ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第132話 コンクール決勝前夜

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 深夜零時を回ってもソラス・フォレストは完全には眠っていなかった。

 客室の廊下の灯りは落とされているが
 非常灯が足元を淡く照らし、どこか水底のように静かだ。
 遠くで空調の低い唸りが続がき風が建物の隙間を通る音が
 ときおり細く響く。

 結はコンクール前日なのでソラスフォレスト
 の客室に泊まっていたが
 寝つけずベッドの上で天井を見つめていた。

 寝ようとした。
 目を閉じた。
 それでも頭の中で五皿がぐるぐると回り続ける。

――トマトの赤は、あれでよかったのか。
――黒のボンゴレスープは、もう一段だけ深くできるのではないか。
――鯛の火入れは、会場でも同じようにいくだろうか。
――わらの香りは、審査員にどう届くのか。
――デザートの塩は、強すぎないか。

 考え始めると呼吸が浅くなる。
 胸の奥に小さな重石が落ちたような感覚。

 結は静かに起き上がりパジャマのまま廊下へ出た。

 スリッパが床をこする音だけがやけに大きく響く。

――厨房に行こう。

 理由はない。
 ただ、そこに行けば少しだけ落ち着ける気がした。

 厨房の照明は非常灯だけが点いていた。

 日中の眩しさとは違う青白く沈んだ光。
 ステンレスの台は冷たく磨かれた面が鈍く反射している。

 結は自分の調理台の前に立った。

 そこには、明日のために整えられた器具が静かに並んでいる。
 包丁、スパチュラ、スプーン、温度計、タイマー。

 彼女は無意識のうちに包丁を手に取っていた。

 研ぎ石はすでに水に浸してあった。
 結は静かに刃を当てる。

 しゃっ、しゃっ――。

 規則正しい音が深夜の厨房に小さく響く。
 金属が石に触れる感触が手のひらから腕へと伝わる。

 刃先を滑らせるたびに
 雑念が少しずつ削られていくようだった。

――私は何が怖いんだろう。

 結はふと手を止めた。

 勝つことか。
 負けることか。
 それとも自分の料理が誰にも届かないことか。

 刃に映る自分の目は思ったよりも真剣だった。

 彼女はもう一度包丁を研ぎ始める。

 やがて、厨房のドアが小さく軋んだ。

 結は振り返らなかった。
 気配で分かっていた。

「……寝てないのか」

 低い声。
 抑えた足音。

 奏だった。

 彼は結の隣に立ち研ぎ石と包丁を一瞥しただけで
 何も言わない。

 結もしばらく沈黙を守った。

「……眠れなくて」

 やがてぽつりとこぼす。

「考えすぎてるんだろう」

 責めるでも慰めるでもない声。

 奏は手を伸ばし隣の鍋に少量の水を入れ
 コンロに火をつけた。
 弱火。
 音もなく静かに熱が立ち上る。

「お湯、沸かすだけだ。
 気にするな」

 結は包丁を拭きそっと置いた。

 水が小さく震え始める。
 やがて、細い泡が底から立ち上る。

 奏はカップを二つ取り出し戸棚からハーブティーの缶を取った。
 特別なものではない。
 いつもスタッフ用に置いてある香りだけがやさしい茶葉。

 お湯が注がれる音が深夜にやわらかく響く。

「飲め」

 短く差し出されるカップ。

 結は受け取り指先で温かさを確かめた。
 湯気が鼻先をくすぐる。

一口。

 胸の奥に静かな熱が広がった。

「……落ち着きますね」

「そういうためのものだ」

 奏は自分の分を一口飲み結の手元に目を落とす。

「包丁、良い刃になってるな」

 結は驚いて顔を上げた。

「分かるんですか」

「音が違う」

 奏はほんのわずかに視線を動かし
 調理台に並んだ器具を見た。

「今日のコースのリハーサル通しよかった」

 結の指先がカップを強く握る。

「……本当はもっと言ってほしかったです」

 自分でも驚くほど素直な言葉が出た。

 奏はしばらく黙りそれから静かに言った。

「言葉で満足させるのは簡単だ。
 でも、お前はもうそれで満足する料理人じゃない」

 結は唇を噛んだ。

 その通りだった。
 ただ褒められるだけならもう足りない。

「怖いんです」

 声がわずかに震れた。

「全部うまくいってるのに……
 それでも怖い。
 明日全部が壊れる気がして」

 奏はカップを置き結の方を向いた。

「壊れない料理なんてない」

 短い言葉。
 容赦も甘さもない。

「でもな――」

 彼は続けた。

「壊れても立て直せる腕はある。
 それをお前はもう持ってる」

 結は目を見開いた。

 奏は視線を逸らさず静かに言葉を重ねる。

「明日は完璧を目指す日じゃない。
 自分の料理を最後まで信じる日だ」

 結の胸の奥で何かが静かにほどけた。

 ハーブティーが半分ほど減ったころ結はふと気づいた。

 緊張はまだある。
 でも、息が苦しくない。

 厨房の時計はもうすぐ一時を指していた。

 結はカップを置き深く息を吸った。

「……もう一度だけ見ていいですか」

 調理台の上に並ぶ五皿のイメージが頭の中に浮かぶ。

 前菜の赤。
 スープの黒。
 鯛の白。
 豚肉の温かい黄金色。
 デザートのやわらかな茶色。

 奏は小さく頷いた。

 結は何も作らなかった。
 ただ、目を閉じてコースの流れをなぞるようにゆっくりと呼吸を整えた。

 やがて、奏が立ち上がる。

「もう戻れ。明日の為に少しは寝ろ」

 結は一瞬だけ迷い
 それから小さく笑った。

「……はい」

 カップを片づけ包丁を元の位置に戻す。
 研ぎ石の水を捨て布で拭う。

 厨房を出る直前結は振り返った。

 奏はまだそこに立っていた。
 非常灯の淡い光に輪郭だけが浮かんでいる。

「奏さん」

「なんだ」

「明日の私ちゃんと見ててください」

一拍の沈黙。

「当たり前だ」

 その短い返事に結は胸の奥が熱くなった。

 自室に戻るとさっきまでの重さが嘘のように薄れていた。

 ベッドに横たわり天井を見上げる。

 遠くで風が木々を揺らす音がした。

 結はゆっくりと目を閉じる。

――怖さは消えていない。
 でも、ひとりではない。

 明日は料理で答える。

 その確信だけを胸に結は静かに眠りに落ちた。

 そして夜は静かに明けていく。
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