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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第28話 「見抜かれと時間とルンダンと」
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その男が現れる日は、なぜか厨房の空気が一段深くなる。
「……来たな」
奏がそう呟いた瞬間、勝手口のドアが軋んだ。
「こんにちはー今日、ちょっと重いですよ」
段ボール箱を二つ抱えた男――川谷はじめが、相変わらず掴みどころのない笑顔で立っていた。
「何が重い?」
「時間です」
「時間?」
意味のわからない返事をしながら、川谷は箱を置く。
結が中を覗き、目を丸くした。
「……香辛料?」
「しかも、全部生」
「乾燥じゃない……?」
レモングラス、ガランガル、ターメリックの根、カフィアライムの葉。
日本の地方ホテルの厨房には、まず並ばない顔ぶれだった。
「……川谷」
奏が低い声で言う。
「ルンダン……か・」
「え?」
結が声を上げる。
「ルンダンって……あの、インドネシアの?」
「そう。
煮込み続けて、煮込み続けて、煮込み続けるやつ」
川谷は肩をすくめた。
「二、三時間じゃ足りません。
四時間でも、まだ途中です」
京子がフロントから顔を出す。
「ちょっと待って、今日のお客さん、普通に夕食食べるわよね?」
「ええ」
川谷は笑う。
「だからこれは、“今日の料理”じゃない」
厨房が静まり返った。
「……じゃあ、何のために?」
結が尋ねる。
川谷は、一拍置いてから言った。
「料理人のためですね」
奏は何も言わなかったが、鍋を出した。
大きな厚手の鍋。
煮込みに耐える、それだけの重さを持つもの。
「やるか」
「やるんですね!?」
千夏が目を輝かせる。
「何やるんですか!?」
「千夏ちゃん、今日は長いよ~」
結が言うと、千夏は即答した。
「残っても良いですか!」
「支配人に許可は取っておけよあと親御さんには連絡しろよ」
ぬくも、なぜか厨房の入り口にどっかり座った。
牛肉を切る。
香辛料を潰す。
ココナッツミルクを鍋に入れる。
火は弱く、弱く。
奏は、ほとんど喋らなかった。
川谷は、指示もしなかった。
ただ、ときどき鍋の中を覗き込み、
「……まだですね」
それだけを言う。
時間が、ゆっくり沈んでいく。
京子がコーヒーを差し入れし、
快が「これ、営業的に大丈夫ですか?」と支配人に聞き、
支配人は「なんとなく、今日はいい気がする」とよくわからないことを言った。
舞は工具箱を持ったまま立ち止まり、
「壊れる前に、直す時間ってことかな」
とだけ言った。
「へぇ~舞さん鋭いね~」
四時間目。
鍋の中は、もう“煮込み”ではなかった。
水分が消え、
肉が香辛料と油を抱き込む。
「……焦げるんじゃ」
結が不安そうに言う。
「焦がすんですよ」
川谷が即答した。
「正確には、“焦げる直前”を何度も越える」
奏が、木べらで鍋底を削る。
ぎり、と音がした。
「……川谷」
「はい」
「お前、これ作れるのか」
川谷は首を振った。
「まさか~無理ですよ~」
「だろうな」
「でも」
川谷は、初めて真剣な目をした。
「“作れる人”が、今ここにいる」
奏は、何も言わず、火をさらに弱めた。
五時間半。
厨房には、深く、重く、甘く、辛い香りが満ちていた。
「……完成ですか」
川谷が言った。
「ああ……完成だ」
鍋の中には、黒褐色の肉。
派手さはないが、圧がある。
結は、ごくりと喉を鳴らした。
「……これ、出すんですか?」
「出しません」
「え!?」
「今日は、スタッフみなさんで」
支配人が笑った。
「それ、いいね」
一口。
噛む。
ほどける。
味が、遅れて追いついてくる。
「……なにこれうまい!!」
京子が呆然とする。
「辛いのに、優しい……」
「重いのに、残らない」
快が静かに言う。
千夏は、しばらく黙って噛んでいたが、
「……これ」
目を潤ませた。
「時間の味、ですね」
奏は、何も言わなかった。
ただ、箸を置き、鍋を見た。
食べ終わったあと。
川谷は、いつもの調子に戻っていた。
「では、またそのうち来ます」
「待て」
奏が呼び止める。
「なんで、今日だった……」
川谷は少し考え、
「あんた……スランプ匂ってたのでね」
奏は眉を動かした。
「余計なお世話だ」
「はい」
川谷は笑う。
「でも、料理人は
“作れる自分”を信じられなくなるときがある」
奏をまっすぐ見た。
「ルンダンは、
“信じて待つ料理”ですから」
そう言って、川谷は帰っていった。
夜。
ぬくが、鍋の前で丸くなって寝ている。
結は、奏に言った。
「……助けられましたね」
「……ああ」
奏は、静かに答えた。
第29話 「静かさとボクサーとポポティー(南アフリカ風ミートローフ)」につづく
「……来たな」
奏がそう呟いた瞬間、勝手口のドアが軋んだ。
「こんにちはー今日、ちょっと重いですよ」
段ボール箱を二つ抱えた男――川谷はじめが、相変わらず掴みどころのない笑顔で立っていた。
「何が重い?」
「時間です」
「時間?」
意味のわからない返事をしながら、川谷は箱を置く。
結が中を覗き、目を丸くした。
「……香辛料?」
「しかも、全部生」
「乾燥じゃない……?」
レモングラス、ガランガル、ターメリックの根、カフィアライムの葉。
日本の地方ホテルの厨房には、まず並ばない顔ぶれだった。
「……川谷」
奏が低い声で言う。
「ルンダン……か・」
「え?」
結が声を上げる。
「ルンダンって……あの、インドネシアの?」
「そう。
煮込み続けて、煮込み続けて、煮込み続けるやつ」
川谷は肩をすくめた。
「二、三時間じゃ足りません。
四時間でも、まだ途中です」
京子がフロントから顔を出す。
「ちょっと待って、今日のお客さん、普通に夕食食べるわよね?」
「ええ」
川谷は笑う。
「だからこれは、“今日の料理”じゃない」
厨房が静まり返った。
「……じゃあ、何のために?」
結が尋ねる。
川谷は、一拍置いてから言った。
「料理人のためですね」
奏は何も言わなかったが、鍋を出した。
大きな厚手の鍋。
煮込みに耐える、それだけの重さを持つもの。
「やるか」
「やるんですね!?」
千夏が目を輝かせる。
「何やるんですか!?」
「千夏ちゃん、今日は長いよ~」
結が言うと、千夏は即答した。
「残っても良いですか!」
「支配人に許可は取っておけよあと親御さんには連絡しろよ」
ぬくも、なぜか厨房の入り口にどっかり座った。
牛肉を切る。
香辛料を潰す。
ココナッツミルクを鍋に入れる。
火は弱く、弱く。
奏は、ほとんど喋らなかった。
川谷は、指示もしなかった。
ただ、ときどき鍋の中を覗き込み、
「……まだですね」
それだけを言う。
時間が、ゆっくり沈んでいく。
京子がコーヒーを差し入れし、
快が「これ、営業的に大丈夫ですか?」と支配人に聞き、
支配人は「なんとなく、今日はいい気がする」とよくわからないことを言った。
舞は工具箱を持ったまま立ち止まり、
「壊れる前に、直す時間ってことかな」
とだけ言った。
「へぇ~舞さん鋭いね~」
四時間目。
鍋の中は、もう“煮込み”ではなかった。
水分が消え、
肉が香辛料と油を抱き込む。
「……焦げるんじゃ」
結が不安そうに言う。
「焦がすんですよ」
川谷が即答した。
「正確には、“焦げる直前”を何度も越える」
奏が、木べらで鍋底を削る。
ぎり、と音がした。
「……川谷」
「はい」
「お前、これ作れるのか」
川谷は首を振った。
「まさか~無理ですよ~」
「だろうな」
「でも」
川谷は、初めて真剣な目をした。
「“作れる人”が、今ここにいる」
奏は、何も言わず、火をさらに弱めた。
五時間半。
厨房には、深く、重く、甘く、辛い香りが満ちていた。
「……完成ですか」
川谷が言った。
「ああ……完成だ」
鍋の中には、黒褐色の肉。
派手さはないが、圧がある。
結は、ごくりと喉を鳴らした。
「……これ、出すんですか?」
「出しません」
「え!?」
「今日は、スタッフみなさんで」
支配人が笑った。
「それ、いいね」
一口。
噛む。
ほどける。
味が、遅れて追いついてくる。
「……なにこれうまい!!」
京子が呆然とする。
「辛いのに、優しい……」
「重いのに、残らない」
快が静かに言う。
千夏は、しばらく黙って噛んでいたが、
「……これ」
目を潤ませた。
「時間の味、ですね」
奏は、何も言わなかった。
ただ、箸を置き、鍋を見た。
食べ終わったあと。
川谷は、いつもの調子に戻っていた。
「では、またそのうち来ます」
「待て」
奏が呼び止める。
「なんで、今日だった……」
川谷は少し考え、
「あんた……スランプ匂ってたのでね」
奏は眉を動かした。
「余計なお世話だ」
「はい」
川谷は笑う。
「でも、料理人は
“作れる自分”を信じられなくなるときがある」
奏をまっすぐ見た。
「ルンダンは、
“信じて待つ料理”ですから」
そう言って、川谷は帰っていった。
夜。
ぬくが、鍋の前で丸くなって寝ている。
結は、奏に言った。
「……助けられましたね」
「……ああ」
奏は、静かに答えた。
第29話 「静かさとボクサーとポポティー(南アフリカ風ミートローフ)」につづく
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