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番外編
番外編の番外編:幸せの形 前編
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「志波さーん」
酔った鼻声をさらに鼻にかけ、甘ったらしさを強調しながら、部下の吉村が腕に絡みついて来ようとしたのを、亮一は腕を上げて避ける。
「桜井、吉村と方向が一緒だろ。途中まででもいいから送っていってくれないか」
「え~志波さん~まだ飲みましょうよ~」
「吉村」
亮一は内心では顔を顰めていたが表には出さない。腕に指先が触れたのをまた避けて、声を掛けられて困惑している桜井に近寄った。
金曜日の飲み会は倦怠と解放が入り混じっていた。
酒が入れば何でも許されるわけではない。だが、酒を利用しようとする人間はごまんといる。それは年齢も性別も関係ない。
「志波さん~飲む~~」
うんざりと目だけで天を仰ぐ。内心の溜息を見抜かれたのか桜井が苦笑しながら肩を竦めた。まだ二十代後半の部下は、マイペースだが頭の回転が速い。
亮一の後ろをペタペタと突いてくる吉村に、桜井は固い口調で話しかける。
「吉村、セクハラだぞ」
「志波さんからなら良い~」
桜井が亮一を見て、口の端を気の毒そうに曲げる。
「志波さん、奥さんの所に帰るんだよ」
「奥さんが怖いんですかぁ」
隠していた不機嫌が顔に出るのがわかった。
吉村は今年入社したばかりの新入社員で、よく言えば天真爛漫、悪く言えば学生気分が抜けていない。社内の人間に敬語が抜けるくらいならまだ許せるが、取引先に同じ態度で接しようとするので周りの人間はヒヤヒヤしながら見ている。
おまけに『早く結婚して辞めたいです~』とまだ仕事の成果を上げる前から声高に言っているものだから、同じチーム内の心証は良くない。
「俺の妻は世界で一番いい女だよ」
お前と違ってな、とは声に出さなかった。吉村の酔いの目の中に素面が見えた。酒に弱いわけではないらしい。
欲求を場に応じた演技にうまく混ぜ、完遂に向け行動していけるのなら、仕事で化けるかもしれない。
そう、冷静に判断したことで、亮一は自分が仕事にどっぷりハマっていることに改めて気づく。
……早く可南子に会いたい。
「桜井、頼む」
「了解です。お疲れさまでした」
「お疲れ」
踵を返し、他の部下に帰ると声を掛ける。
二次会の音頭を取ろうとしている部下に財布からいくらか出して渡すと、引き止めようとしなくなるのがわかりやすい。
出世で得たもの。お金、地位。
減ったもの。可南子と、子供たちと過ごす時間。
「なんだかな」
独りごちると、亮一は彼らに背中を向けて大股で駅へと向かった。
◇
指定席の切符を買って席に座った。家に帰れると安堵の息を吐くと、スマートフォンを取り出す。可南子から連絡はない。
何かが動いた気がして窓の外を見ると、不機嫌そのものの自分の顔が映った。亮一は顔を撫でて、電車に乗ったことをメッセージする。
既読にならないメッセージを何十秒か見つめて、諦めてポケットに収めた。
「連絡しろよ」
非難めいた口調になる自分を許すと、ペットボトルのお茶を喉に流し込む。
ほぼ席が埋まった電車が動き出した途端、疲労がどっと重くのしかかり、シートに身体が沈み込んだ気がした。
可南子と会うのは十日ぶりだ。
第二子出産を前に、亮一は実家の近くで売り出された中古住宅を購入した。昭和の香りを残した水周りだけをリフォームした家に、可南子は子供たちと住んでいる。
母親の朝子は孫が近くに住むことに大喜びで、結婚して実家を出た久実も亮一夫婦が親の近くに住んでくれる事を感謝してくれて、誰もが幸せに見えた。
亮一を除いて。
長男である修(おさむ)を身籠った可南子は、切迫流産だと診断を受けた。保育園の送迎に、手を抜かない仕事に家事、身体が先に悲鳴をあげたのだろう。
可南子の真っ白な顔に浮かび上がる黒い瞳、「ごめんなさい」と事あるごとに刻む生気のない唇、力なく握り返してくる冷たい手を思い出すと、未だに心臓を握られたような痛みが蘇る。
朝子が手伝いに来てくれていたから家が回っていたある日、可南子は会社を辞めるという選択を打ち明けて来た。
亮一は言葉を失った。本当に何も言えなかった。可南子を支えられなかった自分を、無力に感じた。
無事に危機を乗り切った修は可南子のお腹ですくすくと育ち、産み月には3500グラムを超えるほどになった。誰もが「亮一に似ているはずだ」と口々に言い、生まれた子は「顔がすでに亮一だ」と皆の笑いを誘ったほどだった。
そして今、亮一は可南子と住んでいたマンションに平日は帰るという生活を送っている。最初は通っていたのだが、可南子は帰宅が二十二時を過ぎるようなら帰ってこない方がいい、と頑固に言い張った。
週末は絶対に可南子の元に帰るのだが、先週末はプロジェクトの関係で、差し入れを持ってSEだけが出勤しているオフィスへと行くことにしたから帰れていない。
相変わらず可南子は文句を言わない。不平不満をため込んで爆発させるのではないかと不安になる。
亮一は座席の下に置いた紙袋の中に入っている白と黄色の花で彩られた花束を見た。都会の花屋は遅くまで空いている。目に付いたので飛び込んで花を買った。せめてもの償いの気持ちだった。
少しの睡眠をとり電車から降りると街とは空気が違った。静かさも違う。こういう場所に立つと都会は耳に聞こえない音のレベルまで煩い気がする。
逸る気持ちを押さえもせずに家に帰ると、電気は消えていた。
静かにドアを開け、ただいま、と口の中で小さく言った。電気をつけた靴一つ無い玄関には汚れたボールがひとつ転がっていた。
修がここでボール遊びをする姿とそれを叱る可南子の姿がありありと浮かんで、顔が緩む。
電気をつけた綺麗に整えられたリビングには誰もいない。ソファの上には戦隊ヒーローのおもちゃの銃が投げるように置いてあって、可南子の「片付けて!」という声が聞こえてくるようだった。
完全に柔らかくなった顔でそれを手に取ると、亮一はソファに腰掛けた。引き金を引くと、台詞の後にチュインチュイーンという電子音が静かな部屋に響き渡る。
平和な生活の香りがして、亮一はそのまま安堵でソファに横たわりそうになる身体に鞭を打って立ち上がる。せっかく帰ってきたのに、一人で眠るなんて真っ平御免だ。それに、シャワーを浴びないと、可南子の横に滑り込めない。
煙草と酒と、そして手を伸ばしてきた部下の蛇のような手を振り払うように、スーツをソファーの上に投げかける。片付けは明日で良い。
肌に刺激のある熱いシャワーを浴びて、束の間、世俗の垢を落とし寝室のドアを開ける。
暗い寝室のベッドの上に、毛布に包まる可南子の姿を認め、腹の奥から深い息を吐いた。
そばにいて欲しい人が、手を伸ばせば触れられる場所にいる。
亮一は静かに近寄りながらも、気づいてもらいたい気持ちを押さえられない。
四十も過ぎたのに、そんな自分は十代のようだといつも思う。
可南子のそばに手を置き、可南子の小さく形の良い耳に唇を寄せると、少し触れさせながら喋る。
「かな、ただいま」
ん、と喉からくぐもった声を出した可南子は、うっすらと目を開けた。
「あ……おかえりなさい」
眠さが勝つらしく、また目を閉じた可南子を引き止めるように、亮一は素早く可南子の横に滑り込んでその身を抱き寄せた。
「ただいま。十日も留守にして」
「おかえりなさい」
可南子は覚醒していない甘い声で亮一の胸に鼻をこすりつける。無意識なのだろうが、喉に触れてくる柔らかい髪が肌をこすり、清潔なシャンプーの香りは嫌でも官能を呼び起こした。
だが、安堵が勝った。
「起こして悪かった……おやすみ」
「おやすみなさい……お茶も用意しなくて……ごめ……」
金曜日は、可南子たちは亮一の実家で夕飯を共にしている。甘やかしくれる祖父母の前では優佳も修もはしゃぎ方が激しくなる。そのせいで可南子は疲れて帰ってくる。
いつの間にか親の面倒も見させている事への申し訳なさと感謝と。亮一は可南子の髪に唇を強く押し当てる。
可南子は気づいていない。
修が通う空手の道場を手伝っている結衣の長兄から、優佳が通うバレエ教室の先生は亮一の同級生なので結衣経由で、小学校でも幼稚園でも、可南子の周りには亮一の知り合いがいて、それとなく可南子の日頃の情報を仕入れている。
モテにモテた亮一が美人の妻と一緒に地元に帰ってきたものだから、揶揄するような、ちょっとした連絡がよく入ったのだ。それを利用している。
籠の中の鳥。
そんな状態になっていることを、可南子はきっと気づいていない。その状態に亮一が安心しているからこそ、可南子の言われるまま家を空けている事にも。
亮一は可南子が空手の道場に来ている父子家庭の子供の父親から、熱い視線を注がれている事を知っている。
もちろん、可南子本人は気づいていない。
「いいんだ。寝ててくれと言ってるのは俺だから」
可南子は唇を押し付けてきて、それからまた寝息を立て始めた。
……俺の妻だ。
亮一は可南子から漂う匂いを胸いっぱいに吸い込むと、あっという間に眠りに落ちた。
酔った鼻声をさらに鼻にかけ、甘ったらしさを強調しながら、部下の吉村が腕に絡みついて来ようとしたのを、亮一は腕を上げて避ける。
「桜井、吉村と方向が一緒だろ。途中まででもいいから送っていってくれないか」
「え~志波さん~まだ飲みましょうよ~」
「吉村」
亮一は内心では顔を顰めていたが表には出さない。腕に指先が触れたのをまた避けて、声を掛けられて困惑している桜井に近寄った。
金曜日の飲み会は倦怠と解放が入り混じっていた。
酒が入れば何でも許されるわけではない。だが、酒を利用しようとする人間はごまんといる。それは年齢も性別も関係ない。
「志波さん~飲む~~」
うんざりと目だけで天を仰ぐ。内心の溜息を見抜かれたのか桜井が苦笑しながら肩を竦めた。まだ二十代後半の部下は、マイペースだが頭の回転が速い。
亮一の後ろをペタペタと突いてくる吉村に、桜井は固い口調で話しかける。
「吉村、セクハラだぞ」
「志波さんからなら良い~」
桜井が亮一を見て、口の端を気の毒そうに曲げる。
「志波さん、奥さんの所に帰るんだよ」
「奥さんが怖いんですかぁ」
隠していた不機嫌が顔に出るのがわかった。
吉村は今年入社したばかりの新入社員で、よく言えば天真爛漫、悪く言えば学生気分が抜けていない。社内の人間に敬語が抜けるくらいならまだ許せるが、取引先に同じ態度で接しようとするので周りの人間はヒヤヒヤしながら見ている。
おまけに『早く結婚して辞めたいです~』とまだ仕事の成果を上げる前から声高に言っているものだから、同じチーム内の心証は良くない。
「俺の妻は世界で一番いい女だよ」
お前と違ってな、とは声に出さなかった。吉村の酔いの目の中に素面が見えた。酒に弱いわけではないらしい。
欲求を場に応じた演技にうまく混ぜ、完遂に向け行動していけるのなら、仕事で化けるかもしれない。
そう、冷静に判断したことで、亮一は自分が仕事にどっぷりハマっていることに改めて気づく。
……早く可南子に会いたい。
「桜井、頼む」
「了解です。お疲れさまでした」
「お疲れ」
踵を返し、他の部下に帰ると声を掛ける。
二次会の音頭を取ろうとしている部下に財布からいくらか出して渡すと、引き止めようとしなくなるのがわかりやすい。
出世で得たもの。お金、地位。
減ったもの。可南子と、子供たちと過ごす時間。
「なんだかな」
独りごちると、亮一は彼らに背中を向けて大股で駅へと向かった。
◇
指定席の切符を買って席に座った。家に帰れると安堵の息を吐くと、スマートフォンを取り出す。可南子から連絡はない。
何かが動いた気がして窓の外を見ると、不機嫌そのものの自分の顔が映った。亮一は顔を撫でて、電車に乗ったことをメッセージする。
既読にならないメッセージを何十秒か見つめて、諦めてポケットに収めた。
「連絡しろよ」
非難めいた口調になる自分を許すと、ペットボトルのお茶を喉に流し込む。
ほぼ席が埋まった電車が動き出した途端、疲労がどっと重くのしかかり、シートに身体が沈み込んだ気がした。
可南子と会うのは十日ぶりだ。
第二子出産を前に、亮一は実家の近くで売り出された中古住宅を購入した。昭和の香りを残した水周りだけをリフォームした家に、可南子は子供たちと住んでいる。
母親の朝子は孫が近くに住むことに大喜びで、結婚して実家を出た久実も亮一夫婦が親の近くに住んでくれる事を感謝してくれて、誰もが幸せに見えた。
亮一を除いて。
長男である修(おさむ)を身籠った可南子は、切迫流産だと診断を受けた。保育園の送迎に、手を抜かない仕事に家事、身体が先に悲鳴をあげたのだろう。
可南子の真っ白な顔に浮かび上がる黒い瞳、「ごめんなさい」と事あるごとに刻む生気のない唇、力なく握り返してくる冷たい手を思い出すと、未だに心臓を握られたような痛みが蘇る。
朝子が手伝いに来てくれていたから家が回っていたある日、可南子は会社を辞めるという選択を打ち明けて来た。
亮一は言葉を失った。本当に何も言えなかった。可南子を支えられなかった自分を、無力に感じた。
無事に危機を乗り切った修は可南子のお腹ですくすくと育ち、産み月には3500グラムを超えるほどになった。誰もが「亮一に似ているはずだ」と口々に言い、生まれた子は「顔がすでに亮一だ」と皆の笑いを誘ったほどだった。
そして今、亮一は可南子と住んでいたマンションに平日は帰るという生活を送っている。最初は通っていたのだが、可南子は帰宅が二十二時を過ぎるようなら帰ってこない方がいい、と頑固に言い張った。
週末は絶対に可南子の元に帰るのだが、先週末はプロジェクトの関係で、差し入れを持ってSEだけが出勤しているオフィスへと行くことにしたから帰れていない。
相変わらず可南子は文句を言わない。不平不満をため込んで爆発させるのではないかと不安になる。
亮一は座席の下に置いた紙袋の中に入っている白と黄色の花で彩られた花束を見た。都会の花屋は遅くまで空いている。目に付いたので飛び込んで花を買った。せめてもの償いの気持ちだった。
少しの睡眠をとり電車から降りると街とは空気が違った。静かさも違う。こういう場所に立つと都会は耳に聞こえない音のレベルまで煩い気がする。
逸る気持ちを押さえもせずに家に帰ると、電気は消えていた。
静かにドアを開け、ただいま、と口の中で小さく言った。電気をつけた靴一つ無い玄関には汚れたボールがひとつ転がっていた。
修がここでボール遊びをする姿とそれを叱る可南子の姿がありありと浮かんで、顔が緩む。
電気をつけた綺麗に整えられたリビングには誰もいない。ソファの上には戦隊ヒーローのおもちゃの銃が投げるように置いてあって、可南子の「片付けて!」という声が聞こえてくるようだった。
完全に柔らかくなった顔でそれを手に取ると、亮一はソファに腰掛けた。引き金を引くと、台詞の後にチュインチュイーンという電子音が静かな部屋に響き渡る。
平和な生活の香りがして、亮一はそのまま安堵でソファに横たわりそうになる身体に鞭を打って立ち上がる。せっかく帰ってきたのに、一人で眠るなんて真っ平御免だ。それに、シャワーを浴びないと、可南子の横に滑り込めない。
煙草と酒と、そして手を伸ばしてきた部下の蛇のような手を振り払うように、スーツをソファーの上に投げかける。片付けは明日で良い。
肌に刺激のある熱いシャワーを浴びて、束の間、世俗の垢を落とし寝室のドアを開ける。
暗い寝室のベッドの上に、毛布に包まる可南子の姿を認め、腹の奥から深い息を吐いた。
そばにいて欲しい人が、手を伸ばせば触れられる場所にいる。
亮一は静かに近寄りながらも、気づいてもらいたい気持ちを押さえられない。
四十も過ぎたのに、そんな自分は十代のようだといつも思う。
可南子のそばに手を置き、可南子の小さく形の良い耳に唇を寄せると、少し触れさせながら喋る。
「かな、ただいま」
ん、と喉からくぐもった声を出した可南子は、うっすらと目を開けた。
「あ……おかえりなさい」
眠さが勝つらしく、また目を閉じた可南子を引き止めるように、亮一は素早く可南子の横に滑り込んでその身を抱き寄せた。
「ただいま。十日も留守にして」
「おかえりなさい」
可南子は覚醒していない甘い声で亮一の胸に鼻をこすりつける。無意識なのだろうが、喉に触れてくる柔らかい髪が肌をこすり、清潔なシャンプーの香りは嫌でも官能を呼び起こした。
だが、安堵が勝った。
「起こして悪かった……おやすみ」
「おやすみなさい……お茶も用意しなくて……ごめ……」
金曜日は、可南子たちは亮一の実家で夕飯を共にしている。甘やかしくれる祖父母の前では優佳も修もはしゃぎ方が激しくなる。そのせいで可南子は疲れて帰ってくる。
いつの間にか親の面倒も見させている事への申し訳なさと感謝と。亮一は可南子の髪に唇を強く押し当てる。
可南子は気づいていない。
修が通う空手の道場を手伝っている結衣の長兄から、優佳が通うバレエ教室の先生は亮一の同級生なので結衣経由で、小学校でも幼稚園でも、可南子の周りには亮一の知り合いがいて、それとなく可南子の日頃の情報を仕入れている。
モテにモテた亮一が美人の妻と一緒に地元に帰ってきたものだから、揶揄するような、ちょっとした連絡がよく入ったのだ。それを利用している。
籠の中の鳥。
そんな状態になっていることを、可南子はきっと気づいていない。その状態に亮一が安心しているからこそ、可南子の言われるまま家を空けている事にも。
亮一は可南子が空手の道場に来ている父子家庭の子供の父親から、熱い視線を注がれている事を知っている。
もちろん、可南子本人は気づいていない。
「いいんだ。寝ててくれと言ってるのは俺だから」
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