ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第131話 デザート完成 ~ヘーゼルナッツと蜜柑と温かいチョコのデザート~

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 深夜を少し過ぎた頃厨房は湿った静けさに包まれていた。

 換気扇の低い唸り。
 冷蔵庫のモーター音。
 遠くで風が窓枠を震わせる微かな気配。

 結は作業台の前に一人で立っていた。

 先ほどまで並んでいた四皿はすでに脇に退けられている。
 
 いま彼女の前にあるのはただ一つ――
 デザートのための白い皿と慎重に揃えられた素材だけだった。

 ヘーゼルナッツ

 結はまずオーブンを静かに開けた。

 天板の上に広げられたヘーゼルナッツはうっすらと色づき
 表面に細かな亀裂が走っている。
 立ち上る香りは甘くどこか土を思わせる温かさを含んでいた。

 彼女はミトンをはめ天板を取り出す。
 まだ熱を帯びたナッツを布に移し
 包むようにして軽く擦った。

 薄皮がぱらぱらと剥がれ落ちる。
 かすかな乾いた音が夜の厨房に響いた。

 結は一粒を指でつまみ軽く噛んだ。

 香ばしさ。
 ほのかな苦み。
 噛んだ瞬間に広がる油脂のコク。

「……この香りだ」

 小さく呟く。

 彼女はナッツの半分を粗く刻み
 残り半分はフードプロセッサーにかけて滑らかなペーストにした。
 回転音が低く唸りやがて艶やかな茶色のクリームが出来上がる。

 温めたクリーム

 次に結は小鍋を火にかけた。

 生クリームを静かに注ぎ弱火。
 泡立てないよう底を木べらでゆっくりと混ぜる。

 表面に細かな波紋が生まれやがて湯気が立ち始めた瞬間で火を止めた。

 温めたクリームを先ほどのヘーゼルナッツペーストに少しずつ加える。
 ゴムベラで丁寧に合わせていくと艶やかで滑らかなムース状になっていった。

 結はスプーンでほんの一口すくい、舌に乗せる。

 やさしい甘み。
 ナッツの深み。
 しかし――まだどこか平坦だった。

 山塩をひとつまみ

 結は棚から小さな陶器の塩壺を取り出した。

 指先でほんのわずかだけつまむ。
 その量はほとんど見えないほどだった。

 彼女はそれをナッツクリームの表面にそっと落とし静かに混ぜ込んだ。

 もう一度味見。

 甘みが締まりナッツの香りが一段はっきりと立つ。
 後味にかすかなミネラルの余韻が残った。

 結は目を閉じゆっくりと息を吐いた。

 「……庭の土の匂いに近づいた」

 チョコレート

 次に取り出したのはダークチョコレートだった。

 彼女は包丁で細かく刻みさらにまな板の上で何度も刃を入れる。
 粒が砂のように細かくなるまで根気よく刻み続けた。

 刃がまな板に当たる規則的な音が深夜のリズムを刻む。

 刻んだチョコレートはほのかに艶を帯び
 指先にひんやりとした感触を残した。

 結はそれを薄く広げオーブンで軽く温める。
 溶かし切らず香りだけを引き出すように。

 柑橘の皮

 最後に結は小さなナイフを手に取った。

 レモンではない。
 より穏やかな香りの国産の柑橘「蜜柑」。

 彼女は表皮だけを紙のように薄く削り取る。
 白いワタは一切入れない。

 その皮をさらに細かく刻む。
 ほとんど粉に近いほど。

 作業台にかすかな爽やかな香りが広がった。

 盛り付け

 結は白い皿を引き寄せた。

 中央に温かいヘーゼルナッツクリームを丸く落とす。
 スプーンの背でそっと広げ滑らかな円を描く。

その上に――

 ローストしたヘーゼルナッツの粗刻みをまばらに散らす。
 粒の大きさにわずかなばらつきを残しあえて自然な印象にした。

 次に細かく砕いたチョコレートを雪のように薄く振りかける。
 黒が淡い茶色の上に静かに沈む。

 最後に微量の柑橘の皮をほんの一つまみだけ。

 鮮やかな色はない。
 派手さもない。

 しかし――皿の上には確かに夕暮れの庭があった。

 落ちた木の実。
 少し湿った土。
 遠くで灯る家の明かり。
 風に乗る柑橘の香り。

 一口

 結はスプーンを入れた。

 温かいクリームがすっとすくわれる。
 ヘーゼルナッツの粒、チョコレート、柑橘の皮が自然に一緒に乗る。

 口に運ぶ。

 まず、温かさ。
 次にナッツの深い香り。
 その奥にチョコレートのほろ苦さ。
 そして最後に柑橘の皮がふっと抜ける。

 甘すぎない。
 軽すぎない。
 重すぎない。

 ちょうどいい余韻が静かに残った。

 結はスプーンを置き皿を見つめた。

 胸の奥で何かが静かに収まる感覚。

「……これだ」

 誰に言うでもなくそう呟いた。

 そのとき、背後で気配がした。

 振り返ると奏が静かに立っていた。
 いつから見ていたのかは分からない。

 結は何も言わず完成した皿を彼の前に差し出した。

 奏は一口だけゆっくりと味わう。

 長い沈黙。

 スプーンを置き皿を見つめる。

 そして――ほんのわずかに口元が緩んだ。

 完成

 結はその表情だけですべてを理解した。

 派手な言葉はいらない。
 技術の説明も理屈もいらない。

 皿はもう一つの風景になっていた。

 彼女は静かに息を吸い厨房の天井を見上げた。

 外はそろそろ夜明けに向かっている。

 決勝のコースは――
 いま確かに一本の物語になった。
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