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CHAPTER.2 燥ぐ鈍色(ハシャグニビイロ)【天体衝突9ヶ月前(梅雨)】
§ 2ー6 6月24日 白猫の喫茶店
しおりを挟む--神奈川県・喫茶ル・シャ・ブラン--
ジトジトと湿気が高い日が続いておる。カランコロン♪ ドアが開くたびに、雨とアスファルトが混ざった匂いが鼻につき首を振ってそれを払う。そんな吾輩がムッとしているのを知らずに、「モカ~♪ かわいいねー」と気楽に頭や顎を撫でてくる者たちは止めていただきたい。ただただ眠い。だが、この店のシンボルとしてかまわれてあげるのも吾輩の大事な仕事だから仕方もない。
あの娘の楽し気な声が聞こえてくる。安心するとウトウトしてあくびが出る。すっかり身体にすら染み付いた珈琲の香りに包まれている。カウンターの寝床で丸まって髭を揺らしてから看板猫の自覚を忘れて眠りにつく。
最寄り駅から歩いて5分の場所にある喫茶店ル・シャ・ブランはオープンして丁度10年になる。4階建ての細長い雑居ビルの2階にある。1階には、ル・シャ・ブランよりも30年以上も昔から営業している焼き鳥屋で『やきとり・祭り』がある。3階にはゴッドハンド永山が座す『整体・永山』が入っている。最上階の4階にはとてもアラフォーには見えない、かきをママが営んでいる『スナック・かきを』(さすがに入ったことはない)は夜中26時まで看板を出している。
ル・シャ・ブランの入り口には、観葉植物がありガラスドアには看板猫モカをイメージしたイラストと共に【Le chat blanc】のフランス語がゴシック文字で描かれている。
店内は外から見える以上に広く、4人掛けのテーブルが8卓、2人掛けが16卓、カウンターが12席あり、その入り口に一番近い席がモカの指定席である。店の奥の方にトイレやスタッフルームがある。
赤みがある電球色の照明が、壁に飾られた店長が色々集めてきたソーサーと、何枚かの風景画と、北欧から取り寄せたという時間がくると男の子と女の子が踊り出すカラクリ時計を淡く彩らせる。
コーヒーも、もともと店を出す前からの店長の趣味だったということもあり、注文が入ってから豆を挽くこだわりが、オープンから10年経った今でも客足が絶えない一番の理由だろう。
娘の蜜柑ちゃんが調査・考案しているシフォンケーキや、お客からのリクエストで提供し出したサンドウィッチやトースト、ナポリタンなどのサイドメニューも店長がそれぞれの声に耳を傾けて試行錯誤したものだ。
店長の喜多見文春は、もともと食品輸入業の企業で世界を飛び回っていた。ル・シャ・ブランの繁盛ぶりを見れば相当仕事ができたことは想像するのは難しくない。そんな最中、取引先で知り合った涼子さんに猛アタックの末結婚し、娘の蜜柑もすぐに授かった。
家庭を持ち娘もすくすく成長し、順風満帆な生活だったが、仕事柄あまり家に帰る機会が少なかったのが仇となった。
インド出張の帰りの飛行機の機内で、電池が切れていたスマホをようやく充電し離陸前に妻の涼子にメッセージを送った。しかし、涼子からの【気をつけてね】という前日のやり取りの後に送った【充電が切れてスマホが使えなかったよ。今帰りの飛行機だから、明日の朝には帰るよ】いうメッセージは、返信もなければメッセージが読まれることもなかった。
出張の報告書をまとめ、その後疲れもあり眠り込んで、気づけば飛行機は日本の領空にまで差し掛かっていた。スマホを確認するが変化はない。微かな胸騒ぎ。
やっとのことで飛行機が到着し、電話を掛けても、トゥルルルル、トゥルルルル、と繰り返すばかり。一目散に我が家へ向かう。タクシーで家に着いたとき、玄関の鍵は空いていた。心臓の鼓動がドクン、ドクン。
「涼子! 蜜柑!」
先に進むのを恐れた両足は玄関で竦み、一息飲んでから、家族2人の名前をなんとか叫んだ。奥の微かに空いていたキッチンのドアから、声に反応して物音がした。いる! それは神経伝達より早く足を動かし、無意識にキッチンのドアを加減も忘れて開けた。
そこには、床にちょこんと座った蜜柑と、蜜柑の足の先に倒れた涼子の姿があった。パパ……、と声に出ない声でこちらに呼びかける顔。天井を瞬き1つせず見つめる涼子。妻の名を呼びかけ続ける文春。悲しみはいつも突然姿を現す。
その後、病院・警察の調べで妻の涼子は急性心不全で文春が家に帰る24時間前に亡くなったと分かった。苦しみはひと時だけだっただろうとのことが僅かに不幸中の幸いだっただろう。
しかし、問題は娘の蜜柑だった。病院では多少の栄養失調とのことで大事には至らなかったが、丸一日動かなくなった母の傍らに居続けたことで精神に影響があるのは明らかだった。どんな問い掛けにも反応は示さず、眼差しはただ目を開いていただけの虚無色に染まっていた。
妻の葬儀も終わり、幾日か何も考えられずにただ生きているだけの抜け殻のような日々の中、娘は縁側にポツリと座っていた。そのとき、庭に迷い込んできた痩せ細った白い子猫が弱々しく「ニャー……」と鳴きながら蜜柑の足下に擦り寄ってきた。その猫に視線を落とした娘は、じっと見つめた後一筋の涙を流した。それを無造作に見ていた文春は、一つの心の声を聞いた。
『娘だけはなんとしても守らなければ!』
そこから文春は会社を辞め、悲しみが残る家も売り、前々から趣味にしていたコーヒー淹れを活かし喫茶店を開くことにした。娘と一緒にいる時間を得るために。
豆や内装などは前職のツテを最大限に利用し、妻が生前から構っていたときにモカと呼んでいたあの白い子猫を新しい家族に迎え、感謝と想いを忘れぬように店の名前をフランス語で白猫を意味するル・シャ・ブランとした。
それから10年。娘の蜜柑も高校生になり、当時のことも薄れて元気に健やかに成長している。娘を育て上げるため、そのためにも店を繁盛させる。今日もまた、喜多見文春は一杯のコーヒーに手を抜かず、思いを込めて淹れる。
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