憮然と言い放った亮一と、優佳に「今日はおばあちゃんとおじいちゃんと遊ぼうね」と話しかけ、誤魔化すように話を逸らした朝子に、可南子は眉を潜める。
「……亮一さん」
「さ、おじいちゃんが車で待ちくたびれているわね。それじゃ、ちゃんと責任をもって預かるから心配しないでね」
晃がマンションの下に車を止め中で待っており、あまりゆっくり話している時間は無かった。可南子は慌てて立ち上がり頭を下げる。
「いつもありがとうございます。よろしくお願いします」
「こちらこそ、孫と遊ばせてくれてありがとう」
「お父さん、お母さん、明日ね!」
初めてのお泊りは寂しいのではないかという亮一の心配を、大人びた態度で『大丈夫』と突っぱねながらも、お気に入りのウサギの人形をしっかりと脇に抱え離さない優佳を亮一は愛おしげに見つめる。
それから可南子が洗濯するタイミングをいつも悩んでいる、そろそろ薄汚れてきたぬいぐるみを見ながら亮一は口を開く。
「ウサギがいるから大丈夫だな。気を付けてな」
「うさみちゃんていうのよ!」
ぬいぐるみを両手で差し出しながらの優佳の反論に亮一は肩を竦めて可南子の腰を抱き寄せた。可南子は虚を突かれて亮一の身体にもたれかかってしまう。いつまでたっても全く慣れない状況に頬を赤らめて可南子は朝子から顔を逸らすように目を伏せた。
朝子や優佳の方が慣れていて「お邪魔しちゃだめね」とすぐに出かけていく。二人を見送って静かになった玄関で、鍵を掛けるために可南子から離れた亮一に、可南子はおずおずと話しかける。
「あのね……」
「嫌だ」
可南子が控えて欲しいと言いたいのを察して先に拒否を示した亮一に可南子は項垂れる。子供が産まれても何の変りもなく接してくれるのは嬉しいが、歳も重ねた今、若い時とは違った気恥ずかしさがある。
「私、もう三十過ぎたの」
「ますます綺麗になったな」
スラスラと誉め言葉を口にする亮一にたまらずに可南子は顔を覆う。鍵を閉めて戻ってきた亮一は、そんな可南子の腰に手を置いてリビングへと誘導する。
「さっき、母親が言いかけたのはのは今日は翔も瀬名家に来ることだと思う。だから優佳は寂しくないはずだ。『大好きなお兄ちゃん』が居て大喜びだろう」
わかりやすい棘を孕んだ亮一の口調は大人げない。だが、可南子にとって問題はそこではなかった。
「……初耳だよ」
「箝口令を布いたからな」
「どうして? 優佳は知ってるの?」
亮一は可南子の問いに、口元に白けたような笑みを浮かべて首を振った。
翔が来るなら結衣も来るはずだ。ならば、翔の従妹にあたる大きくなった双子の姉妹も来るだろう。それなら顔を出すだけでもしたかった、と可南子は非難めいた表情を浮かべてしまう。
「優佳は可南子に黙っていられない。どうして、という質問に対しての答えは『私も行きたい』と俺の奥さんなら言うからだ」
言い当てられて喉が詰まって咳き込んだ。亮一は可南子の背を撫でながらソファに座らせるとすぐに「水を持ってくる」と台所に向かった。もうすぐ四十の亮一は相変わらずフットワークが軽い。
咳き込んで涙ぐんだ可南子にコップに入った水を差しだした亮一は可南子の横に座った。
「大丈夫か」
「ごめんなさい。あ、ありがとう」
水を飲んで収まった動悸にほっとすると、亮一は可南子からコップを受け取るとローテーブルの上に置いた。落ち着いたのも束の間、胸板に押し付けられるように抱き寄せられて、また息が詰まる。
「どうしたの」
声は亮一の腕の中に吸い込まれる。硬い体躯はジム通いという努力の賜物だ。潰されそうで潰されない力加減は眩暈がするほどに心地よかった。
「相変わらず俺と過ごしたいと言わないな、奥さんは」
「そんなことないよ。……過ごしたいよ」
優佳が産まれて、二人の中心には常に優佳がいる。生活全般がそうだ。寝る時も優佳は二人の真ん中を譲らず川の字で寝ている。仕事復帰後も短時間勤務制度を利用しているとはいえ毎日がクタクタに疲れる。夜8時には寝てしまうこともあり、朝しか亮一と話せない日もあるが、その会話も優佳の事で占められていた。
寂しくないといえば嘘になる。可南子は亮一の腕を独り占めてきている実感をじわじわと感じて頬を胸に摺り寄せた。
「過ごしたいけど」
子供が大きくなるのはあっという間だ。それを考えると、優佳とたくさん一緒に過ごしたいと思う。一人っ子の優佳に近い年の子との交流が安心してできる環境があることもありがたい。小さい間はちゃんとそばで見ていないと、という義務感も常にある。
可南子の逡巡を見透かしたように、亮一は可南子の後頭部を壊れ物のように撫でる。
「任せられる環境があるんだ。甘えよう」
この優しさに抗う前に溶けてしまいそうになる。若い時は自分を貫けたが、子供を産んで育てるという試行錯誤の中、そういった尖っていた部分が丸くなっていった。自分一人でできることなんて、たかがしれているのだ。人に迷惑をかけないことなんてできない。
可南子は亮一のにおいを胸いっぱいに吸い込んで吐くと、小さく頷いた。
亮一が腕を緩め可南子の顎を軽く掴みくいと上にあげる。柔らかい唇が軽く重なり、少し離れ、次に僅かに深く口づける。湿った感触にぞくりと下腹部が疼いて、可南子は自然と目を閉じた。
可南子の手は導かれるように亮一の頬を包みこみ、ざらりとした髭の感触を楽しむように頬を撫でる。いつもは優佳がしていることだ。今日は独り占めできると思うと、愛しさがこみ上げてきて、それだけで胸の頂きも張りつめていく。
『ピンポーン』
甘く濃い空気が漂い始めた部屋に、エントランスからのチャイムの音が響いた。可南子がチャイムに気取られると亮一はそれを許さないようにさらに深く口づけ、可南子の歯列を舌でなぞった。
抵抗しようとすると亮一がシャツの下から手を入れ、ほっそりとしたウエストを辿り下着を押し上げた。緩んだストラップが可南子の肩に滑り落ちる。まろやかな膨らみに触れられ頂きに指が擦れると可南子はつい声を漏らした。
『ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン』
連打されたチャイムの音にはた、と二人は動きを止めて目を見合わせる。
「優佳だな」
「優佳だね……」
無遠慮にチャイムを鳴らす人物がいるとすれば、優佳しかいない。乱れた衣服を整えながら立ち上がろうとした可南子を止めて、亮一が立ち上がりインターホンに出る。
「はい」
『うさぎのお財布を忘れたの! 取りに行くから開けて下さい!』
「わかった。持っていくから待ってなさい」
『お父さんありがとう! 早くね!』
亮一は後頭部をガリガリと掻きながら通話を終わらせる。会話を聞いていた可南子は寝室にそれがあった気がした。「探してくるね」と言い寝室に入ろうとするとまた止められる。
「床にあった気がする。可南子はそこにいてくれ」
そう言われても落ち着かない。可南子は亮一の後を追って寝室へ足を踏み入れる。
ちょうど、亮一がぬいぐるみ素材のウサギのがま口フェイスポーチを拾い上げる所で、可南子がいることに気づくと苦笑した。
「元気な娘で何よりだな」
可南子の母親が、可南子の小さな頃の写真を持ってきて「そっくり」と大騒ぎするほど、幼い頃の可南子に似ている優佳を亮一は溺愛していた。優佳も休日に亮一が作るチャーハンが大好きだと高らかに言って亮一を喜ばせている。傍から見て蜜月な二人はとても目立つ。広い公園などでくつろいでいると良く注目を集めている。
「可愛くて可愛くて仕方ないもんね。優佳が元気なのは亮一さんが大事にしてるからだよ」
「可南子の次にな。かな、下まで行ってくるからシャワー浴びるなら浴びておいてくれ」
亮一はきょとん、とした顔をした可南子の髪に手櫛を入れて顔を上向かせると額に口づける。名残惜しそうに髪から離れると、手に持ったおよそ不釣り合いなウサギのポーチに視線を落とし、可南子の大きな瞳を覗き込んでにっと笑った。
「今日は遠慮なく可南子を抱ける日だろ」
遠慮なく、という言葉にじわじわと顔を赤くする可南子の額にもう一度口づけて、亮一は固まった可南子の横を通って玄関へと足を進めた。
優佳がいなかった頃に比べればそういった時間は激減している。そういう雰囲気になりかけても流れる事も多い。それは自然のことだと受け入れていた。亮一もそうだろうと思っていた分、頭がただの冗談じゃないだろうかと防御線を張り出す。
整えた衣服が突然窮屈に感じ息苦しい。可南子は触れ合った唇に自分の指先を乗せて感触の記憶を辿る。あんな口づけは久し振りだった。
「かな」
寝室で固まっていた可南子に、ドアを二回ノックする音と共に亮一に声を掛けられる。
エントランスに行ったはずでは、と振り返ると、可南子を強く見据えながらも、甘く微笑する亮一がいた。
「どうしたの。もう下に」
「可南子が固まってたから、引き返してきた」
ごめんなさい、と謝りながら髪を耳に掛けると、亮一は静かに首を振る。
「かな、愛してる」
手に何かを持っていたら落としていた。可南子は生唾を飲みこんで、熱くなる頬を冷やすように自分の両手で覆う。
そう言われるのは初めてではないのに、胸に込み上げてくるのは真新しい感動だった。
「思う存分に抱けない分、伝えないといけなかったな」
「あの」
「どんどん好きになる」
「……亮一さん」
「忙しさにかまけて、言葉にするのを怠ってたと、反省した」
「それをいうなら私も」
どうしても後回しになるのは、一番安心できる相手だ。可南子にとっては亮一がそれで、感謝の言葉は伝えていても、もしかしたらそれよりも大事な気持ちはもうずっと口にしていない気がする。
眉根を寄せて難しい顔をした可南子に、亮一は出会ったころよりも幾分深くなった皺を目尻に刻んで笑む。
「生真面目に考えるなよ、奥さん」
「でも、いつも甘えてて」
「可南子が甘えられるくらい、俺が成長したならそれは喜ばしいことだ」
言葉が見つからずに可南子は亮一の胸に抱きついた。胸に手を回して目を瞑る。瞼の裏に記憶が映像となって流れた。初めて出会った時、結ばれた時、この家に暮らし始めた時、大きな喧嘩をした時。可南子はそっと目を開ける。
『ピンポーン、ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン』
催促のチャイムが鳴り響いて、可南子は亮一の胸に回した腕に力を込めた。
「シャワー、浴びておきます」
「ああ」
亮一に後頭部を撫でられ、優しさと甘やかしの境界に身を沈ませ可南子は多幸感に浸る。
「優佳の所、行かないと」
「行ってくる」
「ありがとう」
可南子の後頭部を撫でていた亮一の手が可南子の指に絡み、二人はぎゅっと手を握りあう。
「久し振りに二人だな」
亮一の熱がこもった声がぴたりと可南子の心に張り付く。
「うん」
心底嬉しくなり可南子は笑顔を亮一に向ける。
優佳の催促の煩いチャイムも幸せの一つだ。
「ありがとう」
大きな手に優しく握られた手は温かい。
絶え間なく抱く恋心は『愛』と呼べるのかもしれない。
蔦のように絡みついてくる煌びやかで豪奢な想いに包まれ、可南子は身体の奥深くから湧き上がる喜びに、瑞々しく微笑んだ。
=終=
玄関でお気に入りの靴を履いた志波優佳は母親である可南子と同じ大きな目を真っ直ぐ両親に向けていた。ウサギのリュックを背負い、ウサギのぬいぐるみを持った優佳は機嫌がよく、笑顔を浮かべている。
顎のラインまで伸ばされた真っ黒な直毛の髪は絹糸のように光の加減で艶やかに光り、前髪は眉毛の上で切り揃えられていた。その髪に祖母である朝子に貰ったウサギのピン付け、興奮に頬を桃色に染めている。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
可南子は微笑んでの目線に合わせるようにしゃがんで、優佳の真っ白な、ぷっくりした頬に触れる。
優佳の横に立っている朝子は優しく目を細めた。
「明日にまた連れてくるわね」
「本当に迎えに行かなくていいですか?」
今日は優佳が初めて一人で志波の実家に泊まる日だった。亮一の両親が家にまで迎えに来てくれて、さらに送ってきてくれるという。さすがにそれは甘えすぎだと、そう決まった後も可南子は心配していた。
亮一はしゃがんでいる可南子の横で腕を組むと片眉を上げる。
「煩い親がいない所で猫かわいがりしたいんだろう」
初孫の優佳へ晃も朝子も財布の紐がゆるい。亮一は感謝しながらも甘やかさないように苦言を呈すが『老い先短い楽しみを奪うのか』と朝子も譲らない。
朝子は亮一の呆れた視線を逸らさずに受け止めて図星と言わんばかりに微笑する。
「というわけで、迎えに来なくていいのよ。それに」
「おい」
朝子が優佳の小さな手を握りながら続けようとした言葉を亮一が遮る。可南子は首を傾げて二人を見比べた。
「どうかしたの?」
「何もない」
憮然と言い放った亮一と、優佳に「今日はおばあちゃんとおじいちゃんと遊ぼうね」と話しかけ、誤魔化すように話を逸らした朝子に、可南子は眉を潜める。
「……亮一さん」
「さ、おじいちゃんが車で待ちくたびれているわね。それじゃ、ちゃんと責任をもって預かるから心配しないでね」
晃がマンションの下に車を止め中で待っており、あまりゆっくり話している時間は無かった。可南子は慌てて立ち上がり頭を下げる。
「いつもありがとうございます。よろしくお願いします」
「こちらこそ、孫と遊ばせてくれてありがとう」
「お父さん、お母さん、明日ね!」
初めてのお泊りは寂しいのではないかという亮一の心配を、大人びた態度で『大丈夫』と突っぱねながらも、お気に入りのウサギの人形をしっかりと脇に抱え離さない優佳を亮一は愛おしげに見つめる。
それから可南子が洗濯するタイミングをいつも悩んでいる、そろそろ薄汚れてきたぬいぐるみを見ながら亮一は口を開く。
「ウサギがいるから大丈夫だな。気を付けてな」
「うさみちゃんていうのよ!」
ぬいぐるみを両手で差し出しながらの優佳の反論に亮一は肩を竦めて可南子の腰を抱き寄せた。可南子は虚を突かれて亮一の身体にもたれかかってしまう。いつまでたっても全く慣れない状況に頬を赤らめて可南子は朝子から顔を逸らすように目を伏せた。
朝子や優佳の方が慣れていて「お邪魔しちゃだめね」とすぐに出かけていく。二人を見送って静かになった玄関で、鍵を掛けるために可南子から離れた亮一に、可南子はおずおずと話しかける。
「あのね……」
「嫌だ」
可南子が控えて欲しいと言いたいのを察して先に拒否を示した亮一に可南子は項垂れる。子供が産まれても何の変りもなく接してくれるのは嬉しいが、歳も重ねた今、若い時とは違った気恥ずかしさがある。
「私、もう三十過ぎたの」
「ますます綺麗になったな」
スラスラと誉め言葉を口にする亮一にたまらずに可南子は顔を覆う。鍵を閉めて戻ってきた亮一は、そんな可南子の腰に手を置いてリビングへと誘導する。
「さっき、母親が言いかけたのはのは今日は翔も瀬名家に来ることだと思う。だから優佳は寂しくないはずだ。『大好きなお兄ちゃん』が居て大喜びだろう」
わかりやすい棘を孕んだ亮一の口調は大人げない。だが、可南子にとって問題はそこではなかった。
「……初耳だよ」
「箝口令を布いたからな」
「どうして? 優佳は知ってるの?」
亮一は可南子の問いに、口元に白けたような笑みを浮かべて首を振った。
翔が来るなら結衣も来るはずだ。ならば、翔の従妹にあたる大きくなった双子の姉妹も来るだろう。それなら顔を出すだけでもしたかった、と可南子は非難めいた表情を浮かべてしまう。
「優佳は可南子に黙っていられない。どうして、という質問に対しての答えは『私も行きたい』と俺の奥さんなら言うからだ」
言い当てられて喉が詰まって咳き込んだ。亮一は可南子の背を撫でながらソファに座らせるとすぐに「水を持ってくる」と台所に向かった。もうすぐ四十の亮一は相変わらずフットワークが軽い。
咳き込んで涙ぐんだ可南子にコップに入った水を差しだした亮一は可南子の横に座った。
「大丈夫か」
「ごめんなさい。あ、ありがとう」
水を飲んで収まった動悸にほっとすると、亮一は可南子からコップを受け取るとローテーブルの上に置いた。落ち着いたのも束の間、胸板に押し付けられるように抱き寄せられて、また息が詰まる。
「どうしたの」
声は亮一の腕の中に吸い込まれる。硬い体躯はジム通いという努力の賜物だ。潰されそうで潰されない力加減は眩暈がするほどに心地よかった。
「相変わらず俺と過ごしたいと言わないな、奥さんは」
「そんなことないよ。……過ごしたいよ」
優佳が産まれて、二人の中心には常に優佳がいる。生活全般がそうだ。寝る時も優佳は二人の真ん中を譲らず川の字で寝ている。仕事復帰後も短時間勤務制度を利用しているとはいえ毎日がクタクタに疲れる。夜8時には寝てしまうこともあり、朝しか亮一と話せない日もあるが、その会話も優佳の事で占められていた。
寂しくないといえば嘘になる。可南子は亮一の腕を独り占めてきている実感をじわじわと感じて頬を胸に摺り寄せた。
「過ごしたいけど」
子供が大きくなるのはあっという間だ。それを考えると、優佳とたくさん一緒に過ごしたいと思う。一人っ子の優佳に近い年の子との交流が安心してできる環境があることもありがたい。小さい間はちゃんとそばで見ていないと、という義務感も常にある。
可南子の逡巡を見透かしたように、亮一は可南子の後頭部を壊れ物のように撫でる。
「任せられる環境があるんだ。甘えよう」
この優しさに抗う前に溶けてしまいそうになる。若い時は自分を貫けたが、子供を産んで育てるという試行錯誤の中、そういった尖っていた部分が丸くなっていった。自分一人でできることなんて、たかがしれているのだ。人に迷惑をかけないことなんてできない。
可南子は亮一のにおいを胸いっぱいに吸い込んで吐くと、小さく頷いた。
亮一が腕を緩め可南子の顎を軽く掴みくいと上にあげる。柔らかい唇が軽く重なり、少し離れ、次に僅かに深く口づける。湿った感触にぞくりと下腹部が疼いて、可南子は自然と目を閉じた。
可南子の手は導かれるように亮一の頬を包みこみ、ざらりとした髭の感触を楽しむように頬を撫でる。いつもは優佳がしていることだ。今日は独り占めできると思うと、愛しさがこみ上げてきて、それだけで胸の頂きも張りつめていく。
『ピンポーン』
甘く濃い空気が漂い始めた部屋に、エントランスからのチャイムの音が響いた。可南子がチャイムに気取られると亮一はそれを許さないようにさらに深く口づけ、可南子の歯列を舌でなぞった。
抵抗しようとすると亮一がシャツの下から手を入れ、ほっそりとしたウエストを辿り下着を押し上げた。緩んだストラップが可南子の肩に滑り落ちる。まろやかな膨らみに触れられ頂きに指が擦れると可南子はつい声を漏らした。
『ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン』
連打されたチャイムの音にはた、と二人は動きを止めて目を見合わせる。
「優佳だな」
「優佳だね……」
無遠慮にチャイムを鳴らす人物がいるとすれば、優佳しかいない。乱れた衣服を整えながら立ち上がろうとした可南子を止めて、亮一が立ち上がりインターホンに出る。
「はい」
『うさぎのお財布を忘れたの! 取りに行くから開けて下さい!』
「わかった。持っていくから待ってなさい」
『お父さんありがとう! 早くね!』
亮一は後頭部をガリガリと掻きながら通話を終わらせる。会話を聞いていた可南子は寝室にそれがあった気がした。「探してくるね」と言い寝室に入ろうとするとまた止められる。
「床にあった気がする。可南子はそこにいてくれ」
そう言われても落ち着かない。可南子は亮一の後を追って寝室へ足を踏み入れる。
ちょうど、亮一がぬいぐるみ素材のウサギのがま口フェイスポーチを拾い上げる所で、可南子がいることに気づくと苦笑した。
「元気な娘で何よりだな」
可南子の母親が、可南子の小さな頃の写真を持ってきて「そっくり」と大騒ぎするほど、幼い頃の可南子に似ている優佳を亮一は溺愛していた。優佳も休日に亮一が作るチャーハンが大好きだと高らかに言って亮一を喜ばせている。傍から見て蜜月な二人はとても目立つ。広い公園などでくつろいでいると良く注目を集めている。
「可愛くて可愛くて仕方ないもんね。優佳が元気なのは亮一さんが大事にしてるからだよ」
「可南子の次にな。かな、下まで行ってくるからシャワー浴びるなら浴びておいてくれ」
亮一はきょとん、とした顔をした可南子の髪に手櫛を入れて顔を上向かせると額に口づける。名残惜しそうに髪から離れると、手に持ったおよそ不釣り合いなウサギのポーチに視線を落とし、可南子の大きな瞳を覗き込んでにっと笑った。
「今日は遠慮なく可南子を抱ける日だろ」
遠慮なく、という言葉にじわじわと顔を赤くする可南子の額にもう一度口づけて、亮一は固まった可南子の横を通って玄関へと足を進めた。
優佳がいなかった頃に比べればそういった時間は激減している。そういう雰囲気になりかけても流れる事も多い。それは自然のことだと受け入れていた。亮一もそうだろうと思っていた分、頭がただの冗談じゃないだろうかと防御線を張り出す。
整えた衣服が突然窮屈に感じ息苦しい。可南子は触れ合った唇に自分の指先を乗せて感触の記憶を辿る。あんな口づけは久し振りだった。
「かな」
寝室で固まっていた可南子に、ドアを二回ノックする音と共に亮一に声を掛けられる。
エントランスに行ったはずでは、と振り返ると、可南子を強く見据えながらも、甘く微笑する亮一がいた。
「どうしたの。もう下に」
「可南子が固まってたから、引き返してきた」
ごめんなさい、と謝りながら髪を耳に掛けると、亮一は静かに首を振る。
「かな、愛してる」
手に何かを持っていたら落としていた。可南子は生唾を飲みこんで、熱くなる頬を冷やすように自分の両手で覆う。
そう言われるのは初めてではないのに、胸に込み上げてくるのは真新しい感動だった。
「思う存分に抱けない分、伝えないといけなかったな」
「あの」
「どんどん好きになる」
「……亮一さん」
「忙しさにかまけて、言葉にするのを怠ってたと、反省した」
「それをいうなら私も」
どうしても後回しになるのは、一番安心できる相手だ。可南子にとっては亮一がそれで、感謝の言葉は伝えていても、もしかしたらそれよりも大事な気持ちはもうずっと口にしていない気がする。
眉根を寄せて難しい顔をした可南子に、亮一は出会ったころよりも幾分深くなった皺を目尻に刻んで笑む。
「生真面目に考えるなよ、奥さん」
「でも、いつも甘えてて」
「可南子が甘えられるくらい、俺が成長したならそれは喜ばしいことだ」
言葉が見つからずに可南子は亮一の胸に抱きついた。胸に手を回して目を瞑る。瞼の裏に記憶が映像となって流れた。初めて出会った時、結ばれた時、この家に暮らし始めた時、大きな喧嘩をした時。可南子はそっと目を開ける。
『ピンポーン、ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン』
催促のチャイムが鳴り響いて、可南子は亮一の胸に回した腕に力を込めた。
「シャワー、浴びておきます」
「ああ」
亮一に後頭部を撫でられ、優しさと甘やかしの境界に身を沈ませ可南子は多幸感に浸る。
「優佳の所、行かないと」
「行ってくる」
「ありがとう」
可南子の後頭部を撫でていた亮一の手が可南子の指に絡み、二人はぎゅっと手を握りあう。
「久し振りに二人だな」
亮一の熱がこもった声がぴたりと可南子の心に張り付く。
「うん」
心底嬉しくなり可南子は笑顔を亮一に向ける。
優佳の催促の煩いチャイムも幸せの一つだ。
「ありがとう」
大きな手に優しく握られた手は温かい。
絶え間なく抱く恋心は『愛』と呼べるのかもしれない。
蔦のように絡みついてくる煌びやかで豪奢な想いに包まれ、可南子は身体の奥深くから湧き上がる喜びに、瑞々しく微笑んだ。
=終=
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……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
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