魔王の恩返し。

もるひね

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えんかうんと・ほわいと

第三話

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「ずるいずるいずる~い~! 何だよ透、エロゲシチュエーションとかずる~い~!」
「エロゲって……何言ってるのさ」

 怪しさ満々な状況に戦々恐々しているのだが。

「一つ屋根の下で血の繋がらない美少女と生活とか羨ましすぎるぅ……いやマジで」

 分かったから泣くのを止めて貰いたい。
 昨日色々な事があったせいでこの身はボロボロ。朝練にも身が入らず、紅葉の制裁によって更にボロボロ。それなりに平穏な時間はあっという間に過ぎ、これから放課後の部活が始まってしまう。紅葉による打擲タイムだ。
 補足しておくと、紅葉が何時もの如く我が家を訪問した際、巳姫が厄介になっていることがバレた。バレたって何だ、僕は何も悪くないぞ。巳姫は許嫁らしいけど、古い考えに固執するのは良くない。
 和樹は血涙を拭うと、けろっとした調子で続ける。

「俺も体験したい! というわけで、どうしたら追体験できるか考えるぞ」
「いや無理でしょ」
「その1、従妹を家に誘う。うん、前提から無理だ、従妹なんざ知らねーよ……で、血が繋がってないんだろ? しかも親公認。まさかデキてる? もう結婚とか、将来については──」

 和樹の不躾な問いは、ガタン、と一際大きな物音に遮られた。目をやった先には冷たい眼差しで椅子から立ち上がった幼馴染みの姿。

「紅葉……」
「油売ってないで、早く部活行きなさい。それでもあんた男子剣道部の副部長なの? ばーか」

 彼女は一息に言うと、周囲から浴びせられる視線に構うことなく教室を後にする。

「うっはぁ……ありゃカンカンだな」
「重い日なのかもしれない」
「透、お前ね。紅葉の気持ちを知らんわけじゃないだろ」
「あのね、ただの幼馴染みってだけだよ。焼き餅妬いてると思ってるなら勘違いだ」
「ウッソだぁ」

 和樹は僕と紅葉の関係を誤解しているようなので説明する。幼少の頃からの付き合いである彼女とは兄妹……向こうは姉弟と意識しているだろうが、つまり、先を越されるのが気に入らないだけだろう。和樹が焼き餅と邪推したアレはいわゆる八つ当たりということ。
 話を聞いた和樹は「分かった分かった」と軽くあしらう。まるで分かっていない様子で、一息吐いてから続ける。

「まさか、このままの関係がいつまでも続けばいいだなんて、子供じみたこと考えてはいないよな」
「なんてこった、高校生は子供じゃないと申すか」
「俺らは来年には最上級生。進路についても考えなきゃならん。大人になる為の時間は止まらないんだよ」
「それは……」

 思ってはいけないのだろうか。
 この時間もいつかは終わる。うっかり触れて壊れてしまうくらいなら、せめて優しい時間を思い出にしまっておいても良いのではないだろうか。

「時は止まらない……そうですね、満たされる時が過ぎ去るのは刹那の如く」

 突如、巳姫が会話に加わった。その端正な顔には悲哀の色が滲んでいる。

「ですが、だからこそ、この時を大切にしたいのです。幾夜を越えて辿り着いた愛しき場所。透様、別れの日が訪れるまで、どうか御側に置いて下さいませ」

 そぅっと、壊れものを扱うように、それでいて流れるような動作で手が取られた。ひんやりとする真っ白な手。ちょっと力を込めただけで折れてしまいそうな華奢な手だ。

「え、えっと……」

 吐息がかかるほどの目前には懇願するような巳姫の顔。甘い香りが鼻孔をくすぐり、嫌が応にも鼓動が高鳴る。遠い親戚。面識のない従姉妹。真っ白な肌と、対照的に真っ黒な髪。まるで人形のように見目麗しい美少女だ、照れるなというのが無理な話。
 しかし、過去のことなど綺麗さっぱり忘れている僕を、この浮き世離れした箱入り娘は何故ここまで慕うのだろうか。

 結局、彼女から過去の事についての言及は無い。そして、昨夜の謎の外出についても供述しない。カツ丼を用意しても口を割らなかったのだからどうしようもない。無事に帰って来たのだから何も問題は無いのだが、あまりにも危険な外出方法に加え、このところ物騒なので深夜のお出かけは控えてくれないだろうか。ついでに言うと、網戸を開けっぱなしにされては蚊の侵入を許してしまうので、その点はきつく言っておいた。捨てられた仔犬の顔をされたのは言うに及ばず。

 僕の平穏な日常は何処へ行ってしまったというのか。美少女と一つ屋根の下とはいえ、不審な点がそれなりにあるし、疑惑は深まっていくばかりだし、能天気に喜べる状況ではない。それでも、発言には責任を持たなければならないというか……信頼されているのは間違い無いのだから、それに応えないわけにはいかないだろう。

 応えるというのは、つまり。
 いやいや、今は目の前のことに集中するべきだ。地区大会が迫ってるのだし、とにかく部活へ行かなければ。僕はそう判断して立ち上がったが、くらり、と視界がぐらつく。

 疲労。
 寝不足。
 栄養不足。
 補わなければ。
 何で。
 例えば。
 赤とか。
 ──誰が守る 誰が守る
 血とか。
 ──堅く安置された物を手に取れ
 絶望とか。
 ──契約の箱に封じ納められた 神器を手に取れ
 恐怖とか。
 ──神譜をとり 代わる御守りを是に
 憎悪とか。
 ──未開の地に 水を引きて
 そういう有り得ないエネルギーが。
 ──水を貯め 其処を統治せよ
 君と僕で。
 どくっどくっどくっ。
 心臓が早鐘を打ち、視界に火花が弾け飛んだ。




 気が付くと、僕はひつとした空間にいた。俗に言う保健室、そこのベッドで寝かされていた。突然僕を襲った謎の頭痛はすっかり鳴りを潜めている。

「透様」

 消え入りそうな声が聞こえると共に、僕の左手にぐっと力が加えられた。清乃浦巳姫。のろのろと眼球を動かすと、ベッド脇にたてかけた椅子に心配そうな顔を浮かべる彼女がいた。

「お気づきになられましたか。あぁ、気が気でなりませんでした。この身が引き裂かれる思いでありました」
「大丈夫、大丈夫……というか、僕は」

 何故ここにいるのだろう、と問う前に解が飛んでくる。

「軽い貧血だろう。起きたならとっとと出ていけ、見せつけられるのは気分が悪い」

 そう言ったのは、黄昏を映す窓の縁に腰をかける養護教諭。怪我を負った男子運動部員を癒す大天使、ひとみ先生だ。男言葉でぶっきらぼう、刺すような鋭い瞳なのだが、そこがまた良いと一部から大絶賛されている大人の女性。
 僕自身も何度かお世話になっている。捻挫、突き指、食中毒とレパートリーは豊富だ。

「貧血、ですか」

 これまでに貧血を起こしたことはない。血液検査でも問題は無かったはずだ。

「もしくは熱中症。あるいは脳卒中。心配ならさっさと病院に行け」
「投げやりな」
「そうだ、後で長島に礼を言っておけ。ここまで運んできたのは彼だったからな」

 言い終わると、胸ポケットから取り出した棒キャンディーの包装をぺりぺり剥がし口に咥える。ニコチンの代わりに糖分を摂取することで口寂しさを紛らわせているようだ。その視線は遠く、最早僕に興味が無いことが明確に伝わる。

「透様。大事を取って安静になられて下さい」
「そういうわけにはいかないよ」

 時計を確認すると、部活動はとっくに開始されている時刻だった。
 貧血は甘え。これから紅葉にどれだけの罵声を浴びせられ、どれだけの打擲を受けるのだろう。

「お前の事は剣道部へ伝えてある。気兼ねする必要はない」

 こちらに目線をやることなく、ひとみ先生がもごもごと言う。部員や顧問からはとやかく言われないだろうが、若干一名が畏れ多くて気が気ではない。体調は問題ないのですぐさま起き上がろうとするが、その直前に巳姫の顔がズイっと迫ってくる。

「何処か煩っていらっしゃるのですか? であれば、僭越ながら私めが……」
「ほんと、もう大丈夫だから、そんな心配しなくても」
「嫌です。ようやく、ようやくお会い出来ましたのに……八百万の夜を越え、ようやく叶った今日この刻は、二度と訪れないというのに……」

 重い。
 気持ちは間違い無く嬉しいのだけれど、僕の肩で背負うには少々重い。潤んだ瞳を向けないでくれ、良心の呵責と自分の不甲斐なさでどうにかなりそう。持てる限りの言葉と身振り手振りで彼女を宥め、とりあえず席に戻って貰うと、キャンディを取り出したひとみ先生が呟いた。

「なぁお前ら。退屈な時間程長く感じ、楽しい時間程早く過ぎ去るというのは嘘だと思わないか?」

 僕たちに向けられているその視線は、体の遥か内側にある何か、形のないものを見据えているかのように遠かった。
 底知れぬ視線への恐怖と、突然何を言い出すんだこの養護教諭はという混乱に晒されながらも僕は言う。

「それは、充実してるかどうかで変わるんじゃ?」
「まぁな。結局は他我問題だ、私には分からん」

 他者の持っている自我、つまり他我を体験することは不可能であるとデカルトは言った。ひとみ先生が言いたいのはジャネの法則だろうか。例えば、5歳の子供にとって1年の長さは人生の5分の1だが、50歳の人間にとっては50分の1にしか過ぎないため、歳をとるほど1年を短く感じるというもの。

「しかし、充実とは何を言うのだろうな」
「えっと……汗水流して仕事に打ち込んだりとか、でしょうか」
「充実した仕事とは何だ。社会に目を向けてみろ、どれだけの人が充実した仕事を送れていると思う? ささやかな幸福の為に歯車として機能しているのだぞ? 仕事だから。仕事だから。定年を迎えるまで仕事という宗教に縛り付けられる人間は、果たして充実していると言えるのか?」
「嫌な事でもあったんですか?」
「お前らと顔を合わせている事実が気に食わん」

 病人に言われても困る。
 僕にどうしろと仰るのか。まさか、巳姫とイチャイチャ──自覚は無いが傍からはそう見える──していることが気に食わないのか?

「冗談だよ。それで、仕事に打ち込む時間と、想い人と会話する時間ならば、どちらが充実していると言える?」
「想い人って……」
「勿論、想い人との逢瀬です。私はとても充実しております、透様」

 先程とは打って変わって満面の笑みを浮かべる巳姫が、両手で僕の左手を包む。やばい、見られてる、想い人って間違いなく僕だよな、うわっ恥ずかしい!
 羞恥心で心も顔も熟れた果実のように真っ赤になった僕を気に留めることなく、

「楽しい事、悲しい事、腹の立つ事……様々な刺激があるだろう。それに喚起され、様々な思考が駆け巡る。決まった事を決められた通りに実行するだけのルーチンワークでは、そのような起伏は発生しづらい。こちらのほうが充実していると言えないか?」

 ひとみ先生は哲学を語る。それはそれで寂しくもあります、先生。

「るーちん……は存じませんが、はい、私もそう思います。万感交々。濃密な時を過ごせているのですから」
「濃密であるということは、それだけ情報が多く記録されるということだ。人間は毎秒1100万ビットの情報を脳へ送り、処理し、実行し、経験を蓄積している。淡々と業務をこなすよりも長く感じるものだと私は思う」
「ふむふむ、成程。それで、先生にはお付き合いされていらっしゃる殿方が?」
「あぁ、いたよ」

 知らなかった。というより、プライベートな事など話さないのが普通だ。おしゃべり好きで女性好きな和樹が問い詰めた際には頑なに答えなかったらしいのに、何故巳姫の問いには易々と答えるのだろう。ともかく、男子部員に話したら多くの涙が流れることは間違いない。

「ずっと昔に。話が過ぎたな、それで、何か異常はないか?」
「あ、はい、問題無いです」
「そうか。私は外の空気を吸ってくるが、校内で一線は越えるなよ」

 そう言い残し、ひとみ先生は煙草を手に保健室を後にした。彼女が好む銘柄はアメリカンスピリット。これから喫煙所で過ごす10分と、僕たちと会話した10分では、どちらが長く感じるのだろう。そんなことは当人にしか分からない。
 沈黙。
 グラウンドから野球部やサッカー部のけたたましい掛け声が聞こえてくる。それはどこか異世界から聞こえてくる合唱のようで、まるで現実感というものが希薄化していた。
 放課後の保健室。二人きり。一線は超えるな。一線というのは、つまり……残された僕に緊張が走る。いやいや邪なことを考えるな、期待なんてするな、手痛いしっぺ返しを喰らうに決まってる!

「透様」
「ひゃいっ」

 緊張し過ぎだ僕の馬鹿。

「御体に大事無いのですね?」
「う、うん。十中八九」

 10%は大事になってるかも。
 そうじゃなくて……いけない、言語中枢にも影響が出ているようだ。今日は大人しく帰宅しよう。彼女の拘束をさりげなく解こうと手に触れると、

「君が行き、日長くなりぬ、山たづの。迎へを往かむ、待つには待たじ」

 突然、響かせるように、旋律を奏でるように、巳姫は歌った。

「え?」
「あなたが旅立ってから長い日が経ちました。あの山道をたずねて迎えに行きましょうか。もう待ってなどいられない……と、万葉集にあります。恋い患う時間は永遠のように感じ、やがて限界が来るのです」

 あぁ、そうか、と僕は頷いた。
 時間は誰にでも平等に流れる普遍なもの。しかし、体感は人それぞれ。彼女は念願叶う日に想いを馳せ、感情を起伏し、時を過ごしてきた。もう待ってなどいられない──そう思う程に。

「やっぱり、僕は馬鹿だな」

 ひとみ先生が言ったように、結局は他我問題だ。それでも、巳姫が過ごしてきた時間は辛くて長かったに違いない。

「透様?」
「何でもない。帰ろう、巳姫。僕たちの家に」

 色々と思う所はあるが、疑うのは止めていいのではないだろうか。
 彼女は僕の遠い親戚の女の子。
 今はそれでいい。
 これからという時間があるのだから。

「そう、限界はやがて訪れる。出会いあれば別れあり。誰にも曲げられない自然の理」

 保健室を出た時、誰かの声が聞こえた。

「呉床居の、神の御手もち、弾く琴に。舞する女、常世にもがも」

 廊下の壁に背を預ける一人の女子生徒から発せられる歌だった。上履きのカラーから上級生であることが伺える。

「雄略天皇の歌で御座いますね」

 巳姫が答えると、

「正解。貴方は賢いのね、偉い偉い」

 はにかんだ笑みで返す。
 それに比べて……という冷笑は浮かべなかったが、僕を見る目が少しばかり呆れている気がする。僕は馬鹿じゃない、知らないだけだ。世間一般はそれを馬鹿だと言うけれど。というか、何故歌合戦が開始されているのだ?

「永遠に舞を見ていたい、その童女には永遠に美しくあって欲しい……いくら願っても、それは叶わないの」
「生きとし生けるものの定めであります、かごめ様」
「そうね。だからこそ、今を大切に生きるのよ」

 先輩は優しく微笑んだ。

「知り合いなの?」

 と僕が巳姫に訊ねると、

「はい。昨日──」
「昨日、職員室でばったり会ってね。校舎の案内とか諸々の説明を任されたの。そうよね、清乃浦さん?」
「それは、そうですが……」
「何かおかしいかしら?」
「巳姫、とお呼び下さいませ」
「……」

 整った目鼻立ちにすっきりした頬、真っ直ぐに見つめる大きな瞳と長い睫毛。大人しく真面目な先輩という印象を抱かずにいられないその人が──刹那、鋭い刃のような気配を醸し出した。

「調子狂うのよね……巳姫さんは」

 巳姫に向けられるじっとりした眼光。本人はまるで気に留めていない様子で、ニコニコとした微笑みを絶やさない。僕の気のせいだったのだろうか。
 かごめと呼ばれる先輩は大きな溜息を吐き、

「それで、守谷透くん。この後、少し時間あるかしら?」

 何事も無かったかのように、不自然な程自然に問われた。

「なんで名前を……」
「それなりに有名だって自覚ないの? 週に一回は保健室、月に一回は診療所に訪れる、不幸体質の持ち主だって」
「え……」

 自覚は無かった。打撲だったり筋肉離れだったり、運動部ゆえの苦痛を味わうことは多かったが、そんなに多くの頻度だったろうか。学園の保健室、ついでに学園近くの芦屋診療所は僕のかかりつけ医のようなものだが。

「立ち話もなんだから、落ち着ける所で話さない? 巳姫さんには、昨日言ってた本を貸してあげる」
「まぁ、よろしいのですか?」
「構わないわ。常陸国風土記原本。読めばきっと、この世界がより広がって見えるでしょう。真実の姿は私には見えないけれど、貴方ならきっと」
「かごめ様ともあろう御方が、そのような……」
「というより、不可能なのよ。私たちは、ありのままの世界を認識しているわけではないの。記号。記号。分かりやすく整えられた形。本、写真、絵画、漫画、アニメ、そして現実。全て記号の集合体として認識しているに過ぎない。人は、収集した1100万ビットの情報の内、自我で知覚出来るのは僅か50ビット程度だってことは……いいわ。さ、守谷君もどうぞ。彼女の保護者でしょう?」
「は、はぁ……」

 正直、躊躇われた。
 出会って突然哲学ないし心理学についての講釈を述べられたこともあるが、なにより、彼女の背後に形成されていた見たことも無い影。闇というのはアレを言うのだろうか。それがまるで異世界への落とし穴であり、僕がその陥穽に嵌るのを今か今かと待っている……そんな気がした。
 結局、行く気満々の巳姫に手を引かれる形で、僕はかごめ先輩の後についていく事となった。

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