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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に
第129話 ナッツの苦悩
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厨房は甘い匂いで満ちていた。
しかしそれは心を浮き立たせる甘さではなかった。
重く絡みつき喉の奥に残る甘さだった。
結は作業台の前に立ち何度目か分からない試作皿を見下ろしていた。
ヘーゼルナッツのプラリネを練り込んだムース。
アーモンドのダックワーズ。
上には細かく砕いたピスタチオのクランブル。
見た目は美しい。
均整が取れている。
コンクールのデザートとして
何の違和感もない。
結はスプーンですくい一口を口に運んだ。
甘い。
ただそれだけだった。
層はきれいに重なっているのに奥行きがない。
食感は悪くないのに記憶に残らない。
前菜から続く“物語”がここで途切れている。
スプーンが皿に触れる音がやけに大きく響いた。
「……違う」
小さく呟く。
誰に向けた言葉でもない。
背後の作業台には失敗作が並んでいた。
・ナッツのパルフェ
・アーモンドミルクのブラマンジェ
・ピスタチオのムースとベリーのソース
・キャラメリゼしたナッツのアイスクリーム
・クルミのクレームブリュレ
どれも技術的には破綻していない。
むしろ一定以上の完成度がある。
だからこそ結は追い詰められていた。
「上手いだけ」の皿がいくらでも作れてしまう。
彼女が欲しいのはそれではない。
コースの最後に置くべきは単なる甘味ではない。
前菜のトマトの鮮烈さ。
黒いボンゴレスープの深い余韻。
海水を思わせる鯛のソテー。
日常と非日常の香りを宿した豚肉。
それらを受け止め閉じるデザートでなければならない。
結は指先に残ったプラリネを拭いもせず掌を見つめた。
ねっとりとした甘さが皮膚に張り付いているように感じた。
扉が静かに開いた。
舞が顔を出す。
「まだやってるの?」
結は振り返らない。
「うん」
舞はカウンター越しに皿を覗き込み一口味見した。
ほんの数秒黙る。
「……美味しいけど結の皿じゃないね」
結は唇を結んだ。
「分かってる」
舞はフォークを置き肩をすくめる。
「ナッツってさ優等生すぎるんだよね。
何に入れても“それっぽく”なる」
結はその言葉に小さく息を吐いた。
「殻の中身が見えない感じがする」
舞は首を傾げる。
「殻?」
「硬くて閉じてて。
割らないと中身が分からない。
でも割り方を間違えると粉々になる」
舞は少しだけ考え笑った。
「それ、結っぽい考え方だと思うよ」
結は返さなかった。
足音が近づく。
低く一定のリズムだ。
奏は結の隣に立ち皿を見下ろした。
何も言わない。
ただ、静かに眺める。
結はその沈黙に耐えきれず先に口を開いた。
「甘いだけのデザートになっちゃいました」
奏は一度だけ頷いた。
「そうか」
それだけ。
結は思わず苛立ちに近い感情を覚える。
「どうしたらいいか分からないんです!!
ナッツは香りも味も強いのに全部が均一になってしまう」
奏は作業台に並ぶ試作を見渡した。
「お前はナッツを“味”としてしか見てないな」
結は眉をひそめる。
「……違う見方があるんですか」
奏はヘーゼルナッツを一粒つまみ結の前に差し出した。
「噛んでみろ」
結は言われた通りに噛む。
最初に乾いた抵抗。
次に香ばしさ。
そしてじわりと広がる油分。
奏は静かに言った。
「殻がある理由を考えろ」
結は言葉を失った。
深夜の厨房
時計の針は午前二時を回っていた。
スタッフはすでに帰り
換気扇の低い唸りだけが響いている。
結は一人ナッツを並べていた。
アーモンド。
ヘーゼルナッツ。
クルミ。
ピスタチオ。
ピーカンナッツ。
それぞれをローストし香りを確かめる。
一粒ずつ噛み舌で転がす。
甘さではなく苦味でもなく油でもなく
その先にある何かを探すように。
ふと、クルミを割った瞬間の音が頭に浮かぶ。
硬い殻が裂けるあの短い破裂音。
「殻の内側」
結は無意識に小さく呟いた。
スケッチブックを取り出しペンを走らせる。
・外側:硬さ
・内側:柔らかさ
・割れる瞬間:変化
・口の中:温度で広がる油分
線が重なりやがて一つの言葉にまとまっていく。
「層じゃない……“過程”だ」
結は立ち上がり鍋を火にかけた。
フライパンで粗く砕いたヘーゼルナッツを軽く乾煎りする。
そこへほんの少量の砂糖を落とす。
焦げる寸前、香りが立ち上る瞬間で火を止める。
別の鍋で生クリームを温め細かく刻んだナッツを浸す。
しばらく置き香りを移す。
そして、まだ固まらない液体を小さなグラスに注いだ。
上からほんの一つまみの塩。
結はスプーンで掬い口に運ぶ。
甘くない。
しかし、空虚でもない。
ナッツの香りが温度とともにゆっくりと広がり
最後にかすかな塩味が輪郭を与える。
結の胸がわずかに高鳴った。
まだ完成ではない。
だが、方向は見えた。
夜明け前の静寂
空が薄く白み始める。
結は作業台に突っ伏し短く息を吐いた。
疲労感はある。
だが、そこに絶望はない。
ノートには一つの言葉が書かれていた。
「殻から解放される甘さ」
背後で再び足音がした。
奏だった。
結は振り返らずに言う。
「まだ、全然できてません」
奏はそれでもわずかに口元を緩めた。
「今の顔は昨日と違う」
結は手のひらを見た。
ナッツの油が薄く光っている。
その光の中に次の皿の輪郭がうっすらと浮かび始めていた。
しかしそれは心を浮き立たせる甘さではなかった。
重く絡みつき喉の奥に残る甘さだった。
結は作業台の前に立ち何度目か分からない試作皿を見下ろしていた。
ヘーゼルナッツのプラリネを練り込んだムース。
アーモンドのダックワーズ。
上には細かく砕いたピスタチオのクランブル。
見た目は美しい。
均整が取れている。
コンクールのデザートとして
何の違和感もない。
結はスプーンですくい一口を口に運んだ。
甘い。
ただそれだけだった。
層はきれいに重なっているのに奥行きがない。
食感は悪くないのに記憶に残らない。
前菜から続く“物語”がここで途切れている。
スプーンが皿に触れる音がやけに大きく響いた。
「……違う」
小さく呟く。
誰に向けた言葉でもない。
背後の作業台には失敗作が並んでいた。
・ナッツのパルフェ
・アーモンドミルクのブラマンジェ
・ピスタチオのムースとベリーのソース
・キャラメリゼしたナッツのアイスクリーム
・クルミのクレームブリュレ
どれも技術的には破綻していない。
むしろ一定以上の完成度がある。
だからこそ結は追い詰められていた。
「上手いだけ」の皿がいくらでも作れてしまう。
彼女が欲しいのはそれではない。
コースの最後に置くべきは単なる甘味ではない。
前菜のトマトの鮮烈さ。
黒いボンゴレスープの深い余韻。
海水を思わせる鯛のソテー。
日常と非日常の香りを宿した豚肉。
それらを受け止め閉じるデザートでなければならない。
結は指先に残ったプラリネを拭いもせず掌を見つめた。
ねっとりとした甘さが皮膚に張り付いているように感じた。
扉が静かに開いた。
舞が顔を出す。
「まだやってるの?」
結は振り返らない。
「うん」
舞はカウンター越しに皿を覗き込み一口味見した。
ほんの数秒黙る。
「……美味しいけど結の皿じゃないね」
結は唇を結んだ。
「分かってる」
舞はフォークを置き肩をすくめる。
「ナッツってさ優等生すぎるんだよね。
何に入れても“それっぽく”なる」
結はその言葉に小さく息を吐いた。
「殻の中身が見えない感じがする」
舞は首を傾げる。
「殻?」
「硬くて閉じてて。
割らないと中身が分からない。
でも割り方を間違えると粉々になる」
舞は少しだけ考え笑った。
「それ、結っぽい考え方だと思うよ」
結は返さなかった。
足音が近づく。
低く一定のリズムだ。
奏は結の隣に立ち皿を見下ろした。
何も言わない。
ただ、静かに眺める。
結はその沈黙に耐えきれず先に口を開いた。
「甘いだけのデザートになっちゃいました」
奏は一度だけ頷いた。
「そうか」
それだけ。
結は思わず苛立ちに近い感情を覚える。
「どうしたらいいか分からないんです!!
ナッツは香りも味も強いのに全部が均一になってしまう」
奏は作業台に並ぶ試作を見渡した。
「お前はナッツを“味”としてしか見てないな」
結は眉をひそめる。
「……違う見方があるんですか」
奏はヘーゼルナッツを一粒つまみ結の前に差し出した。
「噛んでみろ」
結は言われた通りに噛む。
最初に乾いた抵抗。
次に香ばしさ。
そしてじわりと広がる油分。
奏は静かに言った。
「殻がある理由を考えろ」
結は言葉を失った。
深夜の厨房
時計の針は午前二時を回っていた。
スタッフはすでに帰り
換気扇の低い唸りだけが響いている。
結は一人ナッツを並べていた。
アーモンド。
ヘーゼルナッツ。
クルミ。
ピスタチオ。
ピーカンナッツ。
それぞれをローストし香りを確かめる。
一粒ずつ噛み舌で転がす。
甘さではなく苦味でもなく油でもなく
その先にある何かを探すように。
ふと、クルミを割った瞬間の音が頭に浮かぶ。
硬い殻が裂けるあの短い破裂音。
「殻の内側」
結は無意識に小さく呟いた。
スケッチブックを取り出しペンを走らせる。
・外側:硬さ
・内側:柔らかさ
・割れる瞬間:変化
・口の中:温度で広がる油分
線が重なりやがて一つの言葉にまとまっていく。
「層じゃない……“過程”だ」
結は立ち上がり鍋を火にかけた。
フライパンで粗く砕いたヘーゼルナッツを軽く乾煎りする。
そこへほんの少量の砂糖を落とす。
焦げる寸前、香りが立ち上る瞬間で火を止める。
別の鍋で生クリームを温め細かく刻んだナッツを浸す。
しばらく置き香りを移す。
そして、まだ固まらない液体を小さなグラスに注いだ。
上からほんの一つまみの塩。
結はスプーンで掬い口に運ぶ。
甘くない。
しかし、空虚でもない。
ナッツの香りが温度とともにゆっくりと広がり
最後にかすかな塩味が輪郭を与える。
結の胸がわずかに高鳴った。
まだ完成ではない。
だが、方向は見えた。
夜明け前の静寂
空が薄く白み始める。
結は作業台に突っ伏し短く息を吐いた。
疲労感はある。
だが、そこに絶望はない。
ノートには一つの言葉が書かれていた。
「殻から解放される甘さ」
背後で再び足音がした。
奏だった。
結は振り返らずに言う。
「まだ、全然できてません」
奏はそれでもわずかに口元を緩めた。
「今の顔は昨日と違う」
結は手のひらを見た。
ナッツの油が薄く光っている。
その光の中に次の皿の輪郭がうっすらと浮かび始めていた。
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