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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第64話 翌日と距離感とレモンパイと
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朝の厨房は、いつも通りの音で満ちていた。
包丁がまな板を打つ乾いたリズム、寸胴の中で揺れる湯気、コーヒーの香り。
「おはようございます」
結は、いつもと同じ声量で言ったつもりだった。
奏は一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を鍋へ戻す。
「おはよう」
それだけ。
目は、合わなかった。
それが、昨日までと決定的に違う。
結は冷蔵庫からバターを取り出しながら、指先がわずかに震えるのを自覚した。
思い出そうとしなくても、昨夜のキスが浮かぶ。
――短くて、静かで、逃げ場のない距離。
砂糖を計量する手が、ほんの少し狂う。
結は舌打ちを飲み込み、深呼吸した。
今日はレモンパイの仕込みがある。
木島の指示で、デザートを一新することになったのだ。
「結、レモンは皮も使う。白い部分は削ぎすぎるな」
奏の声が、背後から落ちる。
近い。
昨日までは気にならなかった距離が、今日はやけに熱を帯びて感じられた。
結は頷くだけで返事をし、視線を落とす。
皮を削る。
レモンの香りが立ち上る。
爽やかで、少し尖っていて、後味に苦みが残る。
――今の自分みたいだ。
奏は無意識なのか、結の動線に人が近づくとさりげなく身体を入れ替える。
熱い鍋が運ばれるときも、重たい鉄板が通るときも。
「危ない」
短い声と同時に、結の肩を引く。
触れる。
ほんの一瞬。
結の呼吸が詰まり、奏もまた一拍遅れて手を離した。
その様子を、京子は見逃さない。
「……ふーん?」
わざとらしく首を傾げる。
快も頬を掻きながら、ちらちらと二人を見る。
「なんかさ、今日、妙に距離近くない?」
「気のせいですよ」
結が即答する。
奏も間髪入れずに言った。
「忙しいだけだ」
二人の返答が揃いすぎて、京子は笑う。
「はいはい。じゃあそれで良しとしましょう」
それ以上踏み込まないほうが良いだろうと感じていた。
昼前、レモンパイの仕上げに入る。
タルト生地を空焼きし、レモンカードを流し込み、低温でゆっくり火を入れる。
結は泡立て器を動かしながら、ふと奏を見る。
真剣な横顔。
眉間の皺。
昨日と同じ人なのに、見え方が違う。
「……焼き、どう思いますか」
結が恐る恐る聞く。
「もう少し。酸が立つ前に止めたいな」
即答だった。
仕事の声だ。
でも、そのあと小さく付け足す。
「いい香りだ」
胸の奥が、きゅっと鳴る。
午後、木島が厨房を一巡して言った。
「なんというか……空気が変わったな」
結も奏も、同時に動きを止めた。
「悪い意味じゃないぞ」
木島は続ける。
「なんというか無駄が減った。互いの動きが読めてる」
一拍置いて、にやりと笑う。
「ま、仕事に支障がなければ何でも良いがな」
去り際、京子と快が目を合わせ、無言で頷いた。
――ああ、全部バレてる。
でも、誰も何も言わない。
焼き上がったレモンパイは、表面がわずかに揺れ、切るときにナイフがすっと入った。
一口味見をして、結は息を吐く。
「……おいしい」
酸味が鋭く、甘さが遅れて追いかけてくる。
大人の味だ。
奏も一口食べる。
「悪くない」
そう言ってから、少しだけ声を落とす。
「今の、俺たちみたいだな」
結は驚いて顔を上げる。
奏はもう、いつもの距離に戻っていた。
「……はい」
短く返しながら、結は思う。
何も変わっていない。
厨房も、仕事も、役割も。
でも、確実に全部が違う。
気まずくて、ぎこちなくて、
それでも、離れる気はない。
レモンパイの酸味が、口の奥に長く残っていた。
第65話「イライラと爆発と揚げピザと」につづく
包丁がまな板を打つ乾いたリズム、寸胴の中で揺れる湯気、コーヒーの香り。
「おはようございます」
結は、いつもと同じ声量で言ったつもりだった。
奏は一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を鍋へ戻す。
「おはよう」
それだけ。
目は、合わなかった。
それが、昨日までと決定的に違う。
結は冷蔵庫からバターを取り出しながら、指先がわずかに震えるのを自覚した。
思い出そうとしなくても、昨夜のキスが浮かぶ。
――短くて、静かで、逃げ場のない距離。
砂糖を計量する手が、ほんの少し狂う。
結は舌打ちを飲み込み、深呼吸した。
今日はレモンパイの仕込みがある。
木島の指示で、デザートを一新することになったのだ。
「結、レモンは皮も使う。白い部分は削ぎすぎるな」
奏の声が、背後から落ちる。
近い。
昨日までは気にならなかった距離が、今日はやけに熱を帯びて感じられた。
結は頷くだけで返事をし、視線を落とす。
皮を削る。
レモンの香りが立ち上る。
爽やかで、少し尖っていて、後味に苦みが残る。
――今の自分みたいだ。
奏は無意識なのか、結の動線に人が近づくとさりげなく身体を入れ替える。
熱い鍋が運ばれるときも、重たい鉄板が通るときも。
「危ない」
短い声と同時に、結の肩を引く。
触れる。
ほんの一瞬。
結の呼吸が詰まり、奏もまた一拍遅れて手を離した。
その様子を、京子は見逃さない。
「……ふーん?」
わざとらしく首を傾げる。
快も頬を掻きながら、ちらちらと二人を見る。
「なんかさ、今日、妙に距離近くない?」
「気のせいですよ」
結が即答する。
奏も間髪入れずに言った。
「忙しいだけだ」
二人の返答が揃いすぎて、京子は笑う。
「はいはい。じゃあそれで良しとしましょう」
それ以上踏み込まないほうが良いだろうと感じていた。
昼前、レモンパイの仕上げに入る。
タルト生地を空焼きし、レモンカードを流し込み、低温でゆっくり火を入れる。
結は泡立て器を動かしながら、ふと奏を見る。
真剣な横顔。
眉間の皺。
昨日と同じ人なのに、見え方が違う。
「……焼き、どう思いますか」
結が恐る恐る聞く。
「もう少し。酸が立つ前に止めたいな」
即答だった。
仕事の声だ。
でも、そのあと小さく付け足す。
「いい香りだ」
胸の奥が、きゅっと鳴る。
午後、木島が厨房を一巡して言った。
「なんというか……空気が変わったな」
結も奏も、同時に動きを止めた。
「悪い意味じゃないぞ」
木島は続ける。
「なんというか無駄が減った。互いの動きが読めてる」
一拍置いて、にやりと笑う。
「ま、仕事に支障がなければ何でも良いがな」
去り際、京子と快が目を合わせ、無言で頷いた。
――ああ、全部バレてる。
でも、誰も何も言わない。
焼き上がったレモンパイは、表面がわずかに揺れ、切るときにナイフがすっと入った。
一口味見をして、結は息を吐く。
「……おいしい」
酸味が鋭く、甘さが遅れて追いかけてくる。
大人の味だ。
奏も一口食べる。
「悪くない」
そう言ってから、少しだけ声を落とす。
「今の、俺たちみたいだな」
結は驚いて顔を上げる。
奏はもう、いつもの距離に戻っていた。
「……はい」
短く返しながら、結は思う。
何も変わっていない。
厨房も、仕事も、役割も。
でも、確実に全部が違う。
気まずくて、ぎこちなくて、
それでも、離れる気はない。
レモンパイの酸味が、口の奥に長く残っていた。
第65話「イライラと爆発と揚げピザと」につづく
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