ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第48話 誤魔化しがきかないと指導係と親子丼と

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 その日は、朝から少し空気が違った。
 厨房に入ると、結は奏に呼び止められた。

「結」
「今日から、榊原の指導は結の仕事だ」

「……え?」

 一瞬、言葉を失う。

「指導役、ってことですか?」

「ああ」

「……私で、いいんですか」

 結は思わず、視線を落とした。
 料理人としても、年齢としても、榊原のほうが“上”だ。

 奏は、静かに言った。

「君だからだ」

 それ以上の説明はない。
 でも、その一言が、結の背中を押した。

「……わかりました」

 そう答えた瞬間、胸の奥で、かすかな緊張が鳴った。

「今日のまかないは?」
 支配人が聞く。

「親子丼にします」
 奏が言った。
「榊原、作れ」

「了解です」
 榊原は即答する。
「親子丼なら、問題ないです」

 結は、その言い切りに、少しだけ眉をひそめた。

 下処理。

 鶏もも肉を切る包丁は、速い。
 だが、筋を逃し、サイズがまちまちだ。

「……榊原さん」
 結は、できるだけ穏やかに声をかける。
「大きさ、揃えてください」

「え?」
「火通り、変わるでしょ」
「小さいのは硬くなるし」

「……誤差の範囲じゃないですか?」
「最終的に卵でまとめるし」

 結は、言葉を飲み込みそうになって、踏みとどまった。

「親子丼は」
「“まとめる料理”じゃないです」

 榊原の手が止まる。

「鶏が主役です」
「卵は、包むだけ」

 一瞬、榊原の目に苛立ちが浮かんだ。

「……はいはい」

(……はいはい、って)

 結の胸が、ちくりと痛む。

 割り下。

 醤油、みりん、砂糖、だし。

 榊原は、分量を量らず、目分量で合わせた。

「……確認、いいですか」

 結が言う。

「あとで調整しますよ」
「火入れで」

「でも、今の段階で」
「甘み、強いです」

「親子丼は甘いもんでしょ?」

 結は、はっきり言った。

「違います」

 榊原が、顔を上げる。

「……は?」

「甘い“だけ”は、違います」
「鶏の脂とだしが出て」
「そのあとに、甘みが残るんです」

「……理屈っぽいな」

 空気が、ぴり、と張った。

 京子が遠くで見ていて、口を押さえる。

(始まった……)

 火入れ。

 フライパンに割り下、鶏肉。

 ぐつぐつ、と音が立つ。

 だが、火が強すぎる。

「……火、落としてください」

「大丈夫です」
「火力あったほうが、早いんで」

 鶏の表面が、急激に締まる。

「……」

 結は、一歩前に出た。

「榊原さん」
「今、鶏、硬くなります」

「……」

「親子丼は」
「スピードじゃないです」

 榊原は、フライパンを振る手を止めた。

「……結さんさ」
「ちょっと、細かすぎません?」

「まかないですよ?」
「客に出す料理じゃない」

 結の胸が、ぎゅっと縮む。

 でも、逃げなかった。

「……だからです」

「は?」

「まかないは」
「料理人が、いちばん油断する料理です」

 榊原は、言い返そうとして、言葉に詰まる。

「……油断した味は必ず、他にも出ます」

 厨房が、静まり返った。

 奏は、何も言わず、ただ見ている。

 卵。

 溶きすぎて、白身が消えすぎている。

「……混ぜすぎです」

「均一のほうが、きれいでしょ」

「親子丼は」
「“白身の揺らぎ”が、食感です」

 榊原は、苛立ちを隠さなくなった。

「じゃあ、どうしろって言うんですか」
「正解、全部決まってるんですか?」

 結は、一瞬だけ黙った。

 そして、静かに言った。

「正解は鍋の中にあります」

「……意味わかんないです」

「見てください」

 結は、フライパンを指差す。

「今の匂い」
「鶏の音」
「泡の立ち方」

 榊原は、無意識に視線を落とした。

「……聞いてない」
「見てない」

 結は、はっきり言った。

「榊原さん」
「今、あなたは料理を“見てない”です」

 その言葉が、深く刺さった。

 完成。

 丼に盛られた親子丼は、
 見た目は、悪くない。

 だが。

 一口。

 ……。

 榊原の箸が、止まった。

 鶏は、やや硬い。
 割り下は、甘さが前に出すぎる。
 卵は、ふわりではなく、均一すぎて重い。

「……」

 京子も、快も、無言だった。

 支配人が、ぽつりと言う。

「……腹は、満たされるな」

 榊原の肩が、わずかに落ちた。

 結は、静かに言った。

「昨日のチャーハンも」
「今日の親子丼も」

「“悪くない”です」

 榊原が、顔を上げる。

「……でも」
「心に残らない」

 その瞬間。

 榊原の自信が、音を立てて崩れた。

「……俺」
「作れてるつもりだった」

 声が、少し震えている。

「……でも」
「ちゃんと、向き合ってなかった」

 結は、胸の奥が、少しだけ痛んだ。

「……榊原さん」

「……悔しいっす」

 榊原は、丼を見つめたまま言った。

「……料理が」
「こんなに、正直だと思わなかった」

 そのとき、奏が初めて口を開いた。

「気づいたなら」
「まだ、間に合う」

 榊原は、ゆっくり頷いた。

「……もう一回」
「作っていいですか」

 結は、答えた。

「はい」

「今度は」
「ちゃんと、見ます」

 火を落とし、鍋を見る。

 親子丼の湯気が、静かに立ち上る。

 結は、その背中を見ながら思った。

(……教えるって)
(こんなに、怖くて)
(こんなに、向き合うことなんだ)

 でも。

 だからこそ。

 この厨房には、意味がある。

 親子丼は、
 人の未熟さを、
 そして、伸び代を――
 逃がさず、映していた。

第49話 「公と結と料理勝負と炊き込みご飯と」につづく
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