ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第108話 前日・眠れない・包丁を研ぐ夜

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 夜の厨房は、昼よりも広く感じた。

 照明は半分だけ落とされ、
 ステンレスの作業台が鈍く光っている。

 結は、一人だった。

 白衣の袖をまくり、
 砥石を水に沈める。

 ぽちゃん、という音がやけに大きく響いた。

(眠れない)

 ベッドに入っても、
 目を閉じると、
 「課題食材は――」という声だけが浮かぶ。

 まだ聞いていない言葉。
 なのに、何度も頭の中で繰り返される。

 結は包丁を取り出した。

 普段使っている牛刀。
 手に馴染んだ重さ。

 砥石の上に刃を当てる。

 シャリ……
 シャリ……

 一定の角度。
 一定のリズム。

 頭を空っぽにするためのいつもの作業。

(……今日は、雑音が多い)

 手は覚えているのに、
 心が追いつかない。

 研いでいるのに、
 刃先が整っていく感覚が遠い。

 結は一度手を止めた。

 刃を拭き指先でそっとなぞる。

 ――まだ甘い。

「……もう一回」

 また砥石に当てる。

 シャリ……
 シャリ……

 同じ音。
 同じ動き。

 それなのに、
 胸の奥だけがざらついていく。

(もし、全然違う食材だったら)

 考えないようにしていた想像が、
 隙間から染み出してくる。

 火を入れられないものだったら。
 下処理に時間がかかるものだったら。
 そもそも、触ったことのないものだったら。

 手元がほんの一瞬狂う。

 キィン、と高い音。

 結は息を止めた。

 包丁を離し、
 砥石の上を見る。

 削り粉が少し乱れている。

「……集中だよ私」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 包丁は嘘をつかない。
 雑に扱えば雑な刃になる。

 それだけは分かっている。

 結はもう一度深く息を吸い、
 今度はゆっくり、
 研ぐ回数を数え始めた。

 一回。
 二回。
 三回。

 数字を追っている間だけ、
 未来を考えなくて済む。

 刃が少しずつ冴えていく。

 その感覚だけが、
 今夜唯一信じられるものだった。

 しばらくして、
 背後で足音がした。

「……まだ起きてたか」

 奏だった。

「うるさかったですか」

「いや」

 奏は少し離れたところに立ち、
 結の手元を見る。

 しばらく何も言わない。

 結はその沈黙がありがたかった。

「……止め時分からなくなって」

 結がぽつりと言う。

「分からなくなったら、
 “十分だ”って思ったところから、
 もう十回」

「十回……」

「それ以上は刃が疲れる」

 結は言われた通りに数え、
 十回で包丁を上げた。

 刃を拭き、
 光にかざす。

 きれいな直線。

 やっと、納得できる顔になる。

「……ありがとうございます」

「眠れそうか」

 結は少し考えてから首を振った。

「でも、これでいいです」

 奏はそれ以上何も言わなかった。

 厨房の灯りを少し落とし、
 先に出ていく。

 結は包丁をそっとケースに戻した。

 眠れない夜はまだ続く。
 不安も消えない。

 それでも――

(刃は、ちゃんと整った)

 それだけで、
 今夜は十分だった。
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