魔王の恩返し。

もるひね

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えんかうんと・ほわいと

第四話

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「緊張しないで、リラックスリラックス」
「お、お邪魔します」
「失礼致します」

 軽く挨拶しながら、とある教室の重い扉を開く。
 部屋の中は分厚いカーテンでぴっちり覆われ、燃える夕日をシャットアウトし、甘いお香の香りで満たされていた。

「改めてようこそ、守谷透くん、清乃浦巳姫さん」

 先に入室したかごめ先輩は、丁寧な仕草で僕たちを出迎える。
 落ち着ける場所として案内されたのは歴史部の部室であり、かごめ先輩はその部長らしい。とはいうものの、他の部員など影も形も残っていない。俗に言う幽霊部員。

「どうぞ、座って」
「はぁ……」

 僕は促されるまま席に着き、ついでに辺りを見回す。歴史部の歌い名にふさわしく、複数ある本棚には分厚い本がぎっしり詰められていた。背表紙に書かれているのは漢字ばかりだが、中にはアンデルセン童話も混じっている。
 ともかく、遮光されている以外に取り立てて不審な点は無かった。きょろきょろしている僕だったが、その隣に巳姫が座るのを、かごめ先輩は興味深く観察していた。その後、戸棚から一冊、年期の入った飾り気のない本を丁寧に取り出して持ってくる。

「はい、巳姫さん。常陸国風土記原本」
「まぁ、有り難う御座います。大切にお読み致します」
「これがあることは口外しちゃ駄目だからね。無用な混乱を招くかもしれないし、あくまで借り物だから」
「畏まりました」

 手渡された本を受け取ると、噛り付くように読み始める。ふむふむ、ふんふん、という理解しているのかどうか曖昧な呟きが巳姫の口から時折零れた。

「風土記って……そんなに面白い?」
「勿論です。古来の思想、神様と世界の成り立ち、それらを知ることで、これまで見えなかったものが認識できるかもしれません。目の前の事を正しく認識するには知識が必要なのですから」

 一息に言うと、熱心に読書を開始する。ちらりと覗き込んだ頁は蚯蚓が這った後のような古語で埋め尽くされており、僕にはとても解読出来ない代物だった。巳姫はこれが読めるらしく、箱入り娘の明晰な頭脳が羨ましくなった。
 頭痛を覚える前に解読を打ち切る。その後、対面に座ったかごめ先輩が視線をやや下げて僕に問う。

「それで、前触れなしに倒れたとか?」

 ひとみ先生から聞いてでもいたのか、僕が保健室で寝ていた理由を訊ねてくる。
 前触れのようなものは確かにあった。だが、非科学的なことを初対面の相手に言うのは気が引ける。しかし心を見透かすような視線に晒され、自然と言葉が漏れていく。

「なんか、呪文みたいなのが聞こえたというか……ぐるぐるしてるというか」
「呪文? どんな内容だった?」
「どう、と言われても」

 天使のような声をした誰かが紡ぐ赤い呪文が、僕の脳漿をぐるぐる掻き混ぜました。イメージを言語に起こすのは大変難しいが、多分、この一行が僕に表せられる限界だろう。それだけじゃ分からないわ、とはにかみつつも呆れ顔で突っ込まれたのでどうにかこうにか思い出して呪文の内容を綴る。

「ふむ……それは冒涜の呪文ね」
「分かるものなんですか?」
「オカルトには詳しいから」

 そういうものなのだろうか。
 語られるであろう詳しい説明を待っていたが、先輩は目線を下げたまましばし考え込む。口をぱくぱく開閉し、音のない独り言を呟きながら逡巡していた。ややあってから、

「口寄せって知ってる?」

 ようやく目線を合わせたかと思うと、全く別の話題を振ってきた。それはオカルトの話題なのか?

「忍術ですか?」
「霊の言葉を引き寄せて口で発すること。感情を同期して痞えを取り除く方法よ。最悪、同期したまま戻れなくなる場合もあるけれど」
「はぁ……」

 うぅむ、これは不味い人に捕まったかな。その手の話は信じていないのだけれど。

「ねぇ守谷君、自分の名前の由来は知ってる?」

 話題がころころ変わるなぁ。

「えっと、兄の名前が秋矢でした。女の子が欲しかった母は、冬に流れるでとおるってつけようとしたらしいです。周りが反対した結果、読みだけ残ったとか」
「冬流……女の子っぽいかしら?」
「さあ。少なくとも母はそう思ってたらしいです。うろ覚えですけど」
「我儘な親御さんだったのね」
「そうだったみたいです。それが何か?」
「小学校低学年……くらいの男の子。貴方のお兄さんが亡くなったのはその辺りの年齢で間違いない?」

 ぴく、と僕の体が強張った。巳姫も読む手が止まり、僕とかごめ先輩の間に漂う張り詰めた空気をじっと窺っている。発言すべきだが、それは許されない……彼女の口が物言いたげにもごもごするのが確認できた。彼女も知っているのだろうかと疑念が湧いたが、従妹なのだから知っていておかしくない。

「何故?」
「笑ってる。死者はね、笑っていても泣いている。泣いていても怒っている。お兄さんは貴方の側で笑っている。私、そういうのが視える人種なの。祓うことも可能だけれど、できるだけ穏便に済ませたい。未練という痞えを取り除くことが最も穏便で平和的な清算よ」

 つまるところ、かごめ先輩は僕に幽霊が憑いている、と言っていた。
 オカルトも度が過ぎる。そんなもの一度も見たことが無いし、最近ではテレビで取り上げられることも無い迷信の類だ。インチキ霊媒師の相手などしてられるか……そう理性が騒いでいたが、僕の体は硬直したかのように動かなかった。彼女が言った事は事実だったからだ。
 僕の兄、清乃浦秋矢は海難事故でこの世を去った。僕が海に囲まれた島で生まれ育っていた、当時4歳の頃に。兄は7才。声変り前であった兄の声は、天使かと思う程に周波数が高かった。夜な夜な父の寝室から漏れ聞こえる兄の悲鳴も、嘆きも、嗚咽も、まるで天使が奏でた歌声ではないかと錯覚した記憶がある。

「悪意は感じられないから心配しなくていいわ。でも、冒涜の呪文を唱えたのは何故かしら。もしかしたら、貴方という自我を奪うつもりかも」
「待って下さい。兄の魂が其処にあるとでも言うんですか」
「魂の定義は難しいわ。かつて、デカルトは脳の中心にある器官を魂の座と呼んだ。松果体には神秘が宿っていると考えた。けれど、現代科学では勿論否定されている。サーカディアンリズムを司る器官、光に反応してホルモンを調節する器官に過ぎないと」

 何度も説明したことがあるかのように、すらすらと説明するかごめ先輩。オカルトだけではなくデカルト、そして人体にも理解があるようだ。
 曰く、松果体は小指の先程しかない小さな器官。そこには視神経から光刺激が届けられ、朝明るくなれば自然と目が覚め、夜暗くなれば眠気を誘う、それらのホルモンを調節する内分泌器。
 そして、特定の周波数を持つ光……通常目に見えない光刺激を受容し、興奮を促すホルモンが分泌され、存在を認知出来る人間が自分たち視える人らしい。つまり、視覚が受け取った1000万ビットの情報を自我が認知出来る50ビットへ処理される選別過程で、それを生存上必要なものだと取捨選択する機能を持っているわけだ。何もイカの目を持っているわけではない。

「意識という定義だって不完全なのだから、私が語れるものではない。まぁ、それは残留思念と言えば分かりやすいかしら」

 本来の意味と違うけれど、と補足しつつ、

「貴方という器に遺るお兄さんの思念。何かを訴えているみたいだけれど、私では感情を同期できない。男の子特有の物だからか、単に私が気に入らないからか、理由は不明だけれど……そういえば守谷君、宗教は?」
「無宗教です」
「なら何故、魂という形而上的なものを持ち出したの?」

 刃のように冷やかな空気が伝播した。
 魂。至高者由来の要素が詰められた崇高なる中枢。死後は肉体を離れ、極楽浄土へ向かうカタチの無いもの。そういった魂があると考えれば、僕が見殺しにした兄は楽園へ流されたのだと、罪の意識を軽減することが可能なのだ。
 それも僕が重ねた罪。

「芥川龍之介は神神の微笑で、日本に宗教を根付かせることは難しいと語ったわ。でも、日本人は決して神を信じていないわけじゃない。神様はいる、もしくはいるかもしれないと思っているけれど、これといえる宗派に属していないだけ」
「決して無神論者ではない、ということですね」

 結婚式を教会で挙げ、年末にはクリスマスを祝い、年が明けると神社に参拝をして、盆には寺で先祖に手を合わせ、死者を弔う際は経を読み線香を立てる。日本人ならば誰しもが経験し、生活の一部として根付いてきたキリスト教、神道、仏教がごちゃ交ぜになった奇妙な文化。
 それでいて、日本人の約6割が無宗教。実際に宗教は何を信仰しているかと聞かれ、仏教もしくは神道と答えられる日本人は少ない。戦前に天皇を神とし、妄信的なまでに推し進められた国家神道の政策への反発。オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件をはじめとするカルト教団の存在などで、新興宗教に強い警戒心を抱いていたりする。

「神様は確かにおられます。御力が弱く、普段は目に見えませんが、確かにおられます。救いの手を差し伸べて下さる神が、高天原から我々を見守っておられるのです」
「辛い言い方になるけれど、愚者は上ばかり見上げ過去を顧みない。過ちを見直すことが、お兄さんの痞えを取り除く事に繋がる。自分と向き合うべき問題だと分かっていたから、貴方も口を出さなかったのでしょう?」

 かごめ先輩はじろりとした視線を巳姫に向けた。
 巳姫にも視えるの、と僕が問うと、申し訳ありません、と頷きながら謝罪した。謝ることじゃないよ、と返すと、申し訳ありません、とまた謝罪した。
 僕は背後を振り返る。勿論、僕には何も見えなかった。虚無という存在越しに本棚を認知しただけだ。手で触れようとしても虚しく空を掻くばかり。言葉を以てしても静寂のみが返ってくる。

「私とて、かつて悪業を働いた事実がございます。されど、心を改めますと真に決心して、罪という罪の一切がなくなるようにと、八百万大神へ恐れ多くも白し上げました。そして今という未来を掴むことが叶ったのです」

 大祓詞の一節──ふと、そんな思考が芽生えた。
 全てのものが清く正しく、睦まじい心を持ち、全てのものを生かし伸ばし育て、互いに手を取り合って助け合い許しあって生きていくという祖伸の心を、自分の心として生きていくのが神道だ。
 また、普通に祓詞と言わず大をつけるのは、公という意味を持っている為。つまり、大祓詞は個人の祓いは勿論、社会全体の祓いを終局の目的としている。僕の罪が流されたならば、それはきっと社会に蔓延する罪穢れをも連れていくだろう。

「あの日、兄が流された日。今日より始めて、罪と云ふ罪は在らじと……」

 僕の国津罪は赦されるのだろうか。
 いや……何故このような知識が湧き上がっているのだ。僕はこんな知識、毛ほども、微塵も、まるで知っていない筈なのに。
 神。
 神道。
 全くの無縁ではない。そうだ、清乃浦の家は神職だった。お経のような祝詞も、祓詞も、長くて退屈な大祓詞も、子守歌として聞いていた。その時の母は生きていた。いつも空虚な人形であった母が、うたう時だけは生きていると知覚出来た。
 嫌いだ。
 巫女は嫌いだ。
 何故こんなにも嫌いなのだ。
 嗚呼そうだ、時折錯乱したかのように奇声をあげ暴れ回る白と赤が嫌いだ。嫌いなのか。母のことが。許されるのか。もういないのに。兄が流されて、僕が病院に厄介になっている間に、これまた事故でいなくなった。記憶の濁流に呑み込まれ、拾い上げた断片によって混乱、というより呆然とする僕。その肩に、そっと圧し掛かる重力を感じた。

「今日の夕日の降の大祓に、祓給ひ清給ふ事を、諸々聞こし食せと宣る。種々の罪さえも、全てお清めいただけることを願いましょう」

 清らかな歌声が瞼の無い耳に届く。それを聞いただけで、心が内側から浄化されるような感覚を覚える。芯まで届かないものの、多くの不安や穢れが祓われた…そんな感覚。

「犯した八十禍津日と大禍津日とを自覚し、反省するところから清めが始まるわ。そこからは私の領分じゃない。後は、貴方の問題」
「はい。まずは自分と向き合ってみます、ありがとうございます」

 思えばあまりにも不思議だ。魂は信じつつも幽霊の存在など信じていないのに、先輩と話しているうちにどちらもあるのだと不思議と信じてしまっていた。ぴたり言い当てた事実があるとはいえ……悪徳占い師に捕まって大金を支払う人の気持ちが少しだけ分かった気がする。

「それで、報酬の件だけれど」
「えっ」

 聞いてないぞ悪徳業者。

「竹を割って話しましょう」
「かぐや姫でも探すんですか? というか、既に割って話してた気がするんですけど」

 指摘すると、ごほん、とわざとらしい咳をする。

「狂犬病に酷似した病魔が世間を騒がせているのは知っているわね。それの感染源、というより元凶退治に協力して欲しいの」
「退治? 駆除なら厚生省とかの仕事では」
「十中八九、順わぬものの仕業でしょう」
「10%が気になります」
「普通の狂犬病」

 しかし、国内では1956年に終息している。感染すればまず助からない病気だ、徹底して根絶するのは当然。

「勿論、相応の報酬は約束する。そして強制ではない。気が向いたらまたここにきて」
「先輩は一体何者なんですか?」
「順わぬ血族、というところかしら」
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