ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第127話 豚肉の役割

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 深夜の厨房はいつもより広く感じた。

 照明は必要最低限。
 換気扇の低い唸りと冷蔵庫の小さな作動音だけが規則的に響く。

 結は作業台の前に立ったまま動けずにいた。

 目の前には――
 磨かれたまな板、研ぎ澄まされた包丁、そして一枚の豚肉。

 国産の肩ロース。
 きめ細やかな脂肪が白く入り赤身は落ち着いた深い色をしている。

 良い肉だ。
 非の打ちどころがない。

 それなのに結の中には何も降りてこなかった。

「前菜はあんなに早かったのに」

 トマトのプリンとバジルのムースはほとんど一晩で形になった。
 スープも迷いながらも“最後の一手”を見つけた。

 魚料理は自分とぶつかり合いながらも確かに完成した。

 なのに、豚肉だけが霧の中にある。

 結は指先で肉の表面に触れた。
 冷たくしかし柔らかい。

「私は……何をしたいんだろう」

 コースは物語だ――奏の言葉が頭の中で反響する。

 前菜は「太陽の恵み」。
 スープは「深海」。
 魚は「光の海」。

 では、豚肉は?

 試作というなの迷走

 結は一度肉に包丁を入れた。

 筋を取り、塩を振り、低温でゆっくり火を通す。
 表面を焼きソースは白ワインベースの軽いものを合わせてみた。

 皿に盛る。
 一口、味見。

――美味しい。

 間違いなく美味しい。
 でも違う。

 結はフォークを置いた。

「……これじゃ普通だ」

 完成度は悪くない。

 だが物語がない。

二度目の試作

 今度は逆に強さを出そうとした。

 ニンニク、黒胡椒、濃い赤ワインソース。
 皮目をしっかり焼きカリッとした食感を狙う。

皿に盛る。
一口。

 主張はしている。
 だが、コース全体から浮いている。

 前菜の繊細さ、スープの黒、鯛の透明感。
 その流れの中でこの皿はただの“力技”だった。

 結は皿を下げた。

 奏の気配

 そのとき静かに厨房のドアが開いた。

「まだやってたのか」

 奏だった。

 結はびくりと肩を揺らす。

「……すみません。
 まだ、決まらなくて」

 奏は作業台の上を一瞥した。
 失敗作とも完成品とも言えない皿。
 切り分けられた豚肉。
 汚れた鍋。

「食ベてみたのか?」

「……はい。でも、しっくり来なくて」

 奏は何も言わず結が焼いた肉の一切れをつまんだ。
 ほんのひと口だけ噛み締める。

 咀嚼は短い。

「美味い」

 結の胸が少しだけ痛んだ。

「でも、迷ってる味だな」

図星だった。

「豚はこのコースの何の象徴だと思う?」

 奏は結の横に立ったまま問いかけた。

 結は考える。

「……力、ですか」

「それもある」

「……生命力?」

「それも、間違ってない」

 奏は冷蔵庫から新しい豚肉を取り出しまな板に置いた。

「だけどな」

 包丁の柄を軽く指で叩く。

「豚ってのはもっと日常的な生き物だ」

 結は顔を上げた。

 奏の一言

「特別じゃない日の食卓の肉だ」

 静かな言葉。

 だが、結の中で何かが弾けた。

 結の記憶

 ふと、結は思い出す。

 避難所で食べた炊き出し。
 あのとき出てきたのは豪華な料理ではなかった。

 湯気の立つ温かい豚汁。
 柔らかく煮込まれた豚肉。
 シンプルなのに泣きそうになる味。

 あれは決して派手ではなかった。

 でも生きるための味だった。

 結の喉がわずかに締まる。

 新しい仮説

 結は静かに包丁を握り直した。

「……豚は“支える側”の味かもしれない」

 奏は何も言わない。

 結は肉を整え今度は全く違うアプローチを試みた。

 低温でゆっくり火を入れ表面だけを軽く焼く。
 ソースは濃くしない。
 代わりに――

 豚の骨から取った澄んだブイヨンを煮詰めたものをほんの一滴だけ垂らす。

 付け合わせは最小限。
 甘さを抑えたリンゴのピュレをほんの少しだけ添える。

 皿に盛る。

 結は一口だけ口に運んだ。

「あ」

 味が静かに広がった。

 派手ではない。
 強くもない。

 でも――確かに“中心”にある味。

 前菜のトマトの赤。
 黒いボンゴレスープ。
 光の鯛。

 その流れを下から支えるような存在感。

 結の手がわずかに震えた。

 奏はひと口だけ味見する。

 長い沈黙。

 そして短く言った。

「――美味しい」

 それだけ。

 だが、その一言はどんな長い講評よりも重かった。

 夜明け前

 結は作業台に両手をつき、小さく息を吐いた。

 まだ完成ではない。
 盛り付けも細部も詰める余地はいくらでもある。

それでも――

「……豚の役割が見えた」

 厨房の窓の向こうがわずかに白み始めていた。

 結は静かに次の仕込みに取りかかる。

 決勝のコースは確かに少しずつ――
 “ひとつの物語”になりつつあった。
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